丘田ミイ子の観てきた!クチコミ一覧

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『動く物』『旅の支度』

『動く物』『旅の支度』

ウンゲツィーファ

PARA(東京都)

2024/04/18 (木) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「部屋の風景、外の天気、本棚の本の名前、隣の人の服と私の服が呼吸の波間で擦れて小さく音を立てたこと。全部を身体が覚えている。動く物/動物という言葉、意味、在り方の境界を突きつけられ、いのちを目の当たりにした。死生観が揺らぐ様な演劇体験だった。2024年4月、小さな部屋の中で鮮明に目撃したあの演劇が再び上演される。別の二人の俳優によって『動く物』が続いていくこと。あの時私を圧倒した二人の俳優が新たな『旅の支度』へと向かうこと。そのいずれにも演劇の可能性を、"ふたりぼっち"の可能性を予感している」

と上演に向けたコメントに寄せた通り、待望の観劇だった。

ウンゲツィーファとの出会い、『動く物』という演劇との出会いは間違いなく私の演劇観、ひいては死生観までを揺るがす出来事であり、演劇の新しい扉をはっきりと自覚しながら開けた瞬間でもあった。
その作品が再び観られるのだから、待望以外の何ものでもなかったのだが、今回はさらに新作『旅の支度』という二人芝居も同時上演という。そのキャストこそが2019年の『動く物』で私を魅了した黒澤多生&豊島晴香ペアだった。そして、『動く物』はこれもまた近年数々の作品で抜群の存在感を発揮している藤家矢麻刀、高澤聡美に引き継がれる。
キャスティングからカンパニーや作品の豊かな試みと拡がりを予感させる企画で、ある種の覚悟のようなものも抱きしめつつ観劇日を心待ちにしていた。

私が観劇したのは『動く物』→『旅の支度』の順で2作を通しで上演する千秋楽の公演。予定的にこの日しか見られないこともあったのだが、結果的に2作を地続きで観られたことで迫るものもあったように思う。その反面、いずれも決してライトではない、心に残すものが大きく、余韻を噛み締めるのにもそれなりの時間を要する大作であるので、2作とも初見の場合は日を分けて観た方が(身のためと言う意味で)よかっただろうな、とも感じた。そのくらい、ずっしりとした作品なのだ。
ウンゲツィーファの演劇のすごいところは、まさにそこでもあって、いずれも上演時間自体は1時間ちょっとで決して長くはない。会話も難解な言葉を用いないし、一見日常的な会話劇である。そのパッと見普遍的でさりげない時間の中で人の心が小さく泡立ち、擦れ合い、戸惑いを覚えるくらいの波になり、やがて予想もしないうねりを見せていく。人の感情の発端と経過に目を凝らし、耳をすまさなければ生まれようのない景色がそこには広がっているのだ。これは2作にともに共通して感じたことであり、前作『リビング・ダイニング・キッチン』でも感じたことだった。これこそが劇作家・本橋龍ならではの眼差しであり、本領であり、おいそれと真似の叶わぬ個性と技なのだと痛感する。

『動く物』は同棲をしているカップルと彼らに飼育されている1匹のペットを巡る物語…
※以下はネタバレになるので、ネタバレBOXへ

ネタバレBOX


『動く物』は同棲をしているカップルと彼らに飼育されている1匹のペットを巡る物語。
冒頭はどちらかといえば怠惰な生活を送る、ありふれたカップルの日常に見えるのだけど、実はこの部屋には「いのち」に関わる大きな問題が二つ内包されていて、それはトピックとしては二つなのだけれど、つまるところは一つの命題である、という手触りがあり、それがそのまま『動く物』と言うタイトルに収歛されていく様には何度観ても身震いしてしまう。観始めた時と観終えた時で心の状態が大きく変わる作品。
前回の黒澤&豊島ペアの二人が本作を演じたときには、恋人間に流れる「停滞」を強く感じ、その停滞と“動く物”との対比に心をグッと掴まれたのだけど、今回の藤家&高澤ペアはまた違った魅力があった。「停滞」というよりはどちらかと言えば「不協」を濃く感じ、そのことによって問題の深刻さが詳らかになる体感があった。“動く物”と“動かない物”や、いのちに対するそれぞれの線引きがリアリティを以って差し迫ってくるような。
藤家さんの打ち明けられた真実に対して狼狽する様子、そこに滲む理屈では太刀打ちきかない情けなさや滑稽さの露呈がまた見事であり、立て続いた出演作から一転、また違った横顔をしっかり受け取った。
高澤さんを拝見するのはおそらく初めてだったのだけど、最初の表情から心をすっかり奪われてしまった。とりわけ驚かされたのは、筋肉の使い方。大きな問題を抱えながら生きている時ならではの人間の顔の強張り、体の脱力がとてもリアルで、劇中の過去の穏やかな日々のシーンで、上着をスルッと脱ぐようにその緊迫が体から剥がれている様も素晴らしかった。
相手に告げぬまま妊娠と中絶を遂げた女性の心の揺らぎ、それを受け止めきれないまま呆然とする男性の困惑、そんな二人に今まさに横たわる、ペット・ミチヨシの脱走。ラストシーンを終えても余韻を引き取るような存在感。時を経た再演でキャストを変えることの豊かさを感じる時間だった。

対して『旅の支度』では黒澤&豊島ペアが再び新作で観られることにどうしても期待は高まってしまうが、その期待を上回ってしまうのだからもう流石のタッグとしか言いようがない。
物語の舞台は、母の再婚を前に結婚式のためにハワイに発つ前夜。二人は今回は恋人同士ではなく、主にその母の子である姉と弟を演じるのだけど、家庭やそれぞれの心身の状況が明確に言葉にされる前から、二人の抱えるものがそこはかとなく滲むような役の背負い方が素晴らしかった。時折、二人の演じる役が夫婦になったり、親子になったりといくつもの役を演じ分けるのだけど、観客が混乱することは当然なく、それぞれ全く違った趣にスイッチングされる。そして、劇中のちぐはぐで歪な二人の人間のやりとりは、その実二人の俳優の息のあったコンビネーションに支えられていて、俳優のキャリアと共演の歴史を思い知るような気持ちにも。歪な家族の中にある、歪ながらも切って切り離せないもの。その煩わしさと同じだけの愛着。途方に暮れる姉と呆れる弟の瞳の端にそういうものが映っては消え、消えては映っていくたびに胸がギュッとなった。

ウンゲツィーファの演劇は、そこに生きる人々は、手放しで明るい状況ではないことが多いけれど、絶望や悲劇に集約されるだけの人はいない気がしている。この世界をうまく泳ぐことができない人間に泳ぎを教え込むのではなくて、ただその手を引いて足のつく場所に、すなわち息のできる場所に導くようなやさしさがあって、『旅の支度』はまさにそんな演劇だと思った。もちろん観ていて辛くなるところもある作品だったけど、最後は夜明けに、または朝焼けに託されているようなやわらかい光があって、緩みゆく二人の表情がとてもよかった。
通し公演限定の演出、ラストに藤家さんと高澤さんがある役で登場するのも、(もちろん、他公演と遜色が出ないよう物語に干渉はしないよう作られているけれど)、ラストの温もりや旅の続きを補填するような素敵な演出でした。さらに松井文さんのアフターライブがあり、二つの物語の余韻を水面に手を添えるようなやさしさで包み込んでもらったような心持ちに。上演中に流せなかった涙が遅れて流れてくるのを感じながら、音楽の力と言葉の力の共鳴に身を任せていました。贅沢な千秋楽特典が観られて幸せでした。

演劇の可能性を、ふたりぼっちの可能性を示した素晴らしい二人芝居。いずれもカンパニーの代表作として今後も引き継がれ続けてほしい、と感じました。
夜会行

夜会行

動物自殺倶楽部

「劇」小劇場(東京都)

2024/04/24 (水) ~ 2024/04/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2日目のお昼公演を観劇。
4名のレズビアンの元に訪れた1人の恋人といくつもの提起。5名が過ごしたある夜の物語、そして、"ある夜"にも"レズビアン"にも決してとどまらない問題がガラス窓から街へと現実へとシームレスに続いていく。

ガラス窓の向こうには植物に囲まれた部屋の一室、うっとりと見惚れてしまうような美術に迎えられ、そのまま食い入るように5名をただただ見つめ続けた85分。コロナ禍が初演なだけあり、物語や演出の端々から時節を想起させられました。ガラス窓はそれもあっての(感染対策も加味した)演出だったのかなと受け取りつつも、物語やその心象風景においてもそれ以上の効果が発揮されていて、素晴らしかった。3年前にこんな凄まじい演劇(初演)を見逃していた自分つくづく信じられないと悔やみつつ、今回たしかに目撃したガラス越しのあの風景を、あの一夜を、その手ざわりを知らない自分にはもう戻れない。戻らない。途中、理由のわからないままの涙を二度流した。そこにはきっと大切なことが隠されているはずだから、時間をかけて紐解きたい。
静かに激しく流れる一夜を映すようでも照らすようでもある照明、怒りや焦燥、心の騒めきと伴走する音響。そして、饒舌な時も寡黙な時も、息づかいから瞬きまで、人間がそこに存在することによって生じる全て、感情の源流その在処を伝える様な5名の俳優の素晴らしさと、そのような細部こそが伝えるものの大きさととことん向き合った演出。全てが全てに隙間なく接続した圧巻の総合芸術でした。好きな俳優さんがたくさん増えました。

映画のパロディ

映画のパロディ

コンプソンズ

下北沢 スターダスト(東京都)

2024/04/18 (木) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前回を見逃し、大宮企画は初見だったのですが、大宮二郎さんの作・演出の作品は他で観たことがあり、勝手に信頼を寄せていました。それは3年前に王子小劇場で上演された「イン・ザ・ナイトプール」というコンプソンズの短編企画。メンバーが一本ずつ作・演出を担い、それぞれの作家性と劇団の底力を実感したこの公演が私は大好きなんですけど、そのトリを飾ったのが大宮さんの「東京」という作品でした。作・演出を手がける金子さん不在の中で金子さんの強烈な存在感を忍ばせた劇団の自伝的物語なんですけど、東京と言っておきながら物語の舞台はアラスカに終始するんです。めちゃくちゃなんです。でも、そのめちゃくちゃな中でしか描き出せないものが確かにあって、私は不覚にも泣いてしまった。なので、今回もきっととんでもない映画とパロディの世界を、またはタイトル返上でより想定外な展開を今回も見せてくれるのだろうな、と期待を寄せていましたが見事的中!
反則レベルで個の魅力がピカピカに光る、されども団体競技!って感じの、それぞれの個性を貫き切ったままの一体感がとても良かった。コンプソンズ本公演とは一味違う、大宮二郎ワールド&ワードセンス堪能の75分でした。キャストもまあ、混ぜるな危険レベルに魅力的。江原パジャマさん、榊原美鳳さん、東野良平さんは初回より続投の頼もしさに期待しつつ、そこにオルタナな存在感で魅了する土本橙子さん、モリィさんが加わり、どこをみても面白いこと間違いなしの布陣でした。「ハマり役をハメにいくこと」に対してどこまでも貪欲な演出も痛快でした。モリィさん×土本さんの軽妙なギャル会話劇、誕生日なのにひたすらに可哀想な榊原さん、プロ意識は高いのにブランディングで大失敗してる東野さんの寿司屋、振り向いただけで爆笑をさらう江原さんの電機屋、全員反則!大名行列ネタは、展開も結末もわかっていながらもはやいつでも笑える装置、大発明ではないでしょうか。次回も期待です!

鳥皮ささみのインスタントセッション!

鳥皮ささみのインスタントセッション!

なかないで、毒きのこちゃん

高円寺素人の乱12号店(杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F)(東京都)

2024/04/12 (金) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

・途中入退場&飲食OK
・3時間半の稽古+ラスト20分で本編上演の二人芝居企画
・出演者と演目は日替わりで全10組&10作品
・物語と演出は口立てで進行

この形式のアイデア、面白みだけでもすでにグッと引き込まれ、子ども二人を連れて観劇。
私は丙次さん×志賀耕太郎さんの回を、前半の稽古を1時間ほど観た後に食事で一度退室し、本編上演の時間に戻ってくるというスケジュールで目撃&観劇。一言で言うと、ワークインプログレスと本公演を1日で観られる良企画でした。
演劇がこつこつと積み上がっていく創作過程、俳優とは何か、という核心に触れるような時間。その公開は観客にとっても非常に豊かで貴重な時間だと痛感しました。俳優の技やそれらが鍛錬されていく様をギュッと凝縮して見られること。そういった機会は日本の演劇シーンにおいてはまずとても少ないので、演劇界における貴重な取り組みであるとも感じました。
入退場自由で「いつ、どこから、どこまで観てもいい」という状態は、あらゆる状況をそれぞれ持つ観客にとってとてもひらかれた環境であり、観劇アクセシビリティの向上にしっかりとコミットしている企画だとも思います。
鳥皮ささみさんのアイデアや企画力、実現力が素晴らしいことは言うまでもないのですが、こういった素敵な企画に制作会社や劇場が協力・協賛してくれたらいいなとも感じました。私たち観客は見応えに対して安価でとても気軽に楽しく観劇させてもらいましたが、その分、素晴らしい着眼点を持った劇作家さんや面白い演劇を発表する劇団、そして出演する20名の俳優がしっかりとバックアップされてほしいとも感じました。そのくらい拡げ甲斐と続け甲斐がある企画だと思います。

明日の人

明日の人

劇団ドラマティックゆうや

シアターブラッツ(東京都)

2024/04/18 (木) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「始めたそばから消えゆく無駄。その演劇を、表現を私は断じて無駄だと思わない。無駄なき無駄に向かう矛盾を明日も勇んで生きたいと思う」。私が初めてドラマティックゆうやを観た時に綴った感想の最後の一文である。そして、今なおその実感を握りしめている。
前々作『不幸の光』でグッと心を掴まれ、前作『星の戦い』でやっぱりあの光は本当だったと噛み締め、そして、『明日の人 再演』ではっきりと分かった。自分がどうしてこんなにも劇団ドラマティックゆうやの演劇に心惹かれるのか、が。奇しくも登場人物同様に(物語が作られた時系列でいうところの)過去に戻ってはじめて私は分かった、というわけである。そのことが私の”明日”をどう変えるのか。それはまた明日が過去になるまでは分からない。ただ、その変化はきっと「歩き出す時に右足から出るのか、左足から出るのか」くらい小さなことで、同時に、アームストロングよろしく「この一歩は小さいが私にとっては偉大な一歩」であるかもしれない。そうだ。きっとそうだ。そう信じさせてくれるから私は一年に一度お守りを握りしめるようにシアターブラッツに向かうのだと思う。「自分の信じているものは人とは“違う”かもしれないけど、決して“間違い”じゃない」。情報量の多い新宿の街を歩きながら、そう思った。思うことができた。それは、演劇の力ほかならなかった。始めたそばから消えゆく、同じ時は二度とない、撮らねば記録すら残らない過去の芸術、演劇の力なのだと。だからやっぱり、無駄なき無駄に向かう矛盾を明日も勇んで生きたいと思う。
※以下はネタバレBOXへ

ネタバレBOX

※ここからはネタバレ
と、書いたように『明日の人』は、タイトルとは反比例に「過去の物語」なのである。
現在を生きる売れない役者の息子が、今は亡き売れなかった劇作家の父に会いに行って、制約の中で未来を変えようとするタイムスリップ物。『ドラえもん』がこの世界を魅了する限り、この設定自体は定番、さして新しいわけではない。そして、ドラマティックゆうやの特筆すべき魅力はその設定ではなく、構成。構成に施されている技巧が設定を度外視するような驚きがあるのだ。
その構成というのは、『明日の人』を挟む形で一見全く関係のないコント仕立ての短編演劇『木村さん』『兵士の走馬灯』の2本がカットインするのだけど、観終わった時に初めて「それも含めての“明日の人”だったのだ」と体感する、といったところなのだが、これも文字で書くと実態よりも遜色が否めず、自分の表現力の乏しさにジタバタしてしまう。いずれも「笑い」をふんだんに盛り込んでいるものの『木村さん』は文字通りジャニーズの性加害問題に切り込んでいるし、初演はSMAP解散間もない頃だったけれど、問題を挟んだ2024年の今この作品を上演することには全く別の意味が付随してしまう。泉田さんは腕のある脚本家なので、そこを差し引いて現代の論調に照準を合わせる=ポリコレ的な側面を重んじて整えたり、あるいはカットすることだってできたかもしれない。されどもそのままやるということに、『明日の人』にそれが含まれているということに、私はある種の覚悟を感じた。とくにダイレクトに性加害について言及するあるセリフが発された瞬間に。過去は編集できないのだ、と突きつけられたような気もしたし、だからこそここからしかないだろ、と明日を指差されている気もした。それだけではない。兵士の戦場からの逃避を肯定する『兵士の走馬灯』からは反戦を感じ取れる。ロシアとウクライナ、ガザの集中空爆、日本でも次々と危険な法案がするりと私たちの横を通り抜けて、今にもすぐそばで戦争が始まってしまいそうなこの世界で『兵士の走馬灯』を上演することにはとても大きな意味がある。私は涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いながら何度も何度もそう思った。愛とユーモアを原料にした皮肉が思いがけないところに向かって放たれた時にこそ、私はドラマティックゆうやの演劇の本分を目の当たりにするような気持ちでいる。

ちなみに"明日の人"はいいとものテレフォンショッキングのお友達紹介、「明日の(いいともに出演する)人」とかかっている。無論「いいとも」は今はもうないし、アルタすらまもなく閉ざされる。今日から明日、過去から未来へと接続する、憎すぎるダブルミーンなのだ。そう思った時、「明日きてくれるかな?」というタモリのお馴染みの言葉すら「(私たちに)“明日”はきてくれるのかな?」という問いかけのように感じてしまう。新宿からアルタが消え去ったとしても、誰からの紹介を受けなくても、私たちはいつだって過去から未来に、今日から明日に向かって叫ぶ。明日からの「いいとも〜!」が聞けるように、小さなことから何かが変わるかもしれないと信じて、今日も今日とて生きている。
漸近線、重なれ

漸近線、重なれ

EPOCH MAN〈エポックマン〉

新宿シアタートップス(東京都)

2024/04/01 (月) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

一色洋平×小沢道成『漸近線、重なれ』(作:須貝英 音楽:オレノグラフィティ)観劇。
住人たちが入れ替わるアパートを舞台に「僕」と他者との付かず離れずの交流、人と人との出会いと別れが描かれていく。そんな日々の風景にカットインする「僕」と「君」の往復書簡。互いに宛てた手紙に紡がれた思い、また紡げないままの葛藤が過去と現在が観客を物語の深いところへと誘っていく。
と、このあらすじの時点でまず驚きなのが、これが二人芝居ということです。アパートの住人たちや大家さん、母や地元の幼馴染も出てくるけれど、演じる俳優は舞台にたった二人。人々の温度や息づかいの交錯するこの物語が一体どういう形で表現されているのか。その方法を是非劇場で目撃してほしい。
どこを切り取っても人の温もりに触れることのできる、人の営みがすぐそばに見える風景に胸がギュッとなりました。大家さん、愛らしくて、愛おしくて。だけど、たしかにそこには、始まり、続き、そして終わる人生があって、「生きている時間」があった。人間の身体ができること、そしてこの身体が知っていることを慈しみながら見つめていました。舞台美術もまた驚き。劇場に入ってまず率直に思ったのは「ここでどうやってお芝居するの?」ということでした。

ネタバレBOX

正方形、長方形、円、八角形もあったでしょうか。視界が捉えるのは形のさまざまな窓、窓、窓。同じ屋根の下とはいえども、人々の暮らしにはそれぞれの形や在り方がある。そんなことを一目で伝えるような美術でした。人々を見守る屋根であり、人々の違いを彩る窓であり、そして、それは時に、世界にたった一人である「僕」が同じく世界でたった一人である「君」に向かう文字をしたためる便箋でもあって…。EPOCHMAN『我ら宇宙の塵』の星々の演出の素晴らしさ同様今回もまた小沢さんの斬新なアイデアがギュッと詰まった作品でした。なんというか演劇に魅せられた瞬間の原体験を追体験するような手触りがありました。
全てを説明はしない台本というのは確かに素晴らしく、そういった本に出会う度、想像という喜びに心を震わせます。でも、本作は「作者が説明しないこと」よりも「人物が説明できないこと」に寄り添われていた気がして、私はそこにすごく惹かれました。言葉が追い付かなかったり、または言葉を追い抜いてしまうその心がそのまま音になっているような劇中音楽は、正に心がふと立てる音のようで。そんな言葉を越えた心を全身に背負い、纏い、体現する一色さんの繊細な横顔。花の咲くような笑みの端で本当は人知れずこぼれ落ちている涙。そんな瞬間をも見せてもらえたような気持ちでした。観終わってからずっと、言葉と文字の違いについて考えていました。「言葉にしたい」と思う気持ちと「文字にしたい」と思う気持ちは似て非なるものなんじゃないだろうか。「言葉にできない」と「文字にできない」もまた少し違う気がする。そんなことを考えながら、遠くに住む大切な友人に手紙を出したくなっていました。なんでそんな気持ちになったのか、それもまた言葉にはできない。だけど、便箋に向かえば、文字となって現れるかもしれない。そんなことを考えていました。劇中で一つどうしても好きなシーンがありました。妊娠中の幼馴染みが電話越しの「僕」に胎動を聞かせるシーンです。同じことを自分もしたことがあって、その記憶の来訪に思わずお腹を撫でてしまって、あの音はどんな風に聞こえたのだろうとしみじみ考えました。自分の顔を自分の目で見ることができないように、自分の(子どもの)胎動って自分の耳で聞くことはできないんですよね。でも、人は聞くことができる。それが少なくとも私にとっては、他者と出会うこと、他者がいることでこそ叶う喜びがある、というこの物語に通底する温もりを伝えるようなシーンに思えたのです。長くなってしまったけれど、大切な人にほど是非出会って欲しいと思った演劇でした。
船を待つ

船を待つ

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2024/03/23 (土) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

“現代版ゴドーを待つ人々”。その言葉とスヌーヌー主宰で劇作家でもある笠木泉さんの俳優としての久しぶりの出演に惹かれて観劇を決めていました。

ネタバレBOX

入ってまず驚いたのが吉祥シアターの使い方。岸辺から水辺を臨むように客席と舞台が配置されていて、舞台の「長さ」がそのまま物語における時の「永さ」に接続しているようで、不思議な感覚に導かれました。目に見えぬ時空を掘り下げ、扱う戯曲ならではの演劇の魔法に感嘆。
生と死のあわいにも、夢と現の瀬戸際にも思える船着き場で巡りあったり、あえなかったり、重なったり、重ならなかったり、おそらくは人の実体はない魂のような、精神のようなものが水辺で交錯してゆく様を3名の俳優の身体が豊かに伝えていました。終わりを待っているようにも、始まりを待っているようにも見える人々を前に「待つ」という言葉、行為が含むあらゆることに思いを馳せました。それは今起きているたくさんの出来事、出来事なんて言葉では足らない事件や戦争にも繋がっていて苦しくなる部分も。死んだ後と生まれる前、その二つはこんな風に船着き場のようになっているのかもしれない。対岸にいる人々を見つめ、自分もまた相手にとっては対岸であること、そこからこちらはどんな風にも見えているのだろうかと。そんな風にふと魂の行方についても考えを巡らせました。ラストの笠木さんの涙が生命を讃えているようで、同時にその透き通る水分そのものを讃えたい気持ちにも駆られて胸がギュッと。哀切と歓喜が同じ分だけ染み込んだ美しい横顔でした。観劇後、外に出る時に劇場は虚構と現実のエントランスであり交点なのだ、としみじみ。そんなことを改めて噛み締める観劇は久しぶりでした。
友達じゃない

友達じゃない

いいへんじ

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

いいへんじの『薬をもらいにいく薬』という作品にとても救われていたので、新作を待望していました。
一人のシンガーソングライターの路上ライブをきっかけに出会った二人。二人の間に芽生える気持ち、揺らいだ気持ちとは?「友達」と「友達じゃない」の間を行ったり来たりする二人、そんな二人を見つめる一人の心の様子が丁寧に描かれていく約80分。劇中歌が素晴らしすぎて、思わず落涙。今回もまたとてもやさしい戯曲であり、あたたかい演劇でした。そして、それはそうではない世界へのささやかな、しかし確かな抵抗であるとも感じました。「やさしい」や「あたたかい」という安心は、「かなしい」や「つめたい」という不安といつも共にあって、気持ちが追いつかず涙ばかりが流れる夜や、泣いたからといって清々しく迎えられるわけもない朝があって、そんな中で私たちは生きている。一人になりたい、人から離れたいという気持ちと、独りが怖い、誰かと寄り添いたいという気持ちが同じ心にあるということ。それでいいということ。いいへんじの演劇は、中島さんの戯曲はいつもそんなことを改めて、耳打ちするようなさりげなさとやさしさで教えてくれるようでもあります。それはなんだか、世界へのとりとめないお手紙でもあるようで、同時に丸くて丁寧な文字で同じだけ心をつかって綴られた"へんじ"でもあるようで。
世界の悲しさ、冷たさ、厳しさに目を凝らした上で、人と人がどうあれれば、そことたたかえるのか。武器じゃない、何かもっと確かで、もっと誇れるもので。そう願う自分を肯定してもらえたような劇体験でした。
人と人の隙間を糸や針をつかって縫うのではなく、マーブル色の色鉛筆で少しずつ色を変えながら塗っていくような。そういう繊細で、時間のかかることを見せてもらったような心持ち。人と人との間にはいつだって大きな川が流れていて、こちらと向こうの違いや差に戸惑うし、いつでも行き来ができるような橋を気安くかけることもためられる。それでもと、だったらと、てづくりのボートをそーっと出してくれるような。そんな演劇でした。私は千秋楽ラストチャンスに滑り込み、Bキャストの味と技を堪能しましたが、俳優さんの違いも込みで楽しめそう。トリプルキャストにも意義と魅力が宿る公演だと思いました。

リーディング公演『死と乙女』

リーディング公演『死と乙女』

犬猫会

RAFT(東京都)

2024/03/22 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ぐさりぐさりと刺さる言葉と息づかいと行間の応酬でした。暴力の被害を受けた側にとって"終わり"はなく、ましてや傷が消えるわけもない。なのに、どうしてそんなにも周囲や世界は終わらせようとするのだろう、ひと段落つけたがるのだろう。そんなことを改めて考えた、今上演されるに相応しい戯曲でした。ただ、これはキャストでメンバーの山下智代さんもおっしゃっていましたが、戯曲に描かれていること、起きていることが手触りを以て分かってしまうことに複雑な気持ちも覚えます。いつになったら、こういったことを、感覚を分からなくて済むようになるのか。そういう意味でも、しっかりと怒りが込められたリーディングであることに強い共感を寄せました。また、音楽の力をものすごく感じる公演でもあり、思わず耳を塞ぎたくなるような不協和音はまさに劇に伴った響きそのもので、これぞ劇伴の骨頂といった共振がありました。リーディングって観る側にとっては結構ハードルが高いジャンルと私は思っていて、正直2時間20分ついて行けるか不安もありました。物語に入り込むチャンスを逸してしまったら苦痛にすらなりうる、非常に難しい形式だと思っているからです。だけど、冒頭から世界観が確立されていて、休憩を挟むも物語の緊張を持続させる力、俳優の推進力が高く、時間が経てば経つほど劇世界と相乗りしている気持ちが強くなるような上演でした。サスペンスフルな内容も相まって固唾を飲むシーンも多々ありました。上演後には戯曲にちなんでチリ料理が売られたりもしており、劇の張り詰めた緊張から一転、和やかなムードに。すてきな空間でした!

時間なら、あるわ

時間なら、あるわ

えんそく

遊空間がざびぃ(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

『東京三人姉妹』の方を観劇。親の看病を担う長女、結婚を控える次女、日常と自由の狭間で揺れる三女。それぞれの思いが隠されたり、詳らかにされていく会話劇。かくいう私も四人姉妹なので、なるべく姉妹モノは見逃したくないという思いから観劇しました。劇場の木の温かみと長年姉妹が暮らした家屋がシンクロするような空間づくりがとてもよかった。床や壁と物語が共振するように感じて、やはりがざびぃは失くしちゃいけない場所だと改めて思ったり。

ネタバレBOX

当然ながら人生色々、姉妹も色々だなあと。親の病状を正しく妹たちに共有していない長女には正直なところ最初は違和感しかなかったのだが、彼女が妹たちへの計らいではなく、自分の家や人生における役割や存在意義を守るための行動であったということが端的に示されるセリフがあって、その一言の痛々しさに、先ほど自分が抱いた違和感がいかに暢気であったか、を思い知らされたりもしました。ある時は過不足を分け合い、またある時はなすりつけ合い、羨ましがったり、羨ましがられたりしていく姉妹の姿がリアル。姉妹の周辺の登場人物も訳ありそうな人たちなので、そのあたりのバックボーンや葛藤、それぞれの関係性がもっと濃いめに絡んだ長尺バージョンも見てみたいなと思いました。
『ヤッホー、跳べば着く星』

『ヤッホー、跳べば着く星』

涌田悠

水性(東京都)

2024/03/22 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

チラシを見た時から「ヤッホーのホーが銀河に突き刺さる路地より遠い跳べば着く星」という短歌にまず心惹かれ、そこからタイトルが『ヤッホー、跳べば着く星』なことにもさらに惹かれて観劇を心に決めていました。がしかし!前売りが完売していたので不安を抱えつつ、かといって諦めきれず、えいや!っと当日券で駆け込み。無事観ることができました。かわいらしいチラシ、短歌とダンスという掛け合わせ。観る前から涌田悠さんの試みにある種すでにときめいており、始まってすぐ、目に映る景色を即興セリフとして発する演者さんの声、それに伴い発芽するようにうねり、隅々まで伸びゆく身体にグッと心を掴まれました。そこからはもうずっと涌田さん、石原朋香さん、田上碧さん3人がそれぞれ持つ身体性、眼差し、声色から目が離せなかった。
物語というのか、短歌というのか、言葉の舞台は荒川区西尾久の街から始まり、歩いたり、転がったり、おやつ休憩なんかも挟みながら、声とからだが時間と空間を遊泳していく。休憩の後のラップも楽しげだけど、どこどこと突き上げてくるものがあって、エンパワメントされている気持ちにもなったり。やさしくてつよい心、やわらかくて切実な力を端々に感じる時間と空間でした。
中野・新井の商店街の中にある会場「水性」との親和性も魅力の一つ。ガラスのドア越しに通行人の姿が見えるのです。そのことがこの公演や景色と本当に良く合っていて、境界が溶けて混ざり合っていくような不思議な感覚を覚えました。私が観た回では、思わず立ち止まってガラス越しのパフォーマンスをしばらく見つめているおばあさまがいらっしゃり、涌田さんが身体を翻し、扉に顔を向けてすうっと手脚を伸ばしていくまさにその途中に二人の目がパチリと合う瞬間があって、それを目撃した時なんだか奇跡みたいで、そこはもう一瞬宇宙みたいで、その時の二人の表情を見て私はなんでかわからないのですが、涙が出てきてしまったのです。あの瞬間に立ち会えたこと、考えるのではなくて感じる体と心でそこにずっといられたことにとても救われた公演でした。ごきげんに「キラキラのかわいい靴」を履いて行って本当によかった。帰り道、来た時よりもっとキラキラしてる気がしました。最後は短歌で締めてみます。
「透明の隔たり越しに生まれたてのほほえみ溶かすここは水性」

歌っておくれよ、マウンテン

歌っておくれよ、マウンテン

優しい劇団

高円寺K'sスタジオ【本館】(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/20 (水)公演終了

実演鑑賞

名古屋を拠点に活動する優しい劇団。劇団史上初となる1日限りの東京公演(高円寺K'sスタジオ)を親子総出で観劇しました。ものすっごい勢いがある、だけど、勢いだけじゃないのでは?と思っている。この世代でこのタイプの演劇を劇団という形で突き詰めていることがもう貴重ではなかろうか。詩的な台詞は確かに唐&つか戯曲インスパイアであり、敬愛であり、それでいてとってもオリジナル。24歳の身体と声に沁み込んだアングラ演劇の魂はどうみたってグッときてしまう。
誰一人として出し惜しみなき俳優陣の疾走。自ら照射するライトがふと鏡に見える瞬間があって、この人たちは己と闘い続けているのだと思った。光に照らされた瞳燃えてるみたいだった。文字通り自家発電。
山に向かって叫ぶでなし、歌うでなし、やまびこをただ待つでもなし。山そのものに歌わせようとする気概、歌っていいのだ、おくれよとする包容。その一瞬、一日のため山こそ越えずとも東京まで来たのだから、実に相応しい演目ではなかろうか。
24歳の、と書いたのですが、22歳も23歳もいます。名古屋発、平均年齢23歳、自家発電型、カンパ制!
とんでもない勢いがあり、がしかし勢いだけではない若手劇団。それが優しい劇団。

Oh so shake it!

Oh so shake it!

TeXi’s

北とぴあ カナリアホール(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

初日観劇。 劇場に入るやいなやびっくり。そして、公演名を読み返して「そうきたか!」と膝を打った。
小学生の頃、初めて光る靴を手に入れた時のえもいわれぬ無敵感。あれは、なんというか闊歩の装備だったんだな。おっしゃ行くぞ、生きてやるんだぞ、というサバイブのための装備だったのだなと。観劇しながらそんなことを思っていた。それはゲームのアイテムみたいなものでもあって。きのこよりお花や羽根の方が安心とか、相棒がいたらもっと心強いなとか。スターの時の無敵モード、全ての敵を片っ端から薙ぎ倒していくあれがリアルでも起こせたなら、
もっと泣かなくて済むのかな、とか。薄いカーテンみたいなシームレスさでバーチャルとリアルが繋がれたあの空間には生があり、それは死があるということでもあり、幾度となくリフレインされる言葉は敵への呪文であり、自分へのお守りであり、世界への祈りでもあったかもしれない。
「生きる」という行為そのものが無化ないしは形骸化していくリアルに穴をあけて、wifiという光の中でギリギリ繋がる人たち。錯綜する情報の中にも、駅前の雑踏の中にも、誰かといるのに孤独な部屋の中にも、"わたし"はいるし、"あなた"もいる。
だからこれはきっと、わたしやあなたを枠にはめたり、 ひとつにまとめようとする物や者との決別の為の葬列で、
もう一度生まれる為のセレモニーなのだろう。だから、色とりどり着飾って、光る靴で装備して、それからshake it=手を振り/揺さぶるのだ。呪文やお守りや祈りが身体じゅうに行き渡るまで何度も何度も。
仮装と現実の狭間で、私はそう受け取った。

キラー・ジョー

キラー・ジョー

温泉ドラゴン

すみだパークシアター倉(東京都)

2024/03/15 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

温泉ドラゴン『キラー・ジョー』トリプルキャスト:いわいのふ健さんの回を観劇。
「底辺を生きる家族による、人生一発大逆転をかけた保険金殺人計画!!」という触れ込みや、暴力描写・性暴力描写・セクハラ描写・流血描写・火薬による銃の発砲などのトリガーアラートの発表から覚悟して劇場へ。
客席に座り、舞台を見た第一印象は「劇場と合っているなあ」という感触。冒頭からグッと物語の中へと引き込まれ、観ながら解釈や見解などを考えることなく、ただただ目の前で起きる出来事を固唾を飲んで目で追っていた。「シーン」というより「出来事」という感じ。そういう意味で、「演劇を観た!」という感覚や余韻がとても強い作品で、そういった経験が久しぶりであったことにも気がついた。
お話自体は本当に救いようがなく、一人として心を寄せられる人物がいない物語で、人に薦めるには勇気のある作品でもあったけれど、安全地帯からそう思い込んでいることそのものにも自分の暴力性をふと感じるような。そんな瞬間も押し寄せた観劇だった。
何よりも劇団としての在り方が素晴らしい。前作『悼、灯、斉藤』から一転、同じ家族モノとはいえその振れ幅にまず驚き、メンバーに劇作家が複数いながら海外戯曲にも取り組むという果敢さ、過去作品がどれも似通うことなく、一つ一つ世界が独立している点においては演劇を上演する「劇団」というカンパニーとしてある種の理想を形にしているとも考えられるのではないだろうか。

ネタバレBOX

ラストにかけての乱闘シーンはまさに手加減、待った一切なしという感じで、相当にヘヴィー。中でもケンタッキーフライドチキンを用いた暴力シーン・食事シーンは凄まじく、思わず目を覆ってしまった。
のだが、本当の意味でもっと目を覆いたくなったのは終演後のこと。私がほとんど無意識のような自然さで最寄りのケンタッキーに立ち寄ってしまっていたということだった。あんなに酷い景色を見たのに、あの時はあんな感情になったのに、今、私はあの彼女と同じチキンを食べているということに気づいた時、自分の中に宿っている暴力性に背中が冷えた。自分のことをジョーと何ら変わらぬサイコパスかもしれないと思ったくらいだった。書いていてもまた怖くなってきた。ただ、一言言い訳をするならば、暴力以前にケンタッキーの箱が出てきた時からふんわり食べたくはなっていた。いや、言い訳すればするほど恐ろしい。でも、このことも隠さず書いておきたかった。別日に観た知人にそのことを打ち明けたらきちんと驚かれ、ある意味安心をしていたのだが、また別日に観た家族に再び打ち明けたら、「食べたくなるよね!」と言われ、色んな意味でまた怖くなった。食べたくなってはいけない気がするのだ。だけど、食べたくなった。それが人間なのだという恐怖だった。これを書いた後に「満足度」に星を付けるのも含めて相当グロテスクな流れになってしまったので、満足度は割愛させていただきますが、何はともあれ、凄まじい演劇だった。俳優陣の集中力と身体能力、静から動に向かう精神との一体感が素晴らしかった。俳優の技を芸を見せつけられるような2時間。あと、(思わず途方に暮れてしまうような片付けを行う)制作スタッフさんの奔走も是非とも労いたい気持ちです!
イノセント・ピープル

イノセント・ピープル

CoRich舞台芸術!プロデュース

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスで原爆の開発や研究に従事した5人の男とその家族たち。
かつて20代だった彼らが90代に突入するまでの65年の物語。若き日の男たちが作り上げた原爆はやがて広島・長崎に投下される。アメリカの視点から原爆と第二次世界大戦、さらにはベトナム戦争、イラン・イラク戦争による戦禍を描いた意欲作。

8月と12月、私は年に2回平和記念公園に行く。私は広島出身ではないが、二人の子どもは被爆4世に当たる。子どもたちの中に流れる血を通じて私は亡き義父や義母に思いを馳せる。会うことの一度も叶わなかったそのまた先の父や母にも。例えば、彼や彼女たちが生きていたとして、この東京に暮らしていたとして、私はこの作品を薦めることができただろうか。(続く)

ネタバレBOX

それはとても難しいと思った。中立でいられるはずもない傷を負った、いや負っている人にはあまりに辛いセリフや描写が多かった。目を背けたい、耳を塞ぎたいとも思ったし、蔑称や暴言に怒りが湧く瞬間もあった。
しかし、それはきっと日本人に限ったことではない。アメリカの視点から描かれるリアルが、紐解かれていく葛藤がそのことを伝えていた。私が日本人である限り、また、被爆4世の親である限り、本作を中立の立場で受け取ることは難しい。それでも、観られたことをよかったと思った。たとえ、感情移入することが、共感を抱くことが到底難しかったとしても、私が知っておくべき人生や感情がそこにはあった。
CoRich舞台芸術!プロデュース【名作リメイク】の第一弾としてこんなにも感情移入しにくい作品が選ばれたこと、その意義について考えている。「同じであること」に手を取り合う喜びや、それがもたらす安心は確かに人を救うかもしれない。だがその一方で、その中の声しか聞こえなくなった時、すでに分断や差別は始まっているのだろうと思う。違いや差によって生じる、今もこの世界の其処彼処で起きている争いや戦いを考えるとき、同じ気持ちを寄せ合うだけでは到底解決できないことを痛感する。対岸の声を聞くこと、国籍や人種などの属性で個人を一括りにしないこと。それは、今の時代にとても必要なことであり、その小さな積み重ねがどこかの分断や差別の芽を摘むことに繋がると信じたい、という思いに駆られた。
広島・長崎に投下した原爆を作った男と私の間に横たわる大きな溝を埋めることはできなかった。
しかし、戦争の犠牲となった息子と平和活動に勤しむ娘を持つ親として彼を見つめた時、その輪郭が初めて縁取られていくような心持ちになった。
戦争を今すぐに止める力を持たない人間一人ができること。それは、目の前の相手を一人の個人として見つめるということなのではないだろうかと思う。国家として憎み合うその前に。
座って観ているだけでも心が削がれるような負荷のかかる言葉たち。最後にそれらを一身に背負い、2時間15分、アメリカの眼差しを生きた俳優陣に改めて拍手を送りたい。
あげとーふ

あげとーふ

無名劇団

無名劇団アトリエ(大阪府)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/21 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

※この度は一身上の都合により、審査員として現地にて鑑賞することができず、代理人を立てての審査とさせていただきました。推薦文を書かせていただいていながら大変申し訳ありません。上演ではなく映像の鑑賞なので、審査員としてではなく一観客としてのクチコミ投稿とさせていただきます。

ネタバレBOX

青春ロードムービー的手触りのある『あげとーふ』は、カンパニーの母体である高校演劇部の全国大会準優勝作の15年ぶりのリメイク。一つの転機となった作品が今だからこその形で新生することに上演前から期待が高まりました。
また、大阪・西成区の鶴見橋商店街の空き店舗を改装した劇場空間兼アトリエで演劇活動を行うといった「演劇と地域の接続と共存」にも興味を惹かれました。
そしてそんな地域密着型演劇の実態は映像からも具に感じ取ることができ、客席からの反応の高さや、さらには建物の扉の向こう、すなわち商店街から公演の様子を覗きにくる住人の方の姿も見受けられ、それを受けて制作の方が観客に向けて「暮らし」の一部としての演劇を語られるコミュニケーションの様子にも親しみやすさが滲んでいるように感じました。団体が地域を愛し、そして愛されていることがさりげなくも確かに伝わってきたことに胸を打たれました。そんな景色もカンパニーの日々の熱意や意欲、継続の賜物だと感じます。

『あげとーふ』は、卒業旅行でアメリカを訪れた男子高校生が見知らぬ土地で「あげとーふ」=I get offと言ってしまったことからバスを降ろされ路頭に迷う、というアクシデントから物語が展開します。分かりやすくハイテンポに進行する物語と、非日常に戸惑い、不安を誤魔化すようにはしゃぐ高校生らを演じた俳優の身体性や台詞の応酬の瑞々しさがある種の親和性を築き、観客の没入感をしっかりと手伝っていたように感じます。モラトリアムの始まりに揺れる若き青年らの心の機微を余分な演出を削ぎ落とし、ストレートに伝える潔さがまた作品の魅力を高めていたように思います。
直接訪れていないのでこれは想像の域を越えませんが、アトリエの異様に濃密な空間もまた、目の前で繰り広げられる青春の濃度とシンクロし、興奮や喜びや不安や焦燥などが入り乱れる心を寄せ合うようにして過ごす思春期の青年たちの姿により一層の一体感を生み出していたのではないでしょうか。

特殊な環境で演劇活動を行う中では、時には「ここではそれはできない」といったあらゆる制約にぶつかることもあるのではないかと想像します。しかし、本作は「ここだからこれができる」ひいては「これはここでしかできない」という果敢な方向に舵を切り、この場で上演されるに相応しい作品を選び、その魅力を存分に発揮する形で全うされたのではないかと感じました。そして、やはりそんな商店街の空気やアトリエの温度を直に体感しながら観たかったと悔やまれました。少なくともそれだけのことが伝わる映像であったと思います。

演劇の裾野を広げること、劇場の敷居を下げること。舞台芸術全般のアクセシビリティ向上は舞台芸術従事者のみでは決して成り立ちません。外からお客さんを誘うこと、理解を得ること。地域に根差し、影響し合って共生すること。社会の一部としての演劇を見据えるそんな無名劇団の取り組みが映像からも感じ取れる公演でした。一人の観客としても、演劇業界に携わるライターとしてもその姿勢に敬意を寄せるとともに、今後のさらなる発展を楽しみにしています。
本人たち

本人たち

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

STスポット(神奈川県)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/31 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

物語と言葉、言葉と演劇、演劇と空間、空間と観客……舞台芸術というパフォーマンスにおける関係性/コミュニケーションというものに着目し、「既存」や「従来」への疑いを持ち、ここまでの分析・探究を行なっているカンパニーが他にあるだろうか。

ネタバレBOX

芸術や表現以前の「行為」としての演劇をあらゆる観点から解体・縫合し、そこに生じる関係性を剥き身の状態まで露呈させる。そんな試みを創作として行っている小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが「コロナ禍の時代の上演」を前提として2020年に立ち上げた『本人たち』プロジェクト。その待望の上演が本作『本人たち』です。
正直なところ、それらの全く新しく、高度で、複雑な取り組みの様子を見るにつけては「果たして私の理解力は追いつけるだろうか」「観る側にも相当な素養が必要なのではないか」といったある種の緊張があり、実際に観終えた今もカンパニーが提示したものや手渡そうとしていたことをどれだけ自分が受け取れたかは分かりません。しかしながら劇場を出た後もいついつまでも理解を探ってしまうようなこの体感こそが本作において結ばれた私と作品との関係性だったのかもしれないとも感じています。そして、そんな観客の行為もまた「観劇」というよりは「観測」に近い趣があり、俳優の身体や声を通して、自分と彼や彼女との関係性とは果たしてなんぞやということを握らされたような気がしています。

物語も言葉も演劇も空間も観客も当然のようにそこに在り、当然のように繋がれていくものだというような、ある種の前提の上で多くの演劇が公演を行なっているけれど、それらを諸共覆すような手つきで進められた『本人たち』というパフォーマンスを通して、私はともすれば当然とされるものに追従していただけだったのではないか、そこにどんな関係性が在ったのだろうか、もう一歩その関係性を見つめることができていたならばこれまで観た他の演劇からも別の何かを受け取っていたかもしれない、という体感を手にした心持ちもありました。そして、そのことによって、スペースノットブランクが分析・探求しているのは「ディスコミュニケーション」を含む関係性/コミュニケーションであるということに遅ればせながら気付きました。

第一部「共有するビヘイビア」(出演:古賀友樹 メタ出演:鈴鹿通儀)、第二部「また会いましょう」(出演:渚まな美、西井裕美 メタ出演:近藤千紘)の二部からなる『本人たち』でしたが、第一部では前説と開演がシームレスに接着しており、俳優という存在をよりフラットに観測することが叶ったのではないかと思っています。なにしろ観客からの視聴率100%を背負った俳優・古賀友樹さんの舞台での居方や身体性が素晴らしく、その技を堪能するといった点でも豊かな体験でした。
一方で、二部で舞台上の俳優が二人になった途端に観測がより複雑になり、理解は難しくなり、その反応や関係に興味深さを感じるとともに、やはり体感の言語化に辿りはつけず、もう少し理解したかったという心残りもありました。もう少し踏み込んで言うと、行なっていることがかなり高度であるが故に、自分の理解が追いついてないのか、差し出されているものに不足があるのかが分からなくなってしまうところもありました。おそらくは前者だと思いつつ、この点においては繰り返しスペースノットブランクの公演に足を運ぶことで理解が追いつき、少しのタイムラグの後新たに得る実感があるのかもしれないという期待もあります。

実験的な試みに溢れるスペースノットブランクですが、そのトライは公演前後にも其処彼処で観測することができました。「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」と銘打ち、肩書き問わず書き手を公募していたこと、そして上演後に合計7本のレビューが公開されていたことには「公演が終わってもなお探求は続く」というカンパニーのあくなき探究心を感じるとともに、観た人にとってもまた理解や再発見の手助けになるような良企画だと感じました。今後も目を開かれる思いのする、どこもやっていない新たな試みに期待を寄せています。
半魚人たちの戯れ

半魚人たちの戯れ

ダダ・センプチータ

王子小劇場(東京都)

2023/04/13 (木) ~ 2023/04/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

新曲が作れなくなったあるバンドの存続と、未来が約束されなくなった世界の存続が並行し、時に一体化して進む物語。その行方は終わりか始まりか。はたまた終わりの始まりか。

ネタバレBOX

終末を想起させるような黒一色の舞台美術の中、バンドの話でもあるにも関わらず目立った音楽的効果や大仰な演出も使わないことを選んだ意欲作。ほぼほぼ俳優の身体のみに託される言葉と物語は、おそらく意図的にとっ散らかり、その裾と裾が重なることはあっても、わかりやすい結合を果たさぬまま一人一人が「断片」のまま最後まで行く。
そのあまりの潔い世界の手放し方や異世界然とした世界観に最初は困惑してしまい、「このままいってしまうのか」と不安を覚えたけれど、舞台上で描かれるディストピア的風景がその実予見的なまなざしに溢れていることが示されてきたあたりから、突如現実味が増してくる不思議な魅力のある作品でした。どこのいつの話かわからないものが、いつかくるかもしれない話に成り代わるまで。そんな示唆的な導線がシームレスにも着実に敷かれていたことに後々振り返って気付かされました。霊魂や夢という不確かなものが、災害や人災という確かな災いを呼び込んでいくような物語の構造には、作家の「全ての事象は何かへのサジェスチョンなのではないか」「見えぬものこそ見なくてはならない」という魂が忍ばされていたような気がします。

ディストピアを描く一方でバンドやその周囲の人間模様には、表現者特有の売れる/売れないという葛藤や、他者の才能への嫉妬や焦燥、芸術と商業における価値の違い、メンバー間の恋愛などの現実的な心の揺れも要所要所で描かれていたのですが、終末とそれらを掛け合わせることが興味深かった分、その混ざり合いや昇華をもう少し見たかったという心残りもありました。
とりわけ「バンドの亡きメンバーであり、自分よりも才能ある恋人が作った歌『半魚人たちの戯れ』が死後にバズる」という一つの結末からは、そこから描き出される物語の面白みや深みがまだある気がして、また作家である吉田有希さんご自身が芸術や表現を題材にオリジナルの物語を紡ぐ腕を持っているのではないかという期待もあって、もう一歩先の世界を見てみたかったという体感が残りました。

陸で生きられなくなった人間が海で生きられるわけが到底ないように、音楽をやめた人間が音楽家であれるはずもない。終末に向かって何かを少しずつ失って、かつての形状をとどめていられなくなることが「半魚人」を指していたのか。それとも、どちらでも生きていけるように、むしろ自らすすんでかつての形状を放棄していくことが「半魚人」を指していたのか。いずれにしてもそれが「戯れ」=「本気ではない遊び」であることに、本作は世界に対する皮肉を忍ばせていたのではないかと想像しました。

カンパニー全体の取り組みにおいては、制作面の配慮が素晴らしく、核兵器や災害の描写があることを事前のSNSや当日アナウンスでも言及していたほか、上演時間、残席数、当日券状況、出演俳優陣の紹介などが繰り返しこまめに発信されていて、欲しい情報にリーチしやすい環境がとても助かりました。観客が劇場に足を運びやすくなるような配慮だけでなく、創作に参加する俳優への敬意も感じました。そのことは舞台芸術全般において今とても必要なことだと感じます。
あたらしい朝

あたらしい朝

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/05/03 (水) ~ 2023/05/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

果てしのない絶望の夜の中、されども祈る朝の訪れを探し彷徨うような喪失と再生のこの物語には、長く続くコロナ禍における誰しもに失われた時間を補完していくような手触りがありました。チラシにあった“どこにも行けなかった私たち”という言葉は、舞台上から客席へとするりと滑り落ち、そのまま私たちの手を取り、ともにそのピンク色の車に乗せてしまうような。そんな一体感と共振を忍ばせた導入が劇への没入感を確かなものにしていたように思います。

ネタバレBOX

亡き夫とその残像を抱えながら生きる妻を巡るタイムトラベル。
「夫が死んだ」という事実よりも「生きていた」という事実を、その時間を瑞々しく映し出すような演出には物語や演劇そのものが人物の喪失にグッと近づき、その身にギュッと寄り添うような温かさがありました。
しかしながら、「温かさ」というものでは到底誤魔化しのきかない「痛み」の深さ、その描写も生々しく描かれていて、妻を演じた清水緑さんの次の瞬間に泣き崩れるのか、はたまた大きく笑い出すのか予測のできない心の紙一重さや、夫を演じた木村巴秋さんのつかみどころのないままに飄々と舞台上を遊泳するような人懐こい揺らぎは、この作品の核心的な魅力を一際具に表現されていたように思います。
その傍らで葬式帰りの二人という現実的風景を担った亀山浩史さんや菊池佳南さん、母であり、友でもあるという二役を全く別の眼差しで好演した北川莉那さん、ガイド的役割を担いながら、抽象的に描かれる生と死の狭間をシームレスに行き来する小瀧万梨子さんと金澤昭さん。さまざまな時間軸が混在する物語をその身に背負う俳優陣の確かな技量は元より、それぞれの個性と強みを存分に活かした配役と演出が、生と死、喪失と再生を巡るこの「旅」を時に淡く、時に確かに縁取っていました。

叶わなかった旅を再現する旅には、そのピンク色の車には、無論数知れぬ後悔が相乗りしていて、妻であり娘である女性が旅の途中でふと在りし日に思いを馳せるシーンには、痛々しくも避けられない景色の数々がありました。この作品の結末や魅力を他者に伝えようとする時、「そんな旅の目的地が希望の“あたらしい朝”だったのです」という回収ではどうも言葉が足らず、その後悔の数々を諸共抱きしめて生きていくしかない、“目的地”に設定せずとも「いつかは新たに迎えざるをえない朝である」ということに本作の切実さは光っていた気がします。
「不在」という「存在感」を強烈に忍ばせた本作は、一つの朝でありながら、長い夜でもありました。営みであり、弔いでもありました。そしてやはり、祈りであったと思います。
『あたらしい朝』とタイトルが角張った漢字ではなく、丸みのあるひらがなであることにもどこか心を掬われるような、本作の中身との親和性を感じたのですが、そのチラシには、「A WHOLE NEW MORNING」という英題が併記されていました。
「A WHOLE」という単語は、「これまでに見たことのない、まったくの未知の」という意味があります。ただの「NEW」ではない、見たことのない、未知の朝。その景色が少しでも彼女を救うものであってほしい。旅に立ち会った一人として、そんな祈りを抱かざるをえないラストであり、劇場を出てからもそんな気持ちは長く心に残り続けました。
きく

きく

エンニュイ

SCOOL(東京都)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

主宰・長谷川優貴さんは当日パンフレットにこう書かれていました。
「この作品は、只々話を聞くだけの内容です、ドラマチックな物語はありません」
そして、その言葉通り、本作の俳優たちは只々話をする/聞くという行為を繰り返しました。しかしながら、観客の一人である私に残ったのは「只々話を聞いた」という体感のみではありませんでした。

ネタバレBOX

“きく”という行為をフラットに、どんな色もついていないまっさらな状態まで一度解体し、きく側の状況、精神的状態、姿勢や視線などの様々な反応によってあらゆる形に縫合し、それをまた解き、結び、と繰り返していく中で浮かび上がってくるもの、それと同じだけ溢れ、抜け落ちていくものがあるということ。“きく”という行為の難しさと果てしなさを存分に握らされることによって、従来自分が行ってきた“きく”という行為、さらにはそれを経て時に頷き、共感し、またある時は首をかしげ、否定する。そんな一連の行為まるごとに対して今一度疑いを持つことができたような気がしています。

劇中の印象的なシーンの一つに、玉置浩二の『メロディー』という歌を世界各国の人々が一斉に聴いている様子を映像で流す、というものがありましたが、それを観客が「只々見ている」という状態こそが本作における試みを通して行いたかった「きく」の更地化だったのではないかと想像させられました。
それの対となるシーンとしては、「人の話をどれだけきけるか」を競う架空の賞レースが実況される場面がありました。そのシニカルさに客席からはちらほら笑いが起きたのですが、レース参加者に扮した俳優陣がことごとく話を最後まできくことができない、という描写にはひやりとするものはあり、それを笑うという行為がそのままブーメランとなって自分に返ってくるような感触もありました。
俳優陣の「きく」を試みるスタイルも多様性に富んでおり興味深かったのですが、とりわけ実況者を演じた高畑陸さんが印象に残りました。コロナ禍で演劇が映像として配信されることが増えましたが、まさに高畑さんはその配信映像を担うスタッフとして広く活躍をされています。上演を「みる/きく」という立場に立ち、それを粛々と記録・編集されてきた高畑さんが俳優としての身体でその場に座り、俳優として声を発し、「きく」様子を「みて」実況する立場にあったこともある種示唆的であり、試みの一つとしてもインパクトを感じました。抑揚溢れる実況風景からは俳優としての魅力も新たに知ることができました。

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