雲間犬彦の観てきた!クチコミ一覧

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『革命日記』

『革命日記』

青年団

ぽんプラザホール(福岡県)

2011/06/10 (金) ~ 2011/06/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

化石の記憶
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のような、連合赤軍の山岳ベース事件、あさま山荘事件や、『マイ・バック・ページ』の赤衛軍事件などの、過去の革命闘争を描いた物語ではない。『機動警察パトレイバー2 the movie』のような、近未来における自衛隊の蜂起など、日本に革命が起きうるとすればそれはどのような形を取るかというシミュレーションを行った物語でもない。
 これは、過去において確かに存在はしていたが、現在はすっかり時代遅れになった、現実から乖離し、観念的かつ独善的で、自己陶酔と視野狭窄に陥った、今でも「革命」などというものが本気で起こせるという妄想に取り憑かれてしまった、「現代の化石」とでも称するのがふさわしい愚か者たちの物語である。「オルグ」なんてコトバ、今どき使ってるのって、日教組くらいじゃないのか(笑)。

 登場人物たちを滑稽だと笑える観客は幸いだ。彼らのような愚かさを具象化したような存在は、その人の周囲には全くいないのだろう。
 しかし、必ずしも「革命家」でなくとも、彼らのような自己顕示欲の塊、自我肥大に陥ったナルシスト、他人を支配下に置くことで悦に入る精神的ファシストは、巷にはいくらでも存在している。そういう人間に関わらざるを得なくなった者にとっては、この物語を笑うことはできない。うっかりすれば、彼らの「夢想」に、こちらの「現実」が浸食される事態にもなりかねないからだ。

 あるいは、「彼ら自身」が、この舞台を観たとしたらどうであろう。彼らが登場人物たちを自分の分身であるように感じ、胸に刺さるものを憶えられたのならば、まだ幸せだろう。その場合、彼らには、自らの愚かさと向き合うことのできる精神的余地がある。しかし、「他山の石」と思えなかった時は恐ろしい。彼らは決して自らの過ちには気付かない。そして彼らの「愚かさ」がそのまま実行に移されても、それを止めることは誰にもできないのである。
 悲劇を回避する方法があるとすれば、まさしくこの物語が終わったところから始まるのだろう。しかしそれは、「取り返しの付かない事態」が生じて後のことである。

 題材自体にどうしても眼が行くが、この舞台では、現代口語演劇の方法論が、最も効果的に作用している。
 同時会話も、長い間も、観客に背を見せる演技も、この場合は自然さの演出と言うよりは、緊張感や逼塞感、重苦しさと言った、舞台空間を維持するために働いている。
 レッテル的に語られてきた「静かな演劇」を拒絶した「叫び」の部分も、登場人物たちのやるせなさと密接に結びついていて、批判的に語れることの多い「絵日記」的な表現から脱して、昇華されたものになっている。

ネタバレBOX

 「私たちはオウムではないのか?」
 パンフレットに書かれた、平田オリザ氏のこの言葉を、事件が起きた1995年当時、自問自答した青年たちは決して少なくはなかった。
 学生運動など、とうに下火の時代である。「革命」を本気で唱える人間などいなかった。けれどもバブル崩壊後のモヤモヤとしたいらだちや鬱屈のような沈滞感から、何か一つ突き抜けたい、そういう空気が時代を覆っていた。
 オウム真理教が本気で世界を革命する気だったのかと言えば、それは否としか言えまい。アニメのタームを多く借りていたオウムは、存在自体がファンタジーに過ぎなかった。
 しかし、オウムに帰依した人々は、時代を打ち破る矛として「これだ」という感触を持ったのだろう。金銭も社会的地位も自分を満たしてくれない、「自分探し」の果てに、彼らが行き着いた先が、「精神的な生き甲斐」を提供してくれるオウムだった。
 その過程は、かつての学生運動の闘士たちの姿にも重なる。彼らは本当に共産主義革命が成ると信じていただろうか。信じていた者もいただろう。無理やり自己暗示をかけて信じ込もうとしていた者もいただろう。正義は自分たちにあると、正義が成らないはずはないと、そう考えるのが自然であった時代なのだ。学生の多くがその共同幻想の中に飲み込まれ、全国の大学で、デモとロックアウトが繰り返されていた。
 もっとも、そんな「夢」から醒めていた者もいた。「何かがおかしい」と気付いていた者もいた。
 しかし、連合赤軍は、その醒めた者たちを「総括」という名のもとに粛正した。オウムは「ポア」と呼んでいくつかの殺人と、地下鉄サリン事件を起こした。遡れば、戦前の思想統制、言論統制は、大杉栄を、小林多喜二を、そのほか多くの思想家を虐殺した。
 この類似は、「人間は過去の過ちに学び反省することなどできない。結局は同じ轍を踏み続ける」という哀しい真実を物語っている。
 「劇団も、演劇人も、彼らと同じなのではないか?」平田オリザの非凡さは、その組織の内側にいる者が最も気付きにくい、自らの思想の誤謬に眼を向けることができた点にある。
 
 物語の冒頭で、篠田は既に革命の計画についてこう発言している。
 「机上の空論でしょ?」
 少人数での空港と大使館の同時占拠など、実行不可能なことは素人にだって分かる。サイバーテロの方がずっと実効性があるにも関わらず、その方法を採れないのは、彼らの脳が「化石」だからだ。
 この革命計画は最初から瓦解が予測されている。にもかかわらず、彼らは自らの思想の呪縛に囚われて、計画を中止することができない。そもそもこの計画に無理があることに気付けない。
 後半、首謀者の佐々木は、民衆を啓蒙し煽動することが目的だと嘯くが、三島由紀夫の失敗が、ビジョンのないアジテートだけでは、人心を掌握することもできなければ、誰も行動に走らないことを見抜けなかったことにあることを理解していない。
 そうなのだ、彼らは、全共闘世代の革命家たちと同様に、革命を成したあとの具体的な政治、外交、経済、産業、文化その他、諸々の社会構築のための計画を、何一つ考えてはいなかったのだ。

 なのに、誰も、この無謀な計画を止められない。
 増田武雄は 「カルトはいいよなあ、金があって」と愚痴を言うが、つまり彼らは「金のないカルト」なのである。そしてその姿は、自尊心だけが肥大した、現代の演劇人たちの姿にも繋がってくる。
 増田典子が立花の「感情」を自己反省に基づいて批判する論理は、連合赤軍の永田洋子が、山岳ベース事件の時に遠山美枝子を「自己批判」させようとした時の論理と全く同じである。遠山美枝子は、後にリンチに遭い死亡した。立花の口から、当局に計画が漏れれば全ては水泡に帰する。観客は、どうしても立花の安否を気遣わないわけにはいかない。
 典子はまた、組織の実態に感づいた柳田から「粛正とかされちゃうんですか?」と聞かれた時に、「そんな時代じゃないし」と答える。しかしその時、計画に批判的だった篠田は、会合に現れなかった島崎に刺されているのである。その理由は判然としないが、彼らの組織もまた、何かのきっかけで簡単に崩壊してしまうことを暗示して、物語は終わる。

 アフタートークで、平田オリザ氏は、演劇人を革命家たちになぞらえたことを明言した上で、「集団が(劇団が)崩壊するのはたいてい金と女が原因です。若い世代は優しいからそれをうまく回避していますが」と冗談めかして説明した。
 しかしこれもまた、永田洋子の殺害の動機が、本人は「思想」の問題であると主張していたにもかかわらず、他のメンバーからは「女としての嫉妬」であると看破されてしまったように、「劇団の崩壊」もまた、当事者からは「思想的対立」が原因であると主張されることが多いのに対して、実態はきわめて下世話な理由に基づくことが多い事実を示唆している。

 平田氏は、自らを映す「鏡」として、この戯曲を書いた。
 それはもちろん、世の演劇人、劇団員たちにとっても「鏡」となる。
 戯画化されてはいるが、佐々木のような観念でしか演劇を語れない演出家、櫻井のような自己犠牲が格好いいことであるかのように錯覚している役者、山際のような劇団にすり寄ることで自己のステイタスを上げた気になっているスポンサーやシンパは、実際にいるのだ。
 しかし、彼らにこの舞台が「鏡」として見えるようなら、初めから自画自賛型の舞台を作ったり、賞賛したりはしないだろう。平田氏の、世の演劇人たちへの切々としたメッセージは殆ど届くことはあるまい。
散歩する侵略者

散歩する侵略者

イキウメ

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/06/12 (日) ~ 2011/06/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

インベーダー・ゴー・ホーム!
 演劇でSF作品が成功した例は少ない。小説のようにどこまでも読者のイマジネーションに頼ることもできないし、映画のように主にSFXによるスケールアップも困難である。下手にセットや仕掛けに凝ってもかえってチャチになるばかりだ。
 必然的に、舞台を限定した日常SF、ワンアイデア勝負の作品が多くなるが、プロでもSF作品に通暁している劇団は必ずしも多くはなく、傑作が生まれにくいのが現状だ。ヨーロッパ企画の舞台など、この程度のレベルで演劇人たちが賞賛するのはどうかと疑問に思わざるを得ない。他のジャンルに疎すぎるのが現代演劇人の大きな欠点であろう。
 その点、「イキウメ」に期待できたのは、タイトルで既に『ウルトラマン/侵略者を撃て!』や『ウルトラセブン/散歩する惑星』などを連想させていて(劇中、ちゃんと『ウルトラマン』にも言及されている)、観客にSFファンを視野に入れていることが明示されていたからだ。脚本・演出の前川知大の、これは観客への大胆な「挑戦」である。
 結果、私たち観客は、見事に前川氏の前に「敗北」することになった。『散歩する侵略者』は、数ある日常SF、侵略SFのジャンルの中で、斬新なアイデアを盛り込んだ傑作になり得ていた。
 宇宙人と地球人の邂逅を描く場合、文化の違い、価値観の違い、存在の成り立ち自体の違いから起きるディスコミュニケーションをモチーフに描くのは基本中の基本だが、ともすればそれは「どちらの文化が優秀か」という優位性の問題に収斂されがちだ。
 本作の場合も、観客はうっかりすれば情動的に「“愛”の優位性」を感じて涙を流すことになるかもしれない。しかし、本質的にはこの物語は「奇跡」や「感動」を拒絶し、極めて理知的な整合性のみで成り立っていろ点に最大の面白さがある。「愛」は事態を解決する手段としては、実は全く機能していない。「愛」がもたらすものは、むしろ「混乱」なのである。
 「愛は地球を救う」という陳腐な結末になりそうになった寸前で「止める」、その「抑制」がなければ、この物語は凡百な既存のSF作品の中に埋没してしまうことになっただろう。ラストの一言こそが本作のキモである。聞き逃してはならない。

 未見の方には、小説版(メディアファクトリー/1400円)も出版されています。戯曲版との相違点もありますので、ご一読を乞う次第です。

ネタバレBOX

 とは言え、その「ラストの台詞」は、いかにも聞き逃しやすいように、さらりと語られる。「泣き屋」の観客には、そこまでの展開で充分泣かしておいて、「気がつく人にだけ気付く」ように、最後のどんでん返しを前川氏は仕掛けた形だ。

 宇宙からの侵略者たちは、地球人に乗り移り、他人とのコミュニケーションの中で、自分たちにはない地球人の持っている「概念」を調査しようとする。
 侵略のための「前準備」で、ここまでならば、既存のSF作品にもよくある手法だ。しかし、斬新なのは、宇宙人たちにとって単なる「調査」のはずだった行為が、実質的に「侵略」として機能してしまった点だ。「概念」をもらう行為が、文字通り、他者から概念を「喪失」させることになる。
 その結果、「概念」を奪われた者たちは、「言葉は知っているのに、その意味するものが分からない」ゲシュタルト崩壊を起こす。人為的に、相手にアスペルガー症候群と同じような症状を起こさせることになるのだ(恐らく、作者の発想もそこから取られたのだろう)。
 「侵略行為に移るつもりはまだ無かったけれども、侵略してしまった」、それがインベーダーたちにとっても“イレギュラー”であったことがこれまでにないアイデアで、本質的に、宇宙人と、地球人とのディスコミュニケーションが「埋められない」ことを、この事実は示唆している。

 「地球人の概念」を奪い取っていったその先、宇宙人はどうなるのか。
 もちろん、「地球人」になるのである。
 宇宙人から「地球人としての概念」を奪われていった地球人はどうなるのか、「宇宙人」に近づいていくのである。
 これでは、二者は立場が逆転するばかりで、交流は不可能である。実際、宇宙人・真治に「愛」の概念を奪われた妻の鳴海は、“愛を知った”真治の哀しみ、苦しみが分からない。
 真治に「所有」の概念を奪われた丸尾は、真治に向かって「国家、財産、人種、宗教、そういうの奪ったら戦争もなくなる」と訴える。それが、迫り来る侵略者たちに対抗する手段になるだろうと一同も賛成する。鳴海は、侵略者である真治が、地球人のために協力するはずがない、と反論するが、それに対する真治の答えがこうだ。
 「それが、今はもう、よく分からないんだ」
 「愛」を知った真治は、もうほぼ「地球人」である。だから「侵略者」の意識ではいられない。「愛」を奪うことが、地球人を「かつての自分たち」にしてしまうことになることを知ってしまっている。
 しかし、既に「概念」を奪われた「元地球人」たちは、更に「概念」を奪ってくれることを望んでいるのだ。「宇宙人」に対抗するために、「宇宙人」になろうとしている。その方が、「地球人のため」になるのだとすれば、「侵略されること」は肯定されるべきことなのか。しかしそれでは、地球人がこれまでに産み出してきた「災厄」を、今度は“宇宙人”が引き受けなければならないことになる。
 これではいつまで経ってもどうどうめぐりだ。真治にはそこまで、「真実」が見えてしまっている。真治はパンドラの筺を開けてしまったのだ。もはや真治は“誰の立場にも付けない”。 「愛」を知ったことが、永遠のジレンマの中に真治を置く結果になってしまったのだ。

 「概念」を奪われた人々は、確かにどこか平和である。
 初めこそ涙し混乱しているが、じきに慣れる。「概念を持たなくても生きていける」あるいは「生きていってもよい」と指摘してみせたことは、自閉症やアスペルガー症候群の子どもを持つ親などにとっては、「福音」に聞こえるのではないか。「痴呆」などと一括りで偏見の眼で見られていた彼らは、実は「結構元気」(鳴海の台詞)なのである。
 ドストエフスキー『白痴』のムイシュキン公爵も、白痴と言うよりは発達障碍なのではないかという気がする。彼らを「純粋」とする無条件な礼賛には問題があるが、「概念」に囚われることが我々の思考に枷をはめてしまっている事実についてはもっと再考されてよかろうと思う。
 本当に苦しんでいるのは、「概念を持たざるを得ない」我々の方ではないのか。

 厳密に考えると、「所有」の概念を失っただけで、丸尾がコミュニストになってしまうという論法には無理がある。普通に考えれば、「あの家とこの家と、どれが“私の”家か分からない」ような状態になるだけではないのか。本当に戦争が無くなるかどうかも疑わしい。
 また、どうやらもともと「言葉」自体を持たない宇宙人たちが、「言葉」を知った段階で、いちいち概念を奪わなくてもその知った言葉から概念を作り上げることができないものなのか、とも思う。人間の赤ん坊は、言葉からちゃんと概念を作り上げるが、人間の子どもほどの能力も宇宙人は持っていないのか、それとも宇宙人たちも生まれつきのアスペルガーなのだろうかと疑問に思う。だとしたら、彼らは「侵略」という概念はどこから得たのだろう?
 しかし、それらの疑問点も、全てはラストの「混乱」を演出するための伏線だと考えれば、瑕瑾に過ぎないように思える。

 SFとは、既成概念に対するアンチテーゼを象徴的に描く「手法」である。
 『散歩する侵略者』は、それが最も効果的に発揮された舞台となった。発想の元になったのは、劇中でも示唆されていた通り、テレビドラマ『ウルトラ』シリーズであるが、宇宙人とのディスコミュニケーションを扱ったり、隣人が侵略者かもしれない恐怖を扱ったSF作品は、数限りなくなある。
 Twitterで、本作の発想の元を大友克洋『宇宙パトロール・シゲマ』に求めた人がいたが、あれはそういった侵略SFのパロディであって(手塚治虫『W3』や永井豪『くずれる』の設定をもじっている)、本作に直接的に影響を与えた作品だとは言えない。感想であれ批評であれ、過去作品を挙げるのであれば、元作品をどう換骨奪胎し、差異化を図ったのかを具体的に指摘できるものを例としなければ、知見の狭さを露呈することにしかならない。
 宇宙人が地球人の“姿を借り”、地球人との間の交流と齟齬を描いた作品の「源流」あるいは「代表作」を挙げるのならば、真っ先にハインライン『異星の客』や、ジョン・ウィンダム『呪われた村』(映画化名『光る眼』)や、映画『地球の静止する日』(ロバート・ワイズ監督)などを思い浮かべるのが順当だろう。テレビドラマシリーズなら、往年の『インベーダー』『謎の円盤UFO』、『ミステリーゾーン』のいくつかのエピソードから『Xファイル』に至るまで、枚挙に暇がない。フレドリック・ブラウンは、パロディとして『火星人ゴーホーム』をものにしている。
 この程度の基礎教養的なSFは誰でも読んだり観たりしているものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。Twitterで呟いていた御仁は、一応は演劇のプロなのだが、やはり他分野についての教養は疎いのだなと思わざるを得なかった。でも、演劇人なら、安部公房『人間そっくり』を連想したっておかしくないんだけどね。
イッセー尾形のこれからの生活2012 in 小倉

イッセー尾形のこれからの生活2012 in 小倉

森田オフィス/イッセー尾形・ら(株)

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2012/07/28 (土) ~ 2012/07/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

さようなら、そしていつかまた
 「小倉には、三、四歳のころ住んでました」
 アフタートークで、開口一番、イッセー尾形はそう語った。
 父親が転勤族だったため、福岡を「故郷」と感じることはあまりない、と著書『正解ご無用』に書いている。
 「子供の頃は、坂道を、電車を追いかけるのが好きでした。電車の『匂い』が好きで。そんな小倉に、こうして戻ってきて舞台に立っているのが何とも感慨深くて」
 故郷とは思えなくても、「何か懐かしい空気」を感じているのだろうか。「休眠」前の舞台で、イッセー尾形は恐らく初めてではないかと思われる「博多のサラリーマン」を演じた。それが故郷への「恩返し」のつもりなのかどうか、それはよく分からない。「恩」とか「義理」とか「絆」とか、そんなものは「しがらみ」程度にしかイッセー氏は考えていないようにも見える。しかし、「受け手」である観客は、確かにあの傲岸不遜な「博多んもん」の活写に、逆説的な「愛」を感じるのである。

 イッセー尾形の一人芝居に、最初に「感服」したのは、もう20年も前のことだ(「お笑いスター誕生」に出演していた頃にも観ていたはずだが記憶にない)。満員電車で姿勢を変えることができずに身体を歪めたまま固まってしまったサラリーマンのスケッチで、その身体表現に舌を巻いた。
 日本において一世を風靡したスタンダップコメディアンと言えば、古くはトニー谷、そしてタモリの二人を挙げることが出来るが、小林信彦は『日本の喜劇人』の中で、この二人に共通する欠点として、「腰から下の弱さ」を挙げている。彼らに限らず、日本の「ピン芸人」と称する喜劇人たちは、概して自身の身体性に無頓着である。
 イッセー尾形の身体のバランスのよさは、同時代の喜劇人たちと比べて突出していた。特に「腰から下」が強かった。演出家の森田雄三と知り合ったのが建設作業の現場だということだから、そこで鍛えられたものだろう。
 もちろん、それだけでイッセー尾形の芸の真髄を語れるわけではない。これもまた稀有と言うべき彼の人間観察眼によって捉えられた、フツーだがちょっとヘンな人々の姿が、その身体を媒介として再現される時、「現代日本」の様相が象徴的に浮かび上がる。その点が、イッセー尾形の一人芝居を、他の一人芝居と隔絶した孤高なものにしてきたのだ。
 イッセー尾形の一人芝居は、観客を大いに笑わせつつ、明確な批評性を持っている。休眠後、映像を通しての活動は続けていくとしても、舞台に復帰するかどうかは未定だ。あの300を超えるという一癖も二癖もあるキャラクターたちと会えなくなると言うのは何とも寂しい。ゆっくり休養していただきたいと思う反面、早期の舞台復帰を望むのはワガママに過ぎるだろうか。

 九州では、あと8月3日から3日間、福岡天神のイムズホールで公演予定。小倉とはまたネタを変えるそうである。

ネタバレBOX

 親戚の結婚式帰りの男。しかしこれから彼が行く先は別の親戚の葬式。つい飲み過ぎてしまったので、酔っぱらったまま喪主の夫人に挨拶する。新婚夫婦も付いて来ているが、喪主にどう挨拶していいか分からない。夫人も「こんな時に死んで・・・…」とひたすら頭を下げる。
 映画『お日柄もよくご愁傷様』と共通したアイデアだが、わずか10分程度に凝縮されたスケッチは、観客の笑いを連続して引き出し、休む間を与えない。今回の公演は、どのスケッチも、ともかく「ギャグの多さ」によって支えられている点が特徴的だ。
 多少の「ダレ場」があった方が、観客は一息つけるものだが、それは着替えの幕間で充分と判断したのか、今回は爆笑ギャグのつるべ打ち。
 遺体を見ながら、男が新婚夫婦に向かって「こいつもこんなにニコニコお前たちを祝福して」とTPOがどんどんわやくちゃになっていくのには抱腹絶倒だが、ここには「とっさの時ほど人は頓珍漢なことをする」という演出家森田雄三の意地悪な人間観察眼がある。

 休憩中のОL。バドミントンのラケットを持っているが、特に遊ぶ気配もなく、ウワサ話に興じる。
 「目の前に見えるものについて語る」のは、森田雄三演出の特徴。OLから“少し離れて声が届かない距離”にいる同僚たちは、井戸端会議の格好のネタとなる。
 この“距離“を利用したスケッチは数多いが、そのいずれもが傑作となるのは、我々もまた、“最も想像を働かせられる他人との距離”を有しているからに他ならない。今ここにいない人間の噂話や陰口は「罪悪感」を産むが、人間の心理とは不思議なもので、“もしかしたら本人に聞こえしまうかもしれない微妙な距離”にいる相手の話題は、その罪悪感が薄れる傾向にある。Twitterで、本人に見られるかも知れない悪口を気軽に書けてしまう人が多いのも、この心理の表れである。
 あまりにも自然な演技なので、明確に語られることが少ないが、この「近くにいる人の噂話」シリーズは、余人にはそうそう真似のできない、イッセー尾形をイッセー尾形たらしめている最大の「武器」であり、最も先鋭化された「演劇」の表現形式の一つなのだ。

 博多から東京の大手町にやってきたサラリーマン。
 道に迷った同僚を待っているが、その間ずっと東京の悪口など。「東京モンは二枚舌たい」のギャグは、こちらでは大受けだったが、東京では「シーン」だったそうだ(笑)。
 福岡出身ではあるが、イッセー尾形は博多弁は不得意だ。しかし「とっとーと」などのカリカチュアされた「わざとらしい博多弁」を駆使し、東京に対抗する無意識があえて行わせているものとして表現することによって、その違和感を払拭している。
 同僚は小倉出身という設定で、道に迷っているのを「小倉の田舎もんが」と罵倒して、それが小倉で大受けしているのだから、自虐ギャグを楽しむ素養は、博多人、小倉人の方が東京人より持っているのではないのかと思わされた。

 ポーカーをしている中年の女、負けが込んではいるが、相手たちへの口調は馴れ馴れしく横柄。実はあとで正体は保険屋であることが分かる。既に契約はすましているらしく、カモられていた相手を本当はカモっていたという意外な展開、しかも「次の犠牲者」も女は虎視眈々と狙っていた。
 女の「武器」は「誘導尋問」である。しかもこれが高度なのは、女は決しておべんちゃら、追従などは言わないところだ。世辞には引っかからないぞと構える相手に、それと気付かせず、ポーカーに「負けてやっている」のである。
 イッセー尾形は熱心な読書家であるが、ミステリーも数多く読んでいるのであろう。最初から犯人が割れていて、探偵が追い詰めていく過程を描く形式を「倒叙型」と呼ぶが、相手を契約に誘導するやり口は、倒叙ミステリーの探偵たち、『罪と罰』のポルフィーリィ判事や、刑事コロンボと同質のものである。
 ミステリファンにとっても、イッセー尾形は胸を躍らせられる存在なのだ。

 部長宅を訪問したサラリーマン、一転して「お世辞ばかり」のヘコヘコサラリーマンを演じるそのギャップが楽しい。もちろん落語の『牛ほめ』『子ほめ』同様、誉めなくてもいいものまで誉めるから、どんどん苦しくなる。「廊下がこんなに真っ直ぐで」って、家が広いと言いたいんだろうが、ちょっと表現を間違えると、何を誉めているのかわけが分からなくなる。
 そのおかしさを弥増しているのが、妙に冷静な部下の山田。男が何か失敗する度に何やら突っ込んでいるらしいが、男が激怒するとすぐに部長に窘められる。ちょうどこの立ち位置は、映画「社長」シリーズの森繁久彌社長と、三木のり平、小林桂樹3人の関係に比定できる。
 部長は見え透いたお追従を連発する男に嫌気がさしてきたらしく、だんだん無理難題を男に押しつけて、手品をやるから宙に浮け、なんて命令するのだが、真に受けた男が懸命に浮こうとするのがおかしい。完全に森繁・のり平の関係の再現である。
 「社長」シリーズのようなサラリーマン喜劇はとんと作られなくなってしまって、舞台でも三宅裕司が「伊東四朗一座」で軽演劇の復活を試みているが、イッセー尾形はずっと一人で、伝統を継承していたのである。

 かなりボケが進行しているらしい爺さんが、夏休みで田舎に来ている孫たちに、薪割りなどを見せてやる。でもどちらかというと、孫が爺さんを思いやって、つきあってあげている感じの方が強い。別れの時間が来て、もう一度薪割りが見たいとせがむ孫。車が見えなくなるまではと薪割りを続ける爺さん。おかしいが、なぜか胸にジンときて涙がホロリと流れる一幕である。
 「ミミズ踏んだら霧に巻かれっぞ」という「迷信」に爺さん自身が捕えられていくラストはシュールですらある。

 ウクレレを持った歌手、なんと今年で100歳。豪華客船のディナーショーに呼ばれてステージに立っている模様だが、声もガラガラで、とても歌がこなせそうにない。
 ところが、歌い始めた途端に、その声は観客を感嘆させる美声に変わる。歌詞もかなりいい加減で「アロエ、アロハオエ~♪」なんて調子だ。
 イッセー尾形の公演の掉尾を飾るのは、必ず歌ネタだが、歌手は毎回、シャンソン歌手だったりクラシック歌手だったり吟遊詩人だったり千変万化。なのに歌い方は「今日はいつもと違って」と「イッセー尾形の歌」になる。
 この歌が聴けるだけでも、毎回の公演に足繁く通う価値があるのだ。

 最後の博多公演は都合で観られないので、誰かレポートをアップしてくれないものかと思うのだが、期待するだけ無理だろうな。
 福岡の演劇ファンは、日ごろ、何を観ているのかと、嫌言の一つも言いたくなるというものである。
現代能楽集Ⅵ 『奇ッ怪 其ノ弐』

現代能楽集Ⅵ 『奇ッ怪 其ノ弐』

世田谷パブリックシアター

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/09/10 (土) ~ 2011/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

読売演劇大賞
 昨年は前川知大の年であったと言ってもいいのではないか、というくらいに彼の活躍が中央から遠く離れた福岡でも観ることができた。
 『抜け穴の会議室~Room No.002~』『散歩する侵略者』『現代能楽集Ⅵ 奇ッ怪其ノ弐』の3作が立て続けに上演され、そのどれもが演劇によってしか表現できないいくつもの「仕掛け」によって、劇場を異空間へと誘っていた。
 それは、具体的には象徴的な舞台美術であり照明であり、もちろん前川戯曲そのものが常に「SF」である点に起因しているのだけれども、特に『奇ッ怪 其の弐』は、能舞台をイメージした舞台上舞台を設置し、俳優たちには、夢幻能を思わせる緩慢な演技と、日常的な演技とを演じ分けさせることによって、まさしく虚実皮膜の世界を構築していた点において3作中、白眉であった。これまでの読売演劇大賞作品には、どうかなと首を傾げたくなる作品もあったが、今回は多くの人に支持される受賞であったろう。
 残念なことに、もう一つの新作『太陽』は、福岡まで来ることがなかった。リチャード・マシスンや藤子・F・不二雄に触発されて書かれた作品であることを、前川氏自身が語っているので、今後、福岡での再演の機会があるならば、何を置いても観たいと思う。

ネタバレBOX

 何十年ぶりかで故郷の村に帰省してきた矢口(山内圭哉)は、実家の神社がすっかり廃墟となっている様子に茫然とする。そこに住みついているという山田という男(仲村トオル)に、矢口は「奇妙な話」をいくつか聞かされることになる。

 荒れ果てた寒村、そこで来訪者が出会う死の影を漂わせる人々、出だしはまるでエドガー・ポー『アッシャー家の崩壊』だが、「現代能楽集」シリーズとして判断した場合、発想の元となったのは夢幻能『求塚』だろう。
 菟名日処女(うないおとめ)が自らの「生前」を旅の僧に聞かせたように、山田ももちろん「死者」なのである。そして彼の語る物語も、さらに来訪してきた役人の橋本(池田成志)や曽我(小松和重)の「物語」も、彼らの「生前」の「執念」が凝り固まって、この村の底によどむように、「来訪者」の前で繰り返し繰り返し、語られていくのである。
 それぞれのエピソードは特に繋がりはない。まるで夏目漱石『夢十夜』のように、独立した現代社会の奇談として語られる。しかしそれらはやがて、この村を襲った災厄の物語へと次第に収束されていく。
 それはまるで菟名日処女(うないおとめ)を取り合った二人の男にもスポットを当ててエピソードを重層化させたような、「『求塚』の複数化」といった趣である。

 しかし同時に、『奇ッ怪 其の弐』はある“二つの”作品との極めて酷似した構造を持っている。それに気がついたのは、曽我や橋本が、「自分が死者であることに気がついていない」のに対して、山田は「自分が死者であり、そのことを『物語る』ためにここにいる」という「自覚」を持っていることが示された時だ。
 曽我や橋本は、彼らの「物語」の中で、何通りもの「役」を演じる。他の役者も同様だ。だがその役を演じている間は“その役になりきっていて”、自分が“与えられた役を演じているだけ”だとは自覚していない。しかし山田は違う。彼はこの物語のただ一人の「演出家」だ。
 前川知大が生粋のSFファンであることは、その作品傾向からしても自ずと知れる。意識とその具現化はSFの重要なモチーフだが、その枠をファンタジーやアニメーションのカテゴリーにまで広げると、特に共通項のある2作が浮かび上がってくるのだ。一つは「夢幻」の中における「死者と創造主」の物語、C.S.ルイス『ナルニア国物語』であり、もう一つは「夢幻」の中における「俳優と演出家」の物語、押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。即ち「山田」は「アスラン」であり「夢邪鬼」なのだ(これに藤子・F・不二雄『モジャ公』のエピソード「天国よいとこ」の「シャングリラ大神官」を付け加えてもいい。藤子Fファンであることを前川は公言しているからである)。

 ループSF作品の先例は枚挙に暇がない。「同じ時間を永遠に繰り返す」パターンは、時間遡行ものやモダンホラーの諸作に多く見られるから、具体例を出さずとも誰でも容易に2、3作は想起することが可能だろう。演劇でも後藤ひろひと『ダブリンの鐘つきカビ人間』がそのアレンジパターンであった(奇しくも池田成志がこの作品にも登場している)。
 だが、「祝祭の前日」に硫化水素ガス漏れによって村人も役人もみな死に絶え、「同じ日を繰り返し続けている」という設定から判断するに、やはり「文化祭前日」を繰り返した『うる星2』を前川知大は確実に意識していたと思しい。

 先行作に発想の源があるということで、この作品の評価を下げるべきだと主張したいのではない。むしろ逆で、殆どのループ作品が、その霧のルング・ワンダルングの中から脱出する方法を発見するのに対し、本作にはそういった「救い」が用意されていない点に、前川のオリジナリティがあるのだ。
 死者たちは決して生き返らない。彼らの妄念が解き放たれることは絶対にない。彼らには「同じ話を繰り返し話し、同じ行動を繰り返し取る」ことしかできないのだ。言ってみれば――語弊が生じることを承知でたとえるが、「認知症の老人が同じ話を繰り返し語るのに付き合わされる」苦痛に等しい。彼ら老人たちも、自らの「夢」の中にいる。そう考えた時、初めて気付くのだ。“これは果たして本当に「死者だけの」物語なのだろうか”と。
 「死んでいるのは確かに俺だが、生きてる俺は誰だろう」――落語『粗忽長屋』ではないが、我々が信じているこの「実存」が、「誰かが見ている夢の中のキャラクターではない」と、証明できるものだろうか。あるいは、たびたび舞台に登場する面を被った人物たち――彼らが「自分と同じ顔をしていない」とどうして言いきれることができるだろうか。
 ここでその物語を聞かされ続けるのは矢口だが、彼の抱く不安は、容易に観客に伝播する。矢口は現実世界に戻る(ように見える)が、死者たちはやはり永遠の牢獄の中で彷徨い続けている。それを見ている矢口も実は死者として「ここに来た」のではないかという余韻を残して。
 山田は我々に語っているのだ。さながら『アマデウス』のサリエリが、観客に向かって「未来の亡霊たちよ」と語りかけたのと同じように、このように。

 「アナタハ、ジブンガ、イキテイルト、シンジラレマスカ?」
 「アナタハ、ホントウニ、シバイヲミニキタ、オキャクサンデスカ? ココガ、シシャノクニデナイト、ドウシテダンゲンデキマスカ?」

 前川知大、戦慄すべき戯曲家である。
クーザ

クーザ

CIRQUE DU SOLEIL

福岡・新ビッグトップ(筥崎宮外苑)(福岡県)

2012/02/09 (木) ~ 2012/04/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

生身のファンタジー
 公演ごとにタイトル、設定を変えて演じられる、シルク・ド・ソレイユの最新作。「クーザ」とは、少年イノセントがトリックスターに誘われてやって来た「不思議の国」の名前だ。
 登場してくるキャラクター一人一人に名前があり、彼らの至芸にイノセントは魅せられていく。もちろん観客もである。
 少年の名前が「イノセント(無垢)」であるように、私たちもまた心を無垢にして、クーザの人々が繰り広げるイリュージョンにただ純粋に感嘆の声を上げるばかりである。もしもそのイリュージョンが小手先のものでしかなかったら、誰も感動はしない。やはりシルク・ド・ソレイユのメンバーの芸が、我々の想像を超えて、まさしく一つのファンタジック・ワールドを構築し得ているからこそ、万雷の拍手も起きるのだ。
 演じているのは生身の人間であるから、本当のファンタジーの住人のように、空を飛んだり火を吐いたり変身したりはしない。しかし、空中ブランコも、ダンスも、アクロバットの数々も、人間の身体能力の限界に挑戦し、それらに匹敵するだけの鮮やかな幻想を見せてくれている。
 別れの時間は必ず訪れる。物語が幕を閉じたあと、どの観客の胸にも一抹の寂しさがよぎったことだろう。『オズの魔法使い』や『ナルニア国ものがたり』のように、クーザの世界もまたシリーズにならないかと、心に願ったのは、私だけではないはずだ。

ネタバレBOX

 そう大昔の話でもない。サーカスのイメージと言えば、その煌びやかさの影に何かしらの「闇」を内包していることが常であった。
 小説や映画にサーカスのシーンが登場する時、それはしばしば「逢魔が時」のイメージと重ねられる。『美しき天然』の調べとともに現れる素顔を隠したピエロは、主人公を迷宮に誘い込む魔性の使徒のように描かれることも少なくなかった。
 眉村卓『迷宮物語』のイメージはその代表的なものだが、これがわが国だけの特徴でないことは、トッド・ブラウニング『フリークス』や、『ダレン・シャン』のシルク・ド・フリークの例を見ても明らかだろう。
 サーカスを構成していた人々は、そもそも我々とは違う「異世界のマレビト」であったのである。

 しかし、シルク・ド・ソレイユにはそのような「暗さ」は微塵もない。「太陽のサーカス」と名乗る通り、暗闇の天蓋にあっても、クーザの住人たちはひたすら陽気で、孤独な少年イノセントの心を癒すことだけに腐心している。

 ひとりぽっちで凧揚げをしている少年。凧はいつまで経っても揚がらない。どこかで見たような風景だと思いながらも、舞台を見ている最中は気がつかなかったが、あれは漫画『PEANUTS』のチャーリー・プラウンの定番のシーンにそっくりだ。
 どんなに努力しても揚がらない凧。やることなすことうまくいかない、草野球でも一度も勝てない、そして友人たちからはちょっとバカにされている移民の子のチャーリー。誰も、彼の孤独な魂には気がつかない。
 イノセントの周りにも、友達は誰もいない。楽しいサーカスを観に来たはずなのに、私たちの前に最初に提示されるのは、どこまでも寂しく哀しい、少年の傷つきやすい心なのだ。

 クーザの住人たちがイノセントに与える「夢」は、いずれ効力が切れる魔法などではない。
 彼らはファンタジーの住人だが、彼らの見せる「芸」は、人間が肉体の限界に挑戦することで紡がれる夢だ。

 キングとそのお供の二人のクラウン。
 クーザの王でありながら、やってることはたいてい客いじり。舞台に出るたびにアナウンスで「舞台から離れなさい!」とお叱りを受ける。嫌がるお客さんを舞台に引きずり出して、消失マジックにかけるあたりまでは予測が付いたが、銃声一発、客席の一つが突然“せり上がって”、お客さんが晒し者になったのには驚いた。ちょっとしたドッキリカメラである。
 マッド・ドッグ。
 その名の通りのイカレた犬。もちろんぬいぐるみで本物の犬ではない。イノセントにまとわりついて離れないこともある。
 へイムロス。
 鉄カブト、ヨロイに身を包んだ地下の住人。なぜそこにいるのか何をしているのかよく分からないが、幕間の「休憩」時間を教えてくれる。
 ピックポケット。
 変装の名人で、狙った獲物は必ず頂く大泥棒。と言うかスリ。お客さんから本当にサイフやネクタイをすりまくっていたから、本業なのであろう(笑)。警官は彼を追うのに血眼だが、ところがこれが捕まらないんだな。でもイノセントからは何も盗まない。
 スケルトンたち。
 骸骨なんだが、顔はどっちかというとドクロと言うよりも『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のジャック・オ・ランタン。彼らがいるということは、クーザは死後の世界なのだろうか。
 そしてトリックスター。
 宝箱の中から忽然と現れて、イノセントをクーザの世界に連れてきた張本人。神出鬼没、彼が振るうステッキで、世界はいかようにも変化する。どうやら彼がクーザの世界の創造主らしいのだが、なぜイノセントを選んだのか、それは最後まで分からない。

 1.Charivari(シャリバリ)
  19名のダンサー、アクロバッターによるオープニング・パフォーマンス。
  中央の巨大な三層ステージの屋上から下のトランポリン目がけてダイブする(10メートルはあろうか)アクションで、いきなり客の度肝を抜く。
 2.Contortion(コントーション)
  三人の少女が、軟体動物のように体をくねらせ、えびぞったり積み重なったり。あれだ、往年のキング・アラジンの芸を思い出していただければ。
 3.Solo Trapeze(ソロ・トラピス)
  サーカスの花形、空中ブランコが早くも登場。あのブランコ、正式にはトラピスいう名前らしい。演じるのは女性1人だ。よくある2人組、3人組での空中タッチなどはないが、たった一人でも、バトンから手が離れるたびに、歓声と言うよりは悲鳴が起きる。喉が鳴ります、牡蠣殻と。
 4.Unicycle Duo(ユニサイクル・デュオ)
  一輪車に乗る二人組の男女。車上でダンスするだけでなく、男が女を軽々と持ち上げるのだから、 どれだけバランス感覚が凄いか。
 5.Double High Wire(ダブル・ハイ・ワイヤー)
  3人の男性による綱渡り。チャップリンの『サーカス』でもメインになった芸だが、今の観客はあの程度ではもう驚かない。綱の上でジャンプする、相手を飛び越える、椅子の上に乗る、肩車で立つ、縄跳びをする、自転車に乗る……。さほどふらつく様子も見せず、地上の動きと何ら変わりがないように見えることに驚嘆。
 6.Skeleton Dance(スケルトン・ダンス)
  豪華絢爛な骸骨たちのダンス。彼らを束ねる骸骨王は何者なのか? バックステージで踊るシンガーの歌声とダンスにも魅せられる。
 7.Wheel of Death(ホイール・オブ・デス)
  命綱もなければトランポリンもない。空中で回転する巨大な二つのホイールの上で、走り、ジャンプする二人。この眼で見ても、本当の出来事だとは思えないくらいに圧巻。観客の歓声が最も多く上がった、本ステージの白眉。
 8.Hoops Manipulation(フープ・マニピュレーション)
  アクロバチックなのにセクシー。女性の回すフープの数がどんどん増えていく。
 9.Hand to Hand(ハンド・トゥ・ハンド)
  男女の「愛」を二人の「バランス」で表現する。男性の周りを軽やかに動いて、時には肩や腰の上に足一本で立ってみせる。バランスが崩れれば愛も壊れるのだ。
 10.Balancing on Chairs(バランシング・オン・チェアー)
  椅子が1脚、また1脚と積み重ねられていき、その上でパフォーマンスを繰り広げる演者の男性。あれだけ危うい姿勢、片手だけでポーズを取っていて、なぜ椅子が崩れないのか、不思議としか言いようがない。
11.Teeterboard(ティーターボード)
  クライマックス。シーソーで空中に舞い上がる演者たち。空中できりもみ回転してトランポリンに着地、さらには他の演者の肩にすっくと立ってみせる。縁者たちはイノセントにもジャンプを促すが、彼は固持する。
  もう、別れの時が近づいていたのだ。

 波が引くように、ダンサーたちは舞台からいなくなる。
 トリックスターも、魔法のバトンをイノセントに渡して消える。
 舞台に残ったのは、イノセントとキングの二人だけ。
 どこかに飛んでいったはずの凧を返してもらい、イノセントはキングから王冠を手渡され、それを被る。それは、彼がクーザの世界にいたことの証だ。
 イノセントはまたひとりぼっちになる。
 けれども、以前のように、その心までが孤独ではなくなったことは間違いのないことだろう。それは、クーザの世界に触れた観客がやはり、胸いっぱいの幸せを噛みしめているからである。
荒野に立つ

荒野に立つ

阿佐ヶ谷スパイダース

イムズホール(福岡県)

2011/08/11 (木) ~ 2011/08/12 (金)公演終了

満足度★★★★★

ゆえにその名をバベルと呼ぶ
 たった今、演劇でしか表現できないことは何か、そのことを常に念頭に置いて作劇している点で、長塚圭史は演劇界の最前線を走り続けている。
 “目玉をなくした女”朝緒(中村ゆり)と、その友人たち、教師、両親、目玉を探すべく依頼された3人の探偵、といった人々によって、何となく物語らしいものは紡がれていくが、彼らの「旅」は時間と空間が混濁した奇怪な迷宮に囚われ、出口はいっこうに見えない。
 肝心なことは、世界の中心にいる朝緒が“目玉をなくしたことを自覚していない”点にある。長塚圭史が観客に問いかけているのは、この世界を認識している我々の自我そのものが極めて不安定で、個々人の思い込みや妄想によってかろうじて崩壊を免れていて、しかしそのせいでコミュニケーションの基盤となる共同幻想を持ち得なくなっている現実をどうしたらよいのか、ということなのではないだろうか。
 他者との関係を認識できない我々は、自らを「孤独」と規定することすらできないのである。

ネタバレBOX

 舞台は緩やかな段差のある平舞台、上手やや奥に木が一本立っているのみ。ここがどこであるかは、どのようにも見立てられる。ある時は学校の教室に、ある時は朝緒の家の茶の間に、ある時は探偵事務所に、ある時は潮干狩りの浜辺に、ある時は……。
 それだけならば通常の演劇でも同様であるが、長塚圭史は、その「見立て」を“同時”に行った。過去と現在、全く別の場所が混在しズレていく、時折は“そこにいてはならない人物”を別の誰かが代行する。文章で書いても何だかよく分からないが、たとえば“現在の”父親(中村まこと)が逃げ出した朝緒を追いかけるのに同行しているのは“過去の”朝緒の友人である田端(黒木華)であり、その場所は父親には自分の家と認識されているが、田端には外とも浜辺とも認識されている、といった具合だ。朝緒が失踪している間は、彼女の役割を友人の玲音(中村ゆり)が代行したり、朝緒の夫の代行を探偵B(福田転球)が務めたりする。

 こういうデタラメを「そういうことになっているみたいです」と彼らは受け入れる。「名前」もまた然りで、朝緒は、大学の映画作りの仲間からは勝手に「メクライ(眼喰らい)」と名付けられる。朝緒は朝緒なのかメクライなのか目玉をなくしたメクラなのか。そんなことはどうでもいいとばかりに放置されるが、このようないい加減な設定が「現実に」存在しえるとなれば、それは「どこ」であろうか。
 「夢」の中だけである。

 大学時代の朝緒に映画の主演を依頼する監督が、映画『ふくろうの河』の話をするくだりがある。アンブローズ・ビアス『アウル・クリーク橋の一事件』を原作に、ロベール・アンリコが映画化したこの「悪夢」に関する物語は、数々のフォロワーを生んで、世界と実存の不安定を訴えた傑作と讃えられている。
 アイデンティティーが常に揺れ動き、世界と自分との間に違和感を覚え続け、自らの行動を「ト書き」として語っていなければ安定していられない朝緒は、まさしく、ふくろうの河に吊り下げられた兵士だ。ではこの『荒野に立つ』の物語は彼女の「走馬灯」の物語であるのか。そう解釈することも可能ではあるが、問題はそう単純に解決はしない。
 これが彼女の「悪夢」だとすれば、この夢の中に巻き込まれた人々の「自我」は誰のものなのか、彼女の「代行」を玲音が務めたのはなぜなのか、この世界を仕組んだ「演出家」は果たして本当に朝緒なのか、それとも他に“眼に見えない誰か”がいるのか、等々と、疑問は次々と生まれてくるのである。

 もちろんそれらの「混乱」も含めて、これは「バベルの塔」の物語である。
 「神」は人々の「傲慢」の罰として、我々の「言葉」を乱(=バベル)した。担任教師(横田栄司)が言う。「分かったと思った瞬間に分からなくなる」。言葉という「現実」は、発せられた瞬間に「虚構」となる。所詮、我々は自らの作り上げた物語、虚構の中でしか生きられないが、我々が不幸であるのは、それぞれの抱く虚構に同調し得る共通項を見出せなくなってしまっているということなのだ。
 共通する認識がなければ「客観性」は生まれない。我々は等しく自らの「主観」の中でしか生きられない。それは「実存」を確認できない「不可知論」の世界である。我々の存在そのものが「妄想」である可能性を、誰も否定はできないのだ。

 「我々は、夢と同じもので織りなされている」(シェークスピア『テンペスト』)

 朝緒ばかりでなく、登場人物全てが「我々」である。戯画化され、滑稽なやり取りを演じる彼らはしばしば観客の笑いを誘うが、我々は我々自身を嗤っているのである。その意味で、こんなに皮肉でブラックなスラップスティック・コメディもない。
 我々の観る世界は全て違っている。朝緒は、最後に失っていたことすら自覚できなかった目玉を取り戻すが、それから彼女が行く先は、いずこともしれない。バックに流れる音は、どこかの駅の喧噪か。そこは紛れもなく、混乱の街、「バベル」という名の「荒野」なのである。
 彼女は悪夢から覚めたのではない。別の悪夢を観るための、「もう一つの新しい眼」を手に入れただけなのだ。それが以前と同じ眼であると誰に証明することができるだろうか。
 そして我々もまた、今、ここでこうして観ている悪夢から抜け出す術を持ち得ないのである。

 世界は、恐怖だ。
季節のない街

季節のない街

Co.山田うん

J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)

2012/03/24 (土) ~ 2012/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

狂おしくも切なく
 そもそもダンスの公演を言葉にすることは普通の演劇に比べてもはるかに困難なことだが、山田うんのそのオリジナリティを、到達点の高さを、いかに表現すればよいか、考えるだに、これはもうお手上げと言わざるを得なくなる。
 山田うんのダンスは、これまでのどのダンスとも違う。過去の様々なダンスの影響を受けてはいるのだろうが、それをいったん解体し、一つの題材を表現するのに最も適切な振り付けを瞬時に選択し、組み合わせていった、そんな印象を受ける。
 緊張と解放が演劇のカタルシスを生むものならば、それが山田うんのダンスの中には凝縮されているし、常に断続的に異化作用が施され続けて一つの流れを作り出している、そんな気もしてくるのである。
 と、何とかその本質を掴まえようとしても、言葉は抽象化するばかりだ。「すばらしかった」とありきたりな一言で済ませてしまった方がよっぽどマシな気すらしてくる。

 しかし、これだけは明言できる。ダンサーたちが演じていたのは、たとえ言葉は一言も発せずとも、紛れもなく山本周五郎の原作『季節のない街』に登場するあの懐かしい人々なのだと。

ネタバレBOX

 映画監督・黒澤明は、生涯に三本の山本周五郎原作による映画を残している(『椿三十郎(原作『日日平安』)』『赤ひげ(原作『赤ひげ診療譚』)』『どですかでん(原作『季節のない街』)』)。
 山本周五郎が原作を提供するに当たって、黒澤明に語った言葉が「私の小説は映画にはならない。およしなさい」だった。
 周五郎文学は、ヒューマニズムで括られて語られることが多いが、子細に読んでいけば、そんな単純な見方ではすまないことが知れてくる。『季節のない街』の登場人物たちも、電車ばかの六ちゃんは痴呆症だし、京太は実の姪のかつ子を妊娠させてしまうし、乞食の父親は息子を死なせるし、平さんは心を壊したままだ。悲惨なエピソードも決して少なくない。よろずまとめ役のたんばさんの話ですら、「それで終わりにしていいのか」という疑念を読者に残している。
 ウィリアム・フォークナーの影響もあると指摘されている周五郎文学は、基本的に“渇いて”いるのだ。そしてそれは周五郎のリアリスティックな筆致によって生み出されているもので、確かに映像化する時に往々にして雲散霧消してしまう。『どですかでん』には“余韻”がなかった。

 黒澤明をもってしても、映像化は困難だった原作を、山田うんはいかに舞台化したか。
 ダンス・パフォーマンスであるから、もちろん台詞は殆どない。小説の台詞は一行たりとも使用していない。舞台に登場する十数人の演者たちは、よくこのようなポーズを人間が取れるものだと驚くばかりに身をくねらせ、屈伸するかと思えば反り返り、飛び上がったり床をのたうち廻ったり、一人孤独に佇むかと思えば他者とねちっこいほどに絡み合っている。
 それはまるで、自らの関節と筋肉を酷使すればするほど、何かから解放されると信じているような、奇妙だが切実なダンスだ。

 一人一人の動きを観ていると、そこに自然と「ドラマ」が浮かび上がっていることが感じられる。
 恐らくは誰かからいじめられている可哀想な子どもがいる。その子を優しく包んであげている“仲間”がいる。一人の女を取り合っている男たちがいる。女は男達を翻弄して喜んでいるようにも見えるし、逆に戸惑っているようにも見える。「ああ、ああ」と声にならぬ声を上げる“狂人”もいる。ギターを持って、フォークソングを奏でる若者もいる。鍋ややかんをちんちん叩いている連中は乞食だろうか。彼らの衣装はどれも簡素なもので、どんな人物であるかはいかようにも想像が可能だ。
 彼らの中には、『季節のない街』に登場する人物らしき人間は誰もいない。「どですかでん」の六ちゃんも、夫婦交換のカップルも、顔面神経痛の島さんも、子だくさんの父ちゃんも、それらしい人物は見かけない。しかしそこは原作通りの「奇妙な街」であり、そこにいるのは「奇妙な人々」である。肇くんとみ光子さんも、倹約家の塩山一家も、きっとどこかにいるのだろう。
 この「どこかに」、「あなたに(私に)似た人」がいると感じさせることができていることが「演劇」なのだ。
 
 そして舞台には、踊り狂う彼らを静かに見続けている「普通の人々」もいる。彼らはその街の「通りすがり」で、ただそこをチラ見しながら移動するか、一休みするかだ。しかし彼らが我々観客の“もう一つの目”となることで、観客は街の人々の、無数の喜びと哀しみをより切実に想像することが出来るようになっているのだ。
 そして、ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」。
 フルオーケストラで演奏されるその曲が、街の人々の「魂」を歌い上げる。この歌を彼らのために歌っているのは「我々」だ。彼らの中に偉そうな上流の人々は誰もいない。どこかの小さな街の片隅で、世の中の動きとも政治とも大事件とも無関係に、歴史の流れから取り残され、細々と暮らしている庶民たちの姿であり、「我々」なのだ。
 それは原作がそもそも持っている力であるが、山田うんが、「原作から離れることで」、原作に肉薄することが出来た、稀有の手法によるものである。

 アフタートークで、山田さんの演出が、「粘菌」にたとえられていたのが面白かった。粘菌には頭脳がないが、迷路における最短距離をなぜか選択できてしまう(マンガファンは『もやしもん』参照のこと)。
 山田うんの頭の中にも、常人には分からない「粘菌ルート」があって、それがこのようなオリジナルのダンスを生み出していくのだろう。彼女の舞台に接することが出来た幸運もまた、観客の直観によるものであるとすれば、我々にも「粘菌ルート」があると思っても構わないだろうか。
わが星

わが星

ままごと

J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)

2011/05/19 (木) ~ 2011/05/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

First Contact:Boy meets Girl Version
 初演バージョンのDVD、昨年の北九州芸術劇場リーディング公演、そして今回の本公演と、都合三度目の『わが星』観劇体験になるが、やはり今回が最も胸に響く。
 「観客もまた劇場においては空間を構成する俳優の一人だ」とはよく言われることだ。具体的に我々が何か演技をするわけではないが、その演劇空間に身を置いているうちに、我々はいつの間にか感情を揺さぶられ、心は浮遊し、そこにあるべき何かの役割を与えられている。
 『わが星』において、我々はいったいどんな「役」を振られていたか。気がつけばめまぐるしく翻弄された我々の心は、ある時は「ちーちゃん」の中の小さな人類の一人となっている。またある時は「ちーちゃん」自身に、そして「ちーちゃん」を見守る「家族」に、あるいは「先生」になっている。そして。
 彼らへの感情移入が、我々自身を「彼らそのもの」にさせている。実際、柴幸男は、「全ての登場人物に感情移入させる」というとんでもない演出を試みているのだ。それが可能になるのは、我々の卑近な「日常」の視点と、我々を俯瞰する「宇宙」の視点とが、常に二重写しの関係となって我々に提示されているからに他ならない。
 αとωの邂逅が、恋の始まりと終わりとに重ね合わされる。ノスタルジーを我々が感じるのも無理はない。これは新世紀の『時をかける少女』の物語なのだ。

ネタバレBOX

 パンフレットの解説で、扇田昭彦は、『わが星』の着想がソーントン・ワイルダー『わが町』から取られていることを指摘している。日常と町の歴史との二重写しの手法は確かに『わが町』から取られたものだろう。岸田國士戯曲賞の選考で、鴻上尚史は「『わが星』の面白さは『わが町』の面白さではないのか」と疑義を呈して受賞に反対した。
 しかし、『わが星』は決して『わが町』そのままではない。単に舞台を宇宙に移しただけのものではない。むしろ「宇宙」をクロニクルとして描くことが主題としてあって、二重写しはそのための手段に過ぎないと私には思われた。
 そして、その発想の中心にはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』があるのではないかと想像していたのだが、同じくパンフレットのインタビューで、柴幸男自身からそのタイトルが口に出されたのを読んで、やはり『わが星』の叙情性は、ブラッドベリの直系の子孫であったがためのものだったのだと納得した。

 そう改めて確信して本作を見返してみると、他にも「それらしい」SF作品のガジェットが至る所に見られる。
 「恐竜」のエピソードは同じブラッドベリの『霧笛』や星新一『午後の恐竜』を連想させるし、「そのまたお母さんのお母さんの……」と遡った末に、ギャグで落とすのは、まるでラファティ『九百人のお祖母さん』だ。
 同じ時間を繰り返す「ループSF」の作品を挙げていけばきりがない。近年では映画『恋はデジャブ』が、ニーチェの永劫回帰の思想を映像化した傑作として高評価を受けている。
 時間を巻き戻して、死んだ人間を生き返らせるのもタイムトラベルものの定番だ。成功する例は映画『スーパーマン』の、あの「地球の自転逆回転巻き戻し」というトンデモな手がある。自転と公転の違いはあるが「地球の回転を逆回し」という点では本作に最も近いのはこの映画だ。
 いずれも過去のSF作品のアイデアにインスパイアされたことは確実で、間違っても輪廻とか業とか、そんなオカルティズムが入り込む余地はないのである。柴幸男は紛れもなく「科学の子」だ。

 しかし、柴幸男がこれらのSF作品をどれだけ読んで(観て)いるのか、本当のところは分からない。いや、しかし、読んでいなくてもそれはいっこうに構わないのだ。賞賛すべきなのは、これらの作品に横溢しているSFマインド――センス・オブ・ワンダーを、柴幸男が単なる模倣ではなく、自らの血肉とし、縦横無尽に組み合わせて、まさしく一つの「セカイ」を構築しているという事実なのだ。
 そしてSF最大のモチーフとしてある「ファースト・コンタクト」。それを彼はラストに持ってきた。

 「ちーちゃん」が「地球」であることは論を俟たない。「地球の擬人化」が、ちょっとませてはいるがやはり幼くわがままでやんちゃな「少女」であるとは何とも可笑しい。彼女のその性格は彼女が「死ぬまで」変わらない。彼女には「進歩」とか「成熟」というものがない。そう言われてみると、この地球は氷河期と間氷期を繰り返しているだけの、学習障碍を起こしている困った子どものように見えてくる。
 地球に対する「母なる大地」という一般的なイメージがカケラも無いのはなかなか皮肉が効いている。我々人類はきまぐれな幼い少女に抱かれているのだ。自然災害も含めて、様々な点で、我々が地球に翻弄されてしまうのも無理はない。
 そして彼女が彼女の「日常」を描き、思い出を語り始める時、彼女は地球であると同時に「我々自身」にもなる。

 では、彼女を百億年見続けてきた、「家族」と「先生」と、そして「彼(もう一人の『先生』)」は誰なのだろうか。無理にどこかの惑星や恒星を当てはめる必要はない。地球の誕生は謎に包まれている。産んだのは誰か、それは分からない。分からないけれども、地球がここにこうしてある以上は、その「奇跡」を産み出した彼ら「家族」は、間違いなく「どこかに」存在しているはずなのだ。
 そして「彼」もまた百億年、「ちーちゃん」を見続けてきた。そして「会いたい」と思ってくれた。「彼」が言葉には出さないが「ちーちゃん」に一番伝えたいと思ったのはこの言葉だろう。「We are not alone.」。『未知との遭遇』の、あの台詞である。
 谷川俊太郎がかつて詩にした『二十億光年の孤独』の中に、我々人類は、地球はいる。その孤独は、光速を越えてやって来てくれた者にしか癒せない。我々の地球は、他の星々とはあまりにも遠くて遙かな、闇の中のほんのわずかな光点に過ぎない。
 しかし我々は空を見上げることを忘れない。「ちーちゃん」は、そこにいつか出会える「友」がいることを信じている。「月ちゃん」が離れていっても、その「友」がいつか必ず来てくれることを信じている。「彼」が誰であるかを答える必要はないだろう。名前などはどうでもいい。「彼」は、我々が求めていた、我々を「超える」存在である。
 だから、私たちもまた、「もう一つの地球」のために、時を、光を超えて、彼女に会いに行くことができるはずだ。そしてこう言ってあげられる。「こんにちは」そして「おやすみ」と。

 「わが星」とは「我々の住む星」という意味だけではない。
 「彼」が、「先生」が言っていたではないか。「これは『ボクの星』だ」と。「君は、ボクのものだ」。そう言ってくれる相手に、「ちーちゃん」は、最後の最後でようやく出会えたのだ。
 これは「宇宙」の「初恋」の物語である。

 生きよう。力強く。みんな、重なりあって。
スガンさんのやぎ

スガンさんのやぎ

北九州芸術劇場

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/08/12 (金) ~ 2011/08/13 (土)公演終了

満足度★★★★★

赤頭巾ちゃん気をつけて
 原作はドーデ『風車小屋便り』の一編。もちろん“童話ではない”。しかしフランスでこれが童話として絵本になっていることは事実で、「子どもには美しいものだけを見せたい」と考える親なら、この話をよく子どもに語って聞かせられるものだと、フランス人の教育意識に疑問を抱くことだろう。
 しかし、大人がこの寓話から、恐怖やエロス、生と死の問題、あるいは文明批評までも感じ取るように、子どももまた、言葉には出来なくともその鋭敏な感覚で、物語の背景にある「得体の知れない何か」を直観することは可能であるはずなのだ。そしてそれが子どもの成長に欠くべからざるものであることを、フランス人は確信しているのだろう。
 エレナ・ボスコは、哀れなスガンさんのやぎをマイムで演じる。子ども相手だからと言って、“わかりやすく”妥協することはしない。作り手、演じ手が、観客の想像力を信頼しているからこそ、この舞台は成立している。『スガンさんのやぎ』を観た子どもが大人になって、再びこの舞台を観る機会があったなら、当時は言葉には出来なかった心の中の「もやもや」の正体に気づき、慄然とさせられることだろう。

ネタバレBOX

 今井朋彦の日本語によるナレーションは、原作を99%、そのまま朗読したものである。日本人には分かりにくい「グランゴワール」「エスメラルダ」(いずれもユゴー『ノートルダムの傴偃男』の登場人物)などは省略、ないしは「言葉の置き換え」が為されたが、物語には一切、手を加えていない。
 即ち、ドーデが小説に込めたテーマは、そのまま舞台にも継承されたと判断してよい。作者が語りかける「グランゴワール」は架空の人物であるから、これはドーデが若き日の自分自身に向かって呼びかけているのだ、と解釈するのが一般的である。教職を辞して作家生活に入った自分と、新聞記者を辞めたグランゴワールを重ね合わせているのだ。
 冒険好きな若い雌山羊のブランケットは、飼い主のスガンさんの制止も振り切って、「自由」を求めて山へと旅立つ。山が狼の巣だということは熟知しているが、その恐怖もブランケットを翻意させることはできない。彼女は希望を胸に新天地に勇躍するが、果たして数々の苦難と危険を乗り越えて「成功」を手中にすることができたか。否である。彼女はあっさりと狼に嬲られて喰われ、物語は終わる。そこには何の意外性もない。“読者が心配していた通りの結末”が提示されるのだ。
 『風車小屋便り』を書くまでのドーデは、まだ作家として成功したとは言えなかった。彼の小説が評判を呼ぶのは、まさしくこの短編集以後のことである。数多くの夢見る青年が挫折を味わったのと同じく、ドーデも自らの人生への不安を『スガンさんのやぎ』のモチーフとしたと判断してよいだろう。そしてそれは読者である「若者たち」にとっても教訓となるとドーデは考えたはずだ。

 ところがあろうことか、フランス人たちは、この物語を「子供たち」に提供した。それは、本来は社交界のうら若き子女たちに向けて語られていた『赤頭巾』の物語が、「童話」として広まっていった過程とよく似ている。戒めは、“早ければ早いほどよい”と考えているのであろうか。

 舞台にはもちろん本物の山羊も狼も登場はしない。たった一人の出演者、エレナ・ボスコは、白い服を身に纏って、美しい白山羊を体技だけで演じている。時折、身体を掻く、紐に噛みつくなどの動物的な仕草を取り入れはするものの、彼女は紛う方なき“人間”である。
 旅立ちにあたり、彼女は靴下を履き、手袋を付け、帽子を被る。山羊はもちろんそんなことは“絶対にしない”。彼女は山羊に見立てられた人間ではなく、“人間”なのだ。全身の「白さ」は彼女の純真無垢の象徴ではあるが、同時に“これからどのようにでも汚される”ことを暗示してもいる。
 ブランケットは、山で、一頭のカモシカと恋に落ちる。舞台では、人形を抱きしめる演技でそれを表現する。ブランケットと人形は、箱の中に閉じ籠もって一夜を過ごすが、これはもちろんセックスの婉曲的な表現だ。彼女は白い衣装を脱ぎ捨て、黒い下着だけになる。
 そして彼女は狼と出会う。暴行と陵辱。回り舞台の壁を突き破り、彼女は遁走するが出口はない。舞台は轟音を上げ、回転はますます速まる。やがて彼女は動きを止め、その身を横たえ、いびつな姿勢のまま固まる。この救いようのない結末に「恐怖」を覚えない子どもがどれだけいることだろうか。

 イプセンが『人形の家』で女性の解放を描いたのは1879年、『風車小屋便り』の発表は1869年でちょうど10年前になる。まだ欧州でも女性の参政権は認められていないが、社会への参画が叫ばれていた頃であり、ドーデのこの寓話は、旧弊な“男に伍することを企む生意気な女”をたしなめたもの、と見なすこともできるだろう。実際に「自由」の獲得のために血を流した女性たちは数知れない。
 しかし、スガンさんが六匹の山羊を飼い、その全てが失われ、七匹目の山羊もまた同じ運命を辿っても、恐らく八匹目の山羊は必ず現れるのだ。ブランケットは、死しても何一つ後悔はしていない。最後に黒い衣装を身に纏った彼女は、もはや何も知らなかった頃のいたいけな少女ではない。命を賭してもなお、求める価値があるもの、それが「自由」なのだと知っているのだ。
 死の恐怖に襲われながらもブランケットが戦った「狼」の正体はいったい何だったのか。彼女が壁に描いた「もう?」のあとに続く言葉は何か。観客の子供たちがその意味に思い至る時が来た時、彼ら彼女らには新しい「生」が見えてくるはずである。
間取り図ナイトツアー

間取り図ナイトツアー

「間取り図大好き!」コミュニティー(mixi)

FUCA(福岡県)

2012/06/22 (金) ~ 2012/06/22 (金)公演終了

満足度★★★★★

もしも私が家を建てたなら  
 好き者が集まって、ただひたすら「家の間取り図」を見るというだけのイベントだが、これがとんでもなく面白い。奇妙奇天烈摩訶不思議、何をどうやったらこんな間取りになるのやら、廊下しかないとかトイレだらけであるとか階段がワープするとか一階より二階が広いとか六畳しかないのに九畳と書いてあるとか、訳が分からない物件のスライドがおよそ200枚すも見たっけか。この全国ナイトツアー、主催のmixiコミュ管理人さんによれば、各地で紹介した内容にダブリは殆どないとのことだ。てことは全部で千件以上! よくもまあ、これだけ変な物件があるものだと驚き笑うばかりだ。
 中には単純な書き間違いもあるのだろう。今回のイベントで初めて知った事実だが、「間取り図の専門家」というのは存在しないのだ。マニュアルもない。家を売りたい大家なり地主なりが自分で書いたり仲介業者が書いたり。不動産屋がクリーンナップする場合もあればしない場合もある。手描きのものはたいていが適当だ。描き手もどう描けばいいのか分からず、枠だけ描いて「現地参照」とか書き込みしている。間取り図の意味がない(苦笑)。かと思えば、やたら精密に縮尺まで書き込んだものまであって、まさに千差万別百花繚乱な物件が取り揃っている。
 言葉で説明してもこの面白さ不可思議さは表現しきれない。次のツアーを待つか(ただしチケットは即日完売なのでご注意)、mixiコミュにご参加頂けば、百聞は一見に如かず、あなたの心はあなたの体を離れて、目眩く間取り図ゾーンの中に誘われることだろう。

ネタバレBOX

 もちろん全部の物件は紹介しきれないのでサワリだけ。

 これも描き間違いかと思ったのは、ダイニングキッチンのすみに洋式便器があるもの。ところが現地の写真を見ると、本当に流しの向こうに便器が! 便器を見ながら食事するってどんな気分?

 浴室と更衣室の間にダイニングキッチン。脱いだら家族が食事してる横をまっぱで通ってかなきゃならない。「お父さん、また裸で!」

 部屋の真ん中に「金」の文字。
:何?

 また思い出したら追加して書きます。
カミサマの恋

カミサマの恋

劇団民藝

ももちパレス(福岡県)

2012/07/24 (火) ~ 2012/07/31 (火)公演終了

満足度★★★★

“けっぱる”東北の神武たち
 奈良岡朋子の津軽弁芝居を堪能できる舞台。
 何のこっちゃと思われる方もあろうが、「方言芝居」で成功している例は決して多くはないのだ。コトバはもちろんイキモノであるのだが、地方の土俗と密接に絡んでいる方言は、たとえその地方出身の俳優の発声であっても、文化に対する深い理解がなければ、演技として昇華されたものにはならない。その巧拙は、喋りが自然であるかわざとらしい部分がないか、他地方の人間が観てもそれと気付くものなのだ。
 奈良岡朋子は東北出身の俳優ではない。しかし父君(洋画家・奈良岡正夫)が津軽出身で、戦時中、弘前に疎開した経験がある。慣れぬ田舎暮らしに馴染むため、彼女は必死で弘前弁を習得した。それが今回の舞台に生かされている。

 大滝秀治が舞台に立つことが困難になっている近年の劇団民藝は、奈良岡朋子一人で持っている印象がある。中堅どころに実力がないわけではないから、奈良岡朋子一人が突出していると言った方がよいだろうか。その結果、奈良岡朋子が袖に引っ込んだ時には、「舞台が持たない」状況も生まれてしまうこともしばしばであった。勢い、外部から奈良岡に拮抗しうる役者を招聘するしか手はなかったわけだが、彼女も既に82歳。後継が育たなければ、いずれ民藝は、屋台骨が倒壊する危険に晒される。
 畑澤聖悟に戯曲を依頼したのは、作品の面からも「新しい血」を注ぐ必要があるとの判断ゆえだろう。青森を拠点とし、地方と伝統文化を見直しつつ、中央に打って出る畑澤氏の姿勢は、「演劇の温故知新」と呼ぶに相応しい。

 今回の舞台で驚いたのは、「カミサマ」という超自然的な存在が、東北の日常に何の違和感もなく存在していることだった。誰も「カミサマなんてインチキだ」とは言わない。信仰と言うよりは習俗である。
 「神降ろし」を行う道子(奈良岡朋子)は、「カミサマ」を媒介して相談者にアドバイスを与えるが、新興宗教のような金儲けに走るわけではない。その役割は町のカウンセラーであり、鋭い人間観察力がなければ、到底やりおおせるものではない。
 津軽のその町に、「カミサマ」を中心とした小さなコミュニティが作られていることはその通りなのだが、これは閉鎖的なムラ社会とは根本的に性格を異にしている。「カミサマ」はその地の人々にとっては「故郷」の象徴である。日ごろは遠きにありて思うもの、つまりは非日常であるが、いったんそこに帰れば懐かしき我が家であり、心を休めることが出来る。そして、相談者は再び「日常」という名の「戦場」に戻っていく。
 彼らに道子がかける「けっぱれ」という津軽弁。これを「頑張れ」と直訳しても、そのニュアンスは決して伝わらない。「頑張れ」はともすれば無責任な放言となり、相手にプレッシャーを与えるだけの暴言ともなる。しかし奈良岡朋子は、この言葉を相手の「魂」に向けて問い掛けている。相手が「けっぱれる」ことを信じている。そしてその判断は間違ってはいない。
 だから観客もまた舞台から「力」をもらえる。劇場という非日常の空間から、「現実」へ立ち戻るための力をである。
 津軽弁でなければ成立しない舞台、それがこの『カミサマの恋』なのだ。

ネタバレBOX

 「カミサマ」遠藤道子の下へ相談にやってくる人々による群像劇。
 小さな悩み相談事はいくつもあるが、大きなものは三つ、一つは工藤家の嫁姑問題、久米田家の離婚問題、そして道子自身の家族の問題である。
 「カミサマ」が実在しないことは、物語の途中で観客には見当が付くようになっている。全ては道子による「演技」なのだ。神託のように見せかけてはいるが、道子は相談者たちの状況を詳しく聞き出し、人間関係を掴み、問題解決の糸口を探っている。そして最も適切なアドバイスを与える。それが“外れない”から、相談者たちは「カミサマの言うことに間違いがない」と納得する。たまにアドバイスに失敗することもあるが、その時は相談者は「自分が悪い」と言って、決して道子を責めようとはしない。道子はいつだって真摯だ。その誠実さが「カミサマ」を「カミサマ」たらしめている最大の根拠となっているのだ。

 時には、道子はいかにも「カミサマ」風に大仰な「演技」もしてみせる。
 工藤家の嫁姑の問題については、だらしない婿に「蛇が憑いている」と言って、嫁姑を慌てさせ、仲違いを中断させてしまう。そして婿には「二人の話をただ聞いてやりなさい」と、それだけで問題が解決することを示唆してみせる。
 いくら東北とは言え、蛇憑きだの狐憑きだの狸憑きだのを信じる人間がこうもたくさんいるものなのだろうか、と疑問には思うが、非現実から現実へと回帰する道子=奈良岡朋子の真摯な演技が、最終的にはこのわざとらしい小芝居にも説得力を与えることになっている。

 久米田家の問題はいささか厄介だ。
 娘を死産した玲子(飯野遠)は、夫との仲を修復できず、テレビで紹介されていた道子の下に弟子入りを懇願する。既に弟子が一人いる道子はこれを拒むが、思い込みが激しいタイプの玲子は頑として帰ろうとはしない。
 そこで道子は、ある条件を出して、彼女を家に住み込ませることになるが、ここから問題は道子自身の家族とも深く関わっていくことになる。
 道子の養子・銀治郎(千葉茂則)は、病気で余命わずかの宣告を受けていた。死別した妻との再会を望む彼は、治療を受けないことを「カミサマ」に告白する。“本当はカミサマではない”道子は、その事実を知り狼狽する。そして、玲子に頼むのだ。「死んだ嫁の“生まれ変わり”を演じてくれ」と。
 玲子のウソを信じた銀治郎は、妻に再会できたことを喜び、治療も受けるようになる。しかし玲子は、自身の思い込みの激しさゆえに、“本当に自分が銀治郎の妻の生まれ変わりである”と信じ込むようになる。さらには、玲子の夫が、玲子を連れ戻しに現れて、道子の計画は次第に崩壊していく。

 道子は、所詮は人間である。「カミサマ」にはなれない。彼女の浅知恵が、かえって銀治郎の心を傷つけることにもなった。「カミサマの声を聴く」という行為が、全ての人の心を救えるわけではない、と熟知しているのは、道子自身なのだ。それでも道子は、「カミサマ」に頼ることでしか生きられない人々がいることもまた知っている。
 彼女が弟子を取りたがらない理由はここにあるのだろう。この二律背反の矛盾の中で生きていくことは、いかに「けっぱる」道子とても、安らぐ間のない過酷なことなのだ。
 最終的に、道子は「人間としての言葉」を銀治郎に投げかけて、彼の自暴自棄をたしなめる。「死ぬな」という「母」の言葉に、放蕩の限りを尽くしてきた銀治郎は、ようやく「家族」を意識して、死の淵から立ち直る。彼を救ったのはまさしく「人間」なのだが、ついさっきまで神託を無邪気に信じていた体の銀治郎が、簡単に「人間の側」に戻っていけたのは、彼もまた“自分をあえて騙していた”ことの証左である。
 人間は、自分に都合のいいことだけを信じる。その心理が「カミサマ」に実効を与えていたのだ。それが巧く行ったケースが工藤家の場合で、虚は実となった。そうは問屋が卸さなかったのが道子たちの場合で、虚は結局は虚でしかなかった。
 「信じること」が全て正しいわけではない。「信じたこと」に裏切られる場合もある。「こんな自分にでも、何かできることがあるなら」、それが道子が生きていた原動力であるが、それもまた「思い上がり」であることを、「現実」は彼女に冷徹に示してきたのである。

 ラストの意外な展開は、苦悩の人生を送ってきた道子への「救い」であるが、作劇的には蛇足と見なす批評氏もいるだろう。
 和解した道子と銀治郎だが、突然、銀治郎に、死んだ道子の夫が憑依する。道子を残して早世したことを侘び、息子を立派に育てた道子に感謝し、「けっぱって」生きてきた彼女を慰労する。
 単純に考えれば、「カミサマ」なんていないのだから、これは銀治郎の演技だ。しかし二人だけの過去を知っているのだから、これだけは真実の「神降ろし」なのかもしれない。どちらとも取れるように、というのが畑澤聖悟の意図だろう。しかし演者の千葉茂則の演技が「どっちつかず」だったために、「どちらともとれない」中途半端な印象のラストになってしまった。
 その演技のまずさを置いておくとしても、このタイミングで道子に「救い」を与えるというのは戯曲の時点で既に安易な方法であったように思う。奇跡はそう簡単に起こらない。仮に奇跡が起きたとしても、それは「人間の努力が起こしてこそ」価値があることなのではないか。
 「奇跡」がなくとも、道子は充分に価値ある生き方をしてきたのだ。安手のドラマにありがちな結末を付けることは、かえって道子の人生をないがしろにすることになっているように見える。

 畑澤聖悟の創作力がある一定のレベルに達していることは確認できたが、情熱が勝るあまり、まだまだ自作に抑制を利かせる域には達していない。奈良岡朋子に助けられていなければ、かなりつまらない印象で終わっていただろう。今後はもう「思い上がった」戯曲は書かないよう、願うばかりである。
『prayer/s』※ワーク・イン・プログレス公演

『prayer/s』※ワーク・イン・プログレス公演

RAWWORKS

SRギャラリー(福岡県)

2011/05/16 (月) ~ 2011/05/17 (火)公演終了

満足度★★★★

モノの怪たちの祝祭
 タイトル『prayer/s』の「/(スラッシュ)」が気になっている。
 登場人物たちが、お互いに関わりたいと願いながら関わることができない、一人一人が「遮断」されている象徴として、この「/」が置かれているように感じるからだ。
 彼らの言葉が「pray=祈り」であるのならば、その祈りは誰にも届かないようにも思える。もちろん「神」にも。

 半裸の男女たちは、めいめい、何かに向かって、誰かに向かって語りかけてはいるが、その意味内容も抽象的で、果たしてそれが本当に「祈り」なのかどうかも分からない。
 しかし、そこにはこの時空間に、現実に、肉体に縛られ追い詰められて、自由になれない人間の精神の、根源的な「痛み」があり「叫び」がある。
 その叫びを口にできただけでも、彼ら、彼女らは幸福なのだろう。特にストーリーのない点景のみの舞台で、陰鬱な暗闇の中で演じられていながら、そこには人々が織りなす「物語」があり、苦しみの後にささやかな開放感が漂っている。

ネタバレBOX

 舞台は穴蔵のような、細長い小部屋。
 照明はなく、床のそこここに、グラスに入った蝋燭が置かれている。十人ほどの男女が、床や壁や椅子に、死体のように転がっている。彼らはみな半裸だ。
 灯火があるのみの暗闇、裸の死体の群れと言えば、どうしても芥川龍之介『羅生門』を想起してしまう。あの小説は、固定された舞台設定と時間経過において、二幕ものの「演劇」を強く意識しているが、あれをそのまま舞台にすれば、こんな感じだろうかと思わせる。
 実際に彼らがぶつぶつと呟く言葉の中には、宮澤賢治の心象スケッチがあり、中島敦の『山月記』があり、といった具合で、本作の「文学志向」は随所に見られる。しかし、それは必ずしも脚本・演出の永山智行の志向と一致しているわけではないようだ。本作は演出家が、役者たち一人一人と対話する中で、台詞や演技を作り上げていったと聞く。
 となれば、この舞台の「文学性」は、役者たち一人一人の「生き方」が必然的に産み出したものだということになる。
 「文学は死んだ」と言われて久しい。しかし、役者たちの「生」への探求が、「演劇」という表現形式に内包されている文学性を引き出すことになったのだとすれば、人間を描くための手法として、文学はまだまだ有効であると言えるのではないだろうか。

 一見、前衛的なアングラ演劇のように見えるが、『prayer/s』の演劇としての構成は、ミュージカル『キャッツ』とほぼ同一である。
 T.S.エリオットの詩集に登場する猫たち、“月の猫”ジェリクルキャッツに選ばれるべく「祈り」を捧げる彼らを一匹一匹紹介していく形式、意識してか無意識的にか、『prayer/s』は、それを模倣している。しかも登場人物一人一人が、ジェリクルキャッツとなった娼婦猫グリザベラのように、自らの「叫び」を語り終えた後、この穴蔵から扉の向こうに、光の世界へと旅立っていくのだ。
 いや、『prayer/s』を『キャッツ』の模倣である、と捉えることは乱暴に過ぎるだろう。ではなぜ両者は似通っているのか。
 むしろ『キャッツ』のあの「祈り」の形式が、古代から連綿と続く「神殿での祝詞」、日本ならば「神楽」の形式を踏襲したものだと考えれば、その類似性に妥当な説明を与えることは可能であろうと思う。
 「祈り」こそが、全ての「演劇」の原点なのであり、『キャッツ』も『prayer/s』も、「演劇の原初に還る」ことを目的として作られた、文字通りの「モノ・ガタリ」であるのだ。

 一人の女は、「私、生きてる」と呟いた。しかし、扉の向こうでも彼女が生きているかどうかは分からない。
 また一人のは、「私、生きたい」と呟いた。しかしそれは「逝きたい」の意味だったかもしれない。
 彼ら、彼女たちの「言葉」は、ともすれば抽象的になり、何について語っているのか、その叫びを産み出した背景となる事実が何だったのかは曖昧で、ただその言葉に込められた「感情」ばかりが暗闇の中に浮遊していく。
 だが、彼ら、彼女たちのことばは、決して空を漂ったまま消えたりはしない。たとえ語られることはなくても、彼ら彼女らには確かにその叫びと祈りを産み出すに至った「過去」があり、苦しみと痛みの中で常に「死」の影を纏いつつも、彼らが紛れもなく、そこに「実在」していることを訴え続けている。

 だから哀しい。
 しかし、だから彼らが、彼女たちが愛おしくなる。
 神殿も仏閣もない、現代の「祈り人=プレイヤーズ」にとって、彼らの願いを捧げる「神」はあってなきがごときあやふやな、それこそ一本の「藁」にすぎないのかもしれない。
 しかし、彼らの「実在」だけは決して否定することはできない。彼らの祈りと叫びは観客の胸に直接、呼応する。そして我々は、自らもまた「祈り人」の一人であることを自覚するのである。

 『prayer/s』の「/」は、舞台の役者たちと、我々観客の間にある「垣根」かもしれない。もちろんこの「垣根」は、たやすく飛び越えることが可能なのである。我々の「祈り」も、「誰か」に届くことがあるのだろうか。
 
  「ワーク・イン・プログレス公演」ということであるが、演劇は元々、公演の度ごとに進化するもので、現在は常に通過点であり、同時にその時点における完成形だろう。つかこうへいの諸作など、毎日のように演出を変えたこともあったと聞く。
 再びこの舞台を観る機会もあるかとは思うが、そのときはまた印象は一変しているかもしれない。それも楽しみなことである。
Hobson's Choice -ホブソンの婿選び-

Hobson's Choice -ホブソンの婿選び-

無名塾

ももちパレス(福岡県)

2012/02/10 (金) ~ 2012/02/18 (土)公演終了

満足度★★★★

仲代達矢の Hobson's Choice
 「仲代達矢役者生活60周年記念」というサブタイトルが付いている(パンフレットは仲代さんの写真集にもなっている)。デビューは1954(昭和29)年、黒澤明監督『七人の侍』の通りすがりの名もない浪人。わずか数秒のエキストラに過ぎなかった。
 それが国内外の数々の名画、名舞台に出演し、「世界の仲代達矢」にまでなったのだから、その記念作に何を選ぶかは演劇、映画界にとって注目の的であったと思われる。しかし、それが名匠デヴィッド・リーン監督による、ベルリン映画祭金熊賞受賞作とは言え、純然たる「喜劇」である『ホブスンの婿選び』であったことに驚いた向きも少なくはなかったのではないか。
 けれども、意外なほどに、と言っては失礼だが、仲代達矢はこれまで喜劇も多数、演じてきている。突っ込まれて「受け」た時、ボケる間が絶妙に巧い。今回も、飲んだくれの癇癪持ちのホブソン役を、「詰め物」もしているのだろうが、オリジナル版のチャールズ・ロートンよろしく、腹を揺らして楽しげに演じている。「モヤ」さんとあだ名されている通り、喜劇の場合の仲代さんは、どこか茫洋として、熱演しても熱演に見えない。生来の持ち味なのだが、今回もそれが発揮されて、舞台に「和み」を産んでいる。
 なるほど、記念作に『ホブソン』を選択したのはまさしく「Hobson's choice(=唯一の選択)」だったのだなと、納得させられたことだった。

ネタバレBOX

 その昔、トーマス・ホブソンという配達夫がいて、副業で「馬貸し」もやっていた。飼い馬には、良馬もいれば駄馬もいたが、借りに来る連中は当然、良馬ばかりを借りたがる。そこでホブソンは、出口に近い馬から順番に貸し出すルールを作り、顧客の貧富に関わらず、これを押し通した。
 その故事から生まれた成語が「Hobson's choice(=選択の余地無し、究極の選択)」である。

 支配的な頑固親父と、結婚適齢期(多少過ぎ)の三人娘の葛藤、という筋立ての舞台で真っ先に思い浮かぶのは、ショラム・アレイハム作『屋根の上のバイオリン弾き』だろう。昨年観劇した『焼肉ドラゴン』もこのパターンを継承していたから、これはもうドラマの一つの定型パターンであると認識して構わないようだ。
 三人のうちの一人が「幸せになる」というのならば、このパターンは『シンデレラ』にまでルーツを遡ることができる。しかし、残念ながらあの前近代的メルヘンには「父親」が存在していない。これはあくまで近代文学における「父性と「母性」との対立の物語なのだ(父と娘という形は取っているが、娘が体現しているのは極めて本能的な母性である)。
 そしてそれは、父性が歴史の中で連綿と築きあげてきた「封建制」に対して、原初的な母性が反逆を翻す物語でもある。
 そう考えていくと、この物語のルーツは、改めてシェイクスピア『リア王』にあったのだと見なすことができそうである。それ以前にこのパターンが存在していたかどうか、非才の身ゆえ断言はできかねるが、恐らく明確な形式としては無かったのではないか。日本の須佐之男にも三人娘がいたが、特に父親に反逆した形跡はない。
 シェイクスピアが「近代文学」の祖であることの、これも一つの証明になるのではないか。観劇しながらそんなことをぼんやりと考えていた。

 物語は、長女マギー(渡辺梓)が、根性無しのヒョウロクダマである靴職人・ウィリー(松崎謙二)を立派な男に「調教」する“逆”『じゃじゃ馬馴らし』な展開もあるから、作者のハロルド・ブリッグハウスが、この物語をシェイクスピアのパロディとして書いたことは間違いないことだろう。
 『リア王』では父親も娘も結局は“共倒れ”してしまうが、フェミニストのブリッグハウスは、そんな「痛み分け」みたいな結末はよしとしない。「男が女に勝てるわけ無いじゃないの」とばかりに、ダメな男どもを翻弄するのである。
 ついでに言えば、主人公ホブソン(仲代達矢)の名前は、ヘンリー・ホレーシオと言う。いかにもシェイクスピアの作品から名前を借りてきました、というのが見え見えの、オアソビのネーミングだ。そして、仲代達矢が黒澤明監督『乱』で、“リア王”一文字秀虎を演じていたことを思えば、この配役が「二重のパロディ」を意味することにニヤリとされるファンも多かろう。

 ヘンリー・ホブソンは、昼間から「酔いどれ亭」で飲んだくれているような道楽親父だが、商売のホブソン靴店は、名職人のウィリーと、切り盛り上手のマギーのおかげで繁盛している。
 三人の娘たちはもう結婚させてもいい年頃で、実際、次女のアリス(松浦唯)と三女のヴィッキー(樋口泰子)にはそれぞれ恋人がいる。ところが女手が足りなくなるのと、持参金惜しさに、ヘンリーは娘たちの結婚を一切認めようとしない。一計を案じたマギーが取った手段が、ウィリーの調教と、店からの「独立」だった。
 ウィリーを「主人」に、新しく店を作ったところ、顧客はこぞってウィリーの店に鞍替え、ヘンリーはたちまちジリ貧に陥ってしまう。酒で健康が悪化し、さらに訴訟沙汰にまで巻き込まれて(もちろんマギーが影で糸を引いている)、にっちもさっちもいかなくなり、残された選択肢はたった一つしかない。マギーとウィリーに頭を下げて戻ってきてもらうことだけ、というのがタイトル通り「ホブソンの選択」だったという落ちである(この期に及んでもなんとか給金を値切ろうとけちくさく交渉する仲代達矢の演技がまた可笑しい)。

 シェイクスピアの『リア王』は、もちろん「選択を間違えた男の悲劇」である。最も自分に忠実な身内は誰なのか、人は往々にして見誤る。しかし父親の身をコーディリアが本気で心配していたのなら、もう少し巧く立ち回ったのではないか、という疑念を抱かないではいられない。彼女もまた、あまりにも自分の感情にストレートで愚かすぎるのだ(だからあの父にしてこの娘ありなのだが)。
 その点、マギーは実に巧く男どもを操ったと言える。頑固親父のヘンリーが「骨抜き」にされていく様子は観ていて実に小気味いい。仲代達矢が従順にこっくりと頷く仕草の「可愛らしさ」などは、『乱』を観た直後に見比べたなら、抱腹絶倒してしまうのではなかろうか。
 無名塾では中堅の、松崎謙二の「変貌」ぶりも目を見張る。軟弱な田舎者だったのが、一転して全ての問題を収拾する「男」となって再登場するのだが、そのウィリーも最後の最後で、やはりマギーの掌上にあったと分かる落ちは、「女性上位の時代」を礼賛したブリッグハウスの快哉だったと言えるだろう。まさしく「歴史は女で廻っている」のである。
 何だかんだで妹二人も体よく排除し、ホブソン家の財産はマギーが独り占めすることになる。つまり、「最後の勝利者」、実質的な主役は彼女であって、ヘンリーではないのだ。ヘンリーもウィリーも、マギーの「引き立て役」にすぎない。
 すなわち、“仲代達矢記念公演”でありながら、彼はマギー役の渡辺梓を「立てる」立場に廻ったことになる。仲代達矢ファンとしては寂しい限りだが、彼女はその期待に充分答えたと言えるだろう。凛として、ウィリーに「あなたは私の最高傑作よ」と言い放つマギーの姿は美しい。
 このシーンで「男どもめ、ざまを見ろ」と溜飲を下げた女性観客は、初演当時、それこそ星の数ほどいたのではないか。そして恐らくは今も、この日本でも。

 もともと無名塾は俳優養成を第一の目標に掲げ、受講料も一切取らず、一人前になったと判断されれば、独立をどんどん推奨してきた劇団である。だから中堅までは在籍者がいても、50代、60代のベテランは殆どいない。
 その中堅も、外部公演、テレビ、映画出演をどしどしこなしているから、勢い、定期公演は若手ばかりになることが多い。おかげで仲代達矢との演技力の差が歴然としてしまうというネックはあるのだが、今回は前述した通り、仲代さんが「引いた」立場の役柄であったために、そこまでの落差を感じずにすんだ。
 仲代ファンとしては、彼が出ずっぱりでないのはいささか寂しいのだが、引退を撤回し、なおも無名塾を続けていくのはなぜか、仲代さんが出した答えがこの立ち位置なのだろう。

 それでも「仲代達矢の“主演作”をこそ観たい」というファンの声は少なくないだろう。映画でも実はこの20年、仲代達矢の純粋な主演作は『春との旅』くらいしか見当たらないのである。
 そんな声に応えてか、次回公演は、仲代達矢個人の公演『授業 La LeÇon』(イヨネスコ作/丹野郁弓演出)と、無名塾公演『無明長夜 ~異説四谷怪談~』(松永尚三作/鐘下辰男演出)とに分かれる。これは、仲代達矢亡き後も無名塾が存続することに意義があるか否か、それを問うための二分割公演でもあるのだろう。
 残念ながら、今のところどちらも福岡公演の予定はない。『授業』は仲代劇堂のみの公演である。東京で観劇できる機会がある方はぜひご覧になっていただきたい。
ミュージカル「テニスの王子様」 青学vs六角

ミュージカル「テニスの王子様」 青学vs六角

テニミュ製作委員会

TOKYO DOME CITY HALL(東京都)

2012/02/09 (木) ~ 2012/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

大千秋楽
 面白い。
 しかし、この面白さをどう伝えたらいいものか、言葉の選び方次第では、ただのギャグのように聞こえてしまいはしないかと危惧するのである。
 CoRichには小劇場ファンは多くても、演劇全般のファンは少ない。許斐剛原作の『テニスの王子様』を未読の人も多いだろうし、これまでのあらすじを説明するだけでも手間がかかる。ましてや、そのファン層の中核を成す「腐女子」の説明までし始めたら、とんでもない長文になってしまう。
 ここはもう、「この手の世界」をよく知らない人は、とりあえず、この『ミュージカル・テニスの王子様(愛称:テニミュ)』が、2003年より連続公演を繰り返し、日本では例を見ないヒットシリーズになっていること、その魅力は決して原作ファンのみが楽しめる狭い世界に留まるものではないということを理解してもらいたいと思うのだ。
 俳優たちはみな新人である。演技は決して巧くはない。しかし、このミュージカルを成功に導いているのは演技の巧拙ではない。青春の情熱を、彼ら若手俳優たちが自ら体現してくれているからだ。心の赴くままにジャンプしダンスする、その汗と涙が観客の心を打つからなのだ。本気で踊っているから、息は切れる、音程は外れる。でもそれは口パクじゃない、彼らが「本気(マジ)」だという何よりの証明ではないか。
 原作マンガで、故障してもなお試合に出場、勝利した選手がいたように、実際の舞台でも、足をケガしながら公演中、痛みに耐えつつ連日踊り続けた俳優がいた。
 作り物ではない、本物の「青春」を、我々は『テニミュ』の舞台に見ることができる。日本の三大ミュージカルは、劇団四季、東宝ミュージカル、宝塚歌劇団だとよく言われるが、前二者が海外の「借り物」ばかりであるのに対して、『テニミュ』は純然たる和製ミュージカルである。その事実はもっと声を大にして指摘してよいことではないだろうか。

ネタバレBOX

 1st..シーズンの放送をテレビで観たのはもう十年近く前になるのか。
 何の気無しに観てみただけだったから、その斬新な演出には度肝を抜かれた。既にテニミュファンが散々指摘していることだが、テニスのラリーをピンスポットの照明で表現、これが本当にボールが飛んでいるように見えるから、まるで魔法だ。
 もちろんミュージカルだから、歌とダンスは欠かせないが、これが試合で窮地に陥った時に一曲歌うと、そいつは格段に強くなるのである。ミュージカル嫌いはよく「いきなりの歌い出し」が不自然だと文句をつけるが、歌って強くなれるのなら、そりゃ歌うだろう。いや、別にそんな設定があるわけではないが、「そのように見える」ことが重要なのだ。
 なぜ、『テニスの王子様』を、通常の映画や演劇ではなく、ミュージカルにしようと発想したのか、もちろんそこには新人売り出しのための商売上の原理が働いてはいるのだが、それが結果的にはこのシリーズに、他の舞台とは一線を画した斬新さを与えることになった。
 「商売上の原理」と書きはしたが、ただ新人を売り出すためなら、まずは俳優ありきのキャスティングになっていただろう。しかし、オーディションで選ばれた歴代のキャストは、いずれもまるで原作から抜け出てきたようなそっくりのイメージの俳優ばかりで、制作者たちが、この舞台を成功させるために何が肝要であるかを知悉していることが見て取れる。
 小越勇輝くんの立ち姿を見れば、ここに越前リョーマがいる、と誰もが感じるはずなのだ。

 今回の「青学VS六角」編は、いきなり部長の手塚国光(和田琢磨)のリタイヤから物語が始まる。
 手塚は、先の氷帝戦で肩を痛めて治療に専念することになっていた。
 俳優が新人ばかりだから、全体的に演技は拙いと書きはしたが、試合に出られぬ苦悩を手塚役の和田くんは、抑制の利いた静かな演技で好演していた。ライバルである氷帝の跡部景吾(青木玄徳)が、イケメンだがナルシストのお笑い担当なので(何しろそのカリスマ性ゆえに森の動物たちまで後を追いかけてくるのである)、手塚の苦悩は反作用的に深刻に見える。

 次の対戦相手、実力高である六角中を、手塚不在のままいかにして倒すか。青学メンバーは、みな敵の意表を突く攻撃に翻弄されることになる。
 マンガが原作であることの「強み」は、ここで一段と発揮されてくる。ライバルの六角選手たちが、みなキャラクターとしてエキセントリックで、決して一筋縄ではいかないことをその大仰なまでのデザインや、台詞や演技で体現してくれているからだ。まあ、天根(木村敦)のダジャレはことごとく滑っていたけれど(「爺さんなのにババロア」だよ)。
 六角選手中、誰が最強かって、そりゃ部長の葵剣太郎(吉田大輝)だ。テニスをやってる動機が「女の子にモテたい」だもの。ストレートにもほどがある。対する海堂(池岡亮介)は「やつには何か信念を感じる」なんて言うんだが、それ、煩悩ですから(苦笑)。
 こういう下品なキャラは、女の子からは絶対に人気が出ないので、演じる吉田くん、ちょっと割に合わない役をやっている。ところが彼がカーテンコールでその天然ぶりを発揮して、場を攫っちゃったから面白い。和田くんを役名じゃなくて「和田部長役の」と言っちゃうし、今回が初参加で「付いていけるか(不安だ)な」と言うべきところを「追いついてこれるかな」と言っちゃうし。
 腐女子諸君も、イケメンばかりをフィーチャーしないで、吉田くんにもエールを送ってほしいものだ。

 物語は、敗退した氷帝が推薦枠で再び参戦することと、リョーマの次戦への決意を示して終わる。
 今回、リョーマの見せ場がほとんど無かったのは残念だが、『テニミュ』はもちろんこれで終わりではない。リメイクという形で2nd.シーズンに入っているが、原作はさらに続編も描かれている。3rd.シーズンばかりでなく、新シリーズもまたきっと立ち上がってくるはずだ。
 彼らの熱い青春は、決して終わらない。

 福岡では、キャナルシティでの生公演もあったのに、ライブビューイングで大千秋楽を観ることにしたのは、カーテンコールでの彼らの「絆」を観てみたかったこともある。
 青学も、氷帝も六角も、彼らは素でもチームだった。言葉は拙い。みんな「ありがとう」としか言えない。でもそれで充分ではないか。次回公演は全キャスト大集合の「大運動会」。さてこれはライブビューイングがあるのだろうか。
再/生

再/生

東京デスロック

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/02/18 (土) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★

再生・再生・再生・再生・再生…・・・
 観劇に際しては、できるだけ先入観を持たずに見ようと心がけてはいるのだが、この『再/生』にはかなり意表を突かれた。
 最初にモノローグ、途中にちょっとした会話が行われはするものの、80分間、男二人、女四人の役者は、伴奏に合わせてただひたすら踊りまくるだけなのだ。しかしそれは決して無秩序というわけではなく、綿密に計算されていることに少しずつ気付かされていく。
 すると、最初は「踊っているだけ」に見えていた舞台が、俄然面白くなってくる。そこに演劇的な仕掛けがちゃんとあって、人間やら人生やら世界やらを象徴するものも見えてくるようになるのだ。
 実際、よくこんな変な演出を思い付いたものだ。客によっては「これは演劇なのか」と憤慨するのではないかと、余計な心配までしたくなってしまう。斬新と言うよりは「勇気がある」と呼んだ方がいいのではないか。
 この舞台には無駄な説明は一切無い。独白や会話は必要最小限に抑えられている。それはつまり客に媚びていないということである。だからと言って、前衛を気取って抽象的すぎる演出を施しているわけでもない。基本は単純なのだ。ただ「踊り続けること」。それだけで観客に伝わるものはきっとあると、演出の多田淳之介は信じているのだろう。それは、演出が「演劇の効力」を信じているということであり、またそれによって喚起される「観客の想像力」を信頼しているということでもある。
 我々は信頼されているのだ。これを愉悦と呼ばずして何と呼ぼうか。この舞台から何を受け取るか、あとは我々観客の側の問題である。

ネタバレBOX

 何もない舞台、背景は白いスクリーン(照明で俳優たちの影が映る)。
 舞台に散らばって佇む六人の男女。中央の女性が、おもむろに語り始める。
 「私は、自分が幸せでないことに気付いた」と。
 長い間があって、曲が流れ始める。
 サザンオールスターズの『TSUNAMI』。
 踊り出す六人。それぞれのダンスは全くバラバラで、統一性が全くない。コンテンポラリーなダンスを踊る女がいれば、軽やかにステップを踏む男もいる。器械体操的な振り付けの男や女もいる。
 見ているうちに、それらのダンスが、一人一人の生活と人生を象徴しているように感じられてくる。生真面目さや頑固さ、器用と不器用、軽快さと鈍重さ、人間は本当に様々だ。
 彼らは舞台を縦横に動き回る。しかし、交錯しても彼らが関わり合うことはない。二人で手を取り合ってダンスすることは決してない。そこに群衆の中の孤独を見出すことも可能だろう。あるいは逆に、集団の中にも埋もれることのない屹立した「個」を発見し、快哉を叫ぶことも可能だろう。
 解釈が観客に任されているのは、まさしくその部分だ。

 かかっている曲が『TSUNAMI』であることも、我々に様々な想像を誘う要素になっている。
 あの東日本大震災後、某音楽番組で、オリコン一位になった曲であるにもかかわらず、題名が呼ばれなかったという曰く付きの作品だ。
 もちろん、もともとの『TSUNAMI』は東日本大震災とは何の関係もないラブソングである。だからこの曲が使用されていることに何かの「意味」を見出そうとした場合、それは震災に関連付けるか付けないかで全く変わってくるだろう。
 「これは震災後の復興、人々の再生をテーマにしたいのだろう」と解釈するのももちろん観客の自由だが、そもそも『TSUNAMI』という題の曲であることを知らない観客なら、「解釈」のしようもない。普通に彼らは恋のダンスを踊っているのだろうと思うだけだろうし、その解釈が間違いであるということもない。

 ただ既にここで「再/生」というタイトルが示す通り、『TSUNAMI』は二度「再生(リピート)」されるのである。
 この「繰り返し」が重要な意味を持ってくるのは、次の曲だ。
 
 ザ・ビートルズ『オブラディ・オブラダ』。
 デズモンドとモリーの恋を歌った楽しい曲でありながら、解散寸前のビートルズにとっては何の愛着もない歌であり、アンチファンも少なくない。「ワースト・ソング」のアンケートを取ると、必ず上位に来るという歌でもある。
 「オブラディ・オブラダ」というフレーズには「人生は続く」という意味があるとされるが、実は適当な囃子ことばに過ぎない。
 これが実に8回、繰り返されるのである。アフタートークで多田氏が「5回くらいがちょうどいいんだろうが、あえて8回繰り返した」と述べていたが、実際には3、4回繰り返されたあたりで、ウンザリしてくる観客も少なくなかろうと思われる。もっとも私の場合は、その4回目あたりで「覚悟」を決めた。
 多田氏はご存じないようだが、アニメファンにはこの「8回繰り返し」は『涼宮ハルヒの憂鬱/エンドレスエイト』の八週連続放送というやつで「免疫」ができているのである。繰り返される理不尽な日常に無理やり付き合わされる、というのは、実は「現実世界」でも往々にして起こりうることなのだ。「エンドレスエイト」とは、まさしくそのメタファーであった。

 ここがこの『再/生』という舞台を評価するかしないかの分かれ目にもなるのだろう。
 人生は単調な毎日の繰り返しである。その永遠に続く牢獄のような世界に堪えうるかどうか、それに堪えた者だけが「超人」となりうると説いたのはニーチェだったが、さて多田氏がニーチェの永劫回帰の思想をこの舞台に持ち込むつもりで「八回繰り返し」などいう冒険に挑んだのかどうか、それは分からない。
 しかし少なくとも、実際の舞台で「見えてくる」のは、同じ曲に乗せて同じダンスを繰り返しながらも、少しずつ「疲れていく」、しかしそれでもなお「踊り続ける」俳優たちの姿である。
 たとえ単調で陳腐な毎日であっても、私たちはその平凡さに堪えてこの世界で生きている。「エンドレスエイト」の終了後に交わされる、俳優たちの「焼肉談義」。何の変哲もない会話が、ありふれた日常が、実は私たちの「平和」の象徴なのではないか。
 いつ果てるともしれない「オブラディ・オブラダ」の果てに投げかけられた、「カルビって、三人前ぐらい食べれません?」という腑抜けた言葉が、愛おしく感じられるようになるのだ。

 相対性理論の『ミス・パラレルワールド』、続いて『ラストダンスは私に』(歌い手は越路吹雪でないことは確かだが、誰がカバーしているかは分からなかった)が一回ずつ、これは「再生」なし。
 曲は「ラストダンス」なのに、これで終わりにならないところ人を食っている。クライマックスは次の曲。

 perfume『GLITTER』の三度リピート。
 最も激しいダンスを披露したあと、俳優たちは床に倒れ伏す。
 これまでも「立っては起き上がり」という「再生」を繰り返す動きを全員が繰り返していたが、今度は完全に力尽きたように、床に大の字になり、荒い息をして、そのまま身動きもできずにいる。
 しかし曲は繰り返されるのだ。立ち上がり、再び踊り始める六人。汗を飛ばし、服も乱し、それでも「再生」し続ける彼ら。歌詞の「なんでもきっとできるはず」というフレーズが、彼らを応援していると言うよりは、揶揄しているように聞こえてしまう。
 妥協のないその姿勢には、「ここまでやってこそ俳優」という言葉を捧げずにはいられなくなるのだ。「キラキラの夢の中」にいるのは彼らだ。

 ジョン・レノン『スターティング・オーバー』がかかり、彼らは舞台から去っていく。余韻と言うよりは、呆気に取られたまま、拍手をすることも忘れて彼らを見送ってしまったが、改めて俳優たちの「気力」と「体力」に惜しみない拍手を送りたい。

 公演を重ねるごとに、曲が変わり、台詞も変わり、ダンスも多彩になっていくようである。人生の数が人の数だけあるように、『再/生』の舞台も千変万化していくのであろう。数年後、また『再/生』が再生されることがあれば、それはどのような形を取るのか、観てみたいと思う。

 「“東京”デスロック」と言いつつ、多田氏は東京から拠点を埼玉県に移し、地方での演劇振興に力を入れてくれている。
 それは、かつてそれぞれの地方が「クニ」の文化として独自の発展をし続けていたにもかかわらず、明治以降の中央集権制で崩壊してしまったこと、そのことが日本文化全体の沈滞に繋がってしまったことを認識した上で、どうすれば「再生」は可能なのか、と多田氏が自問自答した結果なのだろう。
 我々観客は芝居を楽しんで観るだけだが、問題は、このような新劇の流れとも、多田氏が所属していた青年団「静かな演劇」の流れとも違う「面白さ」を受容できるキャパシティが、我々観客の中にどれだけ培われているか、その点に集約されるように思える。
柳家喬太郎 独演会

柳家喬太郎 独演会

福岡音楽文化協会

イムズホール(福岡県)

2012/03/18 (日) ~ 2012/03/18 (日)公演終了

満足度★★★★

円熟と破格と
 落語狂で知られるコラムニストの堀井憲一郎は、『週刊文春』の長期連載「ずんずん調査」(昨年連載終了)の中で、柳家喬太郎を「2010年度 笑わせる落語家」の五位にランキングしている。

 「聞かせる落語家」
 1、立川談志 2、立川志の輔 3、立川談春 4、柳家さん喬 5、柳亭市馬
 「笑わせる落語家」
 1、柳家小三治 2、春風亭昇太 3、柳家権太楼 4、春風亭小朝 5、柳家喬太郎

 個人のランキングではあるが、年間四百席以上の落語を鑑賞してきている堀井氏の識見は、その落語に関する書籍を読めば至極妥当なものだと納得できる。立川志らくや柳家花緑らを押さえての5位、ご本人は面映ゆく思われているか、俺様ならば当たり前と感じているか、それは分からないが、少なくとも喬太郎師匠が、中堅の落語家の中では、安心して聴ける中の一人だという事実は動かせまい。
 口跡がはっきりしている落語家なら他にも何人もいるが、喬太郎師匠の場合、“ほどよい癖”があるのがいい。毒がかなり効いているのである。古典も新作もやるが、新作に古典の味わいがあるのがいい。人間観察が優れているが故だろう。そこには昭和の懐かしさと平成の新奇さが併存している。

ネタバレBOX

『子ほめ』(柳家喬太郎)
 「独演会」と銘打ってはいても、たいていは前座に二ツ目の噺家さんを連れてくるのが常である。ところが、のっけから喬太郎師匠が高座に上がったので、観客は一瞬、キョトンとしてしまう。
 師匠が開口一番、「前座でございます」。これでもう場内爆笑、お客さんの心を掴んでしまうのだから、巧いというか狡いというか。どういう意図なのか、今日は自分が先に上がってみようという気になったそうである。そうして始めたのが、まさしく「前座噺」の「子誉め」だから、人を食っている。
 意地の悪さを露悪的になりすぎない程度にさらりと見せるのが巧い。場合によっては思いっきりはっちゃけることもある喬太郎師匠ではあるが、今回はきっちり演じようという姿勢のようである。従って、『子ほめ』には特に大きな改変は無し。子どもの年を数えるのも、昔の数え年を現代の満年齢に置き換えることなく演じている。言葉もすらすらと、一切、「噛み」がなかった。

『佐々木政談』(柳家喬之進)
 「てっきり先に上がるものだと思っていたら……これ、前座潰しですか!?」で、喬之進さん、かえってお客さんの「同情を買う」作戦。と言うか、その手しか取りようがないよね(苦笑)。時代劇の話をマクラにして、「昔は偉いお奉行様が今してね、一番有名なのは大岡越前、本名、加藤剛。それから遠山の金さん、本名、松方弘樹。杉良太郎と答えた人は相当のご年配」と、これでようやく客席が暖まる。
 本編は「一休さん」のような、子どもが奉行を凹ませる頓知もの。喬之進さんにも調子が出てきて、語りは立て板に水、トチリも少ない。
 サゲも従来のものには特に明確な形での落ちを付けはしていないものを、子どもを近習に取り立てるという奉行の命令に、桶屋の父親が「しかしお前、桶屋はどうしたらいいんだ」と息子に聞くと、子どもは「よいよい、捨て置け(桶)」と奉行の言葉のマネをして落とす。これは歯切れのよい終わり方だった。
 
『白日の約束』(柳家喬太郎)
 喬之進さんの後を受けて、再登場。
 いきなり「あいつも分かってないねえ」と言うから、喬之進さんに何か落ち度があったのか、これからどんなキツイ説教が始まるのかと、観客が心配し始めたら、「遠山の金さんは中村梅之助ですよ」とこう来た。
 一部で拍手も起きたが、全体的にはあまりウケてはおらず、ああ、観客の年齢層、決して高くはないんだな、と少し寂しくなった。
 「白日」とは「ホワイトデー」のこと。喬太郎師匠の新作では代表作とされるものの一つである。自分が若い頃、いかにモテなかったかをネタにしてマクラに。これが滅法おもしろい。
 バレンタインデーに、同世代の立川談春、柳家花緑と三人会を開いたところ、その二人にはファンが押し寄せて、「談春さーん!」「家禄さーん!」と声がかかるが、自分は無視される。腐っていると、女性ファンの一人が、「喬太郎さーん、喬太郎さん“も”」。
 「だいたい、何ですか、あの“ゴディバ”ってのは。私らの世代には怪獣の名前にしか聞こえませんねえ。“ゴディバ対メカゴディバ”」。ここでいきなり野太い声に変わって吐き捨てるように言うから、もう抱腹絶倒である。
 本編は、今日がホワイトデーだったことをすっかり忘れていた男が、「OLキラー」とあだ名される同僚にアドバイスを受け、彼女へのプレゼントを用意する。ところが当の彼女はホワイトデーなどという下らないイベントは好きではなかった。彼女が祝いたかったのは、今日が赤穂浪士四十七士の討ち入りの日だからなのだった。
 サゲは、同僚から彼女へのプレゼントとして預かっていた「塩煎餅」が「赤穂の塩」で出来ていると知った男、「敵はやっぱり(OL)キラー(=吉良)だった」と天を仰ぐ地口落ち。
 イマドキのタカビー(死語?)な女を演じる時の、上から目線の仕草が特に笑いを誘っていた。

『花筏』(柳家喬太郎)
 相撲の噺なので、マクラは相撲ネタから。もっとも、師匠ご本人は相撲に全く興味がないとのこと。ついそのことを口にしたのはうっかりだろう、ちょっとお客さんが引いてしまった。すぐに柳亭市馬師匠の相撲好きの話題に移って、なんとか態勢を整える。市馬師匠、しょっちゅう大相撲を観戦しているので、テレビに映っているらしい。喬太郎師匠はそれを見てイタズラを仕掛ける。市馬師匠の携帯に電話を掛けるのだ。「画面で形態を取りだして慌ててる市馬師匠を見たら、掛けてるの、私ですから」。
 本編は、江戸弁と関西弁とを使い分けなければならない、結構な技術が必要になる大ネタだが、多少、舌の回り損ねがあったのみで、噺は流れる水のよう。
 病気療養中の関取・花筏に姿形がソックリだってんで、影武者にさせられた提灯屋の親父が、ただ座って飲み食いだけしていればいいだけのはずが、調子に乗ったせいで実際に相撲を一番、取らざるを得なくなった。死ぬ思いで取った相撲で、何と親父さん、運良く勝ってしまう。「さすが提灯屋、張るのが巧い」と順当な落ち。

  「天神で寄席の会」主催の出演は七年ぶりだそうだが、他の落語会で、福岡にはしょっちゅう来られている。
 次回は5月26日(土)に都久志会館にて。
【福岡公演間近!9月末は鳥の演劇祭!】アルルカン(再び)天狗に出会う

【福岡公演間近!9月末は鳥の演劇祭!】アルルカン(再び)天狗に出会う

ディディエ・ガラス×NPO劇研

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/07/14 (土) ~ 2012/07/15 (日)公演終了

満足度★★★★

ガラスの仮面
 「仮面劇」とは人間の多重性を象徴化した演劇である。
 観客は仮面がその人物のペルソナの一つに過ぎず、その後ろには「真実の顔」があることを知っている。しかし、劇を観ている間は、その仮面こそが「真実の顔」であると「見立て」て、全く別の顔が隠れているとは、あえて考えないようにしている。
 だから「仮面劇」において「面を外す」ことは本来は絶対の禁忌である。いったん、その仮面を被れば、俳優はその人物になりきらなければならない。天女の面を被れば天女に、魔物の面を被れば魔物にならねばならない理屈だ。その時、仮面のペルソナが人間の肉体に憑依する、それが「演技」の本質だ。
 その「憑依」経験が度重なった時、俳優の心に奇妙な心理が働く。「自分がこの面の人物を演じているのか、それともこの面が自分を演じさせているのか」という思いだ。
 故マルセル・マルソーは、代表作『仮面』において、そんな俳優の逡巡を具象化してみせた。゛仮面が顔から離れなくなった男゛の物語である。日本の「肉付き面」の伝承を想起させるが、根底にある思想は共通している。男は面の「魔」に魅入られたのだ。
 これはマルソーによる「演劇論」であったと言ってよい。優れた舞台は、それ自体が一つの俳優論なり演劇論になる。
 ディディエ・ガラスは当然、マルソーを意識していただろうし、日本の能にも通暁しているので、「肉付き面」の逸話も知っていただろう。自らの「仮面劇」を創作するに当たって、マルソーとは全く逆のアプローチを行った。
 その結果、浮かび上がったことは、「人間は誰でもない」という冷徹な真実である。仮面の下にあるものが「見えない」のであれば、どうしてそれが存在していると断定しえるだろうか。存在していると同時に存在していない、「シュレジンガーの猫」のようなものとしてガラスは人間を捉える。
 これもまた演劇が表現しようとしているものは何かというガラスによる「演劇論」であり、その問い掛けに答えなければならないのは我々観客なのだ。自分が本物か、それとも足下の「影」の方が本物なのか。ポーの『ウィリアム・ウィルソン』のごとき難問に答える術は、我々にはないのかもしれない。

ネタバレBOX

 アルルカンの仮面は黒い。
 それは彼がアダムとイブを惑わした張本人の末裔であることを示している。
 「お前たちは俺のことを道化だと思っているだろう? そうじゃない! 俺はアルルカンだ!」
 箒を使ったマイムで、ひとしきりクラウンを演じた後で、黒仮面のガラスはたどたどしい日本語でそう叫ぶ。
 確かにその通りだ。黒い仮面は道化には全く相応しくない。アルルカンがどんなに滑稽な仕草を見せても、客席からたいした笑いが起きなかったのは、仮面が象徴している「闇」が笑いを疎外していたからだ。
 初めはなぜこんな「不似合い」な仮面を着けているのかと訝しく思ったがそうではなかった。アルルカンはアイデンティティー・クライシスを起こしていたのである。
 本来のアルルカン=アルレッキーノ=ハーレクィンは「魔」である。人の心の安寧を乱し、物語を混沌へと導くトリックスターである。演劇の歴史の中で、いつの間にか身に纏った闇の意味を忘れた自分に苛立ち、「本当の自分」を取り戻そうとする、それがガラスが造形したアルルカンなのだ。
 アルルカンは黒い仮面を剥ぐ。しかしその下にはまだ「肉色の仮面」がある。アルルカンはまだ気付いてはいないかもしれない、しかし観客には一目瞭然だ。アルルカンは゛まだ本当の自分゛を取り戻してはいないのだ。
 アルルカンはたくさんの面を被り、そしてそれを次々に剥いでいく。しかし「本当の顔」はどこにもない。次第に狂気に駆られていくアルルカン。そして彼は「もう一人の自分」に出会うのだ。やはり同じ「魔」である「天狗」に。
 最初にこの芝居のタイトルを見たときに気になっていたのは、アルルカンがどのように天狗に会うのか、一人芝居でそれをどう表現するのかということだった。簡単なことである。そこには「一人」しかいないのだから、天狗はアルルカンのもう一つのペルソナであったのだ。面を被り「天狗」となったアルルカンは、歩みもまた能のごとく「地擦り」でゆるりゆるりと参る。「動」のアルルカンに対して「静」の天狗であるが、彼を中心に円陣を組むように配置された仮面の数々が(中にはヴェンデッタの面もある)、「真実」を物語っている。
 「天狗」もまた憑依された「仮の顔」に過ぎないことを。「真の顔」などどこにもないことを。「彼」はアルルカンですらなく、何者でもないことを。

 「彼」は観客に語りかける。フランス語で、イタリア語で、スペイン語で、中国語で。日本人である私たちには当然、通じない。「彼」は焦るがどうしようもない。
 ようやく日本語で観客に問い掛ける。「今、何時ですか?」
時間を確認して、「彼」は呟く。「おしまいです」。

 肉色の仮面も取り、「彼」はディディエ・ガラス本人に戻る。そして先ほどまでとはうってかわった穏やかな口調で、子供の頃の思い出話を母国語のフランス語で語り始める(バックに日本語字幕)。
 それはガラス氏の父親が体験した不思議な話だった。ある日、山に登った父親は、霧の中を向こうからこちらに向かって歩いてくる男がいることに気がつく。
 誰だろうと目を凝らした父親が見たその顔は。
 自分そっくりの男だった。

 ガラス氏が語ったのはそこまでである。そのあと、父親とその男がどさうなったか、何も言わないままガラス氏は退場してしまったので結末は分からない。しかし我々は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』で自分そっくりの男に出会った男がどうなったか知っている。ドッペルゲンガーに出会った人間がどうなるかという伝承を。
 「演劇」に関わる人間がどれだけ自覚していることだろうか。数多くの仮面を被り続けることの危険さを、その恐怖を。そして我々一般人も果たして自覚しているのだろうか、自らのアイデンティティーなどは妄想に過ぎないことを。
 ドッペルゲンガーは私たちの中にある。そして自分が何者でもないという絶望から立ち直ることは、人間には決して容易なことではない。しかし「自分が自分である」 ことに固着すればするほど、ドッペルゲンガーの絶望の陥穽は、その穴の入口を大きく開けて、我々を呑み込むのである。
紅姉妹~べにしまい~

紅姉妹~べにしまい~

G2プロデュース

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/05/15 (日) ~ 2011/05/15 (日)公演終了

満足度★★★★

鶯の身を逆に初音かな
 3軒茶屋婦人会の第4回公演、というよりも、わかぎゑふオリジナル脚本&G2演出、という組み合わせに、大いに期待して観劇。
 結果は、決して悪い印象ではなく、充分に面白くはあった。しかし何かが足りない。
 「女形三人」というか「オカマ三人」というか、その掛け合い漫才的な応酬は終始楽しい。時間を徐々に遡っていく構成が、最後にはしんみりと胸を打つ感動を呼び起こす、その効果を評価するに吝かではない。
 けれども、「この芝居は、もっと面白くできるはずだ」という思いを、どうしても拭い去ることができない。演劇としての仕掛けが「理に落ちている」ために、ドラマそのものに破綻はないが意外性もない、あるいは「演劇の“神”が降り損なっている」のである。
 もっとも、箸にも棒にもかからない「演劇もどき」の舞台に比べれば、『紅姉妹』への不満は「贅沢な悩み」でしかないのだが。

ネタバレBOX

 中島らものリリパット・アーミーに関わってきたわかぎゑふとG2の二人だが、初期の先鋭的な作風に比べると、近作は大向こうを相手にした「新劇」に近い舞台作りを志向しているように見える。実際、5年ほど前のトークショーで、G2氏は、「帝国劇場が目標」、なんてことを口にしている。その後、新橋演舞場に進出することはできたから、一応、G2氏の目標機達成されつつあるようだ。
 そのこと自体は悪いことでも何でもない。大衆を唸らせるエンタテインメントを作る実力は、わかぎ、G2両氏には充分備わっている。ただ、初期の既成概念をひっくり返すような悪意や狂気に満ちた「毒」のある劇作、それが薄まっていく傾向にあることには、いささかならず寂しさも覚えてしまうのである。
 『紅姉妹』に感じる不満の正体もそれだ。

 物語は2011年現在、ニューヨークのBAR「紅や」で、年老いたミミ(篠井英介)が、電話で、息子のジョーに“もう一人の母親”であるジュン(大谷亮介)が死んだことを告げるシーンから始まる。ジョーには更にもう一人母親がいて、そのベニィ(深沢敦)も昨年死んでいる。
 この三人が、彼女たちの愛した男・ケンの忘れ形見・ジョーを、この60余年、育て、見守ってきたのだ。
 ミミはジョーに葬式の相談をするが、その声に元気はなく、埃をかぶったBARには、孤独と寂しさだけが漂っている。
 そこから、場面は少しずつ、ほぼ十年置きに過去に遡り、この60余年の歴史を描いていく。

 老いた三人のボケた団欒、ジョーが離婚したこと、ジョーが結婚したこと、ベニィが性転換して女になったこと、ベニィは男でありながら、実は従兄のケンを愛していたこと、「紅や」が資金難から売却されるところを、ミミが夫の遺産で間一髪、救ったこと、しかしその遺産は発作を起こした夫をミミが見殺しにして手に入れたものであったこと、三人がそれぞれ親として赤子のジョーを育てる決心をしたこと、そして三人が出会った1945年。

 ただの回想ではなく、時間を順を追って遡る手法は、近年直木賞を受賞した桜庭一樹『私の男』などに見られる。桜庭一樹はこのアイデアを夢野久作『瓶詰の地獄』から得たことを述べているが、わかぎゑふは、そのどちらも読んではいないようだ。
 先行作を知らず、このアイデアを思い付いたことは賞賛に値する。しかし、先行作を知らなかったために、わかぎえふはこの手法の最も効果的な作劇の仕方に気付けなかった。それが『紅姉妹』の「甘さ」に繋がっている。

 読者や観客は、物語の冒頭で「結末」を知らされる。通常のドラマツルギーならば、「落ち」を最初に知ることは興醒めになってもおかしくないはずだ。それがそうならないのは、「原因」によって謎が解かれる仕掛けになっているからである。
 冒頭で描かれる「別れ」や「死」、それが悲劇的であるがゆえに、「なぜそれは起きたのか」という謎に惹かれて、私たちは「過去」を追うのだ。
 しかし『紅姉妹』にはさしたる謎は提示されない。ベニィがなぜ女になったかとか、どういういきさつで三人の女がジョーの母親になったかなどは、充分に予測がつく範囲内で、意外性がないのだ。
 そのために、途中の展開は結構「もたつく」。三人が赤子の母となるラストシーンは、それまでの彼女たちの苦労を知っているがゆえに静かな感動を呼びはするが、本来、この時間遡行の手法が持っている劇的効果を十全に引き出すまでには至っていない。

 三人のうち、ミミとジュンが本物の女で、ベニィだけが性転換した男だという設定にも無理がある。篠井英介はまだしも、大谷亮介を本物の女と見立てるのは出来の悪いギャグでしかない。大谷亮介は「取り立て屋の男」も二役で演じているから、観客はますますこいつは男なのか女なのかと混乱させられることになる。
 すんなりと、三人とも“元男”ということにして、ジョーの両親とも死んだことにして、「ニューハーフ三人の子育て奮戦記」にした方が、「子を作れない元男達の哀しみ」も描くことが可能になり、よりドラマチックにできたのではないだろうか。
 そうすると映画『赤ちゃんに乾杯!』(あるいは『スリーメン&ベビー』)にかなり似通ってくるので、それを避けたのかもしれないが、篠井を除いて「女形には見えない」男たちが女を演じるとなれば、あくまで全員「女」にするか「オカマ」にするか、どちらかに統一しなければ、観客の見立てを阻害することにしかならないだろうと思うのである。

 と、批判はしてるけれど、一応、四つ星ですから(苦笑)。
東儀秀樹 雅楽ワークショップ&ミニライブ

東儀秀樹 雅楽ワークショップ&ミニライブ

そぴあしんぐう

そぴあしんぐう(福岡県)

2012/02/04 (土) ~ 2012/02/04 (土)公演終了

満足度★★★★

掌上のミクロコスモス
 会場のそぴあしんぐうは、新宮町の片田舎、交通アクセスも頗る悪い位置にあるので、いつどの公演を観に行っても、満席になっていたのを観たことがない。このCoRichにも企画制作としても劇場としても一切の記載がなく、演劇ファンからは殆ど無視されている有様だった。
 時折、おもしろい公演もあるので、もったいないよなあと思って、関係者でもないのにこうして公演情報をアップしてみたのだが、そぴあにしては珍しく、今回の公演はチケット完売、595席の大ホールが満席であった。さすがは東儀秀樹、ということなのであろう。

 テレビなどで雅楽を漫然と聴いたことはあるが、専門的な知識のない全くの初心者なので、東儀さんのお話はすべて新鮮な驚きに満ちていた。漠然と抱いていたイメージに「言葉」が与えられることで、「そうだったのか!」と目から鱗が落ちる喜びである。
 雅楽初心者向けのワークショップであるから、どのステージでも同じ内容のレクチャーをされているのであろう。従って一度体験したら、あとは普通のコンサートに行くなり、CDを聞くなりすればよいものなのであろうが、やはり実際に鳳笙(ほうしょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)と言った和楽器を吹けるのが嬉しい。機会があればまた参加したいものだ。

 600人を相手のレクチャーであるから、残念ながら東儀さんに手取り足取り教えて貰うというわけにはいかない。
 吹き方だけを教えられて、あとはロビーで用意された楽器をご自由に、という流れではあったが、いつでもどこででも触れられる類のものではない。不器用ゆえに何とか音らしきものを出せただけで精一杯だったが、それで充分満足であった。

ネタバレBOX

 狩衣(かりぎぬ)姿の東儀さんが、鳳笙を吹きながら客席に登場する。ステージに上がって、まずは当時の貴族の服装についての解説。「狩衣は当時の普段着で、もちろん私もコンビニに行く時はいつも狩衣で馬に乗っています」と会場の笑いを誘う。
 基本的に当時の衣装はワンサイズしかなく、にもかかわらず大男でも小男でも着ることができたのは、伸縮自在な「仕掛け」があるから。型紙も正方形で、畳むのが楽でシワにもならない。単衣(ひとえ)は何枚でも重ね着ができて、四季の変化に対応できる。実は洋服よりもずっと機能性に優れているのである。
 以前から感じていたことではあるが、日本人が和装をやめてしまったことは全くもったいない話だと感じた。

 続いて、雅楽は現存する世界最古の管弦楽、オーケストラであり、音楽そのもののルーツだと言えることを論証していく。
 シルクロード起源の音楽が、東西に分かれ、東は中国、朝鮮半島にもたらされ、日本において、唐楽(とうがく)、高麗楽(こまがく)、国風歌舞(くにぶりのうたまい)の三つの様式の完成形を見る。雅楽は全て「口伝」で次代に伝えられるので、千三百年前の形が、全く変化しないまま、現代に残されているのだそうだ。シルクロードの音楽文化は完全に消滅しているので、音楽の発祥が最も原初的な形で残されているのは雅楽しかない。これは既に「人類の遺産」と言うべきものであると。

 そして、三種の管楽器は、それぞれに「天」「地」「空」を象徴している。
 鳳笙は「天から射す光」を。
 篳篥は「地上の人の声」を。
 龍笛は文字通り「龍の鳴き声」を。
 東儀さんの専門は篳篥であるが、なるほど、篳篥の音色は人の声のように常に「揺らいで」いる。西洋のリコーダーは、穴の押さえ方で音階を正確に刻むが、篳篥は穴を押さえただけでは音程は一定しない。口で「操作」することによって、音色を作り出すのだ。だから下手が吹くと、どうしようもない音しか出ない。
 清少納言『枕草子』の一節に、「篳篥はいとかしがましく、秋の虫をいはば、轡虫(くつわむし)などの心地して、うたてけぢかく聞かまほしからず」とあって、さて、あの美しい音色が清少納言にはどうしてそのように耳障りに聞こえたのだろうと、長年、謎に感じていたのだが、東儀さんによれば、「彼女の周りにいた人たちが、みんな篳篥を吹くのが下手だったんでしょう」ということであった。当時も篳篥吹きの名人が全くいなかったとは思えないが、確かに雅楽師でなければ吹きこなせるしろものではない。下手くそは上手の何十倍もいただろうから、東儀さんの指摘には根拠があるのである。

 東儀さんが雅楽の道を志し、それが間違ってはいないと確信するに至ったあるエピソード、それがちょっと耳を疑うような話なのだが、一番印象に残った。
 モンゴルかどこかの外国に演奏旅行に出かけた時のことである。草原で、東儀さんが一人、スタッフと離れて、時間潰しに笙を吹いていた。すると地平線の向こうから、何かが群れをなして近づいてくるのが見える。牛だ。
 牛の群れは、笙を吹き続ける東儀さんに近づき、ちょうど2メートルほど手前でぴたっと止まった。気付いたスタッフはみんな血相を変えたが、東儀さんは不思議と恐怖を感じなかった。牛たちみなは笙の音に聞き入っている。東儀さんが演奏を終えると、牛たちは踵を返して、また地平線の向こうに去っていった。
 また、こんなこともあった。やはり外国の海で、クルーザーに乗って、甲板で笛を吹いていたところ、船に併走するようにイルカの群れが泳いでいることに東儀さんは気がついた。単に進む方向が同じだけなのかと思って、東儀さんは船を止めさせた。すると、イルカたちは、笛を吹く東儀さんの船の周りをクルクルと回り始めたのである。
 「もしかしたら、私の吹く音が『本物』だと、牛やイルカたちが教えてくれたのかもしれません」。

 東儀さんのお話を伺いながら、私がぼんやりと考えていたことは、日本文化における芸術のありようには、等しく共通点があるのではないか、ということであった。
 いささか牽強付会に聞こえるかもしれないが、それは「宇宙」と「自然」の「ミニチュア化」ないしは「フィギュア化」ということである。ミクロコスモスを身のまわりに感じようという意識が表現を伴ったものが日本的な芸術と見なされるということだ。
 日本庭園は、そこに山水を、渓谷や森や人里を作り出す。花鳥風月を詠むことを奨励した和歌・俳諧の歴史は、宇宙をわずか十七文字、三十一文字に凝縮させた。絵画はもとより、子供たちの玩具や折り紙、陣取りやかくれんぼといった遊戯に至るまで、小さな世界の中の宇宙を私たちは無意識的に感じてはいなかったか。
 そして雅楽の「天・地・空」も、そう広くはない方丈の上で表現される。宇宙は我々の生活の中にあった。この伝統は、現在もプラモデルやフィギュアやジオラマや、漫画やアニメーションの小さなコマの中に息づいていると思う。

 シルクロードの人たちも、遙か彼方の星々を、身近なものと感じていたのだろうか。


 おまけのミニライブの内容は以下の通り。
1,『JUPITER (ホルスト:組曲《惑星》作品32 第4曲:木星より)』
2,『Boy's Heart(ボーイズハート)』
3,『誰も寝てはならぬ~プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》から』
アンコール,『ふるさと』

 宇宙の広大さも、青春の繊細さも、軽やかなユーモアも、切ない郷愁も、全てはこの掌の上にある。
トンマッコルへようこそ

トンマッコルへようこそ

劇団桟敷童子

大博多ホール(福岡県)

2012/02/11 (土) ~ 2012/02/11 (土)公演終了

満足度★★★★

真実のトンマッコルへようこそ
 不明を恥じなければならない。
 パク・クァンヒョン監督の映画『トンマッコルへようこそ』を観た時には、いかにも『千と千尋の神隠し』に影響を受けた安易な作り方と、ファンタジーだとしても説得力がなさ過ぎる展開に呆れて、世評ほどには面白いと思わなかった。当然のごとく、感動の涙を流すこともなかった。
 原作として舞台戯曲があることは知っていたが、日本語訳の出版がない以上、実際にそれを読む機会があるはずもない。また映画の製作・脚本に原作者チャン・ジンの名前があったことから、舞台も映画も基本的には同じものだろうと思いこんでいたのだ。
 それでも両者が完全に同じであるはずもないから、言わば「軽い興味」で、舞台を映画化する際に、「どの程度の改変を加えたか」を確認するつもりで(あとは松田“仮面ライダー斬鬼”賢二と、塩野谷“B.スプリングスティーン”正幸見たさに)劇場に足を運んだ。それだけのことだったのだ。
 ところが、舞台と映画とは、根本的に構造が違っていた。ストーリーの大筋は同じであっても、舞台は映画にはなかったユーモアも随所に満ちていて、まさしく演劇ならではの魅力に満ちている。字幕付きでも構わないから、本国での舞台版を観てみたい、そんな気にさせられたほどに刺激的だった。
 『トンマッコル』という題材を、映画版だけを観て判断してはならない。その事実を痛感したが、如何せん、現在でもこの日本で舞台と映画を比較研究できる機会は極端に少ないのである。映画版だけを観て、感動した人にも、そうでもなかった人にも、それは『トンマッコル』の真の姿ではない、ということだけは強く訴えておきたいと思う。

ネタバレBOX

 「トンマッコル」とは「子供のように純粋な村」という韓国語だという(原作者のチャン・ジンによれば、日本の村をイメージしたとか)。
 実在する村ではないし、そのタイトルからも、これが一つのファンタジーであることを――たとえ「韓国戦争(=朝鮮戦争)」を背景にしてはいても――示唆している。
 映画版で象徴的だったのは、人民軍(北朝鮮)の兵士たちが持っていた手榴弾が誤ってトウモロコシ小屋で爆発し、村の空いっぱいに「ポップコーン」が雪のように舞うシーンだ。戦争を知らない小さな山村で偶然出遭った、人民軍、韓国軍、そして米軍の兵士たち。彼らを結ぶ「平和」の象徴が、その「ポップコーンの雪」だったが、私は「戦争をそんなファンタジーで落としてしまっていいものだろうか」という疑念が浮かんで、素直に感動することができなかった。

 舞台版には、そんなポップコーンの雪のシーンはない。
 原作戯曲は三時間を超えていたというので、もしかしたらそういうシーンもあって、上演に際してカットしたのかもしれない。しかし映画と舞台の差異はそういう部分的な点に留まらない。原作舞台は、そもそも“ファンタジーではない”のだ。

 舞台にはまず「語り手」が登場する。彼は「作家」(板垣桃子)だ。彼が発見した一葉の写真が、物語の始まりとなる。その写真には、韓国戦争当時であると思われるにも関わらず、トンマッコルの村の人々と一緒に、敵同士であるはずの人民軍、韓国軍、連合国米軍の兵士たちの姿が、にこやかに写っていたのだ。
 このような“ありえない”写真がなぜ撮られたのか。作家は、写真の持主である父親に事情を聞く。即ちこの物語は、謎が徐々に解かれていくミステリーとしての構造を持っている。

 その父親――韓国戦争当時は少年だったトング(大手忍)は、ある日、知恵遅れの少女イヨン(中村理恵)と、墜落する戦闘機を目撃する。村の外れに落ちた戦闘機には、米軍のスミス(Chris Parham)が乗っていたが、足のケガだけで命は無事だった。突然現れた言葉の通じない珍客に、右往左往する村人たち。ここで村人たちの一人一人が、かなり詳しく描写される。
 村のまとめ役だが今ひとつ頼りにならない村長(塩野谷正幸)、その母親ですっかりボケた婆さん(鈴木めぐみ)、村一番のインテリだが正体不明のキム先生(深津紀暁)、トングのちびったウンコをうっかり掴んでばかりいるダルス(原口健太郎)、戦争帰りの粗暴なウンシク(外山博美)などなど……。
 映画版では殆ど書き割りに過ぎなかった村人たちが、ここでは生き生きと、そしてユーモラスな会話を繰り広げる。トンマッコルの人々は決して理想郷に住む仙人たちではない。後で明かされるが、ヒロインの少女イヨン(映画版のヨイルに当たる)は、実は村長の隠し子で、知能に問題があって生まれた彼女を、村長は娘として認めなかったという哀しい現実も示されるのだ。

 物語は全て、「村人たちからの視点」で描かれていく。映画版が兵士たちからの視点で描かれ、村人の純粋性が少女ヨイルだけに集約されていたのとは、全く正反対だ。
 スミスも、そして人民軍のトン・チソン(松田賢二)、チャン・ヨンヒ(鈴木歩己)、ソ・テッキ(桑原勝行)、韓国軍脱走兵のピョ・ヒョンチョル(池下重大)、ムン・サンサン(井上正徳)も、基本的には「お客さん」の立場を逸脱することはない。
 そして彼らは出逢い、当然、敵対する。村人になだめられ、農作業を手伝うようになる。少しずつうち解けるようになりながらも、結局は意見の相違から、殺し合う寸前に至るのだが――。

 舞台と映画の最大の違いは、ここからである。
 それまで、この物語を「作家」に伝えていた“父親”のトングが急死するのだ。即ち、「写真の謎」は真相が分からないまま、作家は途方に暮れてしまうのだ。
 それからの展開がとんでもなく面白い。仕方がないので、登場人物たちがめいめい勝手に動きだし、「自分たちの考える結末」を演じ始めるスラップスティック喜劇へと変貌してしまうのだ。特に松田賢二が敵を殺しかけていたのにいきなり平和主義者になって「みんなで記念写真でも撮ろう!」と言い出したのには場内大爆笑である。俳優たちが客席にも乱入、支離滅裂状態になったところで、作家が悲鳴を上げて、ようやく事態は収拾する。
 作家は、「これから先の物語は、全て私の想像です」と語る。いくつもの「結末」が示されるあたりはまるで黒澤明『羅生門』(と原作の芥川龍之介『藪の中』)だが、『羅生門』では最後に語られる杣人の証言が真実として示される。しかしこの『トンマッコル』の物語に「字義通りの真実」は存在しないのだ。

 これから先の展開は、確かに、映画と同じである。
 韓国軍の小隊が現れ、正体を見破られた兵士たちは彼らを殺す。流れ弾に当たったイヨンは死ぬ。村への連合軍による総攻撃があると知った兵士たちは、協力して「揺動」作戦を立てる。連合軍は、トンマッコルとは全く別の箇所を爆撃し、村は無事だったが、5人は死ぬ。「記念写真」は、兵士たちが村を去る直前にスミスのカメラで撮られ、トングに渡されたものだった。

 しかし、それは全て作家が「こうであってくれたら」という想像でしかないのだ。イヨンは、その知恵の足りない頭で、戦闘機から降りてきたのは「イエス様だ」と韓国軍に告げる。
 ファンタジーと言うよりも、この物語は「奇跡」の物語である。そうであってほしいという「祈り」を、作家はこの想像の中に込めたのだ。

 「真実」はそうではなかっただろうと、観客の誰もが思うだろう。なぜなら、作家が最後にこう語るからだ。「私は、一度もトンマッコルへは行っていない」と。
 「写真」にたいした謎はなかったのかもしれない。農作業を手伝っていたのだから、そんな写真が撮られる機会だってあっただろう。イヨンが写っていなかったのもたまたまで、5人が死んだのも、単に村から逃げたところをねらい打ちされただけかもしれない。
 「真実は夢物語ではない」という当たり前の事実が、そこにはあったことだろう。しかし、そんな夢物語があってもいいじゃないか、いや、あの戦争があまりにも悲惨だったからこそ、たとえそれが事実ではないことを知りつつも、そんな夢物語があったことを願いたい、トンマッコルがその名の通り、「純真な村」であってほしいという祈りが、この「真実ではない」物語に、一片の「心の真実」を与えている。
 「絵空事」を「これは真実ですよ」と提示して見せても、観客はその底の浅さに鼻白むばかりである。映画版の失敗はそれが原因だった。しかし、我々がともすれば厳然たる事実よりも、希望を内包した「虚構」を求める存在であることを認識した上で、あえて「絵空事」を「絵空事」として披露してみせてくれた場合――我々はその「虚構」に心を揺り動かされることになるのである。

 あの村人たちなら、韓国軍を前に、兵士たちを「家族」と呼んで匿ったに違いない、あの村長なら、最後にイヨンを「娘」と呼んだに違いない。「一度も父さんと呼ばせてあげられなかった」と泣いたに違いない、そう感じさせる「真実」がそこにはあるのだ。
 「事実」と、我々が本当に求めている「心の真実」とは違う。「物語」が観客に問いかけるべきものは、その「心の真実」の方なのではないだろうか。

 強いてこの舞台に注文を付けるのならば、これは劇団の構成員の問題もあろうから仕方がない面もあろうが、複数の男性役を女性が演じていたことだ。俳優のみなさんは、もちろんそれらしく演じてはおられたが、やはり男性が演じた方が自然ではある。
 自然、ということならば、やはり字幕付きになっても、韓国人俳優でこの舞台を観てみたいという気にもさせられた。チャン・ジンの話によれば、三時間の原作戯曲は冗長な部分もあったということではあるが、それでも物語に何が付け加えられ、何が引かれたかを確認することは、作品理解をより深めることになるだろうと思われるからである。
 

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