雲間犬彦の観てきた!クチコミ一覧

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走れメロス

走れメロス

福岡市文化芸術振興財団

パピオビールーム・大練習室(福岡県)

2012/03/22 (木) ~ 2012/03/27 (火)公演終了

満足度

演劇に対して不誠実すぎる舞台
 期待値が低ければ、実際の舞台は概ね「そこまで悪くないじゃん」となるものだが、それを大幅に下回るとなっては、これはもう価値観の相違とか視点の違いとか、そういう問題ではない。これを演劇として認める人間には、演劇に携わる資格もなければ語る資格もないのである。Twitterやらブログやらでこの作品を褒めちぎっている感想をいくつも見たが、どれも作り手の関係者による情実に基づいた贔屓の引き倒し(つまりは実質サクラ)で、木も見なければ森も見ていないどうしようもないクズ批評ばかりであった。
 いくら書くのは自由だって言っても、一般人には誉めてる連中がみんなサクラだなんて知らない人の方が多いのである。だから「これって詐欺じゃん?」と追求された場合、弁明の余地は生まれまい。せめて文章のアタマに「知人が出てるんで(作ってるんで)星一つアップ」とか、正直に書いてくれないものかね。そうすりゃ読む方は星三つくらい減らして作品評価できるから。
 実際、「情実」でも絡んでいるのでなければ、こんな頭でっかちな舞台を誉められるはずがない。原作を脚色した戯曲自体はそこそこの出来だとしても、俳優は二流、演出に至ってはド三流だ。曲がりなりにも演劇にある程度の期間、携わってきたのなら、「これは違う」とか直観ででも感じられてくるものではないかと思うのだが、原作に対しても戯曲に対しても、俳優と演出はろくな読解を施さずにただ舞台に上げてみせただけのようである。観ている方としては、うなだれて「誰か止めようって言わなかったのかよ」と溜息を吐くしかない。
 “Fukuoka in Asia 舞台芸術創造発信プロジェクト” 第1弾ということは、第2弾も予定しているということだろうが、そもそも福岡限定で、世界に発信できるほどの演劇の土壌がどれだけできているというのだろうか。種を撒かずに水だけ撒いたって何も生まれないだろうによ。

ネタバレBOX

 建築家・野田恒雄による舞台美術は、創造性に富んでいて、確かに目を惹く。
 立方体の底に、階段式の山や池を配置し、観客席はそれを四方から見下ろす形で設置されている。底までの高さは3~4メートルはあるだろうか、照らす照明もうすぼんやりとしていて、何だか“あなぐら”の底で蠢く虫たちを覗き込んでいるような印象だ。
 これが芥川龍之介『蜘蛛の糸』の舞台だと言われたら、即座に納得しただろう。そこに寝そべっている6人の男達が、地獄に墜ちた罪人たちのように見えるからだ。
 しかし、これは太宰治『走れメロス』の物語であるはずだ。実際の運動としての「走る」行為を行うには、あまりにも舞台の拘束性が強すぎる。だがその不自然さにこそ何らかの演出意図があるのではないかと、初めはこの斬新な舞台設定に期待を寄せたのだ。
 だから、観客に“まるで闘技場の奴隷たちを見下すような不快感”を与えていることにも、なんらかの演出家の計算があるのかもしれないと、“好意的に”解釈しようとしたのだ。

 ところが、そういった「期待」はいとも簡単に裏切られることになる。
 劇の内容は、別段、このような舞台装置を必要としなければならないものではなく、通常の舞台でも成立するものであった。
 いや、むしろメロスの勇気や友情を礼賛、人と人との「絆」を訴えようとする意図があるのなら、このような観客の視線を下方に誘導する演出は逆効果であろう。
 ということは、演出家の意図がどうであれ、この「あなぐら」は、まさしく「他人を見下す」目的で構築されたものとしか判断のしようがなくなってしまうのだ。
 いったい、演出家と舞台美術家との間に、どれほどの意志の疎通が出来ていたのだろう。結果的に、このデザインを採用した演出家・山田恵理香は、他人を見下すことに躊躇しない人間であると言わざるを得なくなる。そしてこの舞台を賞賛できる観客もまた、他者を蔑む快感に身を委ねることに何の抵抗感も持たない、唾棄すべき差別者たちだということになってしまう。
 もちろん、彼らに「悪気はない」のだろうから、単に愚かなだけなのであろう。最も「好意的」に解釈するとして。

 6人の男達のうち、1人は若者である。
 「生まれてすみません」と呟き、時折どこかから幻の女の声――それは『人間失格』の大庭葉藏を慈しむ女たちの声のようにも聞こえる――に癒されているような、その彼は、「トシマオウジ」と名乗る。
 豊島皇子か年増王子か――その名が太宰治の本名「津島修治」をもじったものであることは容易に気がつく。そして、彼を取り巻く残る5人の男達は「老人」であり、自らを「かつて俳優であった者たち」であると言う。
 老人たちはオウジに「物語」を求める。自分たちが演じるに相応しい物語を、オウジから教わり、演じてみせると主張する。
 そして、オウジが彼らに与えた物語が『走れメロス』。
 「俳優たち」は、メロスの物語を口々に語る。時系列はややでたらめに、時には一度語った物語が繰り返され、語り手も演じ手もめまぐるしく変わり、それでも最後には、メロスが「走りきった」ことが語られ、物語は終わる。

 オウジは一方の山に登り、ほっと息を吐いて、老人たちに語りかける。
 「楽しかった。今度は誰がメロスを演る?」
 “老人ではなくなった“俳優たちは、口々に言う。「メロスはお前じゃないか」「メロスはあなただ」「きみだ」「私だ」……。
 オウジは気がつく。自分が「生きたい」と願っていたことを。メロスのようになりたいと思っていたことを。そして、彼は走り出す。生きるために。

 物語の大筋はこういった感じだ。
 永山智行の戯曲の基本アイデアは、往々にして破滅型の作家としてしか捉えられない太宰治が、『走れメロス』を執筆した理由は何なのか、彼にも「光」を求める時期があり、それが未来指向型の作品となって表れたのが『メロス』なのではないか、という解釈に基づいているのだと思われる。
 『メロス』解釈としては定番のものであって、それほど目新しいものではないが、シラクサの町の一青年の物語を、現代日本の観客たちに訴求力をもって観てもらう脚色としては、まあ有効だと言えるだろう。

 しかし、舞台への興味は、出鼻でいきなり挫かれる。
 AKB48『ヘビーローテーション』が大音響で流されて、6人の男達が踊り狂うのだが、どういう演出意図があったのか、全く意味不明である。
 祝祭としてのギリシャ史劇を現代のイベントになぞらえたものか、などと、これまた好意的に解釈してやることもできなくはないが、そもそもAKBも『ヘビーローテーション』も知らない観客の目には(案外多いよ)、「なんかアイドルの女の子たちっぽい歌に乗せて、変な男の人たちが変なダンスを踊ってる」としか映らないだろう。
 プロの芝居と比較するのは酷だが、ちょうど同時期に公演された山田うん『季節のない街』で使用されているベートーベンの第九交響曲、あれはたとえその曲名も作曲者も知らなくても、その「曲想」が舞台のイメージとの相乗効果を生む「計算」があって、だから演劇として成立しているのだ。
 「何の曲を流すか」あるいは「この舞台に何かの楽曲が必要か」なんて考えることは基本中の基本で、シロウトだってちょっと考えれば「これはこの芝居には合わないな」と見当が付きそうなものだが、そんなアタマなど、この演出家にはないのだろう。

 そして、老人たちによって『走れメロス』が演じられることになるのだが、まず、役柄を振り分けるのではなく、太宰治の『走れメロス』をそのまま読む「朗読劇」の手法に拠っていることにまた落胆させられた。
 学校の授業でも教科書を朗読させられることは普通だし、リーディング公演なんてものもあるから、朗読は簡単なもののように錯覚している人もいるかもしれないが、朗読劇には、大きく三つの問題点があるのである。
 第一は、文学作品は音読を目的として書かれているものではないということ。もちろん言葉にはその言葉の持つ韻律があるから、声に出して読んでも読みやすくはある。しかしその韻律は本来、「黙読」を前提としているものなので、聞く方にしてみれば「まどろっこしい」のだ。
 第二の問題点は、朗読劇は、台詞ばかりでなく「地の文」まで読まなくてはならないので、通常の演劇以上に演出家や演者に読解力が要求されることである。『メロス』の語り手は、登場人物たちの心をどう表現しようとしているのか、ただ淡々と描こうとしているのか、何かの思いを込めているのか、そこでも多様な解釈が可能になる。
 そして第二の問題と関連した、一番大きな問題点は、その「解釈」をした上でなお、観客に自分たちの解釈を押しつけるのではなく、更なる想像を喚起させる「演出」を行わなければならない、ということである。

 この舞台の最大の失敗は、この第三の問題点にある。
 永山戯曲は、まず、その「多様な解釈」を可能にするために、原作を解体し、その語り手の演者たちが次々に移り変わっていく方法で成立させようとした。6人の人間が6通りの読み方をすれば、当然、6通りの解釈が生まれるはずである。
 最後まで誇りに満ちたメロスやセリヌンティウスが生まれるかもしれないし、もう少し気弱な人物として表現されるかもしれない。実は結構悪辣に聞こえるメロスであっても構わないのだ。それがラストで「メロスはお前だ」「きみだ」「私だ」という“多重の解釈”に繋がってくる。観客もまた「自分はメロスかもしれない」という思いに共感できるようになる。
 この「読み手が次々と移り変わっていく」「時系列が前後する」発想は、永山智行オリジナルではなく、前者は朗読劇では普通に行われる手法であるし、後者は最近の演劇界では「流行り」ですらある。目新しくないだけではなく、そうまでして太宰治の本文に拘る必要がどこにあるのだろうかという疑問まで抱いてしまうのだ。
 これも、山田うんが山本周五郎の原作を一行たりとも使わずに『季節のない街』を見事に舞台化して見せたのとは好対照であるが、一応、ここまでは『走れメロス』を何とかして舞台化できないかと悪戦苦闘した跡は見受けられるので、嫌悪感までは覚えない。

 ダメだったのはやはり「演出」で、山田恵理香は、この俳優たちにワンパターンの老人演技を強いたのだ。まあ身体は役者たちが若いから老人になることは難しかったらしく、早々に放棄していたが、台詞はラスト近くまで、フガフガと、「イメージとしての老人の喋り方」に統一されていた。
 役者の個性を殺し、しかも現実の老人の喋り方とも違う、悪い意味での「マンガ演技」で、どうして観客の想像力を喚起できると考えたものか、いや、そんなものは考えもしなかったのだろう。
 「次は誰がメロスをやる?」――この戯曲の持つ面白さを、演出が全て台無しにしてしまっているのだ。「演劇の才能とは何か」なんてことはそう簡単に結論が出せることではないのだが、ここまで貧困な読解力しか持たず、「表現」とは逆のベクトルを持つ演出しかできないのであれば、山田恵理香には才能の一片たりともないと断定して構わない。

 男6人だけの舞台、という拘りも、私には理解不能であった。
 これは男女混合の方が確実に面白くなる戯曲である。若い女のようなメロスがいたっていいし、老婆のメロスがいてもいい。高慢なメロスがいたって、慈愛に満ちたメロスがいたっていいのだ。
 それが、観客にとってのメロスが、父であり兄であり弟であり息子であり、母であり姉であり妹であり娘であり、多様な解釈を促し、それが観客の共感を呼んで、舞台空間に「絆」を生むことに繋がるのだから。

 だから、この舞台を誉める人は、観る前から演出家なり俳優たちなりとの間に、「絆」を作っちゃってる人たちだけなのだね。そんな感想をいくらダラダラと並べられたって、一般人には無関係で無価値なのだ。
 「子どももおばさんも笑ってた」とか書いていた人がいるが、少なくとも私が観た回では、子どもが笑っていたのは俳優たちが服を脱いで裸になっていたあたりだけで、表層的な部分に過ぎない。あまり退屈なシーンが続くと、人はたいして面白くもないシーンでも、ちょっとした引っかかりに笑って、何とか精神のバランスを保とうとするもので、あれはそういった類のものだろう。それに、子どもは大人ほどに馬鹿ではないので、「面白かったか?」と聞かれたら「面白かったよ」と“答えてあげる”ものである。
 子どもが笑っただけで「これでいいのだ」と思えるような幼稚で底の浅いメンタリティで、果たして「演技」を構築できるものか、これもちょっと考えれば分かりそうなものなのだが。

 一番大笑いした『走れメロス』評は、「『君に会えて ドンドン近づくその距離に MAX ハイテンション』という歌詞に走るメロスが想起される」というものだった。いや、『ヘビーローテーション』ってフツーのラブソングでしょ? この歌詞から、真っ先にメロスを想起できる人間って、百万人に一人もいないと思うが。前田敦子や大島優子や高橋みなみや、ともかく制服を着たジョシコーセーとメロスとが彼の目には重なって見えるのか? それともメロスとセリヌンティウスとの間にBL的な何かを想起したのかな。腐男子かお前は。
 もしも山田恵理香が本当にそんな“ギャグとしての”意図で演出をしていたのなら、メロスとセリヌンティウスが抱き合うシーンで『ヘビーローテーション』を流したんじゃないか。その方が観客は大爆笑しただろう。
 さらにAKB48のことを「浮薄」なんて書いてるけれども、言葉の意味を知ってるのかな? で、メロスも浮薄だと言いたいのか?
 馬鹿が馬鹿を無理に誉めようとするから、こういう支離滅裂な文章を書くハメになる。しかもこいつは「初心者に長い文章はウザイ」とか書いてるが、初心者は別に馬鹿じゃないぞ? それに初心者向けマークがあるからって、CoRichは初心者だけに開かれてるわけじゃあるまい。それともCoRichに登録している人間は自分以外はみんな初心者だとでも言いたいのか?
 日ごろから他人を無意識のうちに馬鹿にしているから、長い文章を書くと、ボロを出すんだよな。もちろんこれからもどんどん長い文章を書いて、彼には底抜けの馬鹿をもっともっと晒してほしい。それが福岡のエンゲキ村の惨状が“いつまでも続く”ことを、彼ら自身の発言が証明することになるからである。
柳家喬太郎 独演会

柳家喬太郎 独演会

福岡音楽文化協会

イムズホール(福岡県)

2012/03/18 (日) ~ 2012/03/18 (日)公演終了

満足度★★★★

円熟と破格と
 落語狂で知られるコラムニストの堀井憲一郎は、『週刊文春』の長期連載「ずんずん調査」(昨年連載終了)の中で、柳家喬太郎を「2010年度 笑わせる落語家」の五位にランキングしている。

 「聞かせる落語家」
 1、立川談志 2、立川志の輔 3、立川談春 4、柳家さん喬 5、柳亭市馬
 「笑わせる落語家」
 1、柳家小三治 2、春風亭昇太 3、柳家権太楼 4、春風亭小朝 5、柳家喬太郎

 個人のランキングではあるが、年間四百席以上の落語を鑑賞してきている堀井氏の識見は、その落語に関する書籍を読めば至極妥当なものだと納得できる。立川志らくや柳家花緑らを押さえての5位、ご本人は面映ゆく思われているか、俺様ならば当たり前と感じているか、それは分からないが、少なくとも喬太郎師匠が、中堅の落語家の中では、安心して聴ける中の一人だという事実は動かせまい。
 口跡がはっきりしている落語家なら他にも何人もいるが、喬太郎師匠の場合、“ほどよい癖”があるのがいい。毒がかなり効いているのである。古典も新作もやるが、新作に古典の味わいがあるのがいい。人間観察が優れているが故だろう。そこには昭和の懐かしさと平成の新奇さが併存している。

ネタバレBOX

『子ほめ』(柳家喬太郎)
 「独演会」と銘打ってはいても、たいていは前座に二ツ目の噺家さんを連れてくるのが常である。ところが、のっけから喬太郎師匠が高座に上がったので、観客は一瞬、キョトンとしてしまう。
 師匠が開口一番、「前座でございます」。これでもう場内爆笑、お客さんの心を掴んでしまうのだから、巧いというか狡いというか。どういう意図なのか、今日は自分が先に上がってみようという気になったそうである。そうして始めたのが、まさしく「前座噺」の「子誉め」だから、人を食っている。
 意地の悪さを露悪的になりすぎない程度にさらりと見せるのが巧い。場合によっては思いっきりはっちゃけることもある喬太郎師匠ではあるが、今回はきっちり演じようという姿勢のようである。従って、『子ほめ』には特に大きな改変は無し。子どもの年を数えるのも、昔の数え年を現代の満年齢に置き換えることなく演じている。言葉もすらすらと、一切、「噛み」がなかった。

『佐々木政談』(柳家喬之進)
 「てっきり先に上がるものだと思っていたら……これ、前座潰しですか!?」で、喬之進さん、かえってお客さんの「同情を買う」作戦。と言うか、その手しか取りようがないよね(苦笑)。時代劇の話をマクラにして、「昔は偉いお奉行様が今してね、一番有名なのは大岡越前、本名、加藤剛。それから遠山の金さん、本名、松方弘樹。杉良太郎と答えた人は相当のご年配」と、これでようやく客席が暖まる。
 本編は「一休さん」のような、子どもが奉行を凹ませる頓知もの。喬之進さんにも調子が出てきて、語りは立て板に水、トチリも少ない。
 サゲも従来のものには特に明確な形での落ちを付けはしていないものを、子どもを近習に取り立てるという奉行の命令に、桶屋の父親が「しかしお前、桶屋はどうしたらいいんだ」と息子に聞くと、子どもは「よいよい、捨て置け(桶)」と奉行の言葉のマネをして落とす。これは歯切れのよい終わり方だった。
 
『白日の約束』(柳家喬太郎)
 喬之進さんの後を受けて、再登場。
 いきなり「あいつも分かってないねえ」と言うから、喬之進さんに何か落ち度があったのか、これからどんなキツイ説教が始まるのかと、観客が心配し始めたら、「遠山の金さんは中村梅之助ですよ」とこう来た。
 一部で拍手も起きたが、全体的にはあまりウケてはおらず、ああ、観客の年齢層、決して高くはないんだな、と少し寂しくなった。
 「白日」とは「ホワイトデー」のこと。喬太郎師匠の新作では代表作とされるものの一つである。自分が若い頃、いかにモテなかったかをネタにしてマクラに。これが滅法おもしろい。
 バレンタインデーに、同世代の立川談春、柳家花緑と三人会を開いたところ、その二人にはファンが押し寄せて、「談春さーん!」「家禄さーん!」と声がかかるが、自分は無視される。腐っていると、女性ファンの一人が、「喬太郎さーん、喬太郎さん“も”」。
 「だいたい、何ですか、あの“ゴディバ”ってのは。私らの世代には怪獣の名前にしか聞こえませんねえ。“ゴディバ対メカゴディバ”」。ここでいきなり野太い声に変わって吐き捨てるように言うから、もう抱腹絶倒である。
 本編は、今日がホワイトデーだったことをすっかり忘れていた男が、「OLキラー」とあだ名される同僚にアドバイスを受け、彼女へのプレゼントを用意する。ところが当の彼女はホワイトデーなどという下らないイベントは好きではなかった。彼女が祝いたかったのは、今日が赤穂浪士四十七士の討ち入りの日だからなのだった。
 サゲは、同僚から彼女へのプレゼントとして預かっていた「塩煎餅」が「赤穂の塩」で出来ていると知った男、「敵はやっぱり(OL)キラー(=吉良)だった」と天を仰ぐ地口落ち。
 イマドキのタカビー(死語?)な女を演じる時の、上から目線の仕草が特に笑いを誘っていた。

『花筏』(柳家喬太郎)
 相撲の噺なので、マクラは相撲ネタから。もっとも、師匠ご本人は相撲に全く興味がないとのこと。ついそのことを口にしたのはうっかりだろう、ちょっとお客さんが引いてしまった。すぐに柳亭市馬師匠の相撲好きの話題に移って、なんとか態勢を整える。市馬師匠、しょっちゅう大相撲を観戦しているので、テレビに映っているらしい。喬太郎師匠はそれを見てイタズラを仕掛ける。市馬師匠の携帯に電話を掛けるのだ。「画面で形態を取りだして慌ててる市馬師匠を見たら、掛けてるの、私ですから」。
 本編は、江戸弁と関西弁とを使い分けなければならない、結構な技術が必要になる大ネタだが、多少、舌の回り損ねがあったのみで、噺は流れる水のよう。
 病気療養中の関取・花筏に姿形がソックリだってんで、影武者にさせられた提灯屋の親父が、ただ座って飲み食いだけしていればいいだけのはずが、調子に乗ったせいで実際に相撲を一番、取らざるを得なくなった。死ぬ思いで取った相撲で、何と親父さん、運良く勝ってしまう。「さすが提灯屋、張るのが巧い」と順当な落ち。

  「天神で寄席の会」主催の出演は七年ぶりだそうだが、他の落語会で、福岡にはしょっちゅう来られている。
 次回は5月26日(土)に都久志会館にて。
コルチャック先生と子どもたち

コルチャック先生と子どもたち

劇団ひまわり 福岡アクターズスクール

キャナルシティ劇場(福岡県)

2012/03/11 (日) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★

虚実皮膜のなり損ね
 ヤヌシュ・コルチャックの伝記物語として観た場合、史実に極めて忠実で、クライマックスを除けば、一つ一つのエピソードには殆ど嘘がない。それは即ち制作者たちの誠実さの表れである。ユダヤ人差別と戦い、子供たちと運命を共にしたコルチャックの気高い事跡を、その優しい心映えと教育の理念を、正しく後世に伝えようとする意図はもちろん賞賛に値する。
 しかし、その誠実さが時として仇になることを、制作者たちは自覚すべきではなかったか。それは、偉人の伝記物語が陥りやすい陥穽である。特に差別や迫害、戦争を描く場合に起こしやすい失敗である。物語がすべて「偉い人の他人事」「過去の一事件で現在とは無関係」と観客に受け止められてしまいかねない、という「罠」だ。
 早い話が、哀しみと感動をもって、コルチャックに感情移入した人々が、自らが時と場合においては「迫害する立場」に廻ることもあるかもしれないと想像するだろうか、ということだ。「被害者」に共感する者は、自分が「加害者」になる可能性を、無意識のうちに否定するのである。
 その意味で、コルチャックの事跡を讃えるだけのこの舞台は、演劇としては稚拙と言わざるを得ないのである。

ネタバレBOX

 昨年、『焼肉ドラゴン』を観た時にも感じたことだが、「被害者」は極めて人間性豊かに、それこそ長所も短所も、喜怒哀楽全ての感情含めて、「生きている」人物造形がなされているのに、なぜ「加害者」の方は、ステロタイプというかむしろ“書き割り”の、読本にでも出てくるような分かりやすい「悪人」として描かれるのだろうか、ということが疑問だった。
 C・P・テイラー作の舞台『GOOD(善き人)』の主人公・ハールダーは、ごく普通の教師だったが、ナチスの高官に取り立てられ、やがて迫害者にさせられていく。「善人」であることは一切免罪符にならない、それこそが戦争のもたらす「恐怖」である。この戯曲は、ナチス党員が全て残虐非道の、絵に描いたような悪人であったはずはないことを示唆している。絶滅収容所に子供たちを送り込んだ党員の全てが、嬉々としてその作業に従事していたはずはないのだ。
 そこを描かなければ、現在の我々と、過去の悲劇は決して直結しては来ない。『コルチャック先生と子どもたち』では、ナチスとコルチャックとの板挟みにあって自殺するユダヤ人評議会委員長チェルニアクフの自殺というエピソードによって、図らずも同胞を死に追いやらざるを得なかった苦悩が描かれている部分もあるが、その程度では「あれは未来の自分かもしれない」とまでは観客は思わない。結局、物語は、「昔々、ナチスに虐殺されたユダヤ人の子供たちのために、一緒に死んであげたコルチャックという偉い先生がいました」で終わってしまうのである。
 1995年から再演に次ぐ再演を重ねているのに、なぜ演出はナチス兵たちに、ほんのわずかでも苦悩の表情を浮かばせる、程度のことすらやらなかったのだろうか。コルチャックの人物造詣が深く、その演技もまた誠実さと慈愛を充分に表現した過ぎらしいものであっただけに、「善と悪」の単純な二項対立で歴史が描かれることには危惧を感じるのである。

 ナチスの将校たち、S・Sを、「人間」として描かなければ生きてこないのがクライマックスシーンだ。トレブリンカ収容所への移送当日(即ちそれは死を意味する)、S・Sたちに強制され、着の身着のまま連行されようとする子供たち。バイオリン好きの少年アブラーシャは、バイオリンを取り上げられて壊される。子供たちは怒り、S・Sに迫る。そして歌を歌う。静かにかつ哀しげに合唱しながら、S・Sを真っ直ぐに見据えて、一歩、また一歩と、迫っていくのだ。
 おそらく、これは史実ではない。資料の多くが、子供たちは抵抗せず、静かに連行されていったとある。しかしこのフィクションこそがこの舞台における最も演劇的な部分であり、迫害されたユダヤ人たちの「魂の怒り」を表現した部分なのだ。
 S・Sは気圧されて後ずさる。しかしそれだけだ。周囲の他のS・Sたちも全く動こうとはしない。コルチャックとステファ夫人が子供たちをなだめて、ようやくみなは冷静になる。このS・Sたちの「無反応」に何の意味があるのだろうかと首を傾げざるを得なかった。もちろん台本にはS・Sたちの「動き」は何も書かれていなかったであろう。私もここでS・Sたちが怒って子供たちを打擲するとは思わない。彼らに過剰な反応をさせることは、それこそ「悪」を型通りに描くことになってしまう。
 しかし、ここでは「動かないことの意味」を役者が、あるいは演出が考えた上で演出したのだろうか、と疑問に思わざるを得ないのだ。子供たちの歌声を聞いて、S・Sたちの心に去来するものは何もなかったのだろうか。助けたいとまでは思わなくとも、自分たちがまさしく今、この子供たちを死地に追いやろうとしている事実に心動かされはしなかったろうか。本当に彼らはユダヤ人を劣等民族で撲滅すべきだと洗脳されていたのだろうか。
 「全人類にとっての悲劇」という視点の喪失が、このS・Sたちの「無反応」を産んでしまったように思えてならないのである。

 このクライマックスシーンにはもう一つの「伏線」があるのだが、これも演劇的効果を充分に挙げているとは言いがたいものだった。
 バイオリンを壊されたアブラーシャ少年は、移送の二週間ちょっと前に、ある舞台の公演に主演している。コルチャックが企画した演劇会で、タイトルは『郵便局』。インドのタゴールの代表戯曲で、反体制的ということでナチスからは上演の禁止が通達されていたものだ。
 この公演に、ステファ夫人は反対する。それは、これが、子どもが病気で死んでいく物語だからだ。「どうして子供たちに、死を連想させるお芝居を?」とステファ夫人はコルチャックを問い詰める。彼は答える。「子どもたちが少しでも安らかに死を受け入れられるためだ」と。確実に訪れる理不尽な死に対しても尊厳を失わないで欲しいというコルチャックの思い。それは確実にラストの合唱シーンの伏線になっている。
 だとすれば、この『郵便局』の上演シーン、劇中劇のシーンは必要不可欠であるはずだ。アブラーシャが、病で死んでいく主人公の少年を演じることが、ラストでの彼の哀しみに直結する構成になってこそ、あのラストは「生きる」ものになったはずだ。

 なぜ、その上演シーンがなかったかは憶測するしかない。著作権の問題は無関係である。タゴールの戯曲は全て版権が切れている。戯曲内に取り込むことに問題はない。単に上映時間の問題か、子供たちに二重の演技を強いる手間を省いたか、そんなところではないだろうか。
 しかし我々観客は、単に「コルチャック先生の事跡」を説明して欲しいだけではないのである。それならば資料を読めばいいだけのことだ。我々は「演劇」が観たいのだ。資料だけでは読み取れない、そこに生きる人々の、声と体を、涙と笑いを、魂の叫びを観たいのだ。

 全体的には、コルチャックの晩年のみに時間軸を絞って、エピソードを羅列したようなダイジェスト版にしなかったことは評価できる。
 しかし、その割には構成が雑で人物も整理が行き届いておらず、散漫な印象を受けること(たとえば、途中に何度か登場する「狂人」などは物語に殆ど関わらないので、暗示的な意味以上のものを持たない)、舞台が殆ど「解説的」で、演劇的な魅力に乏しいこと、主役以外の大人の役者の力不足が目立つことなどは今回の公演での大きな欠点であった。
 劇団ひまわりを代表する舞台であり、これまでの公演回数も下記の通り群を抜いている。本国ポーランドの演出を受けたこともあるのだが、それらの「経験」は、継承されていないのだろうか。以前の公演は未見なので、それは私には何とも判断が付かないことである。

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『コルチャック先生』
 1995年 脚本/いずみ凛 演出/太刀川敬一 (東京/大阪)
 1997年 脚本/いずみ凛 演出/太刀川敬一 (東京/大阪)
 2001年 脚本/ヤツェク・ポピュエル 演出/アレクサンデル・ファビシャック (東京/神戸/新潟/名古屋)
  出演/加藤剛 榛名由梨 日向薫 伊崎充則 他

『コルチャック先生と未来の子どもたち』
 2005年 脚本/ヤツェク・ポピェル(訳/吉野好子) 演出監修/アレクサンデル・ファビシャック 演出/木嶋茂雄 (ポーランド/福岡/名古屋/大阪/熊本/札幌)
 2008年 脚本/ヤツェク・ポピェル(訳/吉野好子) 演出監修/アレクサンデル・ファビシャック 演出/木嶋茂雄 (札幌/福岡/熊本/名古屋)
 出演/中島透 太田みよ 他

『コルチャック先生と子どもたち』(創立60周年記念公演)
 2011年 脚本/いずみ凜 演出/山下晃彦(東京・さいたま) 清水友陽(札幌) 玄海椿(福岡・熊本) 木嶋茂雄(大阪) 大嶽隆司(名古屋)
 出演/青山伊津美 日向薫(東京・さいたま) 納谷真大 小林なるみ(札幌) 中島透 日向薫(福岡・熊本) 蟷螂襲 松村郁(大阪) 山本健史 菅由紀子(名古屋)
ゲキトーク

ゲキトーク

NPO法人FPAP

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/03/10 (土) ~ 2012/03/10 (土)公演終了

満足度★★★

劇トークは激トークになったか
 「ゲキ(劇&激)トーク」というタイトルの割には、そんなに白熱した討議にはならなかった。むしろ話にフッと間が生じるくらいで、お互いに遠慮があるのか、激論したって仕方がないと考えているのか、単純に仲がいいだけなのか、いずれにせよ、全体的には、事前に期待していたほどには、現代の演劇シーンを鋭くえぐる、というところにまでは至らなかった印象である。
 演劇に対する思いの強さは伝わってくるのだが、そのための方法論、あるいは本質論、そういったものがなかなか具体的な形で議論されず、終始隔靴掻痒の感を覚えることになった。
 しかし、お三方とも地方発信の演劇活動を推奨する主張は共通していて、その点は地方在住者としては嬉しい発言であった。その割には福岡(主に博多)の演劇の話題が殆ど出てくることがなく、ああ、やはり福岡の演劇はプロの演劇人の眼中にはないのだなと、寂しいが厳然たる事実を確認するに至った。では福岡には、何が足りないのか、何が足を引っ張っているのか、もしもお三方が今後も福岡の演劇シーンに関わっていただけるのであれば、ぜひ障碍を乗り越えて、舞台の活性化に尽力していただけたらと願うばかりである。
 福岡の演劇人や劇団がどうあってほしいということではない。ただ面白い芝居が観たいというそれだけのことである。

ネタバレBOX

 多田淳之介、柴幸男、中屋敷法仁の三人が、現代日本の演劇界の最前線を走っている人たちの一員であることに、異論を唱える人はそう多くはないと思う。彼らの舞台を観たことがない人でも、一度実際にその眼で確認してみればよい。既存の演劇からどのような形で更なる一歩を踏み出そうとしているかが見えてくるはずだ。

 「ゲキトーク」はまず、各人の演劇活動の紹介から始まった。練習風景や実際の舞台のスチールを見せて、自己紹介する形である。

 多田氏はワークショップの写真と、自身が芸術監督を務める富士見市民文化会館の“水上”での舞台『冬の盆』の様子。ワークショップ中と言っても、練習風景ではなく、合間に参加者たちが団欒している様子を撮影している。手前ではお爺さんを囲んで数人が楽しげに喋っており、後ろでは誰かが盆踊りの振り付けを練習している。「ワークショップでは、みんなこんなに仲良くなっちゃうんですね」と多田氏。演劇の第一歩は、アマチュア、プロに関わらず、そこから始まる、という謂いらしい。『冬の盆』の方は夜景。「写真には写ってませんが、前方にウォーターフロントがあって、そこでお客さんたちは好き勝手に座ったり寝そべったり、芝居が退屈だったら星を観たりしてるんです」とのこと。
 柴氏は、先日北九州と東京で行われた『テトラポット』の練習風景と、昨年からツアー公演している『あゆみ』の舞台写真。練習中の柴氏、態度はかなり悪いらしい。写真ではイスの上に膝を抱えて座っているだけだったが、日ごろは寝そべったりしながら俳優たちの演技を観ているのだとか。柴氏はもちろん劇団「ままごと」の主宰だが、『あゆみ』の俳優たちは「準団員」のような地方在住の役者たちでツアーを行っているとのこと。「劇作家でありたいと思ってるんですが、演出家の仕事が多くなってますね」。
 中屋敷氏の写真は、最初の一枚は「企画の意図が分からず間違えて持ってきたトルコでの劇団員たちのスナップ写真」。これではどんな活動をしているのかは分からない(笑)。もう一枚は東京デスロック公演『悩殺ハムレット』の舞台写真。中屋敷氏も含め、けばけばしい衣装の男女(殆ど女性キャスト)が舞台でふんぞり返っている。「リアルな芝居が多い中で、圧倒的に非現実なフィクションを目指してます」と言う。女性キャストばかりにしたのも「日本の演劇って、女性が差別されてるじゃないですか。シェークスピアをやるにしても男ばかりでやるとか。そして『原典は男ばかりで演じられたから』と訳の分からないリクツを言う。だったら全員女性でやっちゃえと」。

 お三方とも20代、30代の若手劇作家・演出家であって、いずれも、既存の演劇に安住することをよしとしてはいない。しかしそこで「自分たちの演劇が受け入れられているのか」ということが問題になってくる。多田氏、柴氏は、観客動員のことはあまり気にしない(そもそも劇場の大きさと公演回数で動員数は自然に決まる)立場だが、中屋敷氏がどれだけの客に自分の芝居を観て貰えるかに拘った。
 「作品及び劇団の評価」とも関わってくるのだが、たとえば柴氏は『わが星』で岸田國士戯曲賞を受賞したことが「貰った瞬間は嬉しいと言うよりは、演劇やってていいよって言われた感じで」と淡々とした感想なのだが、中屋敷氏はデビュー以来、ともかく「上の人」(先輩の劇作家たちや演劇評論家を指すのだろう)に一切無視されてきたこと、にもかかわらず、客席には現実に何千人とお客さんが詰めかけてきてくれること、この乖離は何なのか、ということが「しこり」になっていたようだ。

 「いいものを作れば、お客さんは自然に集まってくると思う」と述べる柴氏に対して、中屋敷氏は、終始「演劇の客層が広がっていかない」ことに、危惧を述べていた。
 小劇場の観客は、小劇場演劇しか観に来ない。大劇場で公演される舞台を観る人は、逆に小劇場演劇に関心を持たなかったりする。演劇のジャンルは幅広いから、多田氏は、舞台で演じられるものは「何でも演劇」で整理されていないと言うが、実際には、観客の「好み」は歴然としてある。しかもそれが必ずしも舞台の「内容」に関わる好みだとは言えない面があって、それが客層の広がりを阻害している原因の一つになっているのは事実だ。
 中屋敷氏は言うのだ。「今のお客さんって、演劇が好きで観に来てるって感じじゃなくて、この演劇を、たとえばキャラメルボックスを観に来てる(評価できている)私ってなんてステキなの、って、そんなじゃないですか」。
 聞きながら、諸刃の剣なことを言ってるなあと思ったのは、つまり「柿喰う客」の観客もまた、「この劇団を評価できてる俺って凄いよな」という思い上がった人間ばかりだと告白しているも同然だからだった。しかしそれは中屋敷氏も先刻ご承知のことなのであろう。

 中屋敷「多田さんの台詞で、すごくかっこいいなって思ったのがあるんですよ。『いろんな芝居を観て、どうしても満足できる舞台に出遭わなかったら、最後に“東京デスロック”を観に来て下さい』っていう。最初に、じゃなくて、『演劇の最後の砦は俺が守る』ってのがすげえかっこよくて」
 多田「俺、そんなこと言ったかな?(笑)」
 多田氏はここで、私が一番気になった発言をしたのだが、それは「今の日本に演劇は必要だと思う」というものであった。
 具体的になぜ必要なのか、その根拠をきちんと語ってくれなかったことは残念だったが、話の流れからするなら、やはりコミュニケーションが喪失していると感じられる現在、「演劇に出来ること」は「人間」の回復であり、そのためには、自己充足に陥っている観客の「質の向上」を図らなければならない、と、そういうことなのだろうと思う。

 中屋敷「劇団☆新感線の『リチャード三世』を観た時に、ロビーのお客さんたちの声が聞こえたんですよ。『やっぱりシェークスピアはつまんないね』って。俺、その人たちに言ってやりたかった。この芝居をつまらないと思ったのは仕方がない。けれど、だからってシェークスピアを嫌いにならないでくれ。同じように、『柿喰う客』を観てつまらないと思ってもらっても構わない。でも、演劇を嫌いにはならないでくれって」
 多田「でも、『メタルマクベス』を観たら、そのお客さんもそうは言わなかったと思うよ」

 話題の全てをここで書ききれるわけもないし、中には司会が何を考えたのか、お三方の結婚観(聞きたい人がいるのかも知れないが個人的な場でやってくれよ)なんてのまで聞いていたから、後半はちょっと焦点が定まらない、散発的な印象の会話になってしまった嫌いがある。
 劇団かユニットか、という話題も、お三方に質問する意味があったのかどうか。双方の効果的な面を取り入れて活動されていることは、観れば分かるからだ。
 尻すぼみになりかけたディスカッションではあったが、やはり特筆しておきたいことは、お三方が「地方」に眼を向け続けているという事実である。

 多田氏の劇団「東京デスロック」は、「東京」と冠していながら現在は埼玉を中心に、全国の地方都市を廻って、ワークショップと公演を行っている。柴氏の「ままごと」も、中屋敷氏の劇団「柿喰う客」も同様だ。
 お三方、共通の認識は、東京には確かにたくさんの演劇がある。しかしそれは勝手に集まってきているものの集積で、じゃあ自分たちから地方に向けて何かを発信するとか、逆に地方のものを積極的に取り入れようとか、そういう動きがない。その意味で東京は逼塞している、というものだった。

 多田氏は、地方の演劇祭で最高の二つに、鳥取の「鳥の演劇祭」と、北九州の「えだみつ演劇フェスティバル」を挙げる。
 「えだみつアイアンシアターの市原幹也さんとお話ししていて、目から鱗が落ちたことがあるんです。彼は言うんですよ。『演劇を観て、それから演劇をしたいと思うようになるんじゃない。まずは学芸会でも何でも、演劇をすることから始める。それから演劇を観るようになるんです』って。なめほど、アイアンシアターのワークショップには、近所の子どもたちがともかく集まってくるんですね。それから、あそこで公演する芝居を観に行くようになるんです」
 中屋敷氏が「学芸会、中学、高校演劇と、ずっとやってきた自分には納得できます」と熱い賛同を寄せる。
 鳥の演劇祭はもちろんワークショップ、シンポジウムも盛んなら、海外作品の招聘、交流も盛んに行っている。地方密着、というのは、決して、その地域で完結するものではなく、そこから世界に発信するもの、逆に世界か関心を寄せる土壌を作るということなのだ。それが「コミュニケーション」の真の意味なのだろう。
 柴氏だけが「地方で2ヶ月かけて舞台を作って、そのまま放り出して帰っちゃうことの繰り返しなんで申し訳ないです」とちょっと気弱なことを仰っていたのが可愛らしかった。

 これらの一連の「地方」談義の中で、福岡(博多)の演劇シーンに触れられることは殆どなかった。以前、FPAPの主催で、福岡の若手演劇人を選抜して、ツアーを組んだようなことを司会から振られたが、お三方とも話題にすることなくスルー。
 「俺の芝居をまず観ろ」の演劇人と「私がこの劇団を支えているの」の身内客・常連客とで構成された福岡演劇村の惨状は、お三方にもはっきりと見えていたようだ。
 会場にはそこそこ福岡の演劇関係者も来場していたようだったが、お三方の話にいちいち感心したり頷いたりしているようでは、まあ、底は知れている。大筋においてはお三方の意見に賛同できることはあるとしても、そこから内面において何らかの化学反応を起こすように、お三方の「先を行く」発想が生まれなければ、その時点でその人が演劇をやることの意味は失われてしまうだろう。
 失ってくれた方が、演劇が好きでもない癖に、好きなフリをしている人が減ってくれてありがたいんだけどね。
春風亭小朝 独演会 2012

春風亭小朝 独演会 2012

シアターネットプロジェクト

エルガーラホール 大ホール(福岡県)

2012/03/10 (土) ~ 2012/03/10 (土)公演終了

満足度★★★

若様が行く、いつまでも
 小朝師匠、毎度、「巧いなあ」と思ってはいるのだ。
 『中村仲蔵』で、定九郎を見事に演じきった仲蔵が、師匠の伝九郎を前にして涙を流し、頭を垂れて礼を言う時の仕草など、本物の仲蔵もこうであったかと思えるほどに真に迫って見える。
 でもこれは噺家の「芸」と言うよりは役者の「演技力」だよな、と思ってしまうのだ。だから「演技」が臭くなると、途端に馬脚を現してしまう。「芸」は一つの様式であり「型」であるから、ちょっとやそっとのことでは揺るがない。声と間と所作と、一度確立されたなら、何度聞いても笑える。
 けれども、演技が臭いまま固まってしまうと、一度目は笑えても、二度目はもう持たないのだ。飽きると言うか、鬱陶しくなる。小朝が「巧いまま上達せずにここに至った」原因は、そのあたりにあるのではなかろうか。
 誉めてるんだか貶してるんだかよく分からない文章になってしまったが、実際、未だに小朝師匠は「下町の若様」のままなのである。
 それでも独演会があると聞けばついつい足を運んでしまうのは、『三匹が斬る!』でファンになっちゃったからなんだよね。多分、来年も観に行くんだろうなあ。

ネタバレBOX

『牛ほめ』春風亭ぴっかり
 去年の11月に「春風亭ぽっぽ」から「ぴっかり」に名前が変わって、二ツ目昇進。でも出囃子は『鳩ぽっぽ』のまま(笑)。
 「ぽっぽ」時代に『悋気の独楽』を聞いたことがあるが、その時はかなりつっかえつっかえで、たどたどしかった。それが今回は格段に進歩、すっきりして流暢な語り口になっている。マクラで、「お客さんから『名前覚えたよ! ぽっかりちゃん!』、どうやら混ざっちゃったようで」と、ここからお客さんをすんなり掴んでいる。
 本編は特に大きな改作は無し。親父から、伯父の佐兵衛の家普請と飼い牛を誉めてくるように言付かった与太郎が、言い間違えまくる噺。「天角地眼~」のあたりは現代人には通じにくいので端折る噺家も少なくないが、これもキッチリ演った。ただ、言い間違いを親父のところと伯父さんのところで二度繰り返したのはちょっとくどかった。あれはぴっかりちゃん、間違えちゃったのか、だめ押しした方が面白いと考えたのか。
 口跡はよくなっているが、声質が可愛らしいのがかえって損をしている面もある。与太郎は馬鹿というよりコドモだし、親父さんたちはもう一つ大人の貫禄がない。語りに淀みがないと言っても、実はまだちょっと“焦り”が目に付く。
 でも“伸びしろ“はあるようなので、真を打てるようになってほしい。女に噺家は無理だとは昔からの言い習わしだけれども、そんなことはないと思っている。なんたってぴっかりちゃんは可愛いのだ(実はトシを聞くとビックリするけどね)。


『宗論』春風亭小朝
 一応、古典落語ではあるが、大正期に改作されたものだとか。
 元は浄土真宗の親父と、日蓮宗の息子との宗教論争だったものが、息子の宗教がキリスト教に変えられたのだそうな。
 キリスト教にかぶれた息子が、旧弊な親父を何とか折伏しようとするのだが、喋れば喋るほど、キリスト教が胡散臭く聞こえてきてしまう。
 小ネタの集積で笑わせる噺だが、得てして一つ一つのネタの出来に差が生じてしまうものだ。
 「マリア様ハァ、処女にしテ、イエス・キリストをお産みになりマシタ」「処女で妊娠!? 馬鹿言うな。それじゃあ白百合女学院は妊婦だらけだ」「オーウ、それは間違いデース。白百合ニ、処女ハ、スクナーイ」
 このあたりは予測が付いても面白いが、「この中ニィ、私を裏切る者がいマース。テーブルの上ノ、飲み物ヲ見れば分かりマース。これハァ、葡萄酒だァ、これハァ、水だァ、これハァ、“湯”ダァ」。
 と、ダジャレで落とすのはいただけない。それでも客席には結構な笑いが起きていたのだが、「よくお分かりにならない? ではもう一度」と、二度も繰り返したのは、予めの段取り通り演ったのだろう。ここは充分受けてたのだから、一度だけでだめ押しをする必要はなかった。ちゃんと客席を観てないのがバレバレである。
 サゲが「汝、右の頬を殴られたラ、左の頬を差し出セ。眼には、眼ヲ、歯には、歯ヲ!」と言って親父さんを殴ろうとするのだが、いささか乱暴で、気持ちがスッキリしない。
 息子の口調をことさら大仰に、「外国人訛り」にして演じさせたことも、かえって息子のキャラクターからリアリティを奪い、笑わせることに失敗しているように思える。この噺はもっと面白くできるはずだ。


『ぼやき酒屋』春風亭小朝
 桂三枝作の新作落語だが、居酒屋に来た酔っ払いの客が、愚痴やら冗談やらを言いまくるという設定だけを借りて、中身は殆ど春風亭一門でよってたかってこしらえたもののようだ。三枝の落語はどれも「どうだ巧いだろう」という押しつけがましさが鼻につくので、小朝の方が格段に面白い。
 スイカを見ながら、客が「スイカってのは家族団欒で食うもんだ。去年はみんなで食べたわよねえ、そう、去年はまだ、そこにお爺ちゃんがいたのよね。今年は…・・・お婆ちゃん?」と、ここでお婆ちゃんのいる方に目を向ける仕草がまた巧い。急に高座が面積を広げて、そこに家族と、少し離れたところに、本当にお婆ちゃんが座ってスイカを食っている姿が見えるような気がしてくる。
 客が主人に「あんた、好きな芸能人とかいる?」と聞くと「恥ずかしながら、くーちゃんで」「誰?」「倖田來未」「ああ、中国の」「……お客さん、それ、江沢民」。ただのダジャレではあるが、これなど私は結構気に入っている。ただ、客席はそんなに受けてはいなかった。恐らく、倖田來未も江沢民も、よく知らない客が多いのだ。
 実際、時事ネタでも、受けがいいものと悪いものとの差が激しい。「最近、誰か噺家で死んだやつがいたよねえ……圓歌か」というのは全くと言っていいほど笑いが起きなかった(圓歌は死んでないよ。念のため)。年寄りでももう、あれだけ一世を風靡した「山のあなあな」の圓歌と言うか歌奴を知らないのだ。談志もそれ誰?って客も少なくないんじゃないか。
 反面、「世襲ってのはよくありませんね。政治家も噺家も」とか「奥さんの選び方には気をつけなきゃいけませんよ」という「楽屋落ち」と言うか「身内落ち」というか「元身内落ち」は大いに受けているのである。どうも客層の情報収集の範囲がよく分からない。
 サゲは「お客さんのご商売は?」「俺? 向こうで居酒屋ヤッてんだ」という、これは三枝の原作通りの落ちなのだが、やはり笑いは今ひとつ。それはそうだろう。ここでアッと意外な結末で驚かせようというのなら、ぼやく客に、店の主人はもっと困っていなければならない。そうでないと、その客自身も、散々悪態を吐く客に困らせられた経験があるのだという、落ちのウラが、客にピンと来なくなるのだ。
 この噺では、主人は聞き手一方で影が薄い。改作の余地はまだまだあるはずである。

〈仲入り〉

『水戸大神楽』柳貴家雪之介
 皿回し芸である。包丁三本で回したのはなかなか凄かったが、どうも先日「クーザ」を見た直後だと、そんなにびっくりできない。もちろん雪之介三の責任ではないのだが。


『中村仲蔵』春風亭小朝
 トリは大ネタ。円生、彦六、両師匠も得意としていた、歌舞伎の中村仲蔵の史実に基づく逸話の落語化である。独演会でも、地方によっては軽いネタ二席くらいで終わらせることもあるようなので、一応、小朝師匠、福岡のお客さんを大事にしてくれてはいるようである。
 名題(歌舞伎における真打ち)になった仲蔵だったが、立作者の金井三笑の嫌がらせを受けて、次の『忠臣蔵』では端役の斧定九郎役しか振られなかった。ところが逆境を芸を磨くチャンスと気持ちを切り替えた仲蔵は、それまでにない黒羽二重の出で立ちに、悪逆かつ凄惨な定九郎を演じて、大向こうを唸らせる。師匠の中村伝九郎(勝十郎)に誉められて涙を流したところ、伝九郎から「おいおい、芝居はまだ初日だぜ。楽にはしない」と言われてサゲとなる。
 このサゲは噺家によって随分変わるようだが、小朝のサゲは、その前の愁嘆場が妻のおきしとのやりとり、それから伝九郎との一席と、時間を充分にとって聞かせてくれるので、最後にさらりと流すのが粋で気持ちがいい。

 仲蔵は若僧だから小朝の“身の丈”に合っていていいのだが、師匠の伝九郎になるともういけない。貫禄がないのが頗る惜しい。
 ここまで「流されて」きた以上は、小朝が今後、「進歩」なんてするのかどうか、たいして期待はできない。それでも何となく見捨てられないような、放置するとまた厄介な出来事に巻き込まれるんじゃないかというような、余計な心配をしてしまうのである。
Final Fantasy for XI.III.MMXI

Final Fantasy for XI.III.MMXI

福島県立いわき総合高等学校

福岡明治安田生命ホール(福岡県)

2012/03/03 (土) ~ 2012/03/03 (土)公演終了

満足度★★

テーマ主義の弊害
 フクシマの高校の生徒たちによる、震災と原発を題材とした(明確に反原発をメッセージとした)演劇である。その事実を無視してこの舞台を鑑賞することは難しい。「あの事故を、実際にあの場所にいた生徒たちはどう感じたのか」。作り手の生徒たちが観客に伝えたいこともそれであろうし、我々の関心がその点に集中してしまうことも意識の流れとしては自然なことだからだ。
 しかし、そのために、「演劇として」この舞台を鑑賞する視点が客席から見失われてしまうことは、演劇部である彼らにとっては不幸なことなのではないだろうか。
 この舞台の欠点は、これが「テーマ主義」によって構成されているために、まずメッセージ性ばかりが強調されて、演技や演出についての分析を「口にしにくい」状況が生じていること(普通の芝居になら言える「へたくそ」という文句すら言いにくい。フクシマの学生が一生懸命作っているのにケチを付けるとは何事だ、というファンダメンタルでヒステリックな反発すら予想されるからだ)、そして、実際に被災地の当事者によって作られた物語であるにも関わらず、“被災地外の人間であっても作れる作品”になってしまっていることだ。
 恐らくは、その事実に気付いている観客も少なくはないと思われる。しかし、彼らにそのことを伝える大人はいない。誰も彼らを甘やかすつもりはないだろうが、結果的にはそうなる。彼らを評価するのは、こういうテーマがむき出しになった物語ではなく、もっと日常的な題材の演劇であったり、テーマを押し出さない純粋なエンタテインメント作品の方が適切なのではないだろうか。

ネタバレBOX

 「テーマ主義」の作品が誰にでも書ける、というのは別に私が言いだした話ではない。菊池寛の一連の作品に対して行われた、文芸評論家たちによる批判である。伝えたい主題が決まっているから、その表現手段、キャラクター設定や物語の展開も自然と決まってくる。誰が書いても同じ、と揶揄されるのはそのせいだ。菊池寛の戯曲『父帰る』が映画『男はつらいよ』シリーズにさしたる工夫もなく流用されている点でもそれは明らかだろう。
 だから、書き手側にしてみれば作るのに苦労しない方法ではあるのだ。高校生ら演劇初心者に“教える側”としては、テーマ主義を一概に否定されても困るだろう。

 しかし、その「苦労しない」ことが、この舞台では「安易さ」に繋がっている部分も、決して少なくはない。
 特に「震災と原発」という、決して短絡的には結論づけられない重要な問題について、明確に「反原発」という一点にテーマを集約して描かせることが、果たして妥当であったかどうか、疑問である。エチュードを中心にして、生徒自身にアイデアを出させる方法は決して悪くはない。そこには「自然な感情」が表現として昇華されるための萌芽があるからだ。
 だが、多くの生徒がアイデアを持ち寄っているにも関わらず、物語が一つのテーマに「一貫しすぎている」のは、なぜなのだろう。果たしてこの物語は本当に生徒たち自身の心から生まれてきたものなのだろうか。そこに教師による「過度の誘導」がなかったかどうか、それはいわき総合高校の演劇部が、「高校演劇は高校生自身の手で」という目標を掲げる姿勢を堅持しているのであれば、きちんと問われなければならないことであろう。

 物語は、初め、二人の少女の会話から始まる。
 ヒロコとキリカ。陸上部だった二人。あの震災で引き裂かれてしまった二人。「あの時、待ち合わせ場所に私も行っていれば」。後悔を口にするヒロコ。目の前の椅子に座っているキリカは、もうこの世にはいないのだ。
 全編を通じて、最も演劇的だったのは、この冒頭シーンである。一方は生身の人間で、一方は幽霊。しかし心を失っているのは生きているヒロコの方であるようにも見える。「罪悪感」が彼女の心を押しつぶしてしまっている。
 二人の演技は極めて静かで、か細い声であるにも関わらず、いや、だからこそヒロコの胸を塞いでいる思いの重さが、客席にまで伝わってくるのだ。高校演劇にありがちな、ただ声を客席奥まで届ければいいといううるさいだけの過剰演技はここにはない。現代口語演劇の方法が、最も効果的な形で実行されている。
 キリカの姿は他の部員には見えない。ヒロコにしかキリカは見えない。それがヒロコの心が孤独に蝕まれている証拠だ。このシーンは、ラストの、再びヒロコの前に現れたキリカが、今度ははっきりと、別れを告げるシーンに呼応している。
 別れを告げられなかった友への思い。あるいは家族への、あるいは仲間への、もう伝えることが叶わなくなってしまった思い。被災地で、同じ思いをした人々がどれだけいたことだろう。この二人のシーンは、あの震災を経験した者にしか伝えられない「心」によって描かれている。

 ところが、これから先の本編が、一気に失速してしまうのだ。「心」ではなく「アタマ」で作った、出来の悪いギミックでできた玩具のような、チャチなシロモノに成り果ててしまう。
 旧校舎に「復活の呪文」が隠されていて、それを探し出せば、全てが元に戻る。その情報を信じて、ヒロコや良輔たちは倒壊の危険がある旧校舎に忍び込んでいく。
 そこで、菅直人やら枝野やら東電の社長やら、さらに保安員だの原子炉だのラスボスのなんたらエコノミーだの、「敵」が戯画化されて彼らの前に立ちはだかり、そいつらをヒロコたちは倒していくのだが、このあたりがサッパリ面白くない。
 アフタートークで「観る人によって受け取り方に温度差があるのは当然だし、押しつけがましくなることを避けた」「ただ怒りをそのままぶつけるのではなくて、笑い飛ばしてやろうと思った」という発言があった。
 その姿勢自体には共感するが、「押しつけがましくしたくない」という目的は、結果的には成功していない。押しつけがましさを回避した表現としては、せいぜい登場人物たちに「声高に反原発を訴えさせない」といった程度のことしか配慮されていない。全体的にはやはり「反原発」以外の見方はされていないのだから、多角的な視点がない点においては、やはり「押しつけがましく」なってしまっているのである。
 さらに彼らには「笑う相手を最初から戯画化していてはからかいにならない」というギャグの基本が分かっていない。だからゲーム部分がことごとく「絵空事」にしか見えなくなって、たいして笑えないものになっていることに気が付かないのである。
 いや、原子炉を寒いギャグで冷やすっての、馬鹿馬鹿しくて好きだけど、面白いかと言われたら、ちょっと困るでしょう。ゲンシーロくんの「受け方」の間がよくて、笑えはしたけど。

 揶揄する相手は、真面目に描かないとからかえないのである。ふざけて描くと、相手もこちらも同じキャラになってしまうので「馴れ合い」が生じるのだ。漫才の両方がボケになってしまうようなものだ。
 からかう相手が権威的であったり糞真面目であったりするがゆえに、かえっていざというときのオタオタぶりが滑稽に見えるのだ。サム・ペキンパー『戦争のはらわた』のラストの壮絶なギャグシーンを思い浮かべていただければ、権威とか真面目といったものがいかにくだらなくて、益体もない馬鹿馬鹿しいものであるか、それをどのようにからかえば表現として効果的なのか、ご理解いただけることだろう。
 銃に弾倉を装填するやり方すら知らなかったシュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)の姿は、原子炉の構造一つ理解していなかった東電幹部と見事に重なっている。

 コトが起きたあとで、彼らの無責任を追求するのは簡単である。
 しかし、コトが起きる前、我々は信頼とまでは言わずとも、生暖かい眼で彼らを見ていたはずだ。
 現地の人々にとっては、東電の人々はごく普通の近所のオジサンたちであったろうし、親しく声を掛け合った人々もいたはずである。
 その「東電のおじさんたち」が、いきなり悪の権化として糾弾されることになる。「でんこちゃん」は国民を惑わすプロパガンダキャラクターとして排斥されることになる。いや、それをしてはいけないというのではない。彼らが故意か、好意的に解釈してやはり「想定外」だったのか、どちらにしろ事故の責任を回避できる立場にないことは厳然たる事実だからだ。
 だとしても、東電と「共存」してきた現地の人々が、彼らを批判するためには、自分の身をも切る覚悟が必要になるのではないだろうか。ただ戯画化したキャラクターにしてからかうだけでは、それは「部外者の発想」と変わりがないのではないだろうか。
 実際、この舞台の中盤の殆どは、被災地外の人間が書いたのではないかと疑われるほどに「他人事」になってしまっている。原発関係者が、「敵」として相対化されすぎている。「RPGゲーム」という形式を持ち込んでしまったために、それ以外の描き方ができなくなってしまったのだ。

 たとえば、現地には、「東電社員の子供」だっているはずだ。彼らは、避難生活を送りながら、「お前の親父のせいでこんな目に遭ったんだぞ」などといじめられたりはしていないだろうか。
 そういう子供は、この芝居の中には登場できない。テーマから外れ、テーマを揺るがしかねないキャラクターは「邪魔者」なのだ。しかしそういう子供を排除することが、被災地の「現実」、ひいては被災者の「実感」を伝えることになるだろうか。原発推進派の言い分にも説得力がないわけではない。それを受け止めた上でなお反論する構造がこの舞台にはない。一方的な攻撃であってもそれが説得力を持つのは、勧善懲悪のエンタテインメントだけだが、この題材は、一番、そうあってはならないものではないのだろうか。
 単純なゲーム構造を持ち込んでしまったことが、この舞台を善か悪かの単純な二項対立による、極めて幼稚なものにしてしまっているのだ。
 「家を流された人と、ほんの数メートルで助かった人と、それだけで被災の実感に温度差が生まれる」との発言もアフタートークで気になったものの一つだった。この舞台を観た時の違和感がまさしくその点にあって、「被災の程度が低い人たち」が作った芝居なんじゃないか、という印象が拭えなかったからだ。

 震災も、原発事故も、喜劇にして構わないと思う。
 しかし、この事故を引き起こしたのが特別な悪人でも金の亡者でもなく、たとえどこぞの国にヘイコラしてきた連中が裏で糸を引いていたとしても、彼らはごくフツーの人々であって、なのに彼らの思惑が複雑に絡み合った結果、総体としては国を狂った方向に押し流してしまっていること――その視点がなければ、いくら国や東電をからかって見せたところで、批評性は形骸化するばかりだ。そんなものに意味はあるまい。
 観客は「別れの切なさ」に涙を流し、ああ、いいものを見たなあ、という感覚だけを持ち帰って、日常の中ですぐに震災のことも原発のことも忘れていってしまうだろう。
 観客は、映画や演劇で感動した涙を、決して現実には反映させない。口では感動したとか考えさせられたと言っても、実際には何も考えていないに等しい。“そんな気になって満足しているだけ”である。そのことは、かつて伊丹万作が『映画と癩の問題』という小文の中で指摘し、作り手としてはそんな観客の反応に惑わされてはいけないと批判していることである。
 「芸術の徒としての私は、芸術鑑賞および価値批判の埒内においては人間の涙というものをいっさい信用しない」と。
 
 「高校生が作った芝居なんだから」という言い訳は、自分で自分の首を絞めることになる。それは「高校生にはたいしてものを考える力がない」と告白するに等しい。
 アフタートークで、ともかくこの芝居は震災3ヶ月後の、情報が錯綜して、怒りの矛先をどこに向けたらいいか分からない状態で作った、今は冷静になっているので、もっと別の見方もできるようになったと思う、という発言があったが、そのことを肯定的に捉えたいと思う。
 勢いだけで作った演劇であるから、決して賞賛できる作品には仕上がっていない。そのことは、いわき総合高校の生徒たち自身が自覚していることである。
 ネットの批評子たちが、本作をろくに演劇としてどうかという分析もせず、安易に「頑張って作ったね」と誉めるのはいかがなものだろうか。もうその発言の「偽善性」に、いわきの生徒たちも気付いていると思うけれど。
テトラポット

テトラポット

北九州芸術劇場

J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)

2012/02/20 (月) ~ 2012/02/26 (日)公演終了

満足度★★★

雪の降る海にて
 90年代以降、解離性障害が演劇のモチーフとして描かれることが多くなった。
 鴻上尚史『トランス』がその代表格だが、このような「病気」が芸術の題材として普遍性をもって受け入れられるようになったのは、大なり小なり、我々がみな、社会生活を営む中で、何らかの精神的疾患を抱えざるを得なくなっている状況があるからに他ならない。私たちは往々にして、「個」を喪失してしまう。複雑化する社会の中で自分を見失ってしまっている。
 「ここはどこ」「私は誰?」は、現代人に共通の、普遍的なテーマになっているのだ。

 『テトラポット』の主人公は、常に周囲の「現実」に対して「違和感」を覚えている。
 いや、周囲が、主人公に「現実を疑え」と問い掛け続けている。
 「誰もいない」と叫ぶ主人公に、周囲の「彼ら」は、「いないのはお前だ」と返答するのだ。

 我々の「主観」がどれだけ信じられるというのだろう。
 我々は常に自己の認識を「騙し」続けている動物である。「言葉」は決して真実を語る道具などではなく、欺瞞を作り出し、我々を虚構へと誘う。最大の欺瞞は、デカルトの唱えた「我思うゆえに我あり」である。その思考が他人から与えられたものではないと証明することが果たして可能だろうか。
 我々が現実に違和感を覚えるのは当然のことなのだ。自分が現実だと信じているものは、他者から見れば、当人が勝手に作り出した虚構に過ぎないのだから。

 柴幸男は、作品ごとに手を変え品を変えて、その我々が作り出す虚構に、果たして展望があるのかどうかを問い掛け続けている。
 『テトラポット』の恐ろしさは、主人公が、自らの虚構性を常に問われながらも、何一つ明確な返答もしなければ、行動に出ることもない、ということだ。
 そうなのである。この主人公は、徹底的に「何もしない」ことを明確な役柄として与えられている。私たちが、観客のあなた方がみな、今現在、「何もしていない」のと同様に。

 私たちは、「何かをしなければならない」時に直面してはいないのだろうか。もしも直面していながらその事実から目を背けているのだとしたら、やはり我々は自らの作り出した巨大な卵の中に閉じ籠もったまま、孵化することを拒絶している存在なのである。

ネタバレBOX

 廃墟のような教室。
 机の上に立って、海坂三太(大石将弘)が叫んでいる。「誰かいませんか!」
 おもむろに現れる兄の圭二郎(寺田剛史)。「いるよ」と返事する。しかしそのあとでこう続ける。「いないのはお前だ」。
 それから、細かい暗転が繰り返されて、いつともどことも分からない、脈絡のないシーンが点滅するように描写される。
 それは、三太と、彼を巡る人々の物語だ。

 長男の一郎太(谷村純一)は教師。妻のとと(ヒガシユキコ)とは別居中。あろうことか、妻の妹で生徒の葦香(折元沙亜耶)に恋をしてしまっている。
 次男の圭二郎は妻の紗知(原岡梨絵子)と正式に離婚。慰藉料と娘・片吟(米津知実)の養育費を請求される毎日である。
 四男の四郎(藤井俊輔)はまだ学生。なのに恋人の川合らっこ(古賀菜々絵)との間に子供ができて、どうすればよいか分からずにいる。

 それぞれに深刻な問題を抱えている兄弟だが、三太にだけはたいした問題がない。せいぜい幼馴染の抹香鯨(高野由紀子)に迫られている程度だ。
 それでも三太は、この「海の町」を出ていくつもりでいる。故郷を捨てて、もう戻らないつもりでいる。

 しかし、三太は戻ってきた。母の伊佐名(荒巻百合)が死んで、戻ってきた。
 葬式に集う四人の兄弟。しかし、それは“いつのことだったろうか“。

 時間と空間が前後し、交錯し始める。教室の時計を見る三太。2時46分前後。時計はいつでも、2時46分“前後”。そこから動くことはない。三太は、過去から現在に至るまでの長い時間を凝縮された形で、この時間の狭間に閉じ込められたのだろうか。
 だとしたら、“今はいつ”で“ここはどこ”なのか。
 最初に現れたのと同じシーンが、何度も繰り返される。背景に流れる音楽は、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』。同じ旋律が何度も繰り返されるオスティナート奏法の代表曲だ。

 三太の前に現れる謎の女性、安藤いるか(多田香織)。たった一人の吹奏楽部員。オルガンを弾きながら、学生の三太に「部員になってよ、楽器弾ける子も連れてきて」と呼びかける。
 実は、彼女だけが、この海にちなんだ名前を持つ人々の中で、「本当の名前」を持っている。安藤“はるか”。かつて、病気で入院していた時に、兄の圭二郎と出遭っていたことがあった。大人になって、教育実習生として、弟の四郎の前に現れたこともあった。
 彼女は言う。自分は、海と陸の間の、テトラポットの中にいるのだと。それは何かの比喩か、それとも「現実」なのか。それが「夢」なのだとしたら、今、その夢を見ているのは誰なのか。

 人々が教室に集まってくる。めいめい、楽器を持って。
 演奏される『ボレロ』。プランクトンの死骸、マリンスノーが教室に降り注ぐ。
 三太は「溺れている」のだ。でもまだこの海の底から「帰れる」のだ。「帰って」と叫ぶいるか。人々が叫ぶ。三太を助けるのは「いるか」。
 地球は全て、海の底に沈んでいた。わずかに残された地上を支配していた生物は、進化したイカたち。三太は、最後にたった一人生き残った哺乳類“テトラポット”。
 彼らは叫ぶ。三太に戦えと。イカと戦えと。生命が誕生し、単細胞から進化をし続け、その果てに現れた最後の哺乳類の代表として、戦えと。楽器を演奏できない三太は、必死に指揮棒を振る。それは溺れる者のあがく姿。『ボレロ』が、クライマックスを迎える。


 あらすじだけを書き出すと、これは大いなる悲劇のように見えるが、実際はかなり笑いどころも多い喜劇である。ブラック・コメディと言うべきか。
 時間がループする(同じ時間を何度も繰り返す)アイデアは、小説、映画、アニメを問わず、近年のSF作品には数多く見られる。昨年の読売演劇大賞、前田知大の『奇ッ怪 其ノ弐』もそうだったし、先日の多田淳之介『再/生』も時間の観念は定かでないもののやはり「繰り返し」ネタであった。
 『テトラポット』の脚本・演出である柴幸男自身も、前作『わが星』で、ループネタを既に試みている。いささか手垢が付きすぎているアイデアだけに、「見せ方」に工夫が必要となると言える。

 ここで注目したいことが、三太が「何もしない」主人公であったという事実だ。閉ざされた時間の物語は、たいていの場合、主人公がそこから脱出しようと懸命の努力をし、あがくものだ。ところが三太はほとんど事態を傍観するばかりなのだ。
 他の兄弟は、何らかの形で前に進もうとしている。
 一郎太は自分の恋心に忠実に生きようと決意するし、圭二郎は養育費を払うようになるし、四郎はらっこに押し切られる形ではあるが、子供を育てることを決意する。
 しかし彼らはみんな死んだ。
 何もしようとしなかった三太だけが生き残った。そして今、彼は溺れかけている。なのに、自分が溺れているのだと事実すら、認識しようとしない。まるで閉ざされた時間の中にいた方がいいと無意識のうちに望んでいるかのように。
 人間にとって最も困難なことは、実は「現実をありのままに認識する」ということなのだ。いや、困難と言うよりもそれが「不可能である」と理解するところから全ての表現活動は始まる。もちろん、演劇の場合も然りだ。

 彼らを襲った未曾有の災害に、東日本大震災を想起する観客は多いだろう。しかし、SF作品は、実際の災害や原発事故が起きるずっと以前から、それらに備えず“何もしなかった”人々の愚かさを指摘し、警鐘を鳴らしてきた。『タイムマシン』然り、『渚にて』然り、『日本沈没』然り、『サイボーグ009』も『デビルマン』も藤子・F・不二雄のSF短編も、もちろん『ゴジラ』も。
 『テトラポット』が、なぜSFでなければならなかったかの理由がここにある。SFのみが、我々の「未来の愚かさ」を指摘し続けてきたのだ。80年代までは、SF作品は波こそあれ、常に文学、漫画、映画の最先端を走り、受け手を増やしてきた。しかしマニア化が進むあまり、次第に一般客がSFと関する作品から離れるようになり、「かつてSFというものがあった」と揶揄される事態にまで至ってしまった。
 しかし、我々は、SFという手法を、決して忘れてはならないのではなかったか。「想像の翼」を広げることをやめるべきではなかったのではないか。柴幸男をシュタイナーあたりのオカルトと絡めて語る変人もいるが、誰もマトモに聞いてやしないとしても、こういう狂った誤読がまかり通ってしまうのは、SFの衰退と密接な相関関係があるのである。

 なぜ最後の敵がイカでなければならなかったのか、ただのギャグと解釈する人もいるだろうが、海洋生物で有史以来、伝説やフィクションの中で、人類の最終的な敵として想定されてきたのはイカなのだ。海の怪物クラーケンは、しばしば巨大なイカないしはタコの姿で描かれている。
 SFはその「系譜」をきちんと継承した。『海底二万哩』を初めとして、海洋SFでは「進化したイカ」は、繰り返し描かれてきた。アーサー・C・クラークが大のイカ好きであったことも有名だ。
 人類対イカの対決は、この作品がSFであることの「記号」なのである(『侵略!イカ娘』ってのもあるが、あれはSFと言えばSFなんだが、まあ例外ということで)。


 物語に不満はない。
 演出については、マリンスノーは客席にも降らせた方がよかったのではないかと思っている。あの世界では、観客である我々も「死人」だからだ。

 手放しで賞賛しにくいのは、やはり俳優の力量不足である。
 もともと、福岡の俳優は概して練習不足で表現の基礎もできていない者や、演劇的センスに欠けている者が少なくないのだが、それを柴幸男はかなり見られるものに鍛えてはいる。しかしそれは従来の彼らの舞台を見ているからこそ言えることで、この『テトラポット』だけを見て判断する客は、やはり何だこの下手くそたちは、と思うだろう。
 群唱すると声が合わず、殆ど何と喋っているか分からない。実は、分からなくても「何か変な奴らが変なこと叫んでいるな」と思う程度で、それほど気にはならないのだが、これは戯曲が予め「そう仕立てられている」からで、つまり戯曲に俳優が助けられているのだ。戯曲に何か付け加え膨らませるのが役者であるなら、これは役者失格と言わざるを得ないだろう。
 ギャグがあまり受けていなかったのも、戯曲のせいではない。殆どの場合、役者が間を巧く取れなかったり、声を変え損なって、笑いに繋げられていないのである。たとえば、時間が少しも進んでいないことについて、「さっきも2時46分前後で、今も2時46分前後。前後っていうんなら、前はずっと前で、後はずっと後なんだから、いいんじゃないの?」ととぼけたことを言う四郎に、あとの兄弟が「いやいや」と突っ込むのだが、このタイミングが各自バラバラなのだ。これでは笑いたくても笑えない。
 一番、困ってしまったのは、『ボレロ』の演奏が超絶的に下手くそなことである。下手でもいいから迫力を出してくれればいいのだが、これもクライマックスで音が“滑って”すかしっぺをこいたような終わり方をしてしまう。全人類が死んでるんだから、ここだけ客席にも楽隊を入れて、人数を増やすことをしてくれたらよかったのにと残念に思う。

 柴幸男のインタビューによれば、今回は俳優一人一人に当て書きをして役を作ったということだが、もちろんこれは役者を鍛えるにはあまりにも時間がなかったということもあるのだろう。だがそれが裏目に出た面もある。自分に近い役を演じた場合、演劇的センスのない者は、それがモロに見えてしまうのだ。
 今回の場合、ほぼ全員がSF世界の住人になりきれてはいなかった。現実と虚構のあわいに存在している空気を身に纏うことができなかった。台詞の内容ではない、「言い方」の問題である。素の自分に近い喋り方が、「現実」の方に針を傾けすぎたのだ。それが最も顕著だったのが「いるか」で、彼女は三太を現実に返すキーパーソンである。だから彼女自身は決して現実側に傾きすぎてはいけないのだが、往々にして、「生」な部分が、はっきり言えば「女」の部分が見えすぎた。
 もちろん彼女はこの世界のセイレーンで、いったんは三太を惹きつける必要があるから、「性」を失うわけにはいかないのだが、それは三太を溺れさせるものであってはならない。性的でありながら性的であってはならないという、二律背反のとんでもない要素、つまりは演技力が求められるのである。福岡の俳優にはこれはいささか荷が重すぎたが、こういうキャラクターがいないことには、三太は現実に帰れなくなるから、さすがにこの役だけはいいキャストがいないからカット、という訳にはいかなかったのだろう。
 眼を全国に広げてみても、若手の女優で、「はるか」と「いるか」の両面を併せ持つこの役を演じきれる役者は、そうはいないだろう。でもだからこそ、別キャストで、『テトラポット』の再演を観てみたいとも思うのである。


 蛇足。
 舞台の内容とは無関係だが、「テトラポッド」は株式会社不動テトラの登録商標で、一般名詞としての呼称は「波消しブロック」である。だから劇中での台詞はともかく、タイトルとしておおっぴらに使うのは本当はマズイのである(つか、北芸もタイトル提示された時に誰か気付けよ)。
 訴えられはしないかもしれないが、念のため、ソフト化する時は改題した方がいいんじゃないだろうか。でもこれには「四足獣」としての意味も掛け合わされているから、「波消しブロック」にしたら何の意味もなくなってしまう。と言うか、んなふざけたタイトルが付けられるもんか。何かいいタイトルはないものかね。
 基本的に、私の批評は作り手に何かを要求する目的で書くことはないのだが、この点は気になったので、どなたかが柴幸男氏にお伝えいただけたらと思う。
クーザ

クーザ

CIRQUE DU SOLEIL

福岡・新ビッグトップ(筥崎宮外苑)(福岡県)

2012/02/09 (木) ~ 2012/04/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

生身のファンタジー
 公演ごとにタイトル、設定を変えて演じられる、シルク・ド・ソレイユの最新作。「クーザ」とは、少年イノセントがトリックスターに誘われてやって来た「不思議の国」の名前だ。
 登場してくるキャラクター一人一人に名前があり、彼らの至芸にイノセントは魅せられていく。もちろん観客もである。
 少年の名前が「イノセント(無垢)」であるように、私たちもまた心を無垢にして、クーザの人々が繰り広げるイリュージョンにただ純粋に感嘆の声を上げるばかりである。もしもそのイリュージョンが小手先のものでしかなかったら、誰も感動はしない。やはりシルク・ド・ソレイユのメンバーの芸が、我々の想像を超えて、まさしく一つのファンタジック・ワールドを構築し得ているからこそ、万雷の拍手も起きるのだ。
 演じているのは生身の人間であるから、本当のファンタジーの住人のように、空を飛んだり火を吐いたり変身したりはしない。しかし、空中ブランコも、ダンスも、アクロバットの数々も、人間の身体能力の限界に挑戦し、それらに匹敵するだけの鮮やかな幻想を見せてくれている。
 別れの時間は必ず訪れる。物語が幕を閉じたあと、どの観客の胸にも一抹の寂しさがよぎったことだろう。『オズの魔法使い』や『ナルニア国ものがたり』のように、クーザの世界もまたシリーズにならないかと、心に願ったのは、私だけではないはずだ。

ネタバレBOX

 そう大昔の話でもない。サーカスのイメージと言えば、その煌びやかさの影に何かしらの「闇」を内包していることが常であった。
 小説や映画にサーカスのシーンが登場する時、それはしばしば「逢魔が時」のイメージと重ねられる。『美しき天然』の調べとともに現れる素顔を隠したピエロは、主人公を迷宮に誘い込む魔性の使徒のように描かれることも少なくなかった。
 眉村卓『迷宮物語』のイメージはその代表的なものだが、これがわが国だけの特徴でないことは、トッド・ブラウニング『フリークス』や、『ダレン・シャン』のシルク・ド・フリークの例を見ても明らかだろう。
 サーカスを構成していた人々は、そもそも我々とは違う「異世界のマレビト」であったのである。

 しかし、シルク・ド・ソレイユにはそのような「暗さ」は微塵もない。「太陽のサーカス」と名乗る通り、暗闇の天蓋にあっても、クーザの住人たちはひたすら陽気で、孤独な少年イノセントの心を癒すことだけに腐心している。

 ひとりぽっちで凧揚げをしている少年。凧はいつまで経っても揚がらない。どこかで見たような風景だと思いながらも、舞台を見ている最中は気がつかなかったが、あれは漫画『PEANUTS』のチャーリー・プラウンの定番のシーンにそっくりだ。
 どんなに努力しても揚がらない凧。やることなすことうまくいかない、草野球でも一度も勝てない、そして友人たちからはちょっとバカにされている移民の子のチャーリー。誰も、彼の孤独な魂には気がつかない。
 イノセントの周りにも、友達は誰もいない。楽しいサーカスを観に来たはずなのに、私たちの前に最初に提示されるのは、どこまでも寂しく哀しい、少年の傷つきやすい心なのだ。

 クーザの住人たちがイノセントに与える「夢」は、いずれ効力が切れる魔法などではない。
 彼らはファンタジーの住人だが、彼らの見せる「芸」は、人間が肉体の限界に挑戦することで紡がれる夢だ。

 キングとそのお供の二人のクラウン。
 クーザの王でありながら、やってることはたいてい客いじり。舞台に出るたびにアナウンスで「舞台から離れなさい!」とお叱りを受ける。嫌がるお客さんを舞台に引きずり出して、消失マジックにかけるあたりまでは予測が付いたが、銃声一発、客席の一つが突然“せり上がって”、お客さんが晒し者になったのには驚いた。ちょっとしたドッキリカメラである。
 マッド・ドッグ。
 その名の通りのイカレた犬。もちろんぬいぐるみで本物の犬ではない。イノセントにまとわりついて離れないこともある。
 へイムロス。
 鉄カブト、ヨロイに身を包んだ地下の住人。なぜそこにいるのか何をしているのかよく分からないが、幕間の「休憩」時間を教えてくれる。
 ピックポケット。
 変装の名人で、狙った獲物は必ず頂く大泥棒。と言うかスリ。お客さんから本当にサイフやネクタイをすりまくっていたから、本業なのであろう(笑)。警官は彼を追うのに血眼だが、ところがこれが捕まらないんだな。でもイノセントからは何も盗まない。
 スケルトンたち。
 骸骨なんだが、顔はどっちかというとドクロと言うよりも『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のジャック・オ・ランタン。彼らがいるということは、クーザは死後の世界なのだろうか。
 そしてトリックスター。
 宝箱の中から忽然と現れて、イノセントをクーザの世界に連れてきた張本人。神出鬼没、彼が振るうステッキで、世界はいかようにも変化する。どうやら彼がクーザの世界の創造主らしいのだが、なぜイノセントを選んだのか、それは最後まで分からない。

 1.Charivari(シャリバリ)
  19名のダンサー、アクロバッターによるオープニング・パフォーマンス。
  中央の巨大な三層ステージの屋上から下のトランポリン目がけてダイブする(10メートルはあろうか)アクションで、いきなり客の度肝を抜く。
 2.Contortion(コントーション)
  三人の少女が、軟体動物のように体をくねらせ、えびぞったり積み重なったり。あれだ、往年のキング・アラジンの芸を思い出していただければ。
 3.Solo Trapeze(ソロ・トラピス)
  サーカスの花形、空中ブランコが早くも登場。あのブランコ、正式にはトラピスいう名前らしい。演じるのは女性1人だ。よくある2人組、3人組での空中タッチなどはないが、たった一人でも、バトンから手が離れるたびに、歓声と言うよりは悲鳴が起きる。喉が鳴ります、牡蠣殻と。
 4.Unicycle Duo(ユニサイクル・デュオ)
  一輪車に乗る二人組の男女。車上でダンスするだけでなく、男が女を軽々と持ち上げるのだから、 どれだけバランス感覚が凄いか。
 5.Double High Wire(ダブル・ハイ・ワイヤー)
  3人の男性による綱渡り。チャップリンの『サーカス』でもメインになった芸だが、今の観客はあの程度ではもう驚かない。綱の上でジャンプする、相手を飛び越える、椅子の上に乗る、肩車で立つ、縄跳びをする、自転車に乗る……。さほどふらつく様子も見せず、地上の動きと何ら変わりがないように見えることに驚嘆。
 6.Skeleton Dance(スケルトン・ダンス)
  豪華絢爛な骸骨たちのダンス。彼らを束ねる骸骨王は何者なのか? バックステージで踊るシンガーの歌声とダンスにも魅せられる。
 7.Wheel of Death(ホイール・オブ・デス)
  命綱もなければトランポリンもない。空中で回転する巨大な二つのホイールの上で、走り、ジャンプする二人。この眼で見ても、本当の出来事だとは思えないくらいに圧巻。観客の歓声が最も多く上がった、本ステージの白眉。
 8.Hoops Manipulation(フープ・マニピュレーション)
  アクロバチックなのにセクシー。女性の回すフープの数がどんどん増えていく。
 9.Hand to Hand(ハンド・トゥ・ハンド)
  男女の「愛」を二人の「バランス」で表現する。男性の周りを軽やかに動いて、時には肩や腰の上に足一本で立ってみせる。バランスが崩れれば愛も壊れるのだ。
 10.Balancing on Chairs(バランシング・オン・チェアー)
  椅子が1脚、また1脚と積み重ねられていき、その上でパフォーマンスを繰り広げる演者の男性。あれだけ危うい姿勢、片手だけでポーズを取っていて、なぜ椅子が崩れないのか、不思議としか言いようがない。
11.Teeterboard(ティーターボード)
  クライマックス。シーソーで空中に舞い上がる演者たち。空中できりもみ回転してトランポリンに着地、さらには他の演者の肩にすっくと立ってみせる。縁者たちはイノセントにもジャンプを促すが、彼は固持する。
  もう、別れの時が近づいていたのだ。

 波が引くように、ダンサーたちは舞台からいなくなる。
 トリックスターも、魔法のバトンをイノセントに渡して消える。
 舞台に残ったのは、イノセントとキングの二人だけ。
 どこかに飛んでいったはずの凧を返してもらい、イノセントはキングから王冠を手渡され、それを被る。それは、彼がクーザの世界にいたことの証だ。
 イノセントはまたひとりぼっちになる。
 けれども、以前のように、その心までが孤独ではなくなったことは間違いのないことだろう。それは、クーザの世界に触れた観客がやはり、胸いっぱいの幸せを噛みしめているからである。
がっつり演劇LOVE わーくしょっぷ 発表会

がっつり演劇LOVE わーくしょっぷ 発表会

福岡市文化芸術振興財団

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/02/19 (日) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度

シロウトだからではない
 『再/生』を楽しく観ることができたので、こちらも期待して観に行った。
 結果を言えば、ワークショップのシステムは面白かったが、出来上がった作品は何一つ見所のないつまらないもので、すっかり落胆してしまった。
 シロウトの集まりだからつまらなくなっているわけではない。ワークショップのやり方そのもの、多田淳之介の演出自体に重大な欠陥があるのだ。『再/生』と違って、この発表会の方は、観客の想像力が一切喚起されない。観客は置いてきぼりを喰らってしまうのである。

 想像力が喚起されないのは当然である。多田氏は、このワークショップでは、『再/生』とは全く正反対の演出を施している。アフタートークで多田氏自身が発言していたことだが、『再/生』は俳優同士にコミュニケーションを一切取らせなかった。それに対して、ワークショップは、コミュニケーションをとらせることをテーマにしているのだ。
 コミュニケーションを取らせなかったからこそ演劇として成立していた舞台を、根底から覆すような演出を試みれば、演劇になりようがないのは自明ではないか。

 『再/生』の舞台に立っていたのは、紛れもなく「俳優」であり、一人一人が「人生」を背負ったキャラクターとして生きていた。しかしワークショップの舞台に立っている人たちは、ただの「ワークショップの参加者」でしかない。そうとしか見えない人々に対して、想像を働かせることは不可能である。
 これはただのワークショップ発表会であって、演劇ではない、という言い訳は成り立たないだろう。「演劇LOVE」とまでタイトルに堂々と冠しているのだから、たとえ出演者がシロウトであろうと、出来上がったものは「演劇」になっていなければ、看板に偽りありと誹られても仕方がないはずだ。

 どうにも理解不能に陥ってしまうのは、どうして多田氏は、一目瞭然、できあがったものが、演劇にも何にもなっていないという、単純な事実に気付かなかったのだろうかということだ。それとも舞台上の登場人物がただ雑然と行き来するだけの舞台が、演劇として成立しているとでも思っているのだろうか。
 多田氏も果たして演劇人としての腕が一流なのか三流なのか、よく分からないところがあるようだ。

ネタバレBOX

 舞台に集まった発表者のみなさんが、自分の名前(ニックネーム)を書いた「ゼッケン」を胸に付けていたのを見た時点で、すっかり落胆してしまった。
 これではこの人たちが「ワークショップの参加者」以外の何者にも見えないではないか。
 舞台で、俳優が衣装を着けるのは、その「キャラクター」を表現するためではない。その外形と内面との乖離から、観客の想像力を喚起させるためである。たとえば、王様の姿をした人間が。本当に王様であるとは限らない、仮に本当に王様であったとしても、その心が必ずしも王として相応しいものではないかもしれない、即ち衣装とは、そういう「疑い」を観客に抱かせるためのきっかけに過ぎないのだ。
 一見、Aと見えるものがAではないかもしれないと疑わせるところから、「演劇」は始まるのだ。だからこそ、「誰とも特定できない衣装」だってあり得るわけである。

 もしも、五十歳を過ぎた男性と女性が向かい合っていて、女性が着飾っているのに、男性はラフなジャージ姿だったりしたら、この二人はどういう関係にあるのだろうと、観客は想像を巡らすだろう。しかし、「名札を付けた二人」なんて存在が、現実世界で、相対するようなことがありえるだろうか。
 多田氏はさらに、彼らに「“LOVE”」について語らせるのだが、次のような会話が、現実世界のどのようなシチュエーションでなら起こりえるだろうか。

 「LOVEって何だろうね」
 「俺は、LOVEって、許すことだと思うんだ」
 「ああ、うんうん」

 世間は広いから、もしかしたら家族や友人や職場の同僚同士で、こんな会話をしている人たちもいるのかもしれないが、少なくとも私は、家族から「LOVEって何だと思う?」なんて聞かれたら、「はあ?」と呆れて、相手の脳がイカレたんじゃないかと疑うだろう。
 まず、これは絶対に「家族の会話」ではない。新劇だろうが現代口語演劇だろうが、こんなふざけた台詞を書いたら、劇作家は観客から石を投げられたって文句は言えない。
 こんな非現実的な会話を臆面もなくできる状況があるとしたら、私には「自己啓発セミナー」とか新興宗教の会合くらいしか思い付かない。こんな他人の「癒されごっこ」を見せられて、それを面白がるような下品な感性が一般人にあると多田氏は考えているのだろうか。

 参加者たちは、一様に楽しげに、多田氏の演出通りに動いてみせる。
 二人が背中合わせで会話する。
 四人のグループが、輪になって会話する。その輪が舞台いっぱいに広がる。一人だけが背中を向けて仲間はずれになる。
 台詞を使わずに、立ったり座ったりでやりとりする。拍手だけでやり取りする。
 ワークショップで何を行ってきたかの過程を示しながら、多田氏は、どんな形を取ろうがコミュニケーションは成立することを説明していくのだが、それは「表現の原理」であって、「演劇」ではない。それはせいぜい、「あ」という発音が、それだけでも意味を持って受け止められるという言語の原則的なレベルの事象に過ぎないのだ。
 確かに、拍手の仕方や、立ち上がり方などで、そこに喜怒哀楽の感情が生まれているようには見える。しかし、その感情が観客にも共感を持って迎えられるためには、そこにいるのが「ワークショップの参加者」であっては困るのだ。彼らに、何の立場も役柄も与えられていない以上は、多田氏の言うようなコミュニケーションは、本人たちの間には生まれていても、観客席までは届かない。

 四日間の練習期間しかないわけだから、通常の演劇のように、台本を持って台詞を覚えて、というやり方が不可能であることは分かる。エチュードによる即興芝居を試みるしかない、というのは逃げでも何でもなく、短期間で演劇の面白さを参加者に感じさせつつ、観客にも楽しんでもらう手段としては適切だろう。
 しかし、表現の原理を確認する段階で留まっていたのでは、せっかく「50歳からの」と冠した意義が殆ど失われてしまう。一人一人の仕草にそれなりの個性は感じられても、「人生」までは見えてこないのだ。

 第1回福岡演劇フェスティバルでも披露されていた「イッセー尾形の作り方・ワークショップ」をご記憶の方もいらっしゃるかと思う。
 あの発表会もまた、今回のワークショップと同じように、全くのシロウトを集め、やはり四日間という短期間で、台本のない即興芝居を立ち上げていた。しかも舞台上に、家族や、友人や、会社の同僚と言った人々の関係性と、彼らが織りなす人生の一編を切り取ったようなドラマまで作り上げていたのだ。
 それが演出の森田雄三と、多田淳之介の力量の差であると言ってしまえばそれまでであるが、多田氏は「シロウトなんだからこれが限度」という限界を初めから想定してしまっていたのではないだろうか。

 アフタートークでは、多田氏は「みなさんがなかよくなれれば」というようなことを話されていた。別に参加者が仲良くなることがよくないと言いたいわけではないが、目的は仲良しこよしではなくて、「舞台を作ることの面白さは何なのか」ということではないのだろうか。
 最後のステージで、参加者全員が昨日の『再/生』のように舞台上を自由に交錯しながら、昨日は決してしなかった「握手」を交わしてばかりいるのを見ながら、やはりこれは「仲のよさ」ではなく、「馴れ合い」を見せられているだけだなと、暗い気分にさせられてしまったのである。
再/生

再/生

東京デスロック

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/02/18 (土) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★

再生・再生・再生・再生・再生…・・・
 観劇に際しては、できるだけ先入観を持たずに見ようと心がけてはいるのだが、この『再/生』にはかなり意表を突かれた。
 最初にモノローグ、途中にちょっとした会話が行われはするものの、80分間、男二人、女四人の役者は、伴奏に合わせてただひたすら踊りまくるだけなのだ。しかしそれは決して無秩序というわけではなく、綿密に計算されていることに少しずつ気付かされていく。
 すると、最初は「踊っているだけ」に見えていた舞台が、俄然面白くなってくる。そこに演劇的な仕掛けがちゃんとあって、人間やら人生やら世界やらを象徴するものも見えてくるようになるのだ。
 実際、よくこんな変な演出を思い付いたものだ。客によっては「これは演劇なのか」と憤慨するのではないかと、余計な心配までしたくなってしまう。斬新と言うよりは「勇気がある」と呼んだ方がいいのではないか。
 この舞台には無駄な説明は一切無い。独白や会話は必要最小限に抑えられている。それはつまり客に媚びていないということである。だからと言って、前衛を気取って抽象的すぎる演出を施しているわけでもない。基本は単純なのだ。ただ「踊り続けること」。それだけで観客に伝わるものはきっとあると、演出の多田淳之介は信じているのだろう。それは、演出が「演劇の効力」を信じているということであり、またそれによって喚起される「観客の想像力」を信頼しているということでもある。
 我々は信頼されているのだ。これを愉悦と呼ばずして何と呼ぼうか。この舞台から何を受け取るか、あとは我々観客の側の問題である。

ネタバレBOX

 何もない舞台、背景は白いスクリーン(照明で俳優たちの影が映る)。
 舞台に散らばって佇む六人の男女。中央の女性が、おもむろに語り始める。
 「私は、自分が幸せでないことに気付いた」と。
 長い間があって、曲が流れ始める。
 サザンオールスターズの『TSUNAMI』。
 踊り出す六人。それぞれのダンスは全くバラバラで、統一性が全くない。コンテンポラリーなダンスを踊る女がいれば、軽やかにステップを踏む男もいる。器械体操的な振り付けの男や女もいる。
 見ているうちに、それらのダンスが、一人一人の生活と人生を象徴しているように感じられてくる。生真面目さや頑固さ、器用と不器用、軽快さと鈍重さ、人間は本当に様々だ。
 彼らは舞台を縦横に動き回る。しかし、交錯しても彼らが関わり合うことはない。二人で手を取り合ってダンスすることは決してない。そこに群衆の中の孤独を見出すことも可能だろう。あるいは逆に、集団の中にも埋もれることのない屹立した「個」を発見し、快哉を叫ぶことも可能だろう。
 解釈が観客に任されているのは、まさしくその部分だ。

 かかっている曲が『TSUNAMI』であることも、我々に様々な想像を誘う要素になっている。
 あの東日本大震災後、某音楽番組で、オリコン一位になった曲であるにもかかわらず、題名が呼ばれなかったという曰く付きの作品だ。
 もちろん、もともとの『TSUNAMI』は東日本大震災とは何の関係もないラブソングである。だからこの曲が使用されていることに何かの「意味」を見出そうとした場合、それは震災に関連付けるか付けないかで全く変わってくるだろう。
 「これは震災後の復興、人々の再生をテーマにしたいのだろう」と解釈するのももちろん観客の自由だが、そもそも『TSUNAMI』という題の曲であることを知らない観客なら、「解釈」のしようもない。普通に彼らは恋のダンスを踊っているのだろうと思うだけだろうし、その解釈が間違いであるということもない。

 ただ既にここで「再/生」というタイトルが示す通り、『TSUNAMI』は二度「再生(リピート)」されるのである。
 この「繰り返し」が重要な意味を持ってくるのは、次の曲だ。
 
 ザ・ビートルズ『オブラディ・オブラダ』。
 デズモンドとモリーの恋を歌った楽しい曲でありながら、解散寸前のビートルズにとっては何の愛着もない歌であり、アンチファンも少なくない。「ワースト・ソング」のアンケートを取ると、必ず上位に来るという歌でもある。
 「オブラディ・オブラダ」というフレーズには「人生は続く」という意味があるとされるが、実は適当な囃子ことばに過ぎない。
 これが実に8回、繰り返されるのである。アフタートークで多田氏が「5回くらいがちょうどいいんだろうが、あえて8回繰り返した」と述べていたが、実際には3、4回繰り返されたあたりで、ウンザリしてくる観客も少なくなかろうと思われる。もっとも私の場合は、その4回目あたりで「覚悟」を決めた。
 多田氏はご存じないようだが、アニメファンにはこの「8回繰り返し」は『涼宮ハルヒの憂鬱/エンドレスエイト』の八週連続放送というやつで「免疫」ができているのである。繰り返される理不尽な日常に無理やり付き合わされる、というのは、実は「現実世界」でも往々にして起こりうることなのだ。「エンドレスエイト」とは、まさしくそのメタファーであった。

 ここがこの『再/生』という舞台を評価するかしないかの分かれ目にもなるのだろう。
 人生は単調な毎日の繰り返しである。その永遠に続く牢獄のような世界に堪えうるかどうか、それに堪えた者だけが「超人」となりうると説いたのはニーチェだったが、さて多田氏がニーチェの永劫回帰の思想をこの舞台に持ち込むつもりで「八回繰り返し」などいう冒険に挑んだのかどうか、それは分からない。
 しかし少なくとも、実際の舞台で「見えてくる」のは、同じ曲に乗せて同じダンスを繰り返しながらも、少しずつ「疲れていく」、しかしそれでもなお「踊り続ける」俳優たちの姿である。
 たとえ単調で陳腐な毎日であっても、私たちはその平凡さに堪えてこの世界で生きている。「エンドレスエイト」の終了後に交わされる、俳優たちの「焼肉談義」。何の変哲もない会話が、ありふれた日常が、実は私たちの「平和」の象徴なのではないか。
 いつ果てるともしれない「オブラディ・オブラダ」の果てに投げかけられた、「カルビって、三人前ぐらい食べれません?」という腑抜けた言葉が、愛おしく感じられるようになるのだ。

 相対性理論の『ミス・パラレルワールド』、続いて『ラストダンスは私に』(歌い手は越路吹雪でないことは確かだが、誰がカバーしているかは分からなかった)が一回ずつ、これは「再生」なし。
 曲は「ラストダンス」なのに、これで終わりにならないところ人を食っている。クライマックスは次の曲。

 perfume『GLITTER』の三度リピート。
 最も激しいダンスを披露したあと、俳優たちは床に倒れ伏す。
 これまでも「立っては起き上がり」という「再生」を繰り返す動きを全員が繰り返していたが、今度は完全に力尽きたように、床に大の字になり、荒い息をして、そのまま身動きもできずにいる。
 しかし曲は繰り返されるのだ。立ち上がり、再び踊り始める六人。汗を飛ばし、服も乱し、それでも「再生」し続ける彼ら。歌詞の「なんでもきっとできるはず」というフレーズが、彼らを応援していると言うよりは、揶揄しているように聞こえてしまう。
 妥協のないその姿勢には、「ここまでやってこそ俳優」という言葉を捧げずにはいられなくなるのだ。「キラキラの夢の中」にいるのは彼らだ。

 ジョン・レノン『スターティング・オーバー』がかかり、彼らは舞台から去っていく。余韻と言うよりは、呆気に取られたまま、拍手をすることも忘れて彼らを見送ってしまったが、改めて俳優たちの「気力」と「体力」に惜しみない拍手を送りたい。

 公演を重ねるごとに、曲が変わり、台詞も変わり、ダンスも多彩になっていくようである。人生の数が人の数だけあるように、『再/生』の舞台も千変万化していくのであろう。数年後、また『再/生』が再生されることがあれば、それはどのような形を取るのか、観てみたいと思う。

 「“東京”デスロック」と言いつつ、多田氏は東京から拠点を埼玉県に移し、地方での演劇振興に力を入れてくれている。
 それは、かつてそれぞれの地方が「クニ」の文化として独自の発展をし続けていたにもかかわらず、明治以降の中央集権制で崩壊してしまったこと、そのことが日本文化全体の沈滞に繋がってしまったことを認識した上で、どうすれば「再生」は可能なのか、と多田氏が自問自答した結果なのだろう。
 我々観客は芝居を楽しんで観るだけだが、問題は、このような新劇の流れとも、多田氏が所属していた青年団「静かな演劇」の流れとも違う「面白さ」を受容できるキャパシティが、我々観客の中にどれだけ培われているか、その点に集約されるように思える。
日韓演劇フェスティバル in Fukuoka

日韓演劇フェスティバル in Fukuoka

日本演出者協会 福岡ブロック

大博多ホール(福岡県)

2012/02/11 (土) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度

劇団ヌリエ『恋愛』
 昨年度の釜山演劇祭で最優秀賞を受賞した劇団だそうである。
 しかも無言劇だというのだから、どんなに斬新で面白い舞台になるかと期待もしようというものだ。
 ところが実際の舞台は学芸会を一歩も出ていない幼稚極まりない代物。これが最優秀なら釜山の演劇レベルは著しく低いと言わざるを得ないくらいに酷い出来だったのだ。
 福岡の場合もそうだが、一つの劇団が“腐って”いくのには様々な要因があるが、その最大の理由として、「よい舞台をろくに観ていない」 という点が挙げられる。恐らく劇団ヌリエの人々は、無言劇(パントマイムとは違う)をろくに観たことがないのだ。
 だからなぜ無言でなければならないのか、その理論が全く分かっていないのだ。
 これはもう、演技や演出がどうこうという以前の問題で、観客にしてみればとんだ詐欺に逢ったも同然である。今後も日韓演劇フェスティバルは続いていくのだろうが、運営側には事前のリサーチは充分にしてもらいたいと切に思う。

ネタバレBOX

 パントマイムが身体表現のみで演劇を成立させることを目的としているのに対して、無言劇は現実世界における無言の時間を切り取って、対話がなくとも成立する時空間を提示することにある。
 つまり、パントマイムにおける無言は演劇の「手段」だが、無言劇のそれは作品世界の中の「必然
」なのだ。マイムの場合は、観客はなぜ舞台上の人間が喋らないのか疑問に感じることはないが、無言劇においては「彼らはなぜ無言でいるのか」について想像を巡らせることになる。それが無言劇の「演劇的効果」だ。

 好意的に解釈すれば、劇団ヌリエは、パントマイムと無言劇の中を狙ったのかもしれないと考えられなくもない。しかしそう考えてみても、どうにも首を傾げざるを得なくなるのは、部分的に台詞を喋らせてしまっていることだ。しかかもたどたどしい日本語で。

 アフタートークで、日本語の台詞を喋らせた理由について、演出家は「無言では持たなかった」と正直過ぎることを答えていたが、ならば最初から普通に韓国語で通常の芝居をすればよかったではないかと腹立ちすら覚えてしまった。
 「優秀な学生はみんなソウルで学んで、釜山は演劇の指導者も少なかったが、最近は改善されつつある」ということであったが恐らくはまだまだ発展途上だというのが実情なのだろう。
 学生の発表会を見せられたようなものだが、演劇の事前情報や前評判はほとんど当てにならないというのが普通だから、これはもう、悪いものに当たって、食中毒でも起こしたのだと思って諦めるしかない。





ミュージカル「テニスの王子様」 青学vs六角

ミュージカル「テニスの王子様」 青学vs六角

テニミュ製作委員会

TOKYO DOME CITY HALL(東京都)

2012/02/09 (木) ~ 2012/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

大千秋楽
 面白い。
 しかし、この面白さをどう伝えたらいいものか、言葉の選び方次第では、ただのギャグのように聞こえてしまいはしないかと危惧するのである。
 CoRichには小劇場ファンは多くても、演劇全般のファンは少ない。許斐剛原作の『テニスの王子様』を未読の人も多いだろうし、これまでのあらすじを説明するだけでも手間がかかる。ましてや、そのファン層の中核を成す「腐女子」の説明までし始めたら、とんでもない長文になってしまう。
 ここはもう、「この手の世界」をよく知らない人は、とりあえず、この『ミュージカル・テニスの王子様(愛称:テニミュ)』が、2003年より連続公演を繰り返し、日本では例を見ないヒットシリーズになっていること、その魅力は決して原作ファンのみが楽しめる狭い世界に留まるものではないということを理解してもらいたいと思うのだ。
 俳優たちはみな新人である。演技は決して巧くはない。しかし、このミュージカルを成功に導いているのは演技の巧拙ではない。青春の情熱を、彼ら若手俳優たちが自ら体現してくれているからだ。心の赴くままにジャンプしダンスする、その汗と涙が観客の心を打つからなのだ。本気で踊っているから、息は切れる、音程は外れる。でもそれは口パクじゃない、彼らが「本気(マジ)」だという何よりの証明ではないか。
 原作マンガで、故障してもなお試合に出場、勝利した選手がいたように、実際の舞台でも、足をケガしながら公演中、痛みに耐えつつ連日踊り続けた俳優がいた。
 作り物ではない、本物の「青春」を、我々は『テニミュ』の舞台に見ることができる。日本の三大ミュージカルは、劇団四季、東宝ミュージカル、宝塚歌劇団だとよく言われるが、前二者が海外の「借り物」ばかりであるのに対して、『テニミュ』は純然たる和製ミュージカルである。その事実はもっと声を大にして指摘してよいことではないだろうか。

ネタバレBOX

 1st..シーズンの放送をテレビで観たのはもう十年近く前になるのか。
 何の気無しに観てみただけだったから、その斬新な演出には度肝を抜かれた。既にテニミュファンが散々指摘していることだが、テニスのラリーをピンスポットの照明で表現、これが本当にボールが飛んでいるように見えるから、まるで魔法だ。
 もちろんミュージカルだから、歌とダンスは欠かせないが、これが試合で窮地に陥った時に一曲歌うと、そいつは格段に強くなるのである。ミュージカル嫌いはよく「いきなりの歌い出し」が不自然だと文句をつけるが、歌って強くなれるのなら、そりゃ歌うだろう。いや、別にそんな設定があるわけではないが、「そのように見える」ことが重要なのだ。
 なぜ、『テニスの王子様』を、通常の映画や演劇ではなく、ミュージカルにしようと発想したのか、もちろんそこには新人売り出しのための商売上の原理が働いてはいるのだが、それが結果的にはこのシリーズに、他の舞台とは一線を画した斬新さを与えることになった。
 「商売上の原理」と書きはしたが、ただ新人を売り出すためなら、まずは俳優ありきのキャスティングになっていただろう。しかし、オーディションで選ばれた歴代のキャストは、いずれもまるで原作から抜け出てきたようなそっくりのイメージの俳優ばかりで、制作者たちが、この舞台を成功させるために何が肝要であるかを知悉していることが見て取れる。
 小越勇輝くんの立ち姿を見れば、ここに越前リョーマがいる、と誰もが感じるはずなのだ。

 今回の「青学VS六角」編は、いきなり部長の手塚国光(和田琢磨)のリタイヤから物語が始まる。
 手塚は、先の氷帝戦で肩を痛めて治療に専念することになっていた。
 俳優が新人ばかりだから、全体的に演技は拙いと書きはしたが、試合に出られぬ苦悩を手塚役の和田くんは、抑制の利いた静かな演技で好演していた。ライバルである氷帝の跡部景吾(青木玄徳)が、イケメンだがナルシストのお笑い担当なので(何しろそのカリスマ性ゆえに森の動物たちまで後を追いかけてくるのである)、手塚の苦悩は反作用的に深刻に見える。

 次の対戦相手、実力高である六角中を、手塚不在のままいかにして倒すか。青学メンバーは、みな敵の意表を突く攻撃に翻弄されることになる。
 マンガが原作であることの「強み」は、ここで一段と発揮されてくる。ライバルの六角選手たちが、みなキャラクターとしてエキセントリックで、決して一筋縄ではいかないことをその大仰なまでのデザインや、台詞や演技で体現してくれているからだ。まあ、天根(木村敦)のダジャレはことごとく滑っていたけれど(「爺さんなのにババロア」だよ)。
 六角選手中、誰が最強かって、そりゃ部長の葵剣太郎(吉田大輝)だ。テニスをやってる動機が「女の子にモテたい」だもの。ストレートにもほどがある。対する海堂(池岡亮介)は「やつには何か信念を感じる」なんて言うんだが、それ、煩悩ですから(苦笑)。
 こういう下品なキャラは、女の子からは絶対に人気が出ないので、演じる吉田くん、ちょっと割に合わない役をやっている。ところが彼がカーテンコールでその天然ぶりを発揮して、場を攫っちゃったから面白い。和田くんを役名じゃなくて「和田部長役の」と言っちゃうし、今回が初参加で「付いていけるか(不安だ)な」と言うべきところを「追いついてこれるかな」と言っちゃうし。
 腐女子諸君も、イケメンばかりをフィーチャーしないで、吉田くんにもエールを送ってほしいものだ。

 物語は、敗退した氷帝が推薦枠で再び参戦することと、リョーマの次戦への決意を示して終わる。
 今回、リョーマの見せ場がほとんど無かったのは残念だが、『テニミュ』はもちろんこれで終わりではない。リメイクという形で2nd.シーズンに入っているが、原作はさらに続編も描かれている。3rd.シーズンばかりでなく、新シリーズもまたきっと立ち上がってくるはずだ。
 彼らの熱い青春は、決して終わらない。

 福岡では、キャナルシティでの生公演もあったのに、ライブビューイングで大千秋楽を観ることにしたのは、カーテンコールでの彼らの「絆」を観てみたかったこともある。
 青学も、氷帝も六角も、彼らは素でもチームだった。言葉は拙い。みんな「ありがとう」としか言えない。でもそれで充分ではないか。次回公演は全キャスト大集合の「大運動会」。さてこれはライブビューイングがあるのだろうか。
Hobson's Choice -ホブソンの婿選び-

Hobson's Choice -ホブソンの婿選び-

無名塾

ももちパレス(福岡県)

2012/02/10 (金) ~ 2012/02/18 (土)公演終了

満足度★★★★

仲代達矢の Hobson's Choice
 「仲代達矢役者生活60周年記念」というサブタイトルが付いている(パンフレットは仲代さんの写真集にもなっている)。デビューは1954(昭和29)年、黒澤明監督『七人の侍』の通りすがりの名もない浪人。わずか数秒のエキストラに過ぎなかった。
 それが国内外の数々の名画、名舞台に出演し、「世界の仲代達矢」にまでなったのだから、その記念作に何を選ぶかは演劇、映画界にとって注目の的であったと思われる。しかし、それが名匠デヴィッド・リーン監督による、ベルリン映画祭金熊賞受賞作とは言え、純然たる「喜劇」である『ホブスンの婿選び』であったことに驚いた向きも少なくはなかったのではないか。
 けれども、意外なほどに、と言っては失礼だが、仲代達矢はこれまで喜劇も多数、演じてきている。突っ込まれて「受け」た時、ボケる間が絶妙に巧い。今回も、飲んだくれの癇癪持ちのホブソン役を、「詰め物」もしているのだろうが、オリジナル版のチャールズ・ロートンよろしく、腹を揺らして楽しげに演じている。「モヤ」さんとあだ名されている通り、喜劇の場合の仲代さんは、どこか茫洋として、熱演しても熱演に見えない。生来の持ち味なのだが、今回もそれが発揮されて、舞台に「和み」を産んでいる。
 なるほど、記念作に『ホブソン』を選択したのはまさしく「Hobson's choice(=唯一の選択)」だったのだなと、納得させられたことだった。

ネタバレBOX

 その昔、トーマス・ホブソンという配達夫がいて、副業で「馬貸し」もやっていた。飼い馬には、良馬もいれば駄馬もいたが、借りに来る連中は当然、良馬ばかりを借りたがる。そこでホブソンは、出口に近い馬から順番に貸し出すルールを作り、顧客の貧富に関わらず、これを押し通した。
 その故事から生まれた成語が「Hobson's choice(=選択の余地無し、究極の選択)」である。

 支配的な頑固親父と、結婚適齢期(多少過ぎ)の三人娘の葛藤、という筋立ての舞台で真っ先に思い浮かぶのは、ショラム・アレイハム作『屋根の上のバイオリン弾き』だろう。昨年観劇した『焼肉ドラゴン』もこのパターンを継承していたから、これはもうドラマの一つの定型パターンであると認識して構わないようだ。
 三人のうちの一人が「幸せになる」というのならば、このパターンは『シンデレラ』にまでルーツを遡ることができる。しかし、残念ながらあの前近代的メルヘンには「父親」が存在していない。これはあくまで近代文学における「父性と「母性」との対立の物語なのだ(父と娘という形は取っているが、娘が体現しているのは極めて本能的な母性である)。
 そしてそれは、父性が歴史の中で連綿と築きあげてきた「封建制」に対して、原初的な母性が反逆を翻す物語でもある。
 そう考えていくと、この物語のルーツは、改めてシェイクスピア『リア王』にあったのだと見なすことができそうである。それ以前にこのパターンが存在していたかどうか、非才の身ゆえ断言はできかねるが、恐らく明確な形式としては無かったのではないか。日本の須佐之男にも三人娘がいたが、特に父親に反逆した形跡はない。
 シェイクスピアが「近代文学」の祖であることの、これも一つの証明になるのではないか。観劇しながらそんなことをぼんやりと考えていた。

 物語は、長女マギー(渡辺梓)が、根性無しのヒョウロクダマである靴職人・ウィリー(松崎謙二)を立派な男に「調教」する“逆”『じゃじゃ馬馴らし』な展開もあるから、作者のハロルド・ブリッグハウスが、この物語をシェイクスピアのパロディとして書いたことは間違いないことだろう。
 『リア王』では父親も娘も結局は“共倒れ”してしまうが、フェミニストのブリッグハウスは、そんな「痛み分け」みたいな結末はよしとしない。「男が女に勝てるわけ無いじゃないの」とばかりに、ダメな男どもを翻弄するのである。
 ついでに言えば、主人公ホブソン(仲代達矢)の名前は、ヘンリー・ホレーシオと言う。いかにもシェイクスピアの作品から名前を借りてきました、というのが見え見えの、オアソビのネーミングだ。そして、仲代達矢が黒澤明監督『乱』で、“リア王”一文字秀虎を演じていたことを思えば、この配役が「二重のパロディ」を意味することにニヤリとされるファンも多かろう。

 ヘンリー・ホブソンは、昼間から「酔いどれ亭」で飲んだくれているような道楽親父だが、商売のホブソン靴店は、名職人のウィリーと、切り盛り上手のマギーのおかげで繁盛している。
 三人の娘たちはもう結婚させてもいい年頃で、実際、次女のアリス(松浦唯)と三女のヴィッキー(樋口泰子)にはそれぞれ恋人がいる。ところが女手が足りなくなるのと、持参金惜しさに、ヘンリーは娘たちの結婚を一切認めようとしない。一計を案じたマギーが取った手段が、ウィリーの調教と、店からの「独立」だった。
 ウィリーを「主人」に、新しく店を作ったところ、顧客はこぞってウィリーの店に鞍替え、ヘンリーはたちまちジリ貧に陥ってしまう。酒で健康が悪化し、さらに訴訟沙汰にまで巻き込まれて(もちろんマギーが影で糸を引いている)、にっちもさっちもいかなくなり、残された選択肢はたった一つしかない。マギーとウィリーに頭を下げて戻ってきてもらうことだけ、というのがタイトル通り「ホブソンの選択」だったという落ちである(この期に及んでもなんとか給金を値切ろうとけちくさく交渉する仲代達矢の演技がまた可笑しい)。

 シェイクスピアの『リア王』は、もちろん「選択を間違えた男の悲劇」である。最も自分に忠実な身内は誰なのか、人は往々にして見誤る。しかし父親の身をコーディリアが本気で心配していたのなら、もう少し巧く立ち回ったのではないか、という疑念を抱かないではいられない。彼女もまた、あまりにも自分の感情にストレートで愚かすぎるのだ(だからあの父にしてこの娘ありなのだが)。
 その点、マギーは実に巧く男どもを操ったと言える。頑固親父のヘンリーが「骨抜き」にされていく様子は観ていて実に小気味いい。仲代達矢が従順にこっくりと頷く仕草の「可愛らしさ」などは、『乱』を観た直後に見比べたなら、抱腹絶倒してしまうのではなかろうか。
 無名塾では中堅の、松崎謙二の「変貌」ぶりも目を見張る。軟弱な田舎者だったのが、一転して全ての問題を収拾する「男」となって再登場するのだが、そのウィリーも最後の最後で、やはりマギーの掌上にあったと分かる落ちは、「女性上位の時代」を礼賛したブリッグハウスの快哉だったと言えるだろう。まさしく「歴史は女で廻っている」のである。
 何だかんだで妹二人も体よく排除し、ホブソン家の財産はマギーが独り占めすることになる。つまり、「最後の勝利者」、実質的な主役は彼女であって、ヘンリーではないのだ。ヘンリーもウィリーも、マギーの「引き立て役」にすぎない。
 すなわち、“仲代達矢記念公演”でありながら、彼はマギー役の渡辺梓を「立てる」立場に廻ったことになる。仲代達矢ファンとしては寂しい限りだが、彼女はその期待に充分答えたと言えるだろう。凛として、ウィリーに「あなたは私の最高傑作よ」と言い放つマギーの姿は美しい。
 このシーンで「男どもめ、ざまを見ろ」と溜飲を下げた女性観客は、初演当時、それこそ星の数ほどいたのではないか。そして恐らくは今も、この日本でも。

 もともと無名塾は俳優養成を第一の目標に掲げ、受講料も一切取らず、一人前になったと判断されれば、独立をどんどん推奨してきた劇団である。だから中堅までは在籍者がいても、50代、60代のベテランは殆どいない。
 その中堅も、外部公演、テレビ、映画出演をどしどしこなしているから、勢い、定期公演は若手ばかりになることが多い。おかげで仲代達矢との演技力の差が歴然としてしまうというネックはあるのだが、今回は前述した通り、仲代さんが「引いた」立場の役柄であったために、そこまでの落差を感じずにすんだ。
 仲代ファンとしては、彼が出ずっぱりでないのはいささか寂しいのだが、引退を撤回し、なおも無名塾を続けていくのはなぜか、仲代さんが出した答えがこの立ち位置なのだろう。

 それでも「仲代達矢の“主演作”をこそ観たい」というファンの声は少なくないだろう。映画でも実はこの20年、仲代達矢の純粋な主演作は『春との旅』くらいしか見当たらないのである。
 そんな声に応えてか、次回公演は、仲代達矢個人の公演『授業 La LeÇon』(イヨネスコ作/丹野郁弓演出)と、無名塾公演『無明長夜 ~異説四谷怪談~』(松永尚三作/鐘下辰男演出)とに分かれる。これは、仲代達矢亡き後も無名塾が存続することに意義があるか否か、それを問うための二分割公演でもあるのだろう。
 残念ながら、今のところどちらも福岡公演の予定はない。『授業』は仲代劇堂のみの公演である。東京で観劇できる機会がある方はぜひご覧になっていただきたい。
トンマッコルへようこそ

トンマッコルへようこそ

劇団桟敷童子

大博多ホール(福岡県)

2012/02/11 (土) ~ 2012/02/11 (土)公演終了

満足度★★★★

真実のトンマッコルへようこそ
 不明を恥じなければならない。
 パク・クァンヒョン監督の映画『トンマッコルへようこそ』を観た時には、いかにも『千と千尋の神隠し』に影響を受けた安易な作り方と、ファンタジーだとしても説得力がなさ過ぎる展開に呆れて、世評ほどには面白いと思わなかった。当然のごとく、感動の涙を流すこともなかった。
 原作として舞台戯曲があることは知っていたが、日本語訳の出版がない以上、実際にそれを読む機会があるはずもない。また映画の製作・脚本に原作者チャン・ジンの名前があったことから、舞台も映画も基本的には同じものだろうと思いこんでいたのだ。
 それでも両者が完全に同じであるはずもないから、言わば「軽い興味」で、舞台を映画化する際に、「どの程度の改変を加えたか」を確認するつもりで(あとは松田“仮面ライダー斬鬼”賢二と、塩野谷“B.スプリングスティーン”正幸見たさに)劇場に足を運んだ。それだけのことだったのだ。
 ところが、舞台と映画とは、根本的に構造が違っていた。ストーリーの大筋は同じであっても、舞台は映画にはなかったユーモアも随所に満ちていて、まさしく演劇ならではの魅力に満ちている。字幕付きでも構わないから、本国での舞台版を観てみたい、そんな気にさせられたほどに刺激的だった。
 『トンマッコル』という題材を、映画版だけを観て判断してはならない。その事実を痛感したが、如何せん、現在でもこの日本で舞台と映画を比較研究できる機会は極端に少ないのである。映画版だけを観て、感動した人にも、そうでもなかった人にも、それは『トンマッコル』の真の姿ではない、ということだけは強く訴えておきたいと思う。

ネタバレBOX

 「トンマッコル」とは「子供のように純粋な村」という韓国語だという(原作者のチャン・ジンによれば、日本の村をイメージしたとか)。
 実在する村ではないし、そのタイトルからも、これが一つのファンタジーであることを――たとえ「韓国戦争(=朝鮮戦争)」を背景にしてはいても――示唆している。
 映画版で象徴的だったのは、人民軍(北朝鮮)の兵士たちが持っていた手榴弾が誤ってトウモロコシ小屋で爆発し、村の空いっぱいに「ポップコーン」が雪のように舞うシーンだ。戦争を知らない小さな山村で偶然出遭った、人民軍、韓国軍、そして米軍の兵士たち。彼らを結ぶ「平和」の象徴が、その「ポップコーンの雪」だったが、私は「戦争をそんなファンタジーで落としてしまっていいものだろうか」という疑念が浮かんで、素直に感動することができなかった。

 舞台版には、そんなポップコーンの雪のシーンはない。
 原作戯曲は三時間を超えていたというので、もしかしたらそういうシーンもあって、上演に際してカットしたのかもしれない。しかし映画と舞台の差異はそういう部分的な点に留まらない。原作舞台は、そもそも“ファンタジーではない”のだ。

 舞台にはまず「語り手」が登場する。彼は「作家」(板垣桃子)だ。彼が発見した一葉の写真が、物語の始まりとなる。その写真には、韓国戦争当時であると思われるにも関わらず、トンマッコルの村の人々と一緒に、敵同士であるはずの人民軍、韓国軍、連合国米軍の兵士たちの姿が、にこやかに写っていたのだ。
 このような“ありえない”写真がなぜ撮られたのか。作家は、写真の持主である父親に事情を聞く。即ちこの物語は、謎が徐々に解かれていくミステリーとしての構造を持っている。

 その父親――韓国戦争当時は少年だったトング(大手忍)は、ある日、知恵遅れの少女イヨン(中村理恵)と、墜落する戦闘機を目撃する。村の外れに落ちた戦闘機には、米軍のスミス(Chris Parham)が乗っていたが、足のケガだけで命は無事だった。突然現れた言葉の通じない珍客に、右往左往する村人たち。ここで村人たちの一人一人が、かなり詳しく描写される。
 村のまとめ役だが今ひとつ頼りにならない村長(塩野谷正幸)、その母親ですっかりボケた婆さん(鈴木めぐみ)、村一番のインテリだが正体不明のキム先生(深津紀暁)、トングのちびったウンコをうっかり掴んでばかりいるダルス(原口健太郎)、戦争帰りの粗暴なウンシク(外山博美)などなど……。
 映画版では殆ど書き割りに過ぎなかった村人たちが、ここでは生き生きと、そしてユーモラスな会話を繰り広げる。トンマッコルの人々は決して理想郷に住む仙人たちではない。後で明かされるが、ヒロインの少女イヨン(映画版のヨイルに当たる)は、実は村長の隠し子で、知能に問題があって生まれた彼女を、村長は娘として認めなかったという哀しい現実も示されるのだ。

 物語は全て、「村人たちからの視点」で描かれていく。映画版が兵士たちからの視点で描かれ、村人の純粋性が少女ヨイルだけに集約されていたのとは、全く正反対だ。
 スミスも、そして人民軍のトン・チソン(松田賢二)、チャン・ヨンヒ(鈴木歩己)、ソ・テッキ(桑原勝行)、韓国軍脱走兵のピョ・ヒョンチョル(池下重大)、ムン・サンサン(井上正徳)も、基本的には「お客さん」の立場を逸脱することはない。
 そして彼らは出逢い、当然、敵対する。村人になだめられ、農作業を手伝うようになる。少しずつうち解けるようになりながらも、結局は意見の相違から、殺し合う寸前に至るのだが――。

 舞台と映画の最大の違いは、ここからである。
 それまで、この物語を「作家」に伝えていた“父親”のトングが急死するのだ。即ち、「写真の謎」は真相が分からないまま、作家は途方に暮れてしまうのだ。
 それからの展開がとんでもなく面白い。仕方がないので、登場人物たちがめいめい勝手に動きだし、「自分たちの考える結末」を演じ始めるスラップスティック喜劇へと変貌してしまうのだ。特に松田賢二が敵を殺しかけていたのにいきなり平和主義者になって「みんなで記念写真でも撮ろう!」と言い出したのには場内大爆笑である。俳優たちが客席にも乱入、支離滅裂状態になったところで、作家が悲鳴を上げて、ようやく事態は収拾する。
 作家は、「これから先の物語は、全て私の想像です」と語る。いくつもの「結末」が示されるあたりはまるで黒澤明『羅生門』(と原作の芥川龍之介『藪の中』)だが、『羅生門』では最後に語られる杣人の証言が真実として示される。しかしこの『トンマッコル』の物語に「字義通りの真実」は存在しないのだ。

 これから先の展開は、確かに、映画と同じである。
 韓国軍の小隊が現れ、正体を見破られた兵士たちは彼らを殺す。流れ弾に当たったイヨンは死ぬ。村への連合軍による総攻撃があると知った兵士たちは、協力して「揺動」作戦を立てる。連合軍は、トンマッコルとは全く別の箇所を爆撃し、村は無事だったが、5人は死ぬ。「記念写真」は、兵士たちが村を去る直前にスミスのカメラで撮られ、トングに渡されたものだった。

 しかし、それは全て作家が「こうであってくれたら」という想像でしかないのだ。イヨンは、その知恵の足りない頭で、戦闘機から降りてきたのは「イエス様だ」と韓国軍に告げる。
 ファンタジーと言うよりも、この物語は「奇跡」の物語である。そうであってほしいという「祈り」を、作家はこの想像の中に込めたのだ。

 「真実」はそうではなかっただろうと、観客の誰もが思うだろう。なぜなら、作家が最後にこう語るからだ。「私は、一度もトンマッコルへは行っていない」と。
 「写真」にたいした謎はなかったのかもしれない。農作業を手伝っていたのだから、そんな写真が撮られる機会だってあっただろう。イヨンが写っていなかったのもたまたまで、5人が死んだのも、単に村から逃げたところをねらい打ちされただけかもしれない。
 「真実は夢物語ではない」という当たり前の事実が、そこにはあったことだろう。しかし、そんな夢物語があってもいいじゃないか、いや、あの戦争があまりにも悲惨だったからこそ、たとえそれが事実ではないことを知りつつも、そんな夢物語があったことを願いたい、トンマッコルがその名の通り、「純真な村」であってほしいという祈りが、この「真実ではない」物語に、一片の「心の真実」を与えている。
 「絵空事」を「これは真実ですよ」と提示して見せても、観客はその底の浅さに鼻白むばかりである。映画版の失敗はそれが原因だった。しかし、我々がともすれば厳然たる事実よりも、希望を内包した「虚構」を求める存在であることを認識した上で、あえて「絵空事」を「絵空事」として披露してみせてくれた場合――我々はその「虚構」に心を揺り動かされることになるのである。

 あの村人たちなら、韓国軍を前に、兵士たちを「家族」と呼んで匿ったに違いない、あの村長なら、最後にイヨンを「娘」と呼んだに違いない。「一度も父さんと呼ばせてあげられなかった」と泣いたに違いない、そう感じさせる「真実」がそこにはあるのだ。
 「事実」と、我々が本当に求めている「心の真実」とは違う。「物語」が観客に問いかけるべきものは、その「心の真実」の方なのではないだろうか。

 強いてこの舞台に注文を付けるのならば、これは劇団の構成員の問題もあろうから仕方がない面もあろうが、複数の男性役を女性が演じていたことだ。俳優のみなさんは、もちろんそれらしく演じてはおられたが、やはり男性が演じた方が自然ではある。
 自然、ということならば、やはり字幕付きになっても、韓国人俳優でこの舞台を観てみたいという気にもさせられた。チャン・ジンの話によれば、三時間の原作戯曲は冗長な部分もあったということではあるが、それでも物語に何が付け加えられ、何が引かれたかを確認することは、作品理解をより深めることになるだろうと思われるからである。
 
現代能楽集Ⅵ 『奇ッ怪 其ノ弐』

現代能楽集Ⅵ 『奇ッ怪 其ノ弐』

世田谷パブリックシアター

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/09/10 (土) ~ 2011/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

読売演劇大賞
 昨年は前川知大の年であったと言ってもいいのではないか、というくらいに彼の活躍が中央から遠く離れた福岡でも観ることができた。
 『抜け穴の会議室~Room No.002~』『散歩する侵略者』『現代能楽集Ⅵ 奇ッ怪其ノ弐』の3作が立て続けに上演され、そのどれもが演劇によってしか表現できないいくつもの「仕掛け」によって、劇場を異空間へと誘っていた。
 それは、具体的には象徴的な舞台美術であり照明であり、もちろん前川戯曲そのものが常に「SF」である点に起因しているのだけれども、特に『奇ッ怪 其の弐』は、能舞台をイメージした舞台上舞台を設置し、俳優たちには、夢幻能を思わせる緩慢な演技と、日常的な演技とを演じ分けさせることによって、まさしく虚実皮膜の世界を構築していた点において3作中、白眉であった。これまでの読売演劇大賞作品には、どうかなと首を傾げたくなる作品もあったが、今回は多くの人に支持される受賞であったろう。
 残念なことに、もう一つの新作『太陽』は、福岡まで来ることがなかった。リチャード・マシスンや藤子・F・不二雄に触発されて書かれた作品であることを、前川氏自身が語っているので、今後、福岡での再演の機会があるならば、何を置いても観たいと思う。

ネタバレBOX

 何十年ぶりかで故郷の村に帰省してきた矢口(山内圭哉)は、実家の神社がすっかり廃墟となっている様子に茫然とする。そこに住みついているという山田という男(仲村トオル)に、矢口は「奇妙な話」をいくつか聞かされることになる。

 荒れ果てた寒村、そこで来訪者が出会う死の影を漂わせる人々、出だしはまるでエドガー・ポー『アッシャー家の崩壊』だが、「現代能楽集」シリーズとして判断した場合、発想の元となったのは夢幻能『求塚』だろう。
 菟名日処女(うないおとめ)が自らの「生前」を旅の僧に聞かせたように、山田ももちろん「死者」なのである。そして彼の語る物語も、さらに来訪してきた役人の橋本(池田成志)や曽我(小松和重)の「物語」も、彼らの「生前」の「執念」が凝り固まって、この村の底によどむように、「来訪者」の前で繰り返し繰り返し、語られていくのである。
 それぞれのエピソードは特に繋がりはない。まるで夏目漱石『夢十夜』のように、独立した現代社会の奇談として語られる。しかしそれらはやがて、この村を襲った災厄の物語へと次第に収束されていく。
 それはまるで菟名日処女(うないおとめ)を取り合った二人の男にもスポットを当ててエピソードを重層化させたような、「『求塚』の複数化」といった趣である。

 しかし同時に、『奇ッ怪 其の弐』はある“二つの”作品との極めて酷似した構造を持っている。それに気がついたのは、曽我や橋本が、「自分が死者であることに気がついていない」のに対して、山田は「自分が死者であり、そのことを『物語る』ためにここにいる」という「自覚」を持っていることが示された時だ。
 曽我や橋本は、彼らの「物語」の中で、何通りもの「役」を演じる。他の役者も同様だ。だがその役を演じている間は“その役になりきっていて”、自分が“与えられた役を演じているだけ”だとは自覚していない。しかし山田は違う。彼はこの物語のただ一人の「演出家」だ。
 前川知大が生粋のSFファンであることは、その作品傾向からしても自ずと知れる。意識とその具現化はSFの重要なモチーフだが、その枠をファンタジーやアニメーションのカテゴリーにまで広げると、特に共通項のある2作が浮かび上がってくるのだ。一つは「夢幻」の中における「死者と創造主」の物語、C.S.ルイス『ナルニア国物語』であり、もう一つは「夢幻」の中における「俳優と演出家」の物語、押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。即ち「山田」は「アスラン」であり「夢邪鬼」なのだ(これに藤子・F・不二雄『モジャ公』のエピソード「天国よいとこ」の「シャングリラ大神官」を付け加えてもいい。藤子Fファンであることを前川は公言しているからである)。

 ループSF作品の先例は枚挙に暇がない。「同じ時間を永遠に繰り返す」パターンは、時間遡行ものやモダンホラーの諸作に多く見られるから、具体例を出さずとも誰でも容易に2、3作は想起することが可能だろう。演劇でも後藤ひろひと『ダブリンの鐘つきカビ人間』がそのアレンジパターンであった(奇しくも池田成志がこの作品にも登場している)。
 だが、「祝祭の前日」に硫化水素ガス漏れによって村人も役人もみな死に絶え、「同じ日を繰り返し続けている」という設定から判断するに、やはり「文化祭前日」を繰り返した『うる星2』を前川知大は確実に意識していたと思しい。

 先行作に発想の源があるということで、この作品の評価を下げるべきだと主張したいのではない。むしろ逆で、殆どのループ作品が、その霧のルング・ワンダルングの中から脱出する方法を発見するのに対し、本作にはそういった「救い」が用意されていない点に、前川のオリジナリティがあるのだ。
 死者たちは決して生き返らない。彼らの妄念が解き放たれることは絶対にない。彼らには「同じ話を繰り返し話し、同じ行動を繰り返し取る」ことしかできないのだ。言ってみれば――語弊が生じることを承知でたとえるが、「認知症の老人が同じ話を繰り返し語るのに付き合わされる」苦痛に等しい。彼ら老人たちも、自らの「夢」の中にいる。そう考えた時、初めて気付くのだ。“これは果たして本当に「死者だけの」物語なのだろうか”と。
 「死んでいるのは確かに俺だが、生きてる俺は誰だろう」――落語『粗忽長屋』ではないが、我々が信じているこの「実存」が、「誰かが見ている夢の中のキャラクターではない」と、証明できるものだろうか。あるいは、たびたび舞台に登場する面を被った人物たち――彼らが「自分と同じ顔をしていない」とどうして言いきれることができるだろうか。
 ここでその物語を聞かされ続けるのは矢口だが、彼の抱く不安は、容易に観客に伝播する。矢口は現実世界に戻る(ように見える)が、死者たちはやはり永遠の牢獄の中で彷徨い続けている。それを見ている矢口も実は死者として「ここに来た」のではないかという余韻を残して。
 山田は我々に語っているのだ。さながら『アマデウス』のサリエリが、観客に向かって「未来の亡霊たちよ」と語りかけたのと同じように、このように。

 「アナタハ、ジブンガ、イキテイルト、シンジラレマスカ?」
 「アナタハ、ホントウニ、シバイヲミニキタ、オキャクサンデスカ? ココガ、シシャノクニデナイト、ドウシテダンゲンデキマスカ?」

 前川知大、戦慄すべき戯曲家である。
異郷の涙

異郷の涙

劇団太陽族

J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)

2012/02/04 (土) ~ 2012/02/05 (日)公演終了

満足度★★★

流す涙のその意味は
 平成生まれの若者たちが社会の中核になっていくだろう現在、「昭和」がノスタルジーの対象として語られる現象には何が背景としてあるのだろうかと考えることがある。
 たとえば映画『三丁目の夕日』シリーズには、必ずしもその時代を知っているわけではない若い人たちもこぞって観に出かけて感動の涙を流している。実際にあの時代を体験している世代としては、ともかく「ものがない」時代で、そんなにいいものかと思ってしまうのだが、若い世代には、今は失われてしまった家族の絆やら何やら、肯定的イメージが増幅されて、一種のユートピア幻想まで感じさせているようだ。あの世界にはきっといじめも虐待もないのだろう。
 『異郷の涙』の主人公は「原爆頭突き」の大木金太郎こと金一(キム・イル)である。往年のプロレスファンには懐かしい名前だ。しかし在日韓国人でそれゆえに差別に遭い、血の涙を流しながらも栄光を掴んだ人物にスポットを当てるのなら、師である力道山を主人公にするのが妥当てはないだろうか。
 しかし劇団太陽族の岩崎正裕は、時代を力道山の死の二年前、1961(昭和36)年に置き、あえて力道山を殆ど登場させなかった。彼を主人公にしてしまえば、「ノスタルジーが在日差別の問題よりも優先されてしまう」ことを恐れたのだろう。
 日韓のドラマとなれば、また差別問題か、在日コリアンだってのべつまくなしにサベツサベツと日本人を糾弾しているわけではあるまい、他の切り口はないのか、と思いはする。しかし、『異郷の涙』で大木金太郎が流した涙は、単に差別を受けたという悔し涙ではない。在日コリアンが被害者意識を乗り越えてもなお背負わなければならなかった「業」に対する「怨みの涙」である。日本を責めるだけで事が済む問題ではないのだ。
 情に流されない描写や政治的な発言が連続するため、観客は素直に感動することはできにくい。そこがノスタルジーに堕した一連の「昭和もの」や、在日コリアンの涙ばかりを強調した従来の「反日」作品とは、ひと味違っている点である。彼らが流した涙が、日本人の差別によってのみのものではなく、彼ら自身のメンタリティにもあることを、この作品は明確に訴えている。

ネタバレBOX

 最初に、俳優たちが自己紹介するシーンからこの物語は始まる。
 韓国から招聘された二人の俳優、金一役のキム・ジュンテは来日したのは初めてであり、姜哲役のチョン・ウォンテは二度目であることが語られる。
 日本人俳優たちは、舞台となった1961年にはまだ生まれていない、あるいは生まれたばかりで、あの時代のことはよく分からないと、口々に語っている。ここで既に、この物語がはるか「歴史の彼方」の物語であり、俳優たちもノスタルジックな感傷は持ち合わせていない基本姿勢が提示される。

 大阪難波の在日コリアン街、そこの旅館に投宿している大木金太郎、力道山の新妻田中敬子、ボリショイサーカスのプロデューサー・セルゲイといった面々。実はその宿は、後に「和製R&Bの女王」として売り出されることになる金海幸子(本名金幸子)の実家でもあった。
 当時彼女は小学六年生、それにしては身長が大人並にあって、学校では在日ということでからかわれていた。
 この少女が、和田アキ子(本名・金福子)をモデルにしていることは、物語の最後で『あの鐘を鳴らすのはあなた』が流されることでも暗示される。
 和田アキ子が在日コリアンであることは知っている人は知っていただろうし、かなり昔ではあるが、週刊誌の記事になったことが何度かある。しかし本人の口からその事実が語られたのは近年のことであり、彼女が日本人であると思っていた人も少なくはないのではないか。劇中、「在日がいなくなったら紅白歌合戦の歌手は半分に減る」という台詞が出てくるが、彼女はそうした「コリアンであることを隠さねばならない」人々の代表としてこの劇に登場している。

 しかし、彼女よりももっと切実に、自らの出自を隠さなければならない男が一人いた。
 それが、この劇では名のみ語られるばかりでいっこうに宿に現れることのない力道山その人である。力士時代、彼が執拗な差別に遭っていたこと、「民族の壁」に阻まれて大関になれなかったこと、それらは現在では周知の事実となっている。だが劇中でも語られていたように、彼は自らの出自を捏造し、ニセの伝記映画まで作っていた。純粋の日本人であるかのごとく装った。そして彼は木村政彦とタッグを組み、アメリカのシャープ兄弟を空手チョップでリングに沈め、敗戦後、意気消沈していた日本人たちを鼓舞し、「日本人の英雄」となった。
 朝鮮人であるということで差別を受けていた力道山にしてみれば、日本人から熱狂的な支持を受けていたことに屈折した思いを抱いていたことは想像に難くない。劇中、力道山は大木金太郎を実は憎んでいた、という台詞が語られるシーンがある。大木が2年後の未来を幻視し、力道山の死を田中敬子から伝えられるシーンだ。
 大木金太郎は、初めから朝鮮人である事実を隠さなかった。朝鮮人としてリングで戦った。力道山も、“本当はそうしたかったはず”なのだ(厳密には力道山は北朝鮮出身であり、大木は韓国生まれだが、分裂以前の感覚で同郷と感じていただろう)。
 力道山は、在日コリアンたちにとっても「祖国の英雄」である。大木金太郎が力道山に送る憧憬の眼差しは、力道山にとってはそれが純粋であればあるほど、鋭い刃となって胸の奥を貫いていたことだろう。

 当時の和田アキ子は普通の庶民である。力道山はスターである。そのどちらもが、本名で出自を明かして生きていくことには躊躇せざるを得ない現実があった。とは言え、多くの在日コリアンが本名を名乗り、自らの民族性を誇りに思い、堂々と生きていた例だって少なくはないのだ。
 幸子は、自分の名前がハングルで「ヘンジャ」と発音することに劣等感を抱いている。父親は「お前はサチコじゃない、ヘンジャだ」と、コリアンとしての誇りを捨てるなと言い聞かせる。しかし幸子は頑なに父を拒絶し、「日本人として」歌手になる道を選んでいく。結局、その劣等感こそが「コリアンは差別されても仕方がないもの」と自ら認めてしまっていることに気付かないままに。
 「祖国の星」である力道山が出自を隠していたという事実、それが在日コリアンたちの生き方に、暗い影を落としていたのではないだろうか。力道山ですら朝鮮人であることを隠さねばならなかったのだから、ましてや一庶民である自分たちは、と考えたコリアンたちも多数いただろうと思う(在日コリアンの中では力道山の出自はとうに知られていた)。鉄の男の内面は、民族の誇りを捨てるほどに誰よりも繊細で、恐怖に震えていた。そしてその恐怖は、多くの在日コリアンたちに伝播していたのである。

 物語は、力道山が背負っていた「闇」の部分にも容赦なく光を当てている。
 大阪難波での興行を一手に牛耳ろうとする関西芸能は、セルゲイや田中、大木にも興行収入の半分を寄越せと迫る。しかし田中敬子は、力道山にも「後ろ盾」がいることをほのめかし、その要求を突っぱねるのだ。
 「在日コリアンは常に日本人に差別され搾取されてきた」という被害者意識だけで描かれた一連の日韓ドラマ(たとえば『焼肉ドラゴン』などは在日コリアンを「善人」としてしか描かなかった)に比べれば、『異郷の涙』は彼らの屈折した心理や「裏の顔」にまでかなり踏み込んで描写している点、大いに評価に値すると思う。

 もっとも、いくつかの描写で、首を捻るような部分があるのも事実だ。 
 ラスト近く、それまでの物語の流れとは脈絡もなく、唐突に日の丸の旗をバックに、大阪市長・橋下徹の映像が流され、登場人物たちが毒づくシーンがある。ナショナリズムがマイノリティをいかに圧殺していくか、それを端的に描いたつもりなのだろうが、果たして岩崎正裕は、政治と教育を分離する理念に基づいて、「教育現場で国歌斉唱、国旗掲揚を義務づけている国が世界各国を見渡しても殆どない(国によっては卒業式などの儀式もない)」という事実を知っていて、このシーンを付け加えたのだろうか。
 国旗国歌の強要をを実行しているのは、実は中国と“北朝鮮”だけなのである。言わば日本各地で無自覚的に「北朝鮮化(多分、橋下徹にもその意識はないだろう)」が進んでいるわけで、それを韓国出身の大木に非難させるというのはどういう意図なのだろうと疑問に思わざるを得ない。岩崎は恐らく、橋下ファシズムを単純な「戦前回帰」としか捉えてはいないのだろう。
 だが現代における最も恐ろしいファシズムは、社会主義国家の中で培われているのである。あの時代、「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮が、ただの全体主義国家であることは、現在、白日の下に晒されている。

 大木金太郎は晩年、韓国に帰り、韓国プロレスの興隆に従事した。それは本来、力道山がもう少し長生きできていれば、そして自らの出自を堂々と口にすることができていれば、彼自身がやりたかったことだろう。「日本人としての通名」を名乗るコリアンがまだ多数いる現在では、差別に立ち向かう勇気がまだまだ在日コリアンの中に育っていない証拠だと言えるし、それが結局はマイノリティを踏みにじることを是とする橋下徹のようなファシストを跳梁させる遠因にもなっているのである。
東儀秀樹 雅楽ワークショップ&ミニライブ

東儀秀樹 雅楽ワークショップ&ミニライブ

そぴあしんぐう

そぴあしんぐう(福岡県)

2012/02/04 (土) ~ 2012/02/04 (土)公演終了

満足度★★★★

掌上のミクロコスモス
 会場のそぴあしんぐうは、新宮町の片田舎、交通アクセスも頗る悪い位置にあるので、いつどの公演を観に行っても、満席になっていたのを観たことがない。このCoRichにも企画制作としても劇場としても一切の記載がなく、演劇ファンからは殆ど無視されている有様だった。
 時折、おもしろい公演もあるので、もったいないよなあと思って、関係者でもないのにこうして公演情報をアップしてみたのだが、そぴあにしては珍しく、今回の公演はチケット完売、595席の大ホールが満席であった。さすがは東儀秀樹、ということなのであろう。

 テレビなどで雅楽を漫然と聴いたことはあるが、専門的な知識のない全くの初心者なので、東儀さんのお話はすべて新鮮な驚きに満ちていた。漠然と抱いていたイメージに「言葉」が与えられることで、「そうだったのか!」と目から鱗が落ちる喜びである。
 雅楽初心者向けのワークショップであるから、どのステージでも同じ内容のレクチャーをされているのであろう。従って一度体験したら、あとは普通のコンサートに行くなり、CDを聞くなりすればよいものなのであろうが、やはり実際に鳳笙(ほうしょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)と言った和楽器を吹けるのが嬉しい。機会があればまた参加したいものだ。

 600人を相手のレクチャーであるから、残念ながら東儀さんに手取り足取り教えて貰うというわけにはいかない。
 吹き方だけを教えられて、あとはロビーで用意された楽器をご自由に、という流れではあったが、いつでもどこででも触れられる類のものではない。不器用ゆえに何とか音らしきものを出せただけで精一杯だったが、それで充分満足であった。

ネタバレBOX

 狩衣(かりぎぬ)姿の東儀さんが、鳳笙を吹きながら客席に登場する。ステージに上がって、まずは当時の貴族の服装についての解説。「狩衣は当時の普段着で、もちろん私もコンビニに行く時はいつも狩衣で馬に乗っています」と会場の笑いを誘う。
 基本的に当時の衣装はワンサイズしかなく、にもかかわらず大男でも小男でも着ることができたのは、伸縮自在な「仕掛け」があるから。型紙も正方形で、畳むのが楽でシワにもならない。単衣(ひとえ)は何枚でも重ね着ができて、四季の変化に対応できる。実は洋服よりもずっと機能性に優れているのである。
 以前から感じていたことではあるが、日本人が和装をやめてしまったことは全くもったいない話だと感じた。

 続いて、雅楽は現存する世界最古の管弦楽、オーケストラであり、音楽そのもののルーツだと言えることを論証していく。
 シルクロード起源の音楽が、東西に分かれ、東は中国、朝鮮半島にもたらされ、日本において、唐楽(とうがく)、高麗楽(こまがく)、国風歌舞(くにぶりのうたまい)の三つの様式の完成形を見る。雅楽は全て「口伝」で次代に伝えられるので、千三百年前の形が、全く変化しないまま、現代に残されているのだそうだ。シルクロードの音楽文化は完全に消滅しているので、音楽の発祥が最も原初的な形で残されているのは雅楽しかない。これは既に「人類の遺産」と言うべきものであると。

 そして、三種の管楽器は、それぞれに「天」「地」「空」を象徴している。
 鳳笙は「天から射す光」を。
 篳篥は「地上の人の声」を。
 龍笛は文字通り「龍の鳴き声」を。
 東儀さんの専門は篳篥であるが、なるほど、篳篥の音色は人の声のように常に「揺らいで」いる。西洋のリコーダーは、穴の押さえ方で音階を正確に刻むが、篳篥は穴を押さえただけでは音程は一定しない。口で「操作」することによって、音色を作り出すのだ。だから下手が吹くと、どうしようもない音しか出ない。
 清少納言『枕草子』の一節に、「篳篥はいとかしがましく、秋の虫をいはば、轡虫(くつわむし)などの心地して、うたてけぢかく聞かまほしからず」とあって、さて、あの美しい音色が清少納言にはどうしてそのように耳障りに聞こえたのだろうと、長年、謎に感じていたのだが、東儀さんによれば、「彼女の周りにいた人たちが、みんな篳篥を吹くのが下手だったんでしょう」ということであった。当時も篳篥吹きの名人が全くいなかったとは思えないが、確かに雅楽師でなければ吹きこなせるしろものではない。下手くそは上手の何十倍もいただろうから、東儀さんの指摘には根拠があるのである。

 東儀さんが雅楽の道を志し、それが間違ってはいないと確信するに至ったあるエピソード、それがちょっと耳を疑うような話なのだが、一番印象に残った。
 モンゴルかどこかの外国に演奏旅行に出かけた時のことである。草原で、東儀さんが一人、スタッフと離れて、時間潰しに笙を吹いていた。すると地平線の向こうから、何かが群れをなして近づいてくるのが見える。牛だ。
 牛の群れは、笙を吹き続ける東儀さんに近づき、ちょうど2メートルほど手前でぴたっと止まった。気付いたスタッフはみんな血相を変えたが、東儀さんは不思議と恐怖を感じなかった。牛たちみなは笙の音に聞き入っている。東儀さんが演奏を終えると、牛たちは踵を返して、また地平線の向こうに去っていった。
 また、こんなこともあった。やはり外国の海で、クルーザーに乗って、甲板で笛を吹いていたところ、船に併走するようにイルカの群れが泳いでいることに東儀さんは気がついた。単に進む方向が同じだけなのかと思って、東儀さんは船を止めさせた。すると、イルカたちは、笛を吹く東儀さんの船の周りをクルクルと回り始めたのである。
 「もしかしたら、私の吹く音が『本物』だと、牛やイルカたちが教えてくれたのかもしれません」。

 東儀さんのお話を伺いながら、私がぼんやりと考えていたことは、日本文化における芸術のありようには、等しく共通点があるのではないか、ということであった。
 いささか牽強付会に聞こえるかもしれないが、それは「宇宙」と「自然」の「ミニチュア化」ないしは「フィギュア化」ということである。ミクロコスモスを身のまわりに感じようという意識が表現を伴ったものが日本的な芸術と見なされるということだ。
 日本庭園は、そこに山水を、渓谷や森や人里を作り出す。花鳥風月を詠むことを奨励した和歌・俳諧の歴史は、宇宙をわずか十七文字、三十一文字に凝縮させた。絵画はもとより、子供たちの玩具や折り紙、陣取りやかくれんぼといった遊戯に至るまで、小さな世界の中の宇宙を私たちは無意識的に感じてはいなかったか。
 そして雅楽の「天・地・空」も、そう広くはない方丈の上で表現される。宇宙は我々の生活の中にあった。この伝統は、現在もプラモデルやフィギュアやジオラマや、漫画やアニメーションの小さなコマの中に息づいていると思う。

 シルクロードの人たちも、遙か彼方の星々を、身近なものと感じていたのだろうか。


 おまけのミニライブの内容は以下の通り。
1,『JUPITER (ホルスト:組曲《惑星》作品32 第4曲:木星より)』
2,『Boy's Heart(ボーイズハート)』
3,『誰も寝てはならぬ~プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》から』
アンコール,『ふるさと』

 宇宙の広大さも、青春の繊細さも、軽やかなユーモアも、切ない郷愁も、全てはこの掌の上にある。
アテルイ ―北の燿星

アテルイ ―北の燿星

わらび座

ももちパレス(福岡県)

2012/01/31 (火) ~ 2012/01/31 (火)公演終了

満足度

阿弖流為の叫びは聞こえるか
 なぜか、わらび座には縁があって、いろいろなツテで観劇する機会が多いのだが、興味深い題材に惹かれ、意欲的な舞台作りに感心はしても、心の底から満足できる舞台に出会ったことは一度もない。
 それは、俳優たちの演技が古臭く単調な(キャラクターの描き分けができておらず、みんな同質の芝居をする)せいかと思っていたのだが、『アテルイ』を観ると、そもそも原作を咀嚼する能力(即ち「モノガタリの魅力とは何か」を読み取る力)自体、わらび座には欠けているのではないかという疑念が湧いてきた。
 映画に比べて、時間と空間の制約が大きい演劇は、逆にその制約を利用して、いかに観客のイメージを増大させるか、「無から有をいかに生み出させるか」が成功の鍵となる。しかしともすれば舞台は「あれもできない、これもできない」という「引き算の法則」でイメージを貧困化させることになってしまう。
 結局、この舞台は、長大な原作を消化しきれず、ぶつ切りのダイジェストに収めることになってしまった。歴史のロマンも、まつろわぬ民たちの魂の叫びも、英雄アテルイの勇気も感じられない。今はただ「私はここで何を観たのだろうか」という寒々しい思いだけが胸に去来しているのである。

ネタバレBOX

 高橋克彦の原作『火怨 北の燿星アテルイ』は、文庫本にして上下巻、千ページに及ぶ一大長編である。主人公の「阿弖流為(跡呂井)」および「母礼」は八世紀に実在した蝦夷の棟梁たちだが、『続日本紀』ほか、いくつかの資料に坂上田村麻呂によって降伏させられた記載があるが、それ以上の詳細は詳らかではない。人物設定や物語は、殆ど高橋克彦の創作によるものである。
 一部の著作で、UFOや終末論を信じている旨、トンデモ発言を繰り返している高橋克彦のことであるから、考古学的な考証はかなりいい加減なのだが、その是非はとりあえず置いておく。原作のキモとなっているのは、東北の蝦夷たちはもともと出雲族、大国主命の末裔であって、日本の先住民族であると設定されていることだ。大和朝廷、つまり天皇家は渡来系であって、蝦夷たちを東北に追いやった「侵略者」であるという認識である。原作にはその「反天皇」の思想が色濃く描き出されている。
 かつて蘇我氏によって滅ぼされたはずの物部一族の末裔・天鈴が、蝦夷に内通して生き残っているのは、その「まつろわぬ民」たちのネットワークが未来においても決して滅びることはないという思いを込めているからだろう。東北出身の高橋克彦の魂は、未だに過去の蝦夷たちの地の底からの叫びを感じ取っているのである。

 一応、そのこと自体は、舞台でも語られてはいる。説明的な台詞が多すぎて、小説ならばともかく、ドラマとしては「もたつく」ばかりなのだが、原作にできるだけ忠実に、という姿勢がそこにはうかがえる。
 ところが舞台版は、原作ではにぎやかしの脇役に過ぎない阿弖流為の妻・佳奈(もちろん原作者のオリジナルキャラクター)をクローズアップする。その恋模様を前面に押し出したせいで、原作のテーマがどこかに吹き飛んでしまっているのだ。
 田村麻呂との三角関係を描き、更には阿弖流為を慕う女戦士・滝名を登場させて、四角関係にまで仕立てる。おしとやかな姫様である佳奈と、男勝りの滝名、なんて、ありきたりなゲームキャラクターそのままで、原作はそこまで露骨ではない。
 そんな色模様を描かなければ、物語が持たないと脚本の杉山義法は考えたのだろうか。思い返してみれば、杉山はテレビ時代劇スペシャル『忠臣蔵』でも『白虎隊』でも、お涙頂戴のベタなドラマばかり書いていた。過大な期待を寄せる方が間違いだったのである。
 つまりは「観客への媚び」である。これは観客に感動を与えたいという意識とは似て非なるもので、「このツボを押せば客は泣く(=人が死ねば客は泣く)」という安易な手法に過ぎない。それでも客が感動できるのならいいじゃないか、というご意見もあるだろうが、たとえば懐かしアニメの番組などで、『フランダースの犬』の最終回だけを観て涙をこぼすタレントらを見て、あれがマトモなドラマの鑑賞の仕方だと言ってもいいものだろうか。それまで50話に渡って積み重ねられてきたドラマを一切無視して、ただ主人公が可哀想な死に方をしたという、それだけでゲストも視聴者も泣いてしまうのである。

 阿弖流為と田村麻呂との恋のさや当てなんて、たいして掘り下げて描かれているわけでもない、佳奈は「田村麻呂様のことは尊敬しているだけです」であっさり終わり、タキナも敵の矢を受け阿弖流為に抱かれて「お前に抱かれて死ねるのが嬉しい」とベタな台詞を口にして退場する。こんなん、わざわざ原作の英雄的な漢(おとこ)のキャラクターを削りまくってまで挿入しなければならないエピソードなのかと訝しむが、客なんてその程度でもオロロンオロロンと泣くものだと、作り手側から舐められているのだ。で、実際、泣いてる客もいるしな。
 この「ツボ押し効果」は、手塚治虫がやっつけで仕事をする時に多用した方法である(たとえば映画『西遊記』では、手塚が無意味にヒロインのメスザルを死なせようとして、宮崎駿らの大反対に会い、撤回するハメになった)。そう言えばわらび座は『火の鳥鳳凰編』や『アトム』でも、この手塚式の安易な手法をしっかり「継承」していたのであった。
 フツーの感性があれば、この適当さは怒っていいレベルだと思うんだが、わらび座ファンは、この程度のお話で満足しているのだろうかね。

 何とか「見られた」のは、和太鼓を伴奏にした「剣舞」だが、これにも難点はいくつもある。
 古代の土俗的な音楽でミュージカルを作ろうとする意欲は理解できるのだが、太鼓だけでは「鼓童」の勇壮さには敵わない。そして我々は既に、映画『日本誕生』や『わんぱく王子の大蛇退治』などで、古代のイメージを和洋折衷のオーケストラによって表現し、世界的な名声を得た伊福部昭という巨匠の存在を、財産として持っているのだ。甲斐正人の音楽は、それよりも一段も二段も劣るものとしか聞こえない。
 その「剣舞」もまた、舞台上で殺陣を繰り広げるだけの余裕がない(そもそも俳優たちにろくな殺陣ができない)ための、やはり「引き算の手法」による苦肉の策だろう。しかし、敵が誰一人いなくて、ただ剣を振り回し、飛んだりのけぞったりするだけで敵がいるように見せようというのは、相当なマイムの技術が必要になる。その技術がないから、「何を“エア殺陣”やってるんだ、『血がだくだくと出たつもり』かよ」と失笑するばかりなのだ。
 それでもこの剣舞のシーンがミュージカルとしては一番マシで、あとの合唱のシーンは普通の現代音楽、と言うかただの歌謡曲である。人間だものとか自由がなんたらとか、現代の感性を描きたいのであれば、古代を舞台にする意味がどこにあるか。これが再演、再々演を繰り返しているわらび座の代表作で、しかもミュージカルファンが相当数付いているというのであれば、日本のミュージカル全体のレベルは欧米に比べて著しく低いと言わざるを得ない。
 実際、わらび座に限らず、劇団四季も東宝ミュージカルも、海外のミュージカルをそのまんま持ってきているだけで、モノマネに過ぎないんだけどね。オリジナルで勝負し続けているわらび座の方がなんぼかマシと言えなくもないが、五十歩百歩である。

 もう一つ、細かいことではあるが、阿弖流為の息子・星丸役で、東日本大震災に被災して、福島から福岡に非難してきた子供が出演している。それを記事にするか記念にするかなのだろう、出演シーンでやたらフラッシュを焚いて写真を撮っていたが、これは予定されていたことだったのか、家族が勝手にやったことなのか。
 そもそも東北救済のための公演であるから文句が言いにくいのだが、事前に何らかのアナウンスがあって然るべきではなかったのか。被災のことは被災のこと、観劇のマナーとは別問題だと思うのである。
90ミニッツ

90ミニッツ

パルコ・プロデュース

キャナルシティ劇場(福岡県)

2012/01/28 (土) ~ 2012/01/29 (日)公演終了

満足度

一度目も二度目も悲劇
 28日(土)、29日(日)と2回観劇したが、2回に分けて詳述するのは面倒なので、まとめて書く。

 「三谷幸喜大感謝祭」の掉尾を飾る作品として相応しかったかどうかと問われれば、今イチ、今ニ、いや、今サンくらいかな、と言わざるを得ない。
 「90分」というタイトルが先にあって、それに合わせた内容を後付けで考えたことが明白な舞台である。勢い、設定と展開にかなり無理が生じる結果になった。三谷幸喜は事前のインタビューで「今回は“笑い”を封印します」と宣言していたが、実際にはかなり「くすぐり」を入れて、もたつきがちな展開を何とか繋いでいる。しかし果たしてこの題材は「笑い」に相応しいものであっただろうか。テーマと方法論にも乖離が生じているように思えてならなかった。
 その無理や乖離を、二人の俳優が何とか演技で繕おうと懸命になるのだが、如何せん、西村雅彦の方が役をかなり掴み損ねている。三谷幸喜は殆ど役者への当て書きでしか戯曲を書かないが、当ててもなお、その役をこなせないほどに西村の演技力は拙い。
 それでも1日目よりは千秋楽の方が、二人の掛け合いの間がよく、その分、客席での笑いの反応もよくなっていたのだが、前述した通り、ここで笑わせてしまっていいものかという疑問が、私の胸にわだかまっているのである。

ネタバレBOX

 冒頭から結末まで、ほぼ途切れることなく、舞台中央に一条の光が射し、天井から床に砂が落ち続けているように見える。もちろんこれは「砂時計」の比喩的表現だ。刻一刻と迫るタイムリミットが、二人の人物の間を流れ続ける。そしてそれが「途切れる」瞬間が訪れる。
 この演出は、舞台に静かな空気を漂わせながらもサスペンスを産み出すという見事なものだった。しかし、これがこの舞台の誉めどころとしてはほぼ唯一。あとは三谷幸喜の才能の枯渇を実感させられるものばかりだった。

 9歳の子供が交通事故に遭い、緊急手術が必要になる。ところが父親(近藤芳正)はある「信仰」に従って、輸血を拒否する。医師長(西村雅彦)は何とか父親を説得して手術に踏み切りたい。それがこの舞台の基本設定だ。
 最初に映像で「現実の団体や思想を誹謗中傷する目的のものではありません」というテロップが流されるが、これが「エホバの証人事件」をモデルにしていることは明白だ。現実の事件では、医師がインフォームドコンセントを行わないまま輸血手術を断行し、信者から訴えられ、病院側が敗訴している。この舞台では、輸血の必要性はきちんと説明をしたものの、父親の同意が得られなかったため、最終的には医師が根負けし、「父親には何も説明しなかった」という形を取って、手術の指示を出す、という形にされていた。

 物語に無理が生じている、と感じたのは、まず、このようなデリケートな問題が、たった二人だけの対話で進められるリアリティの無さである。
 もちろんその不自然さをごまかすために、脚本は「電話」を駆使してはいる。父親は、妻が病院に駆けつけられない距離にあるとして、何度も携帯で状況を説明、相談をする。医師は手術室の担当医たちと手術を実行するか中止するか、頻繁にやりとりする。しかし父親側はともかく、医師長のところに担当医や看護師が誰一人談判に来ないのはどうしたことなのか。のんびり指示待ちとはおかしくはないか。おかげで手術室の悲壮感や焦燥感が全く伝わってこないのだ。
 また、頻繁に「笑い」を入れるのは、結局は信仰や宗教を嘲笑する結果になってはいないか。例えば、「牛肉は食べないが牛乳は飲む」という父親の言葉に、「矛盾しているじゃないか」と医師が突っ込む。父親は妻との相談した上で、「じゃあ牛乳を飲むのを止めます」と言うのだが、その途端、客席からは笑いが起きるのだ。これが「嘲笑」になるのではないか、というのは、「当事者が真剣になればなるほど他人から見ればそれは滑稽に見える」という法則、即ち「他人の不幸は蜜の味」というシステムに則っているからだ。
 このような会話でも「笑わせない」演出は可能だ。「間」を外せばいいのだ。だいたい、既に牛乳を何度も飲んでしまっているのだから、今さら「飲まない」で済ませられることではないだろう。父親はここで自ら罪を犯した意識に囚われなければおかしい。
 このほかにも、「信念と信念のぶつかり合いによるサスペンス」よりも「笑い」を優先した演技、演出の方が目立つのだ。全ては「二人芝居でできること」「90分というタイムリミットを設けてできること」から逆算して物語を構成したために生じた不具合である。初めからテーマを設定して物語を構成したなら、これは決して二人芝居にはならなかっただろう。

 西村・近藤が同じく二人芝居を演じた『笑の大学』の場合は、タイムリミットにも二人だけの密室劇であることにも必然性があった。その意味で、『90ミニッツ』は『笑の大学』よりもはるかに劣る。
 しかし『笑の大学』もそのテーマ(検閲官と劇作家の攻防による「表現の自由」の問題)も実は「後付け」であって、不自然さを感じないのは「偶然」に過ぎない。読売演劇大賞を受賞し、「三谷幸喜の作家としての決意表明だ」と高く評価されたが、流山児祥は『テアトロ』で「三谷幸喜にそんな決意はない」と喝破していた。
 『笑の大学』も『90ミニッツ』も、物語の構造は、『12人の優しい日本人』と同じで、基本的には「本格ミステリー」なのである。即ち「事件」があって、それを「裁判」においてどう解釈するか、弁護側と検察側とがお互いに「証拠」を出し合って、いずれかが勝利を得る「論理ゲーム」なのである。「信念」やら何やらと言ったテーマは、それに付随するだけのものでしかない。だから平然と「ないがしろ」にできるのだが、それを観客は笑って観ていていいものなのだろうか。

 どんなテーマ、題材であろうと、「笑い飛ばす」という姿勢を、三谷幸喜が持っているのであれば、それはそれで立派である。たとえ不謹慎だ、世の中には笑っていいものとよくないものがあるだろう、と非難されようが、黒い哄笑、ブラックユーモアの意義を認め、「どんな権威も認めない(弱者も弱者であることを主張することで権威となり嘲笑の対象となる)」という覚悟と矜持があるのであれば、たとえ身障者や病人や老人や女性や黒人であろうと、笑い飛ばしたって構わないと思う。しかしそんな決意が三谷幸喜にあるのか。
 そこが、筒井康隆が『十二人の浮かれる男』でディベートそのものをナンセンスと笑い飛ばしたのに比して、『12人の優しい日本人』が「和の精神(“なあなあ”とも言う)」でテーマを収めてしまった違いとして表れているのである。

 『90ミニッツ』のラストで、父親と医師のどちらが折れるか、医師が手術決行の電話を取るのが、父親の承諾書へのサインの決意よりも「3秒だけ早かった」ことが明かされる。父親は「私の父親としての愛情より、あなたの医者としての信念の方が3秒分、強かった。私はこの3秒分を一生、後悔し続けるでしょう」と語る。ここで客席からはすすり泣きすら聞こえてきたのだが、三谷幸喜の正体を知る者なら、これが物語に収まりを付けるためだけの「解説」にすぎないことに気付いて白けるだけであろう。
 「心を持った人間」なら、こんな説明的な告白はしない。感極まれば言葉が出ない方が自然であるし、そんなことをわざわざ口にすれば、かえって決断した医師を苦しめることになる。実際、医師は「そうなの?」と返事して、そこでまた客席は「笑い」に転化してしまうのだ。
 笑えねえよ。
恒例!! 第32回 新春爆笑寄席

恒例!! 第32回 新春爆笑寄席

福岡音楽文化協会

福岡市民会館(福岡県)

2012/01/25 (水) ~ 2012/01/25 (水)公演終了

満足度★★★

来年はあるのか
柳亭小痴楽「湯屋番」、小痴楽を襲名してさほど経ってはいないが、語り口に淀みもなく、若旦那の痴態ぶりも悪くない。湯屋の客の反応の間にやや“もたつき”を感じたが、真を打つのもそう遠くはないだろう。
柳家ろべえ「もぐら泥」、小痴楽に比べると、今ひとつ観客の反応を待てず、多少急くところがある。笑わせどころの難しい噺を選んだのも失敗か。
桂歌丸「紺屋高尾」、もう何十年、この人の高座を観てきたか分からないが、語り口にこれだけ変化のない人も珍しい。若いうちに老成してしまったと言うべきか。それほど笑えないのだが、骨董品に文句をつけるのも憚られる面はある。
柳家小三治「お化け長屋」、昨年はかなり調子を落としていたが、今年はやや持ち直した印象。絶妙な間、ちょっとした仕草で笑わせる腕は、当代、敵う者がいない。それでもマクラが長すぎて、肝心の噺がサゲまで行かずに「中程」だったのは残念(もっとも元々長い噺なので端折られることはよくある)。
柳家三三「試し酒」、トリにしては軽い噺だが、酔っ払いの仕草の巧さで充分に笑わせてくれる。しかしこの会で、小三治、歌丸師匠以外の噺家がトリを務めるのは稀で、もしかしたらこれは「引き継ぎ」なのだろうかと、不安な気持ちにもさせられたことであった。

ネタバレBOX

 毎年、この会を観に行っているのは、小三治師匠の噺を聞きたいのが第一だ。
 小三治は当代一の名人と謳われてはいるが、長年のリウマチに加え、昨年は東日本大震災のショックで、一時期、落語を全く話せなくなったと伝えられた。

 今回の噺のマクラでも、東日本大震災について触れて、「でも、あれから人がみんな優しくなったような気がします」と結んだ。
 毒を吐くのが商売の落語家が、こんなに穏やかで、悪く言えば「差し障りのないこと」を口にするのはやはり元気をなくしているのかなといったんは思った。しかし、その口で「さらに昨年は談志が死ぬという喜ばしいことも」とやったので、ああ、結構「快復」されていると嬉しくなった。不謹慎だと怒る客もいそうではあったが、落語はそもそも不謹慎なものなので、そこに腹を立てるのは勘違いも甚だしいのである。

 まくらが長いことで有名な小三治師匠ではあるが、今回は特に長かった。
 爆笑寄席を初回から通して出演し続けてきたのは、もう小三治だけである(第1回は談志、円楽、小三治の3人)。市民会館のぼろっちさや、円楽への悪口(を何も口にしないが、「円楽は・・・・・・」と「沈黙の間」でもって笑わせてくれる)など、これまでの思い出語りで時間を費やし、同じ福岡音楽文化協会主宰の「寄席囃子の会」の宣伝でまた時間を費やす。おかげで、「お化け長屋」を中程で切り上げたにもかかわらず、終了したのは終演予定の9時の7分前。トリの三三師匠が、「お帰りの電車の都合のある方はどうぞお立ちになって」と言う羽目になった(そのあと「落語家に背中を見せると7代祟ると言われますが」と、しっかり落としてくれたが)。

 三三師匠がトリを務めることになったのは、小三治師匠が歌丸師匠に頼み込んでのことだったという。
 小三治の弟子も数多いが、「小三治」の名を継がせるだけの実力があると師匠は見込んでいるのではないだろうか(兄弟子が多いので、「気持ちの上で」ということではあろうが)。仕草の巧さは確かに小三治直伝という印象である。映画『小三治』の中で、入船亭扇橋が小三治の仕草について、「声を変えたりするわけでもないのに、すっと顔の向きを変えると別人になっている」と評したが、簡単に言えば「雰囲気そのものを変えてしまう」から別人に見えるのである。
 巧いとは言っても、三三はやはりまだまだ小三治のその粋にまでは届いていない。しかし、その事実を認めた上で、トリを余裕で務めているのがよい。師匠の「風格」はそのうち身についてくるだろう。

 けれども、小三治師匠が来られなくなってしまえば、この会を観に行くこともしばらくはなくなってしまうだろう。円生、志ん朝、談志らの全盛期を観てきた身にしてみれば、それ以下のクラスの落語家の会をわざわざ観に行く気にはなかなかなれないのだ。「名人」の名に値する落語家が本当に減ってしまったのだと、寂しさも覚えた「初笑い」の席であった。

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