丘田ミイ子の観てきた!クチコミ一覧

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アラビアンナイト

アラビアンナイト

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2024/05/04 (土) ~ 2024/05/18 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

文学座アトリエにて上演された『アラビアンナイト』。5/4〜6まではファミリーver上演につき、未就学無料、桟敷席&家族割アリというGWにぴったりだったこの公演。私は地方出張につきファミリー公演の観劇はできなかったのですが、5歳の息子と稽古場見学をさせていただき、後に10歳の娘と通常ver.を観劇しました。

アラビアンナイトは、愛する妻の裏切りをきっかけに心を病み、「これからは一夜毎に花嫁と結婚をして、その日のうちに処刑する」という残虐な心を持ってしまった王様と、物語の名語り手である大臣の娘・シャハラザードが結婚し、千夜にものぼる物語で王の心を溶かしていくというお話。その主旋律をベースに、マトリョーシカのように物語の中にまた別の物語が入っているという構造で、劇中劇文学、劇中劇演劇の金字塔とも言える作品です。

上演時間は休憩込みで2時間45分と割と長尺なのですが、本編を通して「シャハラザードはどうなってしまうの?」という緊張感と「物語の続きは?」という好奇心がしっかりと手を繋ぎ合っていることで中弛みを全く感じませんでした。これはひとえに演出の工夫と俳優の技の賜物ではないでしょうか。また、1時間15分毎に休憩を入れるというバランスは大人子ども問わず、誰しもにとってベストなのではないか、と想像しました。

親子観劇って「子が楽しめるか否か」にかかっているんです。そして、それは、「そうでないと(子が気になって)大人も手放しで楽しめないから)という理由も正直あるんですよね。子だけが楽しくても、大人だけが楽しくてももどかしい。そういう不安で劇場を遠ざけている人にこそ、是非この『アラビアンナイト』に出会ってほしい!と思いました。子どもの心を奪う演出が細部にわたっていくつも仕掛けられているだけでなく、大人が思わずうっとりするような演劇の魔法にも同時にかけられていく。(例えば、白布一枚で海に浮かぶ船の上へ、伝説の大きな鳥の卵やその翼の下へ導かれていく……。)なんというか、五感の何も置き去りにされてないんです。五戸真理枝さんの繊細な視点と俳優さん達の心技体が込められた演出、本当に魔法だった。そして、それはきっと、私たち観客のイマジネーションとの共作でもありました。隣で子が絵に描いたように目を丸くするのを、そのままハッと驚きの息が漏れるのを見て、知らないだけで自分も同じような顔をしているのだと知るようでした。

残念なことに、稽古場見学の日は後に予定が控えていた都合で最後までは観られなかったんです。
当然息子はこう言います。帰り道にも眠る前にも「あのお話の続きは?」と。 まさに劇中で妹が、そして国王が、物語の名語り手のシャハラザードにあと一夜、もう一夜と千にも昇る命懸けの物語をねだった様に。

これほどまでに「物語の力」を示す作品はないと思う位、小さな頃から『アラビアンナイト』の幻想的でちょっぴり怖い世界が大好きでした。だけど、改めて気がついた。「物語の力」だけじゃない、「物語を信じる力」によって一夜は千夜になったのだと。そして、それは演劇の魔法を信じることにも繋がっている気がする。そんなことを感じる景色の数々でした。大所帯だけど物語の中で一人一人が忘れ得ぬ登場人物を生きているのも、誰しもが等しく聞き手でも語り手でもある様なセリフの扱い方も好きでした。
最後に10歳の娘とのやりとりをネタバレBOXに綴ります。

ネタバレBOX

色々と分別のつき始めた5年生の娘との観劇では、幼い頃とはまた違った、娘個人の考えに触れることができるようになりました。この日も信濃町駅まで歩いて帰っている帰路で「王様の罪」について色々と話をしました。
私が「シャハラザードは勇敢で美しい心の持ち主で、それによって王が自分の罪深さに気づいたことはよかったけど、死んでしまった女の子達のことを思うと、王が、彼女や彼女の家族達が永遠に失ってしまった”愛する家族と幸せに暮らす未来”を描けることが苦しい。ママは王様の心の再生を手放しで祝福できない部分もあったんだよね」というようなことを話したら、娘が「罪を犯した人がその罪をまるで無かったことにして幸せになるのはよくないけれど、自分が悪いとわかったのなら、そこからほんとうの苦しみがつづくはず。間違いや罪を犯した人が一生幸せに暮らしてはいけない、一生不幸なままでいなきゃいけないというのは怖い、なにか違う気もする。しあわせなほど苦しみはおそってくる」みたいなことを言っていて、私は我が子ながら「お見それしました!」という気持ちになるなども(笑)。そうなんですよね。こういう時間が観劇の、物語の余韻の中の最も豊かな瞬間なんですよね。翌朝、最後まで観られなかった息子が口をとがらせながら「アラビアンナイト、最後まで見てずるい」と言って、その後「ぼくだって全部覚えてるもん。でもはなすのは夜だからね」と言っていました。いつだって線引きをするのは親の方で子はいつも軽々とそれらを飛び越えていく。子どものことを決してナメてはいない演劇と出会うと、そういうことをつくづく思いさせられます。
「子どもより大人の方が物事をわかっているなんてことは決してない」
そんな教訓を改めて握りしめるような観劇でもありました。
なかなか失われない30年

なかなか失われない30年

Aga-risk Entertainment

新宿シアタートップス(東京都)

2024/04/27 (土) ~ 2024/05/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

快作に次ぐ快作を新たに発表し続けるアガリスクがまた、オールタイムベストに追加されるような新作を世に放った。2024年の世に放ったその物語は、私たちがここまでくるのに当然通らずにはいられない1994年と2004年と2014年という時が内包されていて、それはもういくつかの、一見失われたようで、その実”なかなか失われていない”時代たちを巡るタイムトリップそのものであった。
舞台は、新宿の街のとある劇場跡地の雑居ビル(下はケバブ屋さん)(と聞いて、小劇場好きはもうあそこだ!とピンとくるだろう)ある時代は劇場であった場所はまたある時代はデリヘルの待合所で、そして、またある時は…と10年毎に遡るこの30年、実に様々なことが起きた。山ほどある風刺すべきポイントを決して逃すことなく、しかし今回も劇団名に違わず、とんでもないエンタメ満ち満ちの作品だった。

アガリスクの演劇の凄いところは「エンタメ要素が散りばめられている」のではなく、冨坂さんと俳優さん達の技巧が「数々のエンタメな瞬間を生み出している」ところ。会話の度にエンタメが仕掛けられては生まれていくその様に毎回惚れ惚れしてしまう。ちょっとここは思い切って言い切ってしまうけれど演劇に縁のない人、または抵抗がある人も本作ばかりは楽しまずにはいられないと思う。両親にも姉妹にも地元の同級生にも観せたい演劇だった(つまりGWにぴったり?!)

それでいて、『かげきはたちのいるところ』、『SHINE SHOW!』、『令和5年の廃刀令』などの作品群がそうであるように社会ともしっかり手が繋がれているところや、その劇場あるいは街で上演される意味があるところが本当に見事だし、鮮やかなんです。客席の反応も含め大満足な紛うことなきオススメの一作!
人によってオススメしたい作品違うからあまり言った事ないけど、こればかりはオススメ作品って言葉がしっくりくる。でも何一つ媚びてないし、むしろ極められていて語り甲斐もある。
私の中の"アガリスク、新作の度に代表作更新説"がまた濃厚に!

泥人魚

泥人魚

劇団唐組

花園神社(東京都)

2024/05/05 (日) ~ 2024/06/09 (日)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★★

出張で札幌滞在最終日の朝に訃報を聞いて、それは代表作『泥人魚』東京公演開幕日でもあった。
そして、翌日予定通りの日時に予定外の状況で紅テントに向かった。浴び、吸い込み、啜るような観劇だった。
上京してから産前産後を除いて唐組を観続けてきたけれど、その中でも忘れられない日になった。状況が状況だから特別にならざるをえない節もあるけれど、むしろ私は、私の胸は、いつも通りの圧倒が全うされていたことにたまらず溢れたのだった。うまく言えないのだけれど、こんなにも大きな喪失を抱え、漂わせながらもいつも通りの眩しく儚い紅、そこで圧倒が更新されていることに心が震えた。
無論前身の状況劇場にかすってもいないことはおろか唐十郎演出の唐組を一度しか観たことのない私である。「全盛期を知らないじゃないか」と言われればそれまでだけど、私にしてみたら観始めたその日からいつだって唐十郎は全盛期じゃないのだろうか、と思っていた。思ってきた。いや、思っている。 ぴたりと同じ時代に生きたわけでない、"全盛期を知らぬ世代"の私も、それでも誰がなんと言おうと、唐十郎の言葉に唐組の劇世界に魅了され続けた、され続けている、歴としたその一人です。

札幌で訃報を聞いた時は事実に輪郭がないままだったけれど、羽田からのバスが奇しくも新宿に、唐十郎なき新宿に着いた時ようやく実感がおそってきた。さみしい、とも、かなしい、ともまた違う、しかし確かな喪失感だった。花園に聳える紅に命の火をうつすように唐さんの肉体から魂が離れたように感じた。風になったようにも思うけれど、やはり水かもしれないとも思う。手を洗うとき、風呂に入るとき、汗、涙、雨、あらゆる水を経験しながら、唐さんの戯曲で出会った言葉の数々を反芻していた。いつも通り当然のように予約していたその日がまさか唐さんを偲ぶ観劇になるとは思いもしなかった。だけど、いつも通り呆気ないまでに素晴らしい役者たちが今日も今日とてドカドカと舞台の上を暴れ回っていた。大鶴美仁音さんの香り立つような儚さ、妖しさに惑わされながら、泥の波間の花園で人魚を見た。テントの紅から人が溢れ出していた。虚構が現実に明け渡され役者が去っても続く遺言の様でも産声の様でもある歌声。その余韻の中で嗚咽みたいな喝采はいつまでも鳴り止まなかった。奇しくも今までで最も"唐十郎"を近くに感じた瞬間だった。

ネタバレBOX

ネタバレ、というより私情である。しかし、少なくとも私に取っては唐組を語る上では欠かせない話でもあるので、少し追記をする。

何度足を踏み入れても現実的ではない存在だった紅テントが少しの間だけ日々の一部になったのは、昨年の春公演『透明人間』の時だった。長年の念願叶ってテントの建て込みと稽古場の取材・執筆をさせてもらったこともあるけれど、夫が出演していたことも大きかった。唐戯曲で馴染みの"田口"という名の役だった。台所で胡瓜を切ったり、洗濯を取り入れてると、風呂場や部屋の向こう側から唐戯曲、そこに刻まれた美しく荒ぶる台詞たちが小さくしかし確かに漏れ聞こえてくるのだ。そんな中やはり私は胡瓜を切り続けたり、はたまた黒地に赤で"テント番"と書かれたTシャツを畳んだりして 田口の台詞とともに日々に非現実が雪崩れ込んでくる度いちいち胸を熱くしていた。自分の人生でこんな日がくるなんて思いもしなかった。しかしそれでも、たとえ家族が出ても、日々の隙間でそれを娘と見に行っても、感慨深さはあれど遠い幻影の様な紅テントの圧倒は初めて観た日と何も変わらなかった。ようやくここまできました」「それでもまだまだ遠いです」と、あの日々、私は心の中で誰かに向かって必死に話しかけていて、その誰かこそが唐十郎その人だったということにようやく、はっきりと気づいたのは、唐さんが旅に出てしまった時でした。
さみしい、かなしいともまた違う、だけど確かな喪失を感じながら、けれども美しさと荒々しさに身を任せながら。きっとずっとそうだろう。紅テントが花園に建つ限り。唐十郎の言葉が戯曲が存在する限り。
『動く物』『旅の支度』

『動く物』『旅の支度』

ウンゲツィーファ

PARA(東京都)

2024/04/18 (木) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「部屋の風景、外の天気、本棚の本の名前、隣の人の服と私の服が呼吸の波間で擦れて小さく音を立てたこと。全部を身体が覚えている。動く物/動物という言葉、意味、在り方の境界を突きつけられ、いのちを目の当たりにした。死生観が揺らぐ様な演劇体験だった。2024年4月、小さな部屋の中で鮮明に目撃したあの演劇が再び上演される。別の二人の俳優によって『動く物』が続いていくこと。あの時私を圧倒した二人の俳優が新たな『旅の支度』へと向かうこと。そのいずれにも演劇の可能性を、"ふたりぼっち"の可能性を予感している」

と上演に向けたコメントに寄せた通り、待望の観劇だった。

ウンゲツィーファとの出会い、『動く物』という演劇との出会いは間違いなく私の演劇観、ひいては死生観までを揺るがす出来事であり、演劇の新しい扉をはっきりと自覚しながら開けた瞬間でもあった。
その作品が再び観られるのだから、待望以外の何ものでもなかったのだが、今回はさらに新作『旅の支度』という二人芝居も同時上演という。そのキャストこそが2019年の『動く物』で私を魅了した黒澤多生&豊島晴香ペアだった。そして、『動く物』はこれもまた近年数々の作品で抜群の存在感を発揮している藤家矢麻刀、高澤聡美に引き継がれる。
キャスティングからカンパニーや作品の豊かな試みと拡がりを予感させる企画で、ある種の覚悟のようなものも抱きしめつつ観劇日を心待ちにしていた。

私が観劇したのは『動く物』→『旅の支度』の順で2作を通しで上演する千秋楽の公演。予定的にこの日しか見られないこともあったのだが、結果的に2作を地続きで観られたことで迫るものもあったように思う。その反面、いずれも決してライトではない、心に残すものが大きく、余韻を噛み締めるのにもそれなりの時間を要する大作であるので、2作とも初見の場合は日を分けて観た方が(身のためと言う意味で)よかっただろうな、とも感じた。そのくらい、ずっしりとした作品なのだ。
ウンゲツィーファの演劇のすごいところは、まさにそこでもあって、いずれも上演時間自体は1時間ちょっとで決して長くはない。会話も難解な言葉を用いないし、一見日常的な会話劇である。そのパッと見普遍的でさりげない時間の中で人の心が小さく泡立ち、擦れ合い、戸惑いを覚えるくらいの波になり、やがて予想もしないうねりを見せていく。人の感情の発端と経過に目を凝らし、耳をすまさなければ生まれようのない景色がそこには広がっているのだ。これは2作にともに共通して感じたことであり、前作『リビング・ダイニング・キッチン』でも感じたことだった。これこそが劇作家・本橋龍ならではの眼差しであり、本領であり、おいそれと真似の叶わぬ個性と技なのだと痛感する。

『動く物』は同棲をしているカップルと彼らに飼育されている1匹のペットを巡る物語…
※以下はネタバレになるので、ネタバレBOXへ

ネタバレBOX


『動く物』は同棲をしているカップルと彼らに飼育されている1匹のペットを巡る物語。
冒頭はどちらかといえば怠惰な生活を送る、ありふれたカップルの日常に見えるのだけど、実はこの部屋には「いのち」に関わる大きな問題が二つ内包されていて、それはトピックとしては二つなのだけれど、つまるところは一つの命題である、という手触りがあり、それがそのまま『動く物』と言うタイトルに収歛されていく様には何度観ても身震いしてしまう。観始めた時と観終えた時で心の状態が大きく変わる作品。
前回の黒澤&豊島ペアの二人が本作を演じたときには、恋人間に流れる「停滞」を強く感じ、その停滞と“動く物”との対比に心をグッと掴まれたのだけど、今回の藤家&高澤ペアはまた違った魅力があった。「停滞」というよりはどちらかと言えば「不協」を濃く感じ、そのことによって問題の深刻さが詳らかになる体感があった。“動く物”と“動かない物”や、いのちに対するそれぞれの線引きがリアリティを以って差し迫ってくるような。
藤家さんの打ち明けられた真実に対して狼狽する様子、そこに滲む理屈では太刀打ちきかない情けなさや滑稽さの露呈がまた見事であり、立て続いた出演作から一転、また違った横顔をしっかり受け取った。
高澤さんを拝見するのはおそらく初めてだったのだけど、最初の表情から心をすっかり奪われてしまった。とりわけ驚かされたのは、筋肉の使い方。大きな問題を抱えながら生きている時ならではの人間の顔の強張り、体の脱力がとてもリアルで、劇中の過去の穏やかな日々のシーンで、上着をスルッと脱ぐようにその緊迫が体から剥がれている様も素晴らしかった。
相手に告げぬまま妊娠と中絶を遂げた女性の心の揺らぎ、それを受け止めきれないまま呆然とする男性の困惑、そんな二人に今まさに横たわる、ペット・ミチヨシの脱走。ラストシーンを終えても余韻を引き取るような存在感。時を経た再演でキャストを変えることの豊かさを感じる時間だった。

対して『旅の支度』では黒澤&豊島ペアが再び新作で観られることにどうしても期待は高まってしまうが、その期待を上回ってしまうのだからもう流石のタッグとしか言いようがない。
物語の舞台は、母の再婚を前に結婚式のためにハワイに発つ前夜。二人は今回は恋人同士ではなく、主にその母の子である姉と弟を演じるのだけど、家庭やそれぞれの心身の状況が明確に言葉にされる前から、二人の抱えるものがそこはかとなく滲むような役の背負い方が素晴らしかった。時折、二人の演じる役が夫婦になったり、親子になったりといくつもの役を演じ分けるのだけど、観客が混乱することは当然なく、それぞれ全く違った趣にスイッチングされる。そして、劇中のちぐはぐで歪な二人の人間のやりとりは、その実二人の俳優の息のあったコンビネーションに支えられていて、俳優のキャリアと共演の歴史を思い知るような気持ちにも。歪な家族の中にある、歪ながらも切って切り離せないもの。その煩わしさと同じだけの愛着。途方に暮れる姉と呆れる弟の瞳の端にそういうものが映っては消え、消えては映っていくたびに胸がギュッとなった。

ウンゲツィーファの演劇は、そこに生きる人々は、手放しで明るい状況ではないことが多いけれど、絶望や悲劇に集約されるだけの人はいない気がしている。この世界をうまく泳ぐことができない人間に泳ぎを教え込むのではなくて、ただその手を引いて足のつく場所に、すなわち息のできる場所に導くようなやさしさがあって、『旅の支度』はまさにそんな演劇だと思った。もちろん観ていて辛くなるところもある作品だったけど、最後は夜明けに、または朝焼けに託されているようなやわらかい光があって、緩みゆく二人の表情がとてもよかった。
通し公演限定の演出、ラストに藤家さんと高澤さんがある役で登場するのも、(もちろん、他公演と遜色が出ないよう物語に干渉はしないよう作られているけれど)、ラストの温もりや旅の続きを補填するような素敵な演出でした。さらに松井文さんのアフターライブがあり、二つの物語の余韻を水面に手を添えるようなやさしさで包み込んでもらったような心持ちに。上演中に流せなかった涙が遅れて流れてくるのを感じながら、音楽の力と言葉の力の共鳴に身を任せていました。贅沢な千秋楽特典が観られて幸せでした。

演劇の可能性を、ふたりぼっちの可能性を示した素晴らしい二人芝居。いずれもカンパニーの代表作として今後も引き継がれ続けてほしい、と感じました。
夜会行

夜会行

動物自殺倶楽部

「劇」小劇場(東京都)

2024/04/24 (水) ~ 2024/04/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2日目のお昼公演を観劇。
4名のレズビアンの元に訪れた1人の恋人といくつもの提起。5名が過ごしたある夜の物語、そして、"ある夜"にも"レズビアン"にも決してとどまらない問題がガラス窓から街へと現実へとシームレスに続いていく。

ガラス窓の向こうには植物に囲まれた部屋の一室、うっとりと見惚れてしまうような美術に迎えられ、そのまま食い入るように5名をただただ見つめ続けた85分。コロナ禍が初演なだけあり、物語や演出の端々から時節を想起させられました。ガラス窓はそれもあっての(感染対策も加味した)演出だったのかなと受け取りつつも、物語やその心象風景においてもそれ以上の効果が発揮されていて、素晴らしかった。3年前にこんな凄まじい演劇(初演)を見逃していた自分つくづく信じられないと悔やみつつ、今回たしかに目撃したガラス越しのあの風景を、あの一夜を、その手ざわりを知らない自分にはもう戻れない。戻らない。途中、理由のわからないままの涙を二度流した。そこにはきっと大切なことが隠されているはずだから、時間をかけて紐解きたい。
静かに激しく流れる一夜を映すようでも照らすようでもある照明、怒りや焦燥、心の騒めきと伴走する音響。そして、饒舌な時も寡黙な時も、息づかいから瞬きまで、人間がそこに存在することによって生じる全て、感情の源流その在処を伝える様な5名の俳優の素晴らしさと、そのような細部こそが伝えるものの大きさととことん向き合った演出。全てが全てに隙間なく接続した圧巻の総合芸術でした。好きな俳優さんがたくさん増えました。

映画のパロディ

映画のパロディ

コンプソンズ

下北沢 スターダスト(東京都)

2024/04/18 (木) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前回を見逃し、大宮企画は初見だったのですが、大宮二郎さんの作・演出の作品は他で観たことがあり、勝手に信頼を寄せていました。それは3年前に王子小劇場で上演された「イン・ザ・ナイトプール」というコンプソンズの短編企画。メンバーが一本ずつ作・演出を担い、それぞれの作家性と劇団の底力を実感したこの公演が私は大好きなんですけど、そのトリを飾ったのが大宮さんの「東京」という作品でした。作・演出を手がける金子さん不在の中で金子さんの強烈な存在感を忍ばせた劇団の自伝的物語なんですけど、東京と言っておきながら物語の舞台はアラスカに終始するんです。めちゃくちゃなんです。でも、そのめちゃくちゃな中でしか描き出せないものが確かにあって、私は不覚にも泣いてしまった。なので、今回もきっととんでもない映画とパロディの世界を、またはタイトル返上でより想定外な展開を今回も見せてくれるのだろうな、と期待を寄せていましたが見事的中!
反則レベルで個の魅力がピカピカに光る、されども団体競技!って感じの、それぞれの個性を貫き切ったままの一体感がとても良かった。コンプソンズ本公演とは一味違う、大宮二郎ワールド&ワードセンス堪能の75分でした。キャストもまあ、混ぜるな危険レベルに魅力的。江原パジャマさん、榊原美鳳さん、東野良平さんは初回より続投の頼もしさに期待しつつ、そこにオルタナな存在感で魅了する土本橙子さん、モリィさんが加わり、どこをみても面白いこと間違いなしの布陣でした。「ハマり役をハメにいくこと」に対してどこまでも貪欲な演出も痛快でした。モリィさん×土本さんの軽妙なギャル会話劇、誕生日なのにひたすらに可哀想な榊原さん、プロ意識は高いのにブランディングで大失敗してる東野さんの寿司屋、振り向いただけで爆笑をさらう江原さんの電機屋、全員反則!大名行列ネタは、展開も結末もわかっていながらもはやいつでも笑える装置、大発明ではないでしょうか。次回も期待です!

鳥皮ささみのインスタントセッション!

鳥皮ささみのインスタントセッション!

なかないで、毒きのこちゃん

高円寺素人の乱12号店(杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F)(東京都)

2024/04/12 (金) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

・途中入退場&飲食OK
・3時間半の稽古+ラスト20分で本編上演の二人芝居企画
・出演者と演目は日替わりで全10組&10作品
・物語と演出は口立てで進行

この形式のアイデア、面白みだけでもすでにグッと引き込まれ、子ども二人を連れて観劇。
私は丙次さん×志賀耕太郎さんの回を、前半の稽古を1時間ほど観た後に食事で一度退室し、本編上演の時間に戻ってくるというスケジュールで目撃&観劇。一言で言うと、ワークインプログレスと本公演を1日で観られる良企画でした。
演劇がこつこつと積み上がっていく創作過程、俳優とは何か、という核心に触れるような時間。その公開は観客にとっても非常に豊かで貴重な時間だと痛感しました。俳優の技やそれらが鍛錬されていく様をギュッと凝縮して見られること。そういった機会は日本の演劇シーンにおいてはまずとても少ないので、演劇界における貴重な取り組みであるとも感じました。
入退場自由で「いつ、どこから、どこまで観てもいい」という状態は、あらゆる状況をそれぞれ持つ観客にとってとてもひらかれた環境であり、観劇アクセシビリティの向上にしっかりとコミットしている企画だとも思います。
鳥皮ささみさんのアイデアや企画力、実現力が素晴らしいことは言うまでもないのですが、こういった素敵な企画に制作会社や劇場が協力・協賛してくれたらいいなとも感じました。私たち観客は見応えに対して安価でとても気軽に楽しく観劇させてもらいましたが、その分、素晴らしい着眼点を持った劇作家さんや面白い演劇を発表する劇団、そして出演する20名の俳優がしっかりとバックアップされてほしいとも感じました。そのくらい拡げ甲斐と続け甲斐がある企画だと思います。

明日の人

明日の人

劇団ドラマティックゆうや

シアターブラッツ(東京都)

2024/04/18 (木) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「始めたそばから消えゆく無駄。その演劇を、表現を私は断じて無駄だと思わない。無駄なき無駄に向かう矛盾を明日も勇んで生きたいと思う」。私が初めてドラマティックゆうやを観た時に綴った感想の最後の一文である。そして、今なおその実感を握りしめている。
前々作『不幸の光』でグッと心を掴まれ、前作『星の戦い』でやっぱりあの光は本当だったと噛み締め、そして、『明日の人 再演』ではっきりと分かった。自分がどうしてこんなにも劇団ドラマティックゆうやの演劇に心惹かれるのか、が。奇しくも登場人物同様に(物語が作られた時系列でいうところの)過去に戻ってはじめて私は分かった、というわけである。そのことが私の”明日”をどう変えるのか。それはまた明日が過去になるまでは分からない。ただ、その変化はきっと「歩き出す時に右足から出るのか、左足から出るのか」くらい小さなことで、同時に、アームストロングよろしく「この一歩は小さいが私にとっては偉大な一歩」であるかもしれない。そうだ。きっとそうだ。そう信じさせてくれるから私は一年に一度お守りを握りしめるようにシアターブラッツに向かうのだと思う。「自分の信じているものは人とは“違う”かもしれないけど、決して“間違い”じゃない」。情報量の多い新宿の街を歩きながら、そう思った。思うことができた。それは、演劇の力ほかならなかった。始めたそばから消えゆく、同じ時は二度とない、撮らねば記録すら残らない過去の芸術、演劇の力なのだと。だからやっぱり、無駄なき無駄に向かう矛盾を明日も勇んで生きたいと思う。
※以下はネタバレBOXへ

ネタバレBOX

※ここからはネタバレ
と、書いたように『明日の人』は、タイトルとは反比例に「過去の物語」なのである。
現在を生きる売れない役者の息子が、今は亡き売れなかった劇作家の父に会いに行って、制約の中で未来を変えようとするタイムスリップ物。『ドラえもん』がこの世界を魅了する限り、この設定自体は定番、さして新しいわけではない。そして、ドラマティックゆうやの特筆すべき魅力はその設定ではなく、構成。構成に施されている技巧が設定を度外視するような驚きがあるのだ。
その構成というのは、『明日の人』を挟む形で一見全く関係のないコント仕立ての短編演劇『木村さん』『兵士の走馬灯』の2本がカットインするのだけど、観終わった時に初めて「それも含めての“明日の人”だったのだ」と体感する、といったところなのだが、これも文字で書くと実態よりも遜色が否めず、自分の表現力の乏しさにジタバタしてしまう。いずれも「笑い」をふんだんに盛り込んでいるものの『木村さん』は文字通りジャニーズの性加害問題に切り込んでいるし、初演はSMAP解散間もない頃だったけれど、問題を挟んだ2024年の今この作品を上演することには全く別の意味が付随してしまう。泉田さんは腕のある脚本家なので、そこを差し引いて現代の論調に照準を合わせる=ポリコレ的な側面を重んじて整えたり、あるいはカットすることだってできたかもしれない。されどもそのままやるということに、『明日の人』にそれが含まれているということに、私はある種の覚悟を感じた。とくにダイレクトに性加害について言及するあるセリフが発された瞬間に。過去は編集できないのだ、と突きつけられたような気もしたし、だからこそここからしかないだろ、と明日を指差されている気もした。それだけではない。兵士の戦場からの逃避を肯定する『兵士の走馬灯』からは反戦を感じ取れる。ロシアとウクライナ、ガザの集中空爆、日本でも次々と危険な法案がするりと私たちの横を通り抜けて、今にもすぐそばで戦争が始まってしまいそうなこの世界で『兵士の走馬灯』を上演することにはとても大きな意味がある。私は涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いながら何度も何度もそう思った。愛とユーモアを原料にした皮肉が思いがけないところに向かって放たれた時にこそ、私はドラマティックゆうやの演劇の本分を目の当たりにするような気持ちでいる。

ちなみに"明日の人"はいいとものテレフォンショッキングのお友達紹介、「明日の(いいともに出演する)人」とかかっている。無論「いいとも」は今はもうないし、アルタすらまもなく閉ざされる。今日から明日、過去から未来へと接続する、憎すぎるダブルミーンなのだ。そう思った時、「明日きてくれるかな?」というタモリのお馴染みの言葉すら「(私たちに)“明日”はきてくれるのかな?」という問いかけのように感じてしまう。新宿からアルタが消え去ったとしても、誰からの紹介を受けなくても、私たちはいつだって過去から未来に、今日から明日に向かって叫ぶ。明日からの「いいとも〜!」が聞けるように、小さなことから何かが変わるかもしれないと信じて、今日も今日とて生きている。
漸近線、重なれ

漸近線、重なれ

EPOCH MAN〈エポックマン〉

新宿シアタートップス(東京都)

2024/04/01 (月) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

一色洋平×小沢道成『漸近線、重なれ』(作:須貝英 音楽:オレノグラフィティ)観劇。
住人たちが入れ替わるアパートを舞台に「僕」と他者との付かず離れずの交流、人と人との出会いと別れが描かれていく。そんな日々の風景にカットインする「僕」と「君」の往復書簡。互いに宛てた手紙に紡がれた思い、また紡げないままの葛藤が過去と現在が観客を物語の深いところへと誘っていく。
と、このあらすじの時点でまず驚きなのが、これが二人芝居ということです。アパートの住人たちや大家さん、母や地元の幼馴染も出てくるけれど、演じる俳優は舞台にたった二人。人々の温度や息づかいの交錯するこの物語が一体どういう形で表現されているのか。その方法を是非劇場で目撃してほしい。
どこを切り取っても人の温もりに触れることのできる、人の営みがすぐそばに見える風景に胸がギュッとなりました。大家さん、愛らしくて、愛おしくて。だけど、たしかにそこには、始まり、続き、そして終わる人生があって、「生きている時間」があった。人間の身体ができること、そしてこの身体が知っていることを慈しみながら見つめていました。舞台美術もまた驚き。劇場に入ってまず率直に思ったのは「ここでどうやってお芝居するの?」ということでした。

ネタバレBOX

正方形、長方形、円、八角形もあったでしょうか。視界が捉えるのは形のさまざまな窓、窓、窓。同じ屋根の下とはいえども、人々の暮らしにはそれぞれの形や在り方がある。そんなことを一目で伝えるような美術でした。人々を見守る屋根であり、人々の違いを彩る窓であり、そして、それは時に、世界にたった一人である「僕」が同じく世界でたった一人である「君」に向かう文字をしたためる便箋でもあって…。EPOCHMAN『我ら宇宙の塵』の星々の演出の素晴らしさ同様今回もまた小沢さんの斬新なアイデアがギュッと詰まった作品でした。なんというか演劇に魅せられた瞬間の原体験を追体験するような手触りがありました。
全てを説明はしない台本というのは確かに素晴らしく、そういった本に出会う度、想像という喜びに心を震わせます。でも、本作は「作者が説明しないこと」よりも「人物が説明できないこと」に寄り添われていた気がして、私はそこにすごく惹かれました。言葉が追い付かなかったり、または言葉を追い抜いてしまうその心がそのまま音になっているような劇中音楽は、正に心がふと立てる音のようで。そんな言葉を越えた心を全身に背負い、纏い、体現する一色さんの繊細な横顔。花の咲くような笑みの端で本当は人知れずこぼれ落ちている涙。そんな瞬間をも見せてもらえたような気持ちでした。観終わってからずっと、言葉と文字の違いについて考えていました。「言葉にしたい」と思う気持ちと「文字にしたい」と思う気持ちは似て非なるものなんじゃないだろうか。「言葉にできない」と「文字にできない」もまた少し違う気がする。そんなことを考えながら、遠くに住む大切な友人に手紙を出したくなっていました。なんでそんな気持ちになったのか、それもまた言葉にはできない。だけど、便箋に向かえば、文字となって現れるかもしれない。そんなことを考えていました。劇中で一つどうしても好きなシーンがありました。妊娠中の幼馴染みが電話越しの「僕」に胎動を聞かせるシーンです。同じことを自分もしたことがあって、その記憶の来訪に思わずお腹を撫でてしまって、あの音はどんな風に聞こえたのだろうとしみじみ考えました。自分の顔を自分の目で見ることができないように、自分の(子どもの)胎動って自分の耳で聞くことはできないんですよね。でも、人は聞くことができる。それが少なくとも私にとっては、他者と出会うこと、他者がいることでこそ叶う喜びがある、というこの物語に通底する温もりを伝えるようなシーンに思えたのです。長くなってしまったけれど、大切な人にほど是非出会って欲しいと思った演劇でした。
船を待つ

船を待つ

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2024/03/23 (土) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

“現代版ゴドーを待つ人々”。その言葉とスヌーヌー主宰で劇作家でもある笠木泉さんの俳優としての久しぶりの出演に惹かれて観劇を決めていました。

ネタバレBOX

入ってまず驚いたのが吉祥シアターの使い方。岸辺から水辺を臨むように客席と舞台が配置されていて、舞台の「長さ」がそのまま物語における時の「永さ」に接続しているようで、不思議な感覚に導かれました。目に見えぬ時空を掘り下げ、扱う戯曲ならではの演劇の魔法に感嘆。
生と死のあわいにも、夢と現の瀬戸際にも思える船着き場で巡りあったり、あえなかったり、重なったり、重ならなかったり、おそらくは人の実体はない魂のような、精神のようなものが水辺で交錯してゆく様を3名の俳優の身体が豊かに伝えていました。終わりを待っているようにも、始まりを待っているようにも見える人々を前に「待つ」という言葉、行為が含むあらゆることに思いを馳せました。それは今起きているたくさんの出来事、出来事なんて言葉では足らない事件や戦争にも繋がっていて苦しくなる部分も。死んだ後と生まれる前、その二つはこんな風に船着き場のようになっているのかもしれない。対岸にいる人々を見つめ、自分もまた相手にとっては対岸であること、そこからこちらはどんな風にも見えているのだろうかと。そんな風にふと魂の行方についても考えを巡らせました。ラストの笠木さんの涙が生命を讃えているようで、同時にその透き通る水分そのものを讃えたい気持ちにも駆られて胸がギュッと。哀切と歓喜が同じ分だけ染み込んだ美しい横顔でした。観劇後、外に出る時に劇場は虚構と現実のエントランスであり交点なのだ、としみじみ。そんなことを改めて噛み締める観劇は久しぶりでした。
友達じゃない

友達じゃない

いいへんじ

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

いいへんじの『薬をもらいにいく薬』という作品にとても救われていたので、新作を待望していました。
一人のシンガーソングライターの路上ライブをきっかけに出会った二人。二人の間に芽生える気持ち、揺らいだ気持ちとは?「友達」と「友達じゃない」の間を行ったり来たりする二人、そんな二人を見つめる一人の心の様子が丁寧に描かれていく約80分。劇中歌が素晴らしすぎて、思わず落涙。今回もまたとてもやさしい戯曲であり、あたたかい演劇でした。そして、それはそうではない世界へのささやかな、しかし確かな抵抗であるとも感じました。「やさしい」や「あたたかい」という安心は、「かなしい」や「つめたい」という不安といつも共にあって、気持ちが追いつかず涙ばかりが流れる夜や、泣いたからといって清々しく迎えられるわけもない朝があって、そんな中で私たちは生きている。一人になりたい、人から離れたいという気持ちと、独りが怖い、誰かと寄り添いたいという気持ちが同じ心にあるということ。それでいいということ。いいへんじの演劇は、中島さんの戯曲はいつもそんなことを改めて、耳打ちするようなさりげなさとやさしさで教えてくれるようでもあります。それはなんだか、世界へのとりとめないお手紙でもあるようで、同時に丸くて丁寧な文字で同じだけ心をつかって綴られた"へんじ"でもあるようで。
世界の悲しさ、冷たさ、厳しさに目を凝らした上で、人と人がどうあれれば、そことたたかえるのか。武器じゃない、何かもっと確かで、もっと誇れるもので。そう願う自分を肯定してもらえたような劇体験でした。
人と人の隙間を糸や針をつかって縫うのではなく、マーブル色の色鉛筆で少しずつ色を変えながら塗っていくような。そういう繊細で、時間のかかることを見せてもらったような心持ち。人と人との間にはいつだって大きな川が流れていて、こちらと向こうの違いや差に戸惑うし、いつでも行き来ができるような橋を気安くかけることもためられる。それでもと、だったらと、てづくりのボートをそーっと出してくれるような。そんな演劇でした。私は千秋楽ラストチャンスに滑り込み、Bキャストの味と技を堪能しましたが、俳優さんの違いも込みで楽しめそう。トリプルキャストにも意義と魅力が宿る公演だと思いました。

リーディング公演『死と乙女』

リーディング公演『死と乙女』

犬猫会

RAFT(東京都)

2024/03/22 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ぐさりぐさりと刺さる言葉と息づかいと行間の応酬でした。暴力の被害を受けた側にとって"終わり"はなく、ましてや傷が消えるわけもない。なのに、どうしてそんなにも周囲や世界は終わらせようとするのだろう、ひと段落つけたがるのだろう。そんなことを改めて考えた、今上演されるに相応しい戯曲でした。ただ、これはキャストでメンバーの山下智代さんもおっしゃっていましたが、戯曲に描かれていること、起きていることが手触りを以て分かってしまうことに複雑な気持ちも覚えます。いつになったら、こういったことを、感覚を分からなくて済むようになるのか。そういう意味でも、しっかりと怒りが込められたリーディングであることに強い共感を寄せました。また、音楽の力をものすごく感じる公演でもあり、思わず耳を塞ぎたくなるような不協和音はまさに劇に伴った響きそのもので、これぞ劇伴の骨頂といった共振がありました。リーディングって観る側にとっては結構ハードルが高いジャンルと私は思っていて、正直2時間20分ついて行けるか不安もありました。物語に入り込むチャンスを逸してしまったら苦痛にすらなりうる、非常に難しい形式だと思っているからです。だけど、冒頭から世界観が確立されていて、休憩を挟むも物語の緊張を持続させる力、俳優の推進力が高く、時間が経てば経つほど劇世界と相乗りしている気持ちが強くなるような上演でした。サスペンスフルな内容も相まって固唾を飲むシーンも多々ありました。上演後には戯曲にちなんでチリ料理が売られたりもしており、劇の張り詰めた緊張から一転、和やかなムードに。すてきな空間でした!

時間なら、あるわ

時間なら、あるわ

えんそく

遊空間がざびぃ(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

『東京三人姉妹』の方を観劇。親の看病を担う長女、結婚を控える次女、日常と自由の狭間で揺れる三女。それぞれの思いが隠されたり、詳らかにされていく会話劇。かくいう私も四人姉妹なので、なるべく姉妹モノは見逃したくないという思いから観劇しました。劇場の木の温かみと長年姉妹が暮らした家屋がシンクロするような空間づくりがとてもよかった。床や壁と物語が共振するように感じて、やはりがざびぃは失くしちゃいけない場所だと改めて思ったり。

ネタバレBOX

当然ながら人生色々、姉妹も色々だなあと。親の病状を正しく妹たちに共有していない長女には正直なところ最初は違和感しかなかったのだが、彼女が妹たちへの計らいではなく、自分の家や人生における役割や存在意義を守るための行動であったということが端的に示されるセリフがあって、その一言の痛々しさに、先ほど自分が抱いた違和感がいかに暢気であったか、を思い知らされたりもしました。ある時は過不足を分け合い、またある時はなすりつけ合い、羨ましがったり、羨ましがられたりしていく姉妹の姿がリアル。姉妹の周辺の登場人物も訳ありそうな人たちなので、そのあたりのバックボーンや葛藤、それぞれの関係性がもっと濃いめに絡んだ長尺バージョンも見てみたいなと思いました。
『ヤッホー、跳べば着く星』

『ヤッホー、跳べば着く星』

涌田悠

水性(東京都)

2024/03/22 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

チラシを見た時から「ヤッホーのホーが銀河に突き刺さる路地より遠い跳べば着く星」という短歌にまず心惹かれ、そこからタイトルが『ヤッホー、跳べば着く星』なことにもさらに惹かれて観劇を心に決めていました。がしかし!前売りが完売していたので不安を抱えつつ、かといって諦めきれず、えいや!っと当日券で駆け込み。無事観ることができました。かわいらしいチラシ、短歌とダンスという掛け合わせ。観る前から涌田悠さんの試みにある種すでにときめいており、始まってすぐ、目に映る景色を即興セリフとして発する演者さんの声、それに伴い発芽するようにうねり、隅々まで伸びゆく身体にグッと心を掴まれました。そこからはもうずっと涌田さん、石原朋香さん、田上碧さん3人がそれぞれ持つ身体性、眼差し、声色から目が離せなかった。
物語というのか、短歌というのか、言葉の舞台は荒川区西尾久の街から始まり、歩いたり、転がったり、おやつ休憩なんかも挟みながら、声とからだが時間と空間を遊泳していく。休憩の後のラップも楽しげだけど、どこどこと突き上げてくるものがあって、エンパワメントされている気持ちにもなったり。やさしくてつよい心、やわらかくて切実な力を端々に感じる時間と空間でした。
中野・新井の商店街の中にある会場「水性」との親和性も魅力の一つ。ガラスのドア越しに通行人の姿が見えるのです。そのことがこの公演や景色と本当に良く合っていて、境界が溶けて混ざり合っていくような不思議な感覚を覚えました。私が観た回では、思わず立ち止まってガラス越しのパフォーマンスをしばらく見つめているおばあさまがいらっしゃり、涌田さんが身体を翻し、扉に顔を向けてすうっと手脚を伸ばしていくまさにその途中に二人の目がパチリと合う瞬間があって、それを目撃した時なんだか奇跡みたいで、そこはもう一瞬宇宙みたいで、その時の二人の表情を見て私はなんでかわからないのですが、涙が出てきてしまったのです。あの瞬間に立ち会えたこと、考えるのではなくて感じる体と心でそこにずっといられたことにとても救われた公演でした。ごきげんに「キラキラのかわいい靴」を履いて行って本当によかった。帰り道、来た時よりもっとキラキラしてる気がしました。最後は短歌で締めてみます。
「透明の隔たり越しに生まれたてのほほえみ溶かすここは水性」

歌っておくれよ、マウンテン

歌っておくれよ、マウンテン

優しい劇団

高円寺K'sスタジオ【本館】(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/20 (水)公演終了

実演鑑賞

名古屋を拠点に活動する優しい劇団。劇団史上初となる1日限りの東京公演(高円寺K'sスタジオ)を親子総出で観劇しました。ものすっごい勢いがある、だけど、勢いだけじゃないのでは?と思っている。この世代でこのタイプの演劇を劇団という形で突き詰めていることがもう貴重ではなかろうか。詩的な台詞は確かに唐&つか戯曲インスパイアであり、敬愛であり、それでいてとってもオリジナル。24歳の身体と声に沁み込んだアングラ演劇の魂はどうみたってグッときてしまう。
誰一人として出し惜しみなき俳優陣の疾走。自ら照射するライトがふと鏡に見える瞬間があって、この人たちは己と闘い続けているのだと思った。光に照らされた瞳燃えてるみたいだった。文字通り自家発電。
山に向かって叫ぶでなし、歌うでなし、やまびこをただ待つでもなし。山そのものに歌わせようとする気概、歌っていいのだ、おくれよとする包容。その一瞬、一日のため山こそ越えずとも東京まで来たのだから、実に相応しい演目ではなかろうか。
24歳の、と書いたのですが、22歳も23歳もいます。名古屋発、平均年齢23歳、自家発電型、カンパ制!
とんでもない勢いがあり、がしかし勢いだけではない若手劇団。それが優しい劇団。

Oh so shake it!

Oh so shake it!

TeXi’s

北とぴあ カナリアホール(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

初日観劇。 劇場に入るやいなやびっくり。そして、公演名を読み返して「そうきたか!」と膝を打った。
小学生の頃、初めて光る靴を手に入れた時のえもいわれぬ無敵感。あれは、なんというか闊歩の装備だったんだな。おっしゃ行くぞ、生きてやるんだぞ、というサバイブのための装備だったのだなと。観劇しながらそんなことを思っていた。それはゲームのアイテムみたいなものでもあって。きのこよりお花や羽根の方が安心とか、相棒がいたらもっと心強いなとか。スターの時の無敵モード、全ての敵を片っ端から薙ぎ倒していくあれがリアルでも起こせたなら、
もっと泣かなくて済むのかな、とか。薄いカーテンみたいなシームレスさでバーチャルとリアルが繋がれたあの空間には生があり、それは死があるということでもあり、幾度となくリフレインされる言葉は敵への呪文であり、自分へのお守りであり、世界への祈りでもあったかもしれない。
「生きる」という行為そのものが無化ないしは形骸化していくリアルに穴をあけて、wifiという光の中でギリギリ繋がる人たち。錯綜する情報の中にも、駅前の雑踏の中にも、誰かといるのに孤独な部屋の中にも、"わたし"はいるし、"あなた"もいる。
だからこれはきっと、わたしやあなたを枠にはめたり、 ひとつにまとめようとする物や者との決別の為の葬列で、
もう一度生まれる為のセレモニーなのだろう。だから、色とりどり着飾って、光る靴で装備して、それからshake it=手を振り/揺さぶるのだ。呪文やお守りや祈りが身体じゅうに行き渡るまで何度も何度も。
仮装と現実の狭間で、私はそう受け取った。

キラー・ジョー

キラー・ジョー

温泉ドラゴン

すみだパークシアター倉(東京都)

2024/03/15 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

温泉ドラゴン『キラー・ジョー』トリプルキャスト:いわいのふ健さんの回を観劇。
「底辺を生きる家族による、人生一発大逆転をかけた保険金殺人計画!!」という触れ込みや、暴力描写・性暴力描写・セクハラ描写・流血描写・火薬による銃の発砲などのトリガーアラートの発表から覚悟して劇場へ。
客席に座り、舞台を見た第一印象は「劇場と合っているなあ」という感触。冒頭からグッと物語の中へと引き込まれ、観ながら解釈や見解などを考えることなく、ただただ目の前で起きる出来事を固唾を飲んで目で追っていた。「シーン」というより「出来事」という感じ。そういう意味で、「演劇を観た!」という感覚や余韻がとても強い作品で、そういった経験が久しぶりであったことにも気がついた。
お話自体は本当に救いようがなく、一人として心を寄せられる人物がいない物語で、人に薦めるには勇気のある作品でもあったけれど、安全地帯からそう思い込んでいることそのものにも自分の暴力性をふと感じるような。そんな瞬間も押し寄せた観劇だった。
何よりも劇団としての在り方が素晴らしい。前作『悼、灯、斉藤』から一転、同じ家族モノとはいえその振れ幅にまず驚き、メンバーに劇作家が複数いながら海外戯曲にも取り組むという果敢さ、過去作品がどれも似通うことなく、一つ一つ世界が独立している点においては演劇を上演する「劇団」というカンパニーとしてある種の理想を形にしているとも考えられるのではないだろうか。

ネタバレBOX

ラストにかけての乱闘シーンはまさに手加減、待った一切なしという感じで、相当にヘヴィー。中でもケンタッキーフライドチキンを用いた暴力シーン・食事シーンは凄まじく、思わず目を覆ってしまった。
のだが、本当の意味でもっと目を覆いたくなったのは終演後のこと。私がほとんど無意識のような自然さで最寄りのケンタッキーに立ち寄ってしまっていたということだった。あんなに酷い景色を見たのに、あの時はあんな感情になったのに、今、私はあの彼女と同じチキンを食べているということに気づいた時、自分の中に宿っている暴力性に背中が冷えた。自分のことをジョーと何ら変わらぬサイコパスかもしれないと思ったくらいだった。書いていてもまた怖くなってきた。ただ、一言言い訳をするならば、暴力以前にケンタッキーの箱が出てきた時からふんわり食べたくはなっていた。いや、言い訳すればするほど恐ろしい。でも、このことも隠さず書いておきたかった。別日に観た知人にそのことを打ち明けたらきちんと驚かれ、ある意味安心をしていたのだが、また別日に観た家族に再び打ち明けたら、「食べたくなるよね!」と言われ、色んな意味でまた怖くなった。食べたくなってはいけない気がするのだ。だけど、食べたくなった。それが人間なのだという恐怖だった。これを書いた後に「満足度」に星を付けるのも含めて相当グロテスクな流れになってしまったので、満足度は割愛させていただきますが、何はともあれ、凄まじい演劇だった。俳優陣の集中力と身体能力、静から動に向かう精神との一体感が素晴らしかった。俳優の技を芸を見せつけられるような2時間。あと、(思わず途方に暮れてしまうような片付けを行う)制作スタッフさんの奔走も是非とも労いたい気持ちです!
イノセント・ピープル

イノセント・ピープル

CoRich舞台芸術!プロデュース

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスで原爆の開発や研究に従事した5人の男とその家族たち。
かつて20代だった彼らが90代に突入するまでの65年の物語。若き日の男たちが作り上げた原爆はやがて広島・長崎に投下される。アメリカの視点から原爆と第二次世界大戦、さらにはベトナム戦争、イラン・イラク戦争による戦禍を描いた意欲作。

8月と12月、私は年に2回平和記念公園に行く。私は広島出身ではないが、二人の子どもは被爆4世に当たる。子どもたちの中に流れる血を通じて私は亡き義父や義母に思いを馳せる。会うことの一度も叶わなかったそのまた先の父や母にも。例えば、彼や彼女たちが生きていたとして、この東京に暮らしていたとして、私はこの作品を薦めることができただろうか。(続く)

ネタバレBOX

それはとても難しいと思った。中立でいられるはずもない傷を負った、いや負っている人にはあまりに辛いセリフや描写が多かった。目を背けたい、耳を塞ぎたいとも思ったし、蔑称や暴言に怒りが湧く瞬間もあった。
しかし、それはきっと日本人に限ったことではない。アメリカの視点から描かれるリアルが、紐解かれていく葛藤がそのことを伝えていた。私が日本人である限り、また、被爆4世の親である限り、本作を中立の立場で受け取ることは難しい。それでも、観られたことをよかったと思った。たとえ、感情移入することが、共感を抱くことが到底難しかったとしても、私が知っておくべき人生や感情がそこにはあった。
CoRich舞台芸術!プロデュース【名作リメイク】の第一弾としてこんなにも感情移入しにくい作品が選ばれたこと、その意義について考えている。「同じであること」に手を取り合う喜びや、それがもたらす安心は確かに人を救うかもしれない。だがその一方で、その中の声しか聞こえなくなった時、すでに分断や差別は始まっているのだろうと思う。違いや差によって生じる、今もこの世界の其処彼処で起きている争いや戦いを考えるとき、同じ気持ちを寄せ合うだけでは到底解決できないことを痛感する。対岸の声を聞くこと、国籍や人種などの属性で個人を一括りにしないこと。それは、今の時代にとても必要なことであり、その小さな積み重ねがどこかの分断や差別の芽を摘むことに繋がると信じたい、という思いに駆られた。
広島・長崎に投下した原爆を作った男と私の間に横たわる大きな溝を埋めることはできなかった。
しかし、戦争の犠牲となった息子と平和活動に勤しむ娘を持つ親として彼を見つめた時、その輪郭が初めて縁取られていくような心持ちになった。
戦争を今すぐに止める力を持たない人間一人ができること。それは、目の前の相手を一人の個人として見つめるということなのではないだろうかと思う。国家として憎み合うその前に。
座って観ているだけでも心が削がれるような負荷のかかる言葉たち。最後にそれらを一身に背負い、2時間15分、アメリカの眼差しを生きた俳優陣に改めて拍手を送りたい。
あげとーふ

あげとーふ

無名劇団

無名劇団アトリエ(大阪府)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/21 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

※この度は一身上の都合により、審査員として現地にて鑑賞することができず、代理人を立てての審査とさせていただきました。推薦文を書かせていただいていながら大変申し訳ありません。上演ではなく映像の鑑賞なので、審査員としてではなく一観客としてのクチコミ投稿とさせていただきます。

ネタバレBOX

青春ロードムービー的手触りのある『あげとーふ』は、カンパニーの母体である高校演劇部の全国大会準優勝作の15年ぶりのリメイク。一つの転機となった作品が今だからこその形で新生することに上演前から期待が高まりました。
また、大阪・西成区の鶴見橋商店街の空き店舗を改装した劇場空間兼アトリエで演劇活動を行うといった「演劇と地域の接続と共存」にも興味を惹かれました。
そしてそんな地域密着型演劇の実態は映像からも具に感じ取ることができ、客席からの反応の高さや、さらには建物の扉の向こう、すなわち商店街から公演の様子を覗きにくる住人の方の姿も見受けられ、それを受けて制作の方が観客に向けて「暮らし」の一部としての演劇を語られるコミュニケーションの様子にも親しみやすさが滲んでいるように感じました。団体が地域を愛し、そして愛されていることがさりげなくも確かに伝わってきたことに胸を打たれました。そんな景色もカンパニーの日々の熱意や意欲、継続の賜物だと感じます。

『あげとーふ』は、卒業旅行でアメリカを訪れた男子高校生が見知らぬ土地で「あげとーふ」=I get offと言ってしまったことからバスを降ろされ路頭に迷う、というアクシデントから物語が展開します。分かりやすくハイテンポに進行する物語と、非日常に戸惑い、不安を誤魔化すようにはしゃぐ高校生らを演じた俳優の身体性や台詞の応酬の瑞々しさがある種の親和性を築き、観客の没入感をしっかりと手伝っていたように感じます。モラトリアムの始まりに揺れる若き青年らの心の機微を余分な演出を削ぎ落とし、ストレートに伝える潔さがまた作品の魅力を高めていたように思います。
直接訪れていないのでこれは想像の域を越えませんが、アトリエの異様に濃密な空間もまた、目の前で繰り広げられる青春の濃度とシンクロし、興奮や喜びや不安や焦燥などが入り乱れる心を寄せ合うようにして過ごす思春期の青年たちの姿により一層の一体感を生み出していたのではないでしょうか。

特殊な環境で演劇活動を行う中では、時には「ここではそれはできない」といったあらゆる制約にぶつかることもあるのではないかと想像します。しかし、本作は「ここだからこれができる」ひいては「これはここでしかできない」という果敢な方向に舵を切り、この場で上演されるに相応しい作品を選び、その魅力を存分に発揮する形で全うされたのではないかと感じました。そして、やはりそんな商店街の空気やアトリエの温度を直に体感しながら観たかったと悔やまれました。少なくともそれだけのことが伝わる映像であったと思います。

演劇の裾野を広げること、劇場の敷居を下げること。舞台芸術全般のアクセシビリティ向上は舞台芸術従事者のみでは決して成り立ちません。外からお客さんを誘うこと、理解を得ること。地域に根差し、影響し合って共生すること。社会の一部としての演劇を見据えるそんな無名劇団の取り組みが映像からも感じ取れる公演でした。一人の観客としても、演劇業界に携わるライターとしてもその姿勢に敬意を寄せるとともに、今後のさらなる発展を楽しみにしています。
本人たち

本人たち

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

STスポット(神奈川県)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/31 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

物語と言葉、言葉と演劇、演劇と空間、空間と観客……舞台芸術というパフォーマンスにおける関係性/コミュニケーションというものに着目し、「既存」や「従来」への疑いを持ち、ここまでの分析・探究を行なっているカンパニーが他にあるだろうか。

ネタバレBOX

芸術や表現以前の「行為」としての演劇をあらゆる観点から解体・縫合し、そこに生じる関係性を剥き身の状態まで露呈させる。そんな試みを創作として行っている小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが「コロナ禍の時代の上演」を前提として2020年に立ち上げた『本人たち』プロジェクト。その待望の上演が本作『本人たち』です。
正直なところ、それらの全く新しく、高度で、複雑な取り組みの様子を見るにつけては「果たして私の理解力は追いつけるだろうか」「観る側にも相当な素養が必要なのではないか」といったある種の緊張があり、実際に観終えた今もカンパニーが提示したものや手渡そうとしていたことをどれだけ自分が受け取れたかは分かりません。しかしながら劇場を出た後もいついつまでも理解を探ってしまうようなこの体感こそが本作において結ばれた私と作品との関係性だったのかもしれないとも感じています。そして、そんな観客の行為もまた「観劇」というよりは「観測」に近い趣があり、俳優の身体や声を通して、自分と彼や彼女との関係性とは果たしてなんぞやということを握らされたような気がしています。

物語も言葉も演劇も空間も観客も当然のようにそこに在り、当然のように繋がれていくものだというような、ある種の前提の上で多くの演劇が公演を行なっているけれど、それらを諸共覆すような手つきで進められた『本人たち』というパフォーマンスを通して、私はともすれば当然とされるものに追従していただけだったのではないか、そこにどんな関係性が在ったのだろうか、もう一歩その関係性を見つめることができていたならばこれまで観た他の演劇からも別の何かを受け取っていたかもしれない、という体感を手にした心持ちもありました。そして、そのことによって、スペースノットブランクが分析・探求しているのは「ディスコミュニケーション」を含む関係性/コミュニケーションであるということに遅ればせながら気付きました。

第一部「共有するビヘイビア」(出演:古賀友樹 メタ出演:鈴鹿通儀)、第二部「また会いましょう」(出演:渚まな美、西井裕美 メタ出演:近藤千紘)の二部からなる『本人たち』でしたが、第一部では前説と開演がシームレスに接着しており、俳優という存在をよりフラットに観測することが叶ったのではないかと思っています。なにしろ観客からの視聴率100%を背負った俳優・古賀友樹さんの舞台での居方や身体性が素晴らしく、その技を堪能するといった点でも豊かな体験でした。
一方で、二部で舞台上の俳優が二人になった途端に観測がより複雑になり、理解は難しくなり、その反応や関係に興味深さを感じるとともに、やはり体感の言語化に辿りはつけず、もう少し理解したかったという心残りもありました。もう少し踏み込んで言うと、行なっていることがかなり高度であるが故に、自分の理解が追いついてないのか、差し出されているものに不足があるのかが分からなくなってしまうところもありました。おそらくは前者だと思いつつ、この点においては繰り返しスペースノットブランクの公演に足を運ぶことで理解が追いつき、少しのタイムラグの後新たに得る実感があるのかもしれないという期待もあります。

実験的な試みに溢れるスペースノットブランクですが、そのトライは公演前後にも其処彼処で観測することができました。「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」と銘打ち、肩書き問わず書き手を公募していたこと、そして上演後に合計7本のレビューが公開されていたことには「公演が終わってもなお探求は続く」というカンパニーのあくなき探究心を感じるとともに、観た人にとってもまた理解や再発見の手助けになるような良企画だと感じました。今後も目を開かれる思いのする、どこもやっていない新たな試みに期待を寄せています。

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