丘田ミイ子の観てきた!クチコミ一覧

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Oh so shake it!

Oh so shake it!

TeXi’s

北とぴあ カナリアホール(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

初日観劇。 劇場に入るやいなやびっくり。そして、公演名を読み返して「そうきたか!」と膝を打った。
小学生の頃、初めて光る靴を手に入れた時のえもいわれぬ無敵感。あれは、なんというか闊歩の装備だったんだな。おっしゃ行くぞ、生きてやるんだぞ、というサバイブのための装備だったのだなと。観劇しながらそんなことを思っていた。それはゲームのアイテムみたいなものでもあって。きのこよりお花や羽根の方が安心とか、相棒がいたらもっと心強いなとか。スターの時の無敵モード、全ての敵を片っ端から薙ぎ倒していくあれがリアルでも起こせたなら、
もっと泣かなくて済むのかな、とか。薄いカーテンみたいなシームレスさでバーチャルとリアルが繋がれたあの空間には生があり、それは死があるということでもあり、幾度となくリフレインされる言葉は敵への呪文であり、自分へのお守りであり、世界への祈りでもあったかもしれない。
「生きる」という行為そのものが無化ないしは形骸化していくリアルに穴をあけて、wifiという光の中でギリギリ繋がる人たち。錯綜する情報の中にも、駅前の雑踏の中にも、誰かといるのに孤独な部屋の中にも、"わたし"はいるし、"あなた"もいる。
だからこれはきっと、わたしやあなたを枠にはめたり、 ひとつにまとめようとする物や者との決別の為の葬列で、
もう一度生まれる為のセレモニーなのだろう。だから、色とりどり着飾って、光る靴で装備して、それからshake it=手を振り/揺さぶるのだ。呪文やお守りや祈りが身体じゅうに行き渡るまで何度も何度も。
仮装と現実の狭間で、私はそう受け取った。

キラー・ジョー

キラー・ジョー

温泉ドラゴン

すみだパークシアター倉(東京都)

2024/03/15 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

温泉ドラゴン『キラー・ジョー』トリプルキャスト:いわいのふ健さんの回を観劇。
「底辺を生きる家族による、人生一発大逆転をかけた保険金殺人計画!!」という触れ込みや、暴力描写・性暴力描写・セクハラ描写・流血描写・火薬による銃の発砲などのトリガーアラートの発表から覚悟して劇場へ。
客席に座り、舞台を見た第一印象は「劇場と合っているなあ」という感触。冒頭からグッと物語の中へと引き込まれ、観ながら解釈や見解などを考えることなく、ただただ目の前で起きる出来事を固唾を飲んで目で追っていた。「シーン」というより「出来事」という感じ。そういう意味で、「演劇を観た!」という感覚や余韻がとても強い作品で、そういった経験が久しぶりであったことにも気がついた。
お話自体は本当に救いようがなく、一人として心を寄せられる人物がいない物語で、人に薦めるには勇気のある作品でもあったけれど、安全地帯からそう思い込んでいることそのものにも自分の暴力性をふと感じるような。そんな瞬間も押し寄せた観劇だった。
何よりも劇団としての在り方が素晴らしい。前作『悼、灯、斉藤』から一転、同じ家族モノとはいえその振れ幅にまず驚き、メンバーに劇作家が複数いながら海外戯曲にも取り組むという果敢さ、過去作品がどれも似通うことなく、一つ一つ世界が独立している点においては演劇を上演する「劇団」というカンパニーとしてある種の理想を形にしているとも考えられるのではないだろうか。

ネタバレBOX

ラストにかけての乱闘シーンはまさに手加減、待った一切なしという感じで、相当にヘヴィー。中でもケンタッキーフライドチキンを用いた暴力シーン・食事シーンは凄まじく、思わず目を覆ってしまった。
のだが、本当の意味でもっと目を覆いたくなったのは終演後のこと。私がほとんど無意識のような自然さで最寄りのケンタッキーに立ち寄ってしまっていたということだった。あんなに酷い景色を見たのに、あの時はあんな感情になったのに、今、私はあの彼女と同じチキンを食べているということに気づいた時、自分の中に宿っている暴力性に背中が冷えた。自分のことをジョーと何ら変わらぬサイコパスかもしれないと思ったくらいだった。書いていてもまた怖くなってきた。ただ、一言言い訳をするならば、暴力以前にケンタッキーの箱が出てきた時からふんわり食べたくはなっていた。いや、言い訳すればするほど恐ろしい。でも、このことも隠さず書いておきたかった。別日に観た知人にそのことを打ち明けたらきちんと驚かれ、ある意味安心をしていたのだが、また別日に観た家族に再び打ち明けたら、「食べたくなるよね!」と言われ、色んな意味でまた怖くなった。食べたくなってはいけない気がするのだ。だけど、食べたくなった。それが人間なのだという恐怖だった。これを書いた後に「満足度」に星を付けるのも含めて相当グロテスクな流れになってしまったので、満足度は割愛させていただきますが、何はともあれ、凄まじい演劇だった。俳優陣の集中力と身体能力、静から動に向かう精神との一体感が素晴らしかった。俳優の技を芸を見せつけられるような2時間。あと、(思わず途方に暮れてしまうような片付けを行う)制作スタッフさんの奔走も是非とも労いたい気持ちです!
イノセント・ピープル

イノセント・ピープル

CoRich舞台芸術!プロデュース

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスで原爆の開発や研究に従事した5人の男とその家族たち。
かつて20代だった彼らが90代に突入するまでの65年の物語。若き日の男たちが作り上げた原爆はやがて広島・長崎に投下される。アメリカの視点から原爆と第二次世界大戦、さらにはベトナム戦争、イラン・イラク戦争による戦禍を描いた意欲作。

8月と12月、私は年に2回平和記念公園に行く。私は広島出身ではないが、二人の子どもは被爆4世に当たる。子どもたちの中に流れる血を通じて私は亡き義父や義母に思いを馳せる。会うことの一度も叶わなかったそのまた先の父や母にも。例えば、彼や彼女たちが生きていたとして、この東京に暮らしていたとして、私はこの作品を薦めることができただろうか。(続く)

ネタバレBOX

それはとても難しいと思った。中立でいられるはずもない傷を負った、いや負っている人にはあまりに辛いセリフや描写が多かった。目を背けたい、耳を塞ぎたいとも思ったし、蔑称や暴言に怒りが湧く瞬間もあった。
しかし、それはきっと日本人に限ったことではない。アメリカの視点から描かれるリアルが、紐解かれていく葛藤がそのことを伝えていた。私が日本人である限り、また、被爆4世の親である限り、本作を中立の立場で受け取ることは難しい。それでも、観られたことをよかったと思った。たとえ、感情移入することが、共感を抱くことが到底難しかったとしても、私が知っておくべき人生や感情がそこにはあった。
CoRich舞台芸術!プロデュース【名作リメイク】の第一弾としてこんなにも感情移入しにくい作品が選ばれたこと、その意義について考えている。「同じであること」に手を取り合う喜びや、それがもたらす安心は確かに人を救うかもしれない。だがその一方で、その中の声しか聞こえなくなった時、すでに分断や差別は始まっているのだろうと思う。違いや差によって生じる、今もこの世界の其処彼処で起きている争いや戦いを考えるとき、同じ気持ちを寄せ合うだけでは到底解決できないことを痛感する。対岸の声を聞くこと、国籍や人種などの属性で個人を一括りにしないこと。それは、今の時代にとても必要なことであり、その小さな積み重ねがどこかの分断や差別の芽を摘むことに繋がると信じたい、という思いに駆られた。
広島・長崎に投下した原爆を作った男と私の間に横たわる大きな溝を埋めることはできなかった。
しかし、戦争の犠牲となった息子と平和活動に勤しむ娘を持つ親として彼を見つめた時、その輪郭が初めて縁取られていくような心持ちになった。
戦争を今すぐに止める力を持たない人間一人ができること。それは、目の前の相手を一人の個人として見つめるということなのではないだろうかと思う。国家として憎み合うその前に。
座って観ているだけでも心が削がれるような負荷のかかる言葉たち。最後にそれらを一身に背負い、2時間15分、アメリカの眼差しを生きた俳優陣に改めて拍手を送りたい。
あげとーふ

あげとーふ

無名劇団

無名劇団アトリエ(大阪府)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/21 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

※この度は一身上の都合により、審査員として現地にて鑑賞することができず、代理人を立てての審査とさせていただきました。推薦文を書かせていただいていながら大変申し訳ありません。上演ではなく映像の鑑賞なので、審査員としてではなく一観客としてのクチコミ投稿とさせていただきます。

ネタバレBOX

青春ロードムービー的手触りのある『あげとーふ』は、カンパニーの母体である高校演劇部の全国大会準優勝作の15年ぶりのリメイク。一つの転機となった作品が今だからこその形で新生することに上演前から期待が高まりました。
また、大阪・西成区の鶴見橋商店街の空き店舗を改装した劇場空間兼アトリエで演劇活動を行うといった「演劇と地域の接続と共存」にも興味を惹かれました。
そしてそんな地域密着型演劇の実態は映像からも具に感じ取ることができ、客席からの反応の高さや、さらには建物の扉の向こう、すなわち商店街から公演の様子を覗きにくる住人の方の姿も見受けられ、それを受けて制作の方が観客に向けて「暮らし」の一部としての演劇を語られるコミュニケーションの様子にも親しみやすさが滲んでいるように感じました。団体が地域を愛し、そして愛されていることがさりげなくも確かに伝わってきたことに胸を打たれました。そんな景色もカンパニーの日々の熱意や意欲、継続の賜物だと感じます。

『あげとーふ』は、卒業旅行でアメリカを訪れた男子高校生が見知らぬ土地で「あげとーふ」=I get offと言ってしまったことからバスを降ろされ路頭に迷う、というアクシデントから物語が展開します。分かりやすくハイテンポに進行する物語と、非日常に戸惑い、不安を誤魔化すようにはしゃぐ高校生らを演じた俳優の身体性や台詞の応酬の瑞々しさがある種の親和性を築き、観客の没入感をしっかりと手伝っていたように感じます。モラトリアムの始まりに揺れる若き青年らの心の機微を余分な演出を削ぎ落とし、ストレートに伝える潔さがまた作品の魅力を高めていたように思います。
直接訪れていないのでこれは想像の域を越えませんが、アトリエの異様に濃密な空間もまた、目の前で繰り広げられる青春の濃度とシンクロし、興奮や喜びや不安や焦燥などが入り乱れる心を寄せ合うようにして過ごす思春期の青年たちの姿により一層の一体感を生み出していたのではないでしょうか。

特殊な環境で演劇活動を行う中では、時には「ここではそれはできない」といったあらゆる制約にぶつかることもあるのではないかと想像します。しかし、本作は「ここだからこれができる」ひいては「これはここでしかできない」という果敢な方向に舵を切り、この場で上演されるに相応しい作品を選び、その魅力を存分に発揮する形で全うされたのではないかと感じました。そして、やはりそんな商店街の空気やアトリエの温度を直に体感しながら観たかったと悔やまれました。少なくともそれだけのことが伝わる映像であったと思います。

演劇の裾野を広げること、劇場の敷居を下げること。舞台芸術全般のアクセシビリティ向上は舞台芸術従事者のみでは決して成り立ちません。外からお客さんを誘うこと、理解を得ること。地域に根差し、影響し合って共生すること。社会の一部としての演劇を見据えるそんな無名劇団の取り組みが映像からも感じ取れる公演でした。一人の観客としても、演劇業界に携わるライターとしてもその姿勢に敬意を寄せるとともに、今後のさらなる発展を楽しみにしています。
本人たち

本人たち

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

STスポット(神奈川県)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/31 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

物語と言葉、言葉と演劇、演劇と空間、空間と観客……舞台芸術というパフォーマンスにおける関係性/コミュニケーションというものに着目し、「既存」や「従来」への疑いを持ち、ここまでの分析・探究を行なっているカンパニーが他にあるだろうか。

ネタバレBOX

芸術や表現以前の「行為」としての演劇をあらゆる観点から解体・縫合し、そこに生じる関係性を剥き身の状態まで露呈させる。そんな試みを創作として行っている小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが「コロナ禍の時代の上演」を前提として2020年に立ち上げた『本人たち』プロジェクト。その待望の上演が本作『本人たち』です。
正直なところ、それらの全く新しく、高度で、複雑な取り組みの様子を見るにつけては「果たして私の理解力は追いつけるだろうか」「観る側にも相当な素養が必要なのではないか」といったある種の緊張があり、実際に観終えた今もカンパニーが提示したものや手渡そうとしていたことをどれだけ自分が受け取れたかは分かりません。しかしながら劇場を出た後もいついつまでも理解を探ってしまうようなこの体感こそが本作において結ばれた私と作品との関係性だったのかもしれないとも感じています。そして、そんな観客の行為もまた「観劇」というよりは「観測」に近い趣があり、俳優の身体や声を通して、自分と彼や彼女との関係性とは果たしてなんぞやということを握らされたような気がしています。

物語も言葉も演劇も空間も観客も当然のようにそこに在り、当然のように繋がれていくものだというような、ある種の前提の上で多くの演劇が公演を行なっているけれど、それらを諸共覆すような手つきで進められた『本人たち』というパフォーマンスを通して、私はともすれば当然とされるものに追従していただけだったのではないか、そこにどんな関係性が在ったのだろうか、もう一歩その関係性を見つめることができていたならばこれまで観た他の演劇からも別の何かを受け取っていたかもしれない、という体感を手にした心持ちもありました。そして、そのことによって、スペースノットブランクが分析・探求しているのは「ディスコミュニケーション」を含む関係性/コミュニケーションであるということに遅ればせながら気付きました。

第一部「共有するビヘイビア」(出演:古賀友樹 メタ出演:鈴鹿通儀)、第二部「また会いましょう」(出演:渚まな美、西井裕美 メタ出演:近藤千紘)の二部からなる『本人たち』でしたが、第一部では前説と開演がシームレスに接着しており、俳優という存在をよりフラットに観測することが叶ったのではないかと思っています。なにしろ観客からの視聴率100%を背負った俳優・古賀友樹さんの舞台での居方や身体性が素晴らしく、その技を堪能するといった点でも豊かな体験でした。
一方で、二部で舞台上の俳優が二人になった途端に観測がより複雑になり、理解は難しくなり、その反応や関係に興味深さを感じるとともに、やはり体感の言語化に辿りはつけず、もう少し理解したかったという心残りもありました。もう少し踏み込んで言うと、行なっていることがかなり高度であるが故に、自分の理解が追いついてないのか、差し出されているものに不足があるのかが分からなくなってしまうところもありました。おそらくは前者だと思いつつ、この点においては繰り返しスペースノットブランクの公演に足を運ぶことで理解が追いつき、少しのタイムラグの後新たに得る実感があるのかもしれないという期待もあります。

実験的な試みに溢れるスペースノットブランクですが、そのトライは公演前後にも其処彼処で観測することができました。「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」と銘打ち、肩書き問わず書き手を公募していたこと、そして上演後に合計7本のレビューが公開されていたことには「公演が終わってもなお探求は続く」というカンパニーのあくなき探究心を感じるとともに、観た人にとってもまた理解や再発見の手助けになるような良企画だと感じました。今後も目を開かれる思いのする、どこもやっていない新たな試みに期待を寄せています。
半魚人たちの戯れ

半魚人たちの戯れ

ダダ・センプチータ

王子小劇場(東京都)

2023/04/13 (木) ~ 2023/04/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

新曲が作れなくなったあるバンドの存続と、未来が約束されなくなった世界の存続が並行し、時に一体化して進む物語。その行方は終わりか始まりか。はたまた終わりの始まりか。

ネタバレBOX

終末を想起させるような黒一色の舞台美術の中、バンドの話でもあるにも関わらず目立った音楽的効果や大仰な演出も使わないことを選んだ意欲作。ほぼほぼ俳優の身体のみに託される言葉と物語は、おそらく意図的にとっ散らかり、その裾と裾が重なることはあっても、わかりやすい結合を果たさぬまま一人一人が「断片」のまま最後まで行く。
そのあまりの潔い世界の手放し方や異世界然とした世界観に最初は困惑してしまい、「このままいってしまうのか」と不安を覚えたけれど、舞台上で描かれるディストピア的風景がその実予見的なまなざしに溢れていることが示されてきたあたりから、突如現実味が増してくる不思議な魅力のある作品でした。どこのいつの話かわからないものが、いつかくるかもしれない話に成り代わるまで。そんな示唆的な導線がシームレスにも着実に敷かれていたことに後々振り返って気付かされました。霊魂や夢という不確かなものが、災害や人災という確かな災いを呼び込んでいくような物語の構造には、作家の「全ての事象は何かへのサジェスチョンなのではないか」「見えぬものこそ見なくてはならない」という魂が忍ばされていたような気がします。

ディストピアを描く一方でバンドやその周囲の人間模様には、表現者特有の売れる/売れないという葛藤や、他者の才能への嫉妬や焦燥、芸術と商業における価値の違い、メンバー間の恋愛などの現実的な心の揺れも要所要所で描かれていたのですが、終末とそれらを掛け合わせることが興味深かった分、その混ざり合いや昇華をもう少し見たかったという心残りもありました。
とりわけ「バンドの亡きメンバーであり、自分よりも才能ある恋人が作った歌『半魚人たちの戯れ』が死後にバズる」という一つの結末からは、そこから描き出される物語の面白みや深みがまだある気がして、また作家である吉田有希さんご自身が芸術や表現を題材にオリジナルの物語を紡ぐ腕を持っているのではないかという期待もあって、もう一歩先の世界を見てみたかったという体感が残りました。

陸で生きられなくなった人間が海で生きられるわけが到底ないように、音楽をやめた人間が音楽家であれるはずもない。終末に向かって何かを少しずつ失って、かつての形状をとどめていられなくなることが「半魚人」を指していたのか。それとも、どちらでも生きていけるように、むしろ自らすすんでかつての形状を放棄していくことが「半魚人」を指していたのか。いずれにしてもそれが「戯れ」=「本気ではない遊び」であることに、本作は世界に対する皮肉を忍ばせていたのではないかと想像しました。

カンパニー全体の取り組みにおいては、制作面の配慮が素晴らしく、核兵器や災害の描写があることを事前のSNSや当日アナウンスでも言及していたほか、上演時間、残席数、当日券状況、出演俳優陣の紹介などが繰り返しこまめに発信されていて、欲しい情報にリーチしやすい環境がとても助かりました。観客が劇場に足を運びやすくなるような配慮だけでなく、創作に参加する俳優への敬意も感じました。そのことは舞台芸術全般において今とても必要なことだと感じます。
あたらしい朝

あたらしい朝

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/05/03 (水) ~ 2023/05/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

果てしのない絶望の夜の中、されども祈る朝の訪れを探し彷徨うような喪失と再生のこの物語には、長く続くコロナ禍における誰しもに失われた時間を補完していくような手触りがありました。チラシにあった“どこにも行けなかった私たち”という言葉は、舞台上から客席へとするりと滑り落ち、そのまま私たちの手を取り、ともにそのピンク色の車に乗せてしまうような。そんな一体感と共振を忍ばせた導入が劇への没入感を確かなものにしていたように思います。

ネタバレBOX

亡き夫とその残像を抱えながら生きる妻を巡るタイムトラベル。
「夫が死んだ」という事実よりも「生きていた」という事実を、その時間を瑞々しく映し出すような演出には物語や演劇そのものが人物の喪失にグッと近づき、その身にギュッと寄り添うような温かさがありました。
しかしながら、「温かさ」というものでは到底誤魔化しのきかない「痛み」の深さ、その描写も生々しく描かれていて、妻を演じた清水緑さんの次の瞬間に泣き崩れるのか、はたまた大きく笑い出すのか予測のできない心の紙一重さや、夫を演じた木村巴秋さんのつかみどころのないままに飄々と舞台上を遊泳するような人懐こい揺らぎは、この作品の核心的な魅力を一際具に表現されていたように思います。
その傍らで葬式帰りの二人という現実的風景を担った亀山浩史さんや菊池佳南さん、母であり、友でもあるという二役を全く別の眼差しで好演した北川莉那さん、ガイド的役割を担いながら、抽象的に描かれる生と死の狭間をシームレスに行き来する小瀧万梨子さんと金澤昭さん。さまざまな時間軸が混在する物語をその身に背負う俳優陣の確かな技量は元より、それぞれの個性と強みを存分に活かした配役と演出が、生と死、喪失と再生を巡るこの「旅」を時に淡く、時に確かに縁取っていました。

叶わなかった旅を再現する旅には、そのピンク色の車には、無論数知れぬ後悔が相乗りしていて、妻であり娘である女性が旅の途中でふと在りし日に思いを馳せるシーンには、痛々しくも避けられない景色の数々がありました。この作品の結末や魅力を他者に伝えようとする時、「そんな旅の目的地が希望の“あたらしい朝”だったのです」という回収ではどうも言葉が足らず、その後悔の数々を諸共抱きしめて生きていくしかない、“目的地”に設定せずとも「いつかは新たに迎えざるをえない朝である」ということに本作の切実さは光っていた気がします。
「不在」という「存在感」を強烈に忍ばせた本作は、一つの朝でありながら、長い夜でもありました。営みであり、弔いでもありました。そしてやはり、祈りであったと思います。
『あたらしい朝』とタイトルが角張った漢字ではなく、丸みのあるひらがなであることにもどこか心を掬われるような、本作の中身との親和性を感じたのですが、そのチラシには、「A WHOLE NEW MORNING」という英題が併記されていました。
「A WHOLE」という単語は、「これまでに見たことのない、まったくの未知の」という意味があります。ただの「NEW」ではない、見たことのない、未知の朝。その景色が少しでも彼女を救うものであってほしい。旅に立ち会った一人として、そんな祈りを抱かざるをえないラストであり、劇場を出てからもそんな気持ちは長く心に残り続けました。
きく

きく

エンニュイ

SCOOL(東京都)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

主宰・長谷川優貴さんは当日パンフレットにこう書かれていました。
「この作品は、只々話を聞くだけの内容です、ドラマチックな物語はありません」
そして、その言葉通り、本作の俳優たちは只々話をする/聞くという行為を繰り返しました。しかしながら、観客の一人である私に残ったのは「只々話を聞いた」という体感のみではありませんでした。

ネタバレBOX

“きく”という行為をフラットに、どんな色もついていないまっさらな状態まで一度解体し、きく側の状況、精神的状態、姿勢や視線などの様々な反応によってあらゆる形に縫合し、それをまた解き、結び、と繰り返していく中で浮かび上がってくるもの、それと同じだけ溢れ、抜け落ちていくものがあるということ。“きく”という行為の難しさと果てしなさを存分に握らされることによって、従来自分が行ってきた“きく”という行為、さらにはそれを経て時に頷き、共感し、またある時は首をかしげ、否定する。そんな一連の行為まるごとに対して今一度疑いを持つことができたような気がしています。

劇中の印象的なシーンの一つに、玉置浩二の『メロディー』という歌を世界各国の人々が一斉に聴いている様子を映像で流す、というものがありましたが、それを観客が「只々見ている」という状態こそが本作における試みを通して行いたかった「きく」の更地化だったのではないかと想像させられました。
それの対となるシーンとしては、「人の話をどれだけきけるか」を競う架空の賞レースが実況される場面がありました。そのシニカルさに客席からはちらほら笑いが起きたのですが、レース参加者に扮した俳優陣がことごとく話を最後まできくことができない、という描写にはひやりとするものはあり、それを笑うという行為がそのままブーメランとなって自分に返ってくるような感触もありました。
俳優陣の「きく」を試みるスタイルも多様性に富んでおり興味深かったのですが、とりわけ実況者を演じた高畑陸さんが印象に残りました。コロナ禍で演劇が映像として配信されることが増えましたが、まさに高畑さんはその配信映像を担うスタッフとして広く活躍をされています。上演を「みる/きく」という立場に立ち、それを粛々と記録・編集されてきた高畑さんが俳優としての身体でその場に座り、俳優として声を発し、「きく」様子を「みて」実況する立場にあったこともある種示唆的であり、試みの一つとしてもインパクトを感じました。抑揚溢れる実況風景からは俳優としての魅力も新たに知ることができました。
令和5年の廃刀令

令和5年の廃刀令

Aga-risk Entertainment

としま区民センター・小ホール(東京都)

2023/05/01 (月) ~ 2023/05/02 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

どれだけ厳しめに見ようとしても、不足や過分を探ろうとしても、本にも演出にも俳優の演技にも余すことのない工夫が凝らされていて、絶妙なバランスが保たれていて、ただただ面白く、素晴らしい演劇として受け止める他なかった。エンタメでありながら社会劇でもあったこの演劇には、そう思わざるを得ない完成度の高さがありました。

ネタバレBOX

その最も大きな理由は客席の熱気、つまり群衆=観客を演劇の内側へと巻き込む力ではないかと思います。目の前の劇へのリアクションとして観客の笑いや唸りなどの反応が前のめりに起こること。そして、それを受けて劇がより一層にうねりを上げていくこと。このある種の共犯関係はそう簡単には築けるものではないと痛感しますが、終始その相互接続が崩れることなく、客席と舞台におけるコミュニケーションが類を見ない形で成立していたように感じます。
「廃刀令」という架空の法令を巡って、あらゆるセクションのパネラーが議論を交わし、それを聞いた観客が実際に「投票」という形で参加する、その投票結果によって結末が変わる、という劇構造もまたユニークであり、それを最も自然な形で行える場所として公共施設を劇場に選んでいたことにも「果たしてこの演劇はどう手渡されるべきか」というパッケージの追求を感じました。上演の間、私は単なるオーディエンスではなく、この劇における区民Aといった一人の役として存在していたような気がします。

さらに魅力を感じたのは俳優陣の表現力の高さです。9名の俳優からはいかにも「どこかにいそう」なリアリティと議会というかしこまった場でこそ点滅する人間の可笑しみや情けなさが滲んでいました。当日パンフレットには舞台上での役の立ち位置と俳優の名前が併せて明記されており、「いいな」と思った俳優の名前がすぐに分かるようになっていたこともとてもいいと思いました。これは観客にとっては勿論ですが、興行元が出演を担う俳優に対して示す一つの敬意でもあるとも感じます。

進行を務める司会の他、刀剣教会の支部長、日本史を研究する歴史小説家、インフルエンサーとしても活動する刀職人、刀による傷害事件の加害者、フェミニズム観点から護身としての刀剣所持を専門に研究するジャーナリスト、武器ではなくガジェットとしての機能を刀に見出そうとするものづくり系ベンチャー企業の経営者、古武術系YouTuber、元区議会議員の社会運動系NPOの理事など様々な識者がパネラーとして集い、あらゆる切り口から廃刀令に賛成すべきか、反対すべきかを語る本作。架空の「廃刀令」や、一般市民の帯刀を普通とする設定そのものには現実味を持てずとも、ディベートの様子にはまさに今あらゆる公共が声高に叫んでいる「ダイバーシティ」そのものの手触りがあり、舞台上の景色が自ずと今の世相にスライドすることで、頷いたり、首を傾げたりすることができるまでのリアリティが担保されていたように思います。

アガリスクエンターテイメントが目指すのは、「ポータブルで持続可能な演目づくり」。究極、机と椅子と俳優さえいれば上演ができる本作の開発は、“いつでも、どこでも上演できる新しいレパートリー作品”として大成功を収めたのではないでしょうか。今後も日本中の公共施設に持ち運び、繰り返し上演されてほしいと思います。
松竹亭一門会Ⅱ 春の祭典スペシャル

松竹亭一門会Ⅱ 春の祭典スペシャル

afterimage

七ツ寺共同スタジオ(愛知県)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ダンス×落語。一見交わることのなさそうなこの二つの芸を融合させた本公演には、観る前からすごくワクワクさせられました。長く活動しているダンスカンパニーが新たなジャンルや体感を掘り起こそうとする、そのチャレンジングな姿勢にも感銘を受けました。ダンサーが高座に上がるという異例の公演ですが、どの方からも落語への愛や敬意をひしひしと伝わり、同時にそれぞれが個人の強みや個性を最大に活かした演出でここでしかできない「オリジナル」を届けようとする気概にも胸を打たれました。

ネタバレBOX

個人的に引き込まれたのは、松竹亭撃鉄こと堀江善弘さんの「映画」を題材にした落語「まんじゅうこわいfrom Hollywood」。「まんじゅうこわい」という超定番的噺をPOPかつユニークにコーティングした切り口は、落語を知らない若い世代や観客にもその可能性や面白さを手渡せるような展開で、身体を駆使したエンドロールの演出に至るまでとことんエンタメ性に富んでいて、一発目の演目としてしっかりと心を掴まれました。
ゲストである登龍亭福三さんによる高座は、さすがプロの芸といった見応えがあり、名古屋という街の成り立ちを抑揚あるリズム感で伝える力量にその土地で今しか観られないステージを観ているという贅沢感がありました。落語へのチャレンジに関しては、楽しみ、楽しませるということに全力で舵を切っている点が清々しく、その人間力が時にクオリティ云々を凌駕していくような面もあり、「祭典」と銘打つに相応しいステージの数々であったと思います。

落語へのアグレッシブな挑戦心の一方で、やはり老舗のダンスカンパニーによるダンスとの融合やダンスカンパニーとしての強みをもっと見たかったという体感も残りました。「オープニング」や「ダンスで分かる三方一両損」などの演目でその片鱗は感じられたのですが、期待値から鑑みると少し物足りなさを感じてしまう点が否めず、もっとこの人たちの真骨頂を見たいという思いに駆られてしまいました。ただ、身体芸である「ダンス」と話芸である「落語」の融合の配分やプランニングには相当な難しさがあること、同時に場数を踏む毎に新たに拓ける可能性も伺えたので、今後もこの「祭典」シリーズが都度アップデートされながら続けられていくことに期待を寄せています。近年ないほどに、手放しで楽しめる瞬間が多かったので、「面白さそうな舞台があるよ」と友人や知人を誘っていくにはぴったりの公演だと思いました。

エンディングで椎名林檎×トータス松本の「目抜き通り」で皆さんが踊られている時、その歌詞がみなさんの表情とあまりにぴったりで気を許すと落涙もやむをえないほどに感激してしまいました。あれは、みなさんの身体から漲るエネルギーそのものが私の身体に心に伝播して起こった反応だと思います。考えるのではなく、感じること。ダンスがまさにそうであるように、言葉よりも先に身体が動き出すときの生命の力と輝き、理屈ではないものをしっかりとこの手に握らされたような気がしています。
少女仮面

少女仮面

ゲッコーパレード

OFF OFFシアター(東京都)

2023/03/16 (木) ~ 2023/03/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

まず、驚いたのは劇場の使い方、俳優の居方でした。

ネタバレBOX

空間を客席と舞台で単に二分するのではなく、舞台を半円形に囲むような形で客席が配置されており、通常舞台と設定されがちな場所に設けられた客席に座る、ということ自体がまず新鮮な体験でした。少なくとも私がOFF・OFFシアターで観劇してきた中でこの空間設計は観たことがなかったので、せっかくならばとその席を選びました。
俳優達も客入れ時から舞台や扉の入り口、エレベーター付近などに点在しており、そこを通って客席に着くという流れには、衣装とメイクを施した俳優に点呼され、席に案内され、休憩時にも俳優とすれ違う「紅テント」での演劇との距離感に通じるものを感じました。同時に紅テントでは俳優が点呼や客入れの際に俳優でもある個人としてそこにいるのに対し、ゲッコーパレードでは俳優が常に役として存在しており、そこには違いも感じました。唐十郎の『少女仮面』を選んだ背景や決め手、それを上演するにあたってのプランなど試行錯誤の欠片をあれこれと想像しながら、開演に臨むことができました。従来のステレオタイプを切り捨て、劇場そのものを再構築するというカンパニーの試みは見慣れた劇空間を全く新しいものにしていたと思います。
同時にこの空間で一体『少女仮面』という演劇をどう成立させるのか、ということにも興味を惹かれました。物語への没入感を手伝う大仰な美術などは設けられておらず、ほとんど俳優の身体がその役割をも背負うような形で進行していたことも新鮮でした。『少女仮面』という伝説的な作品を俳優の身体に丸々託すといった斬新なアプローチで劇場に落とし込もうとした点にカンパニーの意欲と個性、今後への期待を感じる作品でした。そこには、「目的ではなく人の集まりこそがパレードのように活動や表現を形成していく」というカンパニーの信条が煌々と光っていたように思います。

そういった構造面が全く新たなものであったことに対し、戯曲そのものに現代を鑑みたアレンジなどはほとんどされていないように記憶しており、その良さも勿論あったのですが、空間の特異さ故に観客に情報がリーチしづらい部分も散見されたように思います。ただでさえ物語そのものが複雑な戯曲なので、観たことのある観客は記憶や経験で補填することで新しく豊かな劇体験になり得るのですが、初見の観客には物語やその機微が果たしてどこまで伝わったのだろうという疑問は残ってしまいました。

これは制作面に関してなのですが、私が観劇した回には写真撮影が入っており、そのアナウンス自体はされていたのですが、印などもとくにされていない客席の一つから撮影が行われたことにはやや戸惑いを覚えました。また席によって見える景色が変わることはいいのですが、多少の見切れが生じてしまうシーンもありました。カンパニーの信条やこれまでの公演スタイル、今作の空間のコンセプトなどを鑑みるに、これらはともすればこだわりの一つと想像することもできたのですが、やはり均一の席代が発生している劇場公演においては客席ガチャになりかねず、特定の席に座った観客のみが多少なりとも観劇しづらい、没入の妨げになるという状態は避けた方が良いのではないかと思いました。観客だけでなく、撮影するスタッフさんにとっても少なからず物理的にも精神的なやりづらさが生じる可能性もあるため、ゲネ時に撮影するか、あるいは観客が入った状態の本番の撮影に意義があるのだとすれば、撮影席に印をつけたり隣席の観客に予め了承をとるなどの策を練った上で敢行するのがベターかもしれません。

しかしながら、これまで住宅を本拠点に活動をしていたゲッコーパレードによる「劇場」の再構築、演劇や俳優の従来の在り方への疑いの視点には大いに刺激を受けました。「演劇は劇場で成されるものである」という考えが一般的な中、わざわざ「劇場シリーズ」と銘打って公演を打つこと。そういったフィロソフィーそのものにも面白みを感じます。その独自のスタイルを活かしたまま、快適とまでいかなくてはいいので、観客が等しく劇に没頭できるような環境を考えていただけるとうれしいです。
DADA

DADA

幻灯劇場

AI・HALL(兵庫県)

2023/03/03 (金) ~ 2023/03/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

閉鎖されゆく地下鉄の駅を舞台に死者と生者の魂が時にすれ違い、時にその裾を触れ合わせ、各々の思いが交錯していくという構造は詩的でありながらも、「こういう場所がどこかにあるかも」とふと実感させるだけの世界観が確立していました。

ネタバレBOX

彼岸と此岸の狭間の曖昧さを彷彿させるようなシースルー素材を多用した衣装、一方で階層や隔たりを確かに想起させるような美術。そういった細部にわたる視覚的な追求や仕掛けもこの魔法の所以ではないかと思います。
人間と幽霊の差を「目に見える」と「目には見えない」とした時に、その境目をできるだけで馴染ませたい、なるだけシームレスにしたいという思いを劇中の随所で個人的には感じたのですが、とりわけ歌唱シーンでその展望は顕著に表れていたように思います。
物語の進行にパッチワークするように音楽を重ねる、そうして物語と歌が、セリフと歌詞が混じった一瞬にこそ見えるものがあるのでないか、というような。そんな細やかなチューニングが、本作が楽曲の数やバリエーションとして「ミュージカル」と銘打っても違和がないところをあえて「音楽劇」としたところではないかと感じました。
周波数や電波の状態によってくぐもったり、はたまた鮮明に聞こえたりする「声」というものが次元と次元を往来する。物語において重要な意味を持つ「ラジオ」がそうであったように、「ここは言葉ではなく、音楽でなければならない」といったある種の必要性にも説得力がありました。歌唱クオリティも高く、俳優らの声にはそれぞれ役割があって、音楽を目的に足を運ぶ観客を満足させるものであったと感じます。上演後に公演の様子や楽曲の歌詞がweb上に公開されていることも有り難く、観客の余韻を手伝う役割としては元より、観られなかった人がどんな公演だったかを知ることもでき、とてもいいアウトプットだと感じました。

一方で物語がやや駆け足になったり、展開が予定調和的に見えてしまう部分、言葉があとひと匙程足りない部分や一歩過ぎてしまった部分も見受けられました。あらすじや物語の源流に文学性が香り立っていただけに、この辺りにもう少し工夫が練られているとさらに満足感が得られたのではないかと思います。また、物語の主旋律がロッカーに遺棄された子どもとその母親にあるので、そういった社会問題をこの演劇がどう回収するのか、というところも一つの見どころになりえたと感じます。あくまで私感ですが、本作ではともすれば遺棄した母親がややヒロイックに見え、肯定的に映りかねない不安が残ってしまったので、もう一歩深く描かれてほしいという願いもありました。
しかしながら、全ての答えを明確に出さないところに本カンパニーのカラーはあるのかも知れず、私自身が未だ咀嚼中でもあるため、今後の作品を観劇して理解を深められたらと思います。幻に灯る、幻が灯ると書いて幻灯劇場。そのカンパニー名に相応しい題材と物語であると思うので、代表作の一つとしてブラッシュアップされ、再演されることを期待しています。
橋の上で

橋の上で

タテヨコ企画

小劇場B1(東京都)

2023/03/08 (水) ~ 2023/03/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

一人のジャーナリストが20年前に事故として処理された少女の死亡事件の再検証に踏み込むというストーリー。
単なる「事故死」として片付けられたかつての事件を現在の角度から紐解く記者側のパートと、追憶のような手触りで当時の様子を再現する当事者側のパートを行き来する形で次第に真相が詳らかになっていきます。俳優は複数の役を演じ、時系列は交錯するも整理され、導線が敷かれた演出や俳優の技量、照明や美術の効果も手伝って、混乱することなく観ることができました。

ネタバレBOX

実際に起きてしまった事件を題材に、児童虐待や家庭内暴力やいじめ、シングルマザーの貧困や孤立といった緊喫に取り上げるべき現代の社会問題を個人のみのストーリーに終始させないところに本作の覚悟と意義、社会に対する姿勢を感じました。(暴力的描写があるということに関しては、世相を鑑みて事前にアナウンスがあった方がいいとは思いつつ…)

権力からの圧力や揺れるジャーナリズム、社会の仕組みそのものの歪みを知らしめるような物語展開や演出が印象的だったことの一方で、主人公のこれまでの歩みに関するシーンがやや駆け足のダイジェスト風に見えた節や、記者たちがなぜその事件にこだわるのか、という部分がもう一歩深く描かれてほしいという気持ちもありました。そのことによって、事件やその背景にある社会がより鮮明に再検証されるのではないかとも思います。
当日パンフレットに作家の青木柳葉魚さんのこんな言葉がありました。
「当たり前のように一人一人に名前がある。誰かが何らかの思いを胸に名前をつけた。今、隣に座っている誰かにも名前があって、その名前をつけた人がいる。そう考えると隣の誰もが少しだけ特別な存在に感じる。誰もが名前のある人間だ。一人一人が」
劇中でもこういった「個人の姿を見落とさず描きたい」という思いそのものには触れることができたのですが、それだけにもう少し景色として登場人物の表情を見てみたかったと思います。例えば、主人公・藤井あかりの一番好きな食べ物や好きな色を知りたい、記者の能瀬の記者ではない横顔を見てみたい、とそんなことを思いました。「社会問題を個人的問題に回収しないこと」と「個人が背負う日々や思いを描くこと」の両立は劇作の上で非常に難しいことだとは思いつつ、作家の思いの丈と力量に期待を込めて記させていただいた次第です。

実際に起きた事件を下敷きにしていることもあり、血肉の通ったセリフやそれを腹の底に落とした上で絞り出すように体現する俳優陣の姿に心を揺すぶられる瞬間があっただけに、笑いを誘うシーンや歌詞の世界観の強い劇伴の多用はやや蛇足に感じる面もあったのですが、それも裏を返せば、俳優の技量含めエンタメに振らずとも十分成立しうる作品であった、という演劇そのものの強度の一つの証のようにも思います。

制作面においてすごく有難いと感じたのは、安価での託児サービスデーがあったこと。「この題材だからこそ託児は手の届くものでなくてはならない」といった本作におけるカンパニーの一貫した哲学や思いに触れたような気がしました。子育て中の観客にとって、観劇はハードルが高く、社会や他者へ繋がる一つの窓口でもあるはずの劇場はまだまだ気軽に訪れられる場所ではありません。そんな中で、観劇アクセシビリティ向上の取り組みが作品そのものとしっかりと手を繋いでいたことは舞台芸術全体にとっても大きな意義を持っていると感じましたし、そのことによって、演劇が世の中へと発信するものは舞台上にのみあるものではない、ということを改めて知らされたような思いです。

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