学生版日本の問題 公演情報 日本の問題「学生版日本の問題」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    A班:「自分の」「問題」が「日本の」あるいは「世界の」、そして「目下の」「問題」である
    正面からぶつかっている心地良さを感じた3作品。

    ネタバレBOX

    「日本の問題」というテーマは、大風呂敷でカッコいい。キャッチーである。
    で、作品として見せるためには、それぞれのクリエイターたちが、自分のそばに「日本の」と「問題」を手繰り寄せる作業となる。当然。

    ここで、「日本の」はどこかに行きがちで、「問題」がクローズアップされる。これも当然。そして、クローズアップされたいくつかの「問題」の中にターゲットを見つけ作品として生み出すわけだ。
    さらに言えば、ほったらかしにしてあった「日本の」を、その生み出された作品の上に乗せてみて、「うんうん、これも似合う」と言うことで、「日本の問題」をテーマにした作品が完成する。

    「日本の」「問題」というときに、投網のごとく広げて捕まえようとするよりは、そうした「問題」に分け入るほうが、ピンとくる。
    それは、作品を生み出すときの、その感覚が、観る側にとっても理解しやすいからだ。
    つまり、「日本の」「問題」と言われても、ピンとこないということがあり、さらに、結局のところ「自分の」「問題」が「日本の」あるいは「世界の」、そして「目下の」「問題」であるからだろう。

    そうした「他人の」「問題」を観ることで、「自分の」「問題」を意識することになる。

    A班
    【ミームの心臓『vital signs』】★★★★
    良くも悪くも、真面目。真面目すぎるところがあるのがミームの心臓の印象。
    個人的に、この数週間いろいろあって、「生きる」という「生物的」なことではなく、「生きている」という「社会生活=人間的」な視点から考えざるを得ないところにあるので、この作品の示すものは重い。
    「vital signs」が示す「生」の意味・無意味が重すぎる。
    「死」は、結局のところ、生者の都合、あるいはエゴでしかなく、「自分と一緒に生きている」という言葉は、あまりにも軽くなってしまう。
    「そのとき」に、本当に直面したら、そんな簡単に振る舞えるのか? という問い掛けに、生真面目に答えている作品であろうが、それがあまりにも真面目すぎて、一直線上にしか存在してないように見えてくる。
    主人公の思い詰めたような一直線さ、一途さが、若さ故の行動と発言であり、その奥にいる、作者の気持ち・考えが顔を出してくる。そこがスリリングであり、緊張感が生まれてくる。
    そんな、「良くも悪くも」「生真面目な」アプローチと意識が、ミームの心臓であり、だからこそ、この劇団を続けて観ていきたいと思うのではないだろうか。
    たぶん、その背にある「危うさ」が(今は見えていないと思うが)、今後この劇団にとって、どう作用してくるのかということを見届けるのも、楽しみになってくるだろう。
    強いて付け加えるのであれば、視線・視点を、もう2つぐらい持てるといいのかもしれないと思うのだが。…これは余計なことかもしれないな。

    【四次元ボックス『あんのーん』】★★★
    言いたいことが、非常にストレートで、わかりやすい。
    ユーモアの加え方もいい感じだ。
    黒と白に象徴される、内部での葛藤は、観ている側には理解しやすい手法だ。
    「陰陽」の自己の対決ということで、「自死」について語っていく。
    「自死」を選んだ現在の「自分」が、実のところそれを望んでいないという点の指摘はよくわかる。
    それは「止められるものならば、止めたい」という意識が働いているからだ。
    しかし、彼を取り巻く環境には、止める力はない。仕事にも、家族(母親)にも。
    結局止めるのは「自分しかない」という結論であろうが、そこの部分が、単なる内なる葛藤のみになってしまっているところが、もうひとつ弱い気がする。
    そんなことはわかっているのだから、そこよりもう一歩踏み込んだ「何か」が、さらに必要だったのではないだろうか。
    その端緒でも十分。
    そして、彼を止めることができなかった、彼を取り巻く周囲の不幸との関係も、少々ありきたりな印象で、自分と周囲との関係性までも含めて、どんなに乱暴でもいいから、自分なりの道筋を見せたほうがよかったように思える。


    【声を出すと気持ちいいの会『役者乞食』】★★★★★★
    タイトルが刺激的。この1本を観ることができたというだけで、日本の問題(学生版)を観て良かったと思える作品だった。
    ここでは「農業」を中心に据えているが、これは「農業」に限ったことではない、重要なことが語られていたと思う。
    つまり、「(日本の・世界の)問題」について、誰もが無関心ではないのだが、「無関心ではない」というのは、「関心を持っている」とは微妙に違うということだ。
    つい最近観た、チェルフィッチュ『三月の5日間』にも関係していて、『三月の5日間』では、イラク空爆を挟んだ5日間に、渋谷のラブホに居続けた若い男女を中心に描いていたのだが、彼らにしても「イラクの戦争」に「関心がないわけではない」のだが、その距離感が微妙なのだ。
    つまり、ここで「日本の農業の未来」を憂う劇中劇を上演する姿は、「関心ありますよ」ということを見せるためのひとつのポーズのようなものであり、それがメッセージで、ポリシーで、オピニオンなんかであり、つまりのところ、カッコいい感じなわけなのだ。
    そういうスタンスや視点を持っていることは大切なのだが、そういう自分の足元についてはまったく見ていない。
    「一億総評論家」になってしまったということで、「日本の問題」の当パンで、この企画の総合プロデューサー・松枝氏が書いている「都知事選の下馬評とその結果」にも流れているものでもある。
    足元が見えてない人に対して、「じゃお前がやれよ」というのは、一番厳しい指摘でもあるということだ。
    しかし、「じゃお前がやれよ」は、すべてにおいて「正しい」のか、と問えばそうとも言えない。それは「向き不向き」というレベルの話から、「それをやるための支援」という人も必要だということもあるからだ。
    例えば、この作品にあるように、演劇にして日本の農業の未来を憂うことも、実は大切なことではないかということなのだ。
    それがこの作品では語られているのではないだろうか。生産性という点では低く、親や祖父のスネをかじっている劇中の主人公は、兄からは唾棄すべき存在でしかないのだが、彼にできることは、確実に「ある」ということなのだ。彼は「作品」で、祖父の伝えてきた「農業」を支えることができるのではないか、ということだ。もちろん「意識」があっての上で。
    それは身勝手で甘ちゃんな、ある意味言い訳的なものかもしれないのだが、それを自ら選択した以上、そこは全うしなくてはならない最後の一線なのではないだろうか。
    『役者乞食』と返す刀で自らを斬りつけている中に、そうした気概があるのではないかということを、握り飯を頬張る姿に見たような気がした。
    蛇足だが、最近活動を休止したゴジゲンの目次さんの挨拶が、頭をよぎった。これもひとつの回答。
    http://blog.livedoor.jp/gojiblog/archives/1867243.html

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    2011/12/24 05:47

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