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2018年度 1-10位と総評
授業

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授業

SPAC・静岡県舞台芸術センター

1950年代に発する不条理劇の代表的作品の一つだが、作者イヨネスコの名も、戯曲も、かつて持て囃されたのと同様の感化力を頼むだけの霊力を持つわけではないと(他の上演の例から)思っていた。西悟志演出は見事にこの「古典」戯曲を現代に立ち上がらせた。演劇活動をこの十年行っていないと観劇後に知って驚いたが、宮城監督が奇才と呼びブランクを押して依頼した価値は少なくとも実証した。老教授と若い女生徒、女中の三人芝居だが教授を三人の男優で演じ、女中にはスタッフの一人が正にスタッフ然として扮する(事実その通りでカーテンコール3回に姿を見せず4回目で漸く呼び掛けられて登壇していた)。明快な演出方針が十二分に生きた舞台だ。
起用された菊池朝子の痛快なムーブも含め、絶えず動き回る教授。三人が分担して三分の一の負担、とはならない。広い舞台の奥のカーテンから登場して、客席側中央に置かれた台(2×1.5間位?の椅子が2台乗った主要演技エリア)まで、役の交替のためにスタスタスタスタと歩く距離は長い。また二人、時には三人のユニゾンやら台詞一節ごとのリレーやらをやりながら、女生徒を追い詰めて行く教授の狂気を表現する。
「狂気」・・初演当時は記憶も生々しかっただろうファシズムの不条理さ(滑稽さというニュアンスも感じられる)が、この作品の中に表現されたと人々は感じたに違いない。理屈もへったくれもない論理=無意味な言葉の羅列を捲し立てて女生徒を心理的に組み敷いていく過程がそれである(戯曲には冒頭のト書に女生徒は始め快活だが次第に弱々しくなり、逆に教授は始め丁重だが徐々に威圧的になる趣旨が指定されている)。
女中が序盤と途中、くれぐれも興奮しないようにと忠告に来たにも関わらず、口うるさい母親を遠ざける駄々っ子よろしく耳を貸さず、自らの快楽を貪るように「授業」に入れ込んでいく教授。最後には生け贄を殺してしまうが、これを何度も続けている事が、その後処理も任されている(買って出ている?)らしい女中とのやり取りに仄めかされる。ちょうど前戯から挿入、終着の射精に至るプロセスに似ている、という感想は男性特有のそれだろうか。。だがある面権力の甘味さは性欲を含めた人間の欲求に直結するもので、教授はまさに権力を行使する事を欲し、事実そうしたと見える。解釈はどうあれ、ここでは教授が嗜癖のように「授業」を繰り返していた、との事実が露呈する。
これに対し、西演出は戯曲にないシーンを最後に付加する。これについては好みや賛否もありそうだが、戯画化された惨劇である本作を、作者の意図はともかく娯楽のまま据え置いた数十年を怠惰として、更新する事を潔しとしなかったという事でもあるだろうか。趣向にはやや照れもあったに感じたのは、読みの浅さかも知れない。
初日、俳優の一人二人は動きをこなしながらの台詞が危うい瞬間もあったが、さすが乗り切り、世に二つないゲージツを生み出していた。大満足である。

レディ・オルガの人生

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レディ・オルガの人生

ティーファクトリー

これほど主人公に感情移入した芝居には暫く遭遇しなかった。このテーマ・素材で川村毅は1980年代にその名も「フリークス」と題する戯曲を執筆・上演、今回は同テーマの「その後の今」の捉え直しという。タイトルのオルガとは、前世紀に実在した人物だが芝居は一代記というより、2018年現在の「私」にオルガの人生が重なり、今の「フリークス」たち=サーカス団を想定した場末の小屋(地下小劇場のような)を舞台に基本は物語が進む。
ティーファクトリーは割と最近一度だけ開演に遅れて中途半端に観劇したが、舞台全体の暗い美しさだけは印象にとどまった。今回はその印象を強めたと共に、演劇とは溢れ出るものをそこに注ぎ込むものでありたい・・なんて事を思わせた力強い事例。芸、技にではなく、主人公その人に拍手を送る自分がいた。
強いて言えば、オルガを演じた渡辺真起子の全く気取らない「徹する演技」には、心酔した。

マッチ売りの少女

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マッチ売りの少女

劇団PPP45°

桐生市は十年程前に一度通過したのみ(桐生駅始発のわたらせ渓谷鐵道を往復した朧気な記憶)。旅気分で親八会の『マッチ売りの少女』を観に当地へ赴いた。新宿の細いビルの5階だか、階段で上った狭いスペースでかぶりつきで観たのが同会『父と暮らせば』朗読。これは各地をまだ巡演中とか。辻親八の相手役は渋谷はるか。汗水迸る熱演の彼女が今回も中心的役(娘)に座り、さらには桟敷童子・大手忍!(弟)、俳優座・清水直子(妻)、辻(夫)。演出藤井ごうによる本格的な舞台であった。
旧商家の蔵が集合した有鄰館の一角で、客席は40~50程度。観客数は30余名といった所だろうか。
別役実作品のシュールさが、笑い、そして居心地の悪さを通過して、ある哲学的な問いの前に強引に立たせられるミラクルは、辻演じる夫と渋谷演じる娘との「対決」を軸に、この対決が紆余曲折するための妻や弟の介入が絶妙に絡んで仕上がる。弟演じる大手のキャラの豹変、辻との夫唱婦随のコンビを奏でる清水演じる妻、かくも美味なる舞台にこの客数は寂しい限りだが、みれば皆良い顔をしている。この場に立ち会えた幸福を自分も噛み締めた。
保存対象となる蔵での上演には、都会的な演目は若干そぐわなさはあったが、当初都内での上演が決まっていたと言い、急遽不都合が生じ、劇場探しに奔走したという。確かに、雑遊での上演が簡易チラシで案内されていた。梟門と共に改修に入った事により、今回の運びとなった訳だ。(改修がギリギリになって決まったのだとすれば、やはり消防法改正絡みでダメが出たためだろうか・・)

辻親八は椿組の舞台で見た程度であまり知らなかったが、どうして達者であった。『マッチ売り』は念願の演目だったと言う。今後は何よりも貴重な財産である『父と暮らせば』をアピールし、上演し続けたいと挨拶。
親八会は個人企画であるが演出の藤井氏も企画部員的存在とか。ユニークな仕事を断続的にでも、世に出して欲しい。

日本文学盛衰史

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日本文学盛衰史

青年団

通夜振舞いの席、というセミパブリック空間で、日本近~現代文学史に名だたる面々を青年団総出で登場させ、芝居的にいじりまくる。同時同空間で突如、現代の風俗の話題が飛び出たりもする(会場の一角に居る佐藤さん・田中さん等が発信源。中には長野海がコーエツガール風衣裳でそれ風にもじった台詞を言うのを受け、「シン・ゴジラの英語はどうよ??」といった場面も)。
そうした中にもエポックメイクな文学者の文学史的位置が作者(この場合どのあたりまでが高橋源一郎氏でどこからが平田オリザ氏のものかは不明だが)によるシニカルな解釈と台詞で、そこはタイトルに違わずきっちりと明示されており、具体的な人の営みが連なって形成される人の歴史の画になる。
不覚にも、ラストにはじんと来るものがあった。

日本人である自分がコミットし得る日本近代作家の多彩な話題に、退屈する暇なく振り回され、作家についての固定観念を解体されたり、批判的視点の存在を厳しく思い出させられたりしながら、最後に訪れる長台詞で導かれる巨視的視野が半ば強引な導きにもかかわらず琴線を弾くもので、これは演劇史的には「三人姉妹」が提供した定型であろうか・・等と思考して平静を保とうとしても間に合わなかった。
滑りそうなギャグも含めて終ってみれば無駄のない舞台。藤村と花袋の私的会話をブリッジにした構成も妙。

その恋、覚え無し

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その恋、覚え無し

劇団桟敷童子

十年程前に非演劇系の真面目な雑誌が「新進劇作家」を特集し、今考えると親切な事に蓬莱、赤堀、倉持、はせひろいち、そして東も「飾り込んだ美術は一見の価値あり」と劇団ともども紹介されていた。その後の活躍を見ればその特集は有難い手引きで、他の作家・劇団も観てきたが、桟敷童子ほどコンスタントに新作公演を全力投球で打ち続けている「劇団力」のある集団は、演劇界でも珍しいのではないだろうか。
最近は劇作のクオリティを心配した事がない。本人曰く「同じネタの焼き直し」「およそ三つのパターンの使い回し」と謙遜する通り定番なお話ではあるが、いやいや千年一日とは程遠い、何か新たな要素が加わって来ている気がしている。うまく言葉化できないが・・表現的に危うい部分、ビビッドな瞬間が挿入されるのがそれだろうか。一瞬の間合いだったり、表情の変化だったり、台詞を言っていない人物のちょっとした仕草だったり、それが劇団役者の培った強固なアンサンブルに「揺らぎ」「隙間」をもたらし、観客にさり気なく知覚させる。リアリズム(新劇)系からのアプローチではまた別の言い方で捉えられるものかも知れないが、桟敷童子の文脈では新たな要素ではないか、と思ったりしている。(観る側の変化という可能性もあるが・・。)この微妙なニュアンスの伝達が劇作と相伴い、芝居に深みをもたらす、と同時に劇空間と「現在(現実)」とを繋ぐ非常に重要な回路となり、桟敷童子の芝居を単なる「物語世界」の説明・提示にとどまらない演劇的「現象」にしている所以とみた次第。
今作も実に良い。「良い」、という形容で勘弁して頂く。
盲目にもかかわらず楽天性がのぞく女四人衆の出だしも掴みバッチリ、冒険譚の始まりのように童心に火がともる。そして彼女らを迎える村の者らによる警戒しつつの歓待、山の神信仰に結び付いたしきたり。人々の活力が良い。悪人は出てこないが「自然」という大きな壁が立ちはだかっている。そして平地の方から迫ってくる文明のさざ波、時は大正から昭和の変遷期。山神を恐れ暮らす人々の素朴さ。女の豪快さ。男の繊細さ。どれも、良かった。
役者にはそれぞれの適役が振られる。板垣・大手の両頭と客演女優二名の四勇に、鈴木・原口・もり・稲葉がしっかり脇を固め、川原・新井・新人内野も味を出し、客演男優も団員の如し。さて今回は池下無き後の主役級男を若い深津が担い、長身で風格をみせた。役者は育つのだ、と改めて。久々の山本の健在な姿を見るのも嬉しい。
松本紀保は弱点を背負う役を生き生きと演じ、前回より劇団に馴染んだようにも。余談だが石村みかには終演まで気づかず、コールで名を呼ばれてやっと気づいた(目を閉じた盲人の演技だったため)。中盤までは最近入った(少し年齢を重ねた)新人かと思っており、ぐんぐん存在感が滲み出してくるので一人で驚いていた。

グッド・バイ

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グッド・バイ

地点

地点の年末公演は初めてか・・年の瀬の忙しない時季、その陰で無様に死地へ赴いた男を思い出し、あっけらかんと追悼してみるという試みが身体に殆ど抵抗なく入って来た。「あれ?」と違和感が走る事が無い、という事くらいしか、その完成度?を挙証する術が見つからない地点の毎回のパフォーマンスだが、アイデアの使い回しが無い(私が知らないだけかもだが)というのも、期待値を高めている一つだ。
音楽は使いようで、下手をすれば演劇の方が食われてしまうが、空間現代との今回の仕事では拮抗していた。
グッ・・ド・・バイ、グッド・バイ。7人が「グッ」「ド」「バイ」の三つを7名の俳優3組で恒常的に受け持ち、ギターのカッティングに乗せて威勢良く発する。出だしではこの繰り返しが長く、上演時間の短さを思い「時間調整か」と意地悪い考えがつい過ぎったが、程なく、巻き込まれた。太宰の言葉が新たに加わり、レイヤーが一枚、二枚と重ねられる。音楽の景色の変化も幾箇所かある。時間を厳密に刻む音楽の上に、歌唱と同じように台詞を発するのが、耳に快感である。
さて、既成戯曲(古典)や松原俊太郎の新作戯曲をこれまでやってきたのを、今回は非戯曲の舞台化に挑戦した。太宰の言葉のコラージュとすれば、出典はあり、大きな違いは無いかも知れないが、何を芝居の結語とするかは三浦基氏の専権事項である。最後のあたりでその意図らしきものがふと見えた気がしたのだが、よく覚えていない。太宰という「歴史」の一コマを消し去る事はできない、我々はこれを超えて行くしかない・・的なものだったか、一人の男ありき、大いなる事業を成せり・・的まとめだったか。結びはやや陳腐に思えたような記憶があるが、それよりこの舞台、あまりに知られた作家の仕事と、他に例がないほどよく知られたプライベートをあげつらい、笑う事の許される太宰治という存在を、今までに無い形で語り、茶化し、その事で愛着を伝えた出し物だったと言える。終演したばかりの役者が達成感のような表情を浮かべていたのは、楽日のためか。難易度も高かったろう。
常に中心的役者である安部聡子の不思議な存在感は、「拮抗する発語」の勘所を押え、はっきり言ってライブを見に行った客が良い演奏に「いえーい!」と叫んでるに等しい声のノリなのだが、「落ちない」声・言葉を出すための「心」が見える。このあり方が、舞台上のドラマ性を高めるのをどう理解すれば良いのか。やる側でない私には深い謎の一つだ。

イヌの仇討あるいは吉良の決断

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イヌの仇討あるいは吉良の決断

オペラシアターこんにゃく座

確か2002年頃がこんにゃく座初観劇だから以後の新作は萩京子作曲による作品(寺島陸也作曲「変身」を除いて)。林光作曲には旧作の再演で二つ程お目にかかったはずだが後継者=萩京子との本質的な差を感じず、聞き流したようだ。
今回の林光楽曲にはこれまでにない深い水深にまで引っ張られた感がある。そして恐らく舞台の展開との絶妙な対関係があった。演出は上村聡史。何より惹かれたのは井上ひさし作品だという事。元々の戯曲を林光がオペラ台本化・作曲した。

オペラとは台詞に旋律(曲)が付く様式だが、ストレートプレイの台本に旋律を当てはめるのは元々無理を承知の助。林光の文章に、歌で台詞を言うと三倍の時間を要するとあった。オペラ仕様に書かれていない戯曲、しかも細部からドラマを展開させる井上戯曲では、削ぎ落とすのも苦労だったろう。上演時間3時間弱(休憩込み)。
生身の人間の表現の幅・バリエーションと、十二音階のピアノの語彙(表現のバリエーション)とは比べるべくもなく、芝居の前段は「台詞を続けるための旋律」が長々と続く部分があって睡魔に抗えず。一、二年前こまつ座の『イヌの仇討』(東憲司演出)を観ていたものの、かなり眠ってしまった観劇だったため細部は覚えず、今回はドラマの骨格が組み上がって行くのを面白くみた。こんな話だったか・・と、井上作品の構造の確かさに唸る。

芝居は「忠臣蔵」の一方の立役者、即ち悪役・吉良上野介が、自邸の敷地にある味噌蔵へ家来やお付の者らに導かれて入って来る場面から始まる。
美術は乘峯雅寛。実在した吉良邸の蔵だからか、リアルのさかさま、舞台奥の広い面全体に大雑把な筆の手描きの「内壁」(落語「だくだく」のよう?)が張られ、両端が角で折れて側面の壁の途中まで来ている。上方に横長の隙間があき、提灯様の横筋の入った巨大な月(の一部)が覗いているカタチ。下場は奥と上手側に一段高い三、四尺幅の板、中央は広間となる。この簡素な大きな長方形の内外全体が演技エリア。

時は折しも生類憐れみの令を下した五代目将軍綱吉の世、「松の廊下」の刃傷沙汰での沈着な対応を褒められ、吉良は「お犬様」を下賜奉られたが、下手に扱えないその犬も連れての避難。・・と、床の堅さが足に痛しと嘆く(歌う)吉良に、お犬様が乗っている錦の座布団をと提言する者、「滅相もない、お犬様が第一(お上に知られては一大事)」と反駁する者、ややあって妙案「お犬様を抱いて座布団に座れば不敬の謗りは免れよう」・・といった武士階級への皮肉めいたくすぐりが序盤にある。

芝居は吉良側の登場人物だけで進んでいく(声だけは敵のものが入る)。敵・大石内蔵助以下の赤穂の浪士も「登場」する。それは横を向いた侍の輪郭を切り抜いた板(ベニアか厚紙か)を、黒子が持って。それを舞台ツラに四つ並べて、上方の隙間にも影がシルエットが見えると、敵に包囲された状況。また板を持った黒子二人が掛け合いをしたりも。戯曲では恐らく「声」とあるのだろう箇所をちょっとした見世物に変える演出の妙技だ。

この話は忠臣蔵のパロディだが、史実としての赤穂浪士の決起は、庶民の関心、同情、憧憬を勝ち得、その事が両者の帰趨に影を落とす。謂れのない誹謗との吉良側の不服もっとも。徳川家と濃い姻戚関係を持つ吉良家、お上の信頼をもとより得ているものの、不穏分子による討ち入りの危険を逃れ、蔵にこもる事に。が、次第に情勢の変化が起きて行く(のを吉良は察知する)。不安に揺れ動く心情の吐露に、「うた」は最適である。お上が事態に介入せず様子見を決め込んだらしい(つまり応援は出さない)と「読んだ」吉良は、一つの覚悟を腹に決めた様子である。演じた劇団古参の大石氏は、尊敬に価する人物像を既に作っている。

世間にも権力にも不当に見捨てられた者の最期を追体験する物語は、氏族階級の中に庶民の代表である盗人一名が紛れ込んだ事で立体化してくる。また敵の網をかいくぐって情報をもたらす春斎という厨房の者も「外」の風となる。特に彼が伝える総大将大石内蔵助の言動が、吉良に事態を読み取るヒントを与える。やがて吉良は、大石がこの騒ぎを道理の無い茶番であり、大きなうねりに飲み込まれて非の無い相手を「仇討」たねばならぬ事態だと捉えていると洞察する。そしてその生け贄は、今この蔵に押し込められた、いたいけな?吉良の者たち・・。

ニクイ演出は随所にあったが、圧巻は急速にシリアスを窮めるラスト。事態を厳粛に受け止め、なお生きよういう思いで刀を手に出て行く者ら、そして最後には腕に覚えのある吉良自身、美しくかたどられた彼らの輪郭が舞台上方に収まり、高みに達した旋律がリフレインし、「忠臣蔵」の裏面史が「忠臣蔵」本編さながらに男泣きを誘う「滅びの美」として完結した。いや、隣席の「女性」も泣いていた。

見事忠臣蔵を逆転させたパロディが、皮肉の炎をこうも激しく焦がす話だったとは・・こまつ座の舞台の時には読み取れなかった(寝ていた者が何をか言わんやだが)。

さて侍より世慣れて一枚上手の泥棒も、刀には抗えず・・と見せながら、去る気がなくて居る様子の彼は、実は人情に厚く、やがて吉良家の「仲間」と自任し、白状するに至るという「変化」がある。事態逼迫した終幕近く。泥棒は「決死の闘い」に備えるべく物を取りに外に出ようとしたところ、敵の刃に倒れる。痛ましい死を前に悲壮な覚悟を決めた彼らはあたかも「明日」があるかのように、談笑する。若い侍二人はお付きの者二人と「お似合い」とのお墨付き、明日祝言を挙げる約束をし、先輩は「高砂」を謡ってやると半ば冷やかし。その時既に「内壁」の描かれた布幕は落とされ、闇のような光のような「向こう側」が現われている。
侍たち一人、また一人と正面奥中段、月の見えていたあたりに集まって刀を構えて不動の体勢、見守る女たち。最後に吉良自身がそこへ昇って行く。断頭台への階段に重なるが、「生きよう」というつもりは変わらない、その事を強烈に印象づける「形」・・「向こう側」を、侍たちは未来(少し先の、あるいは数百年先の)であるかのように見つめている、と背中が語っている。私も日本人の一人という事か。滂沱の涙、をどうにか堪えながらもこのドラマの構図が持つものには抵抗できず、震えた。名も無く、又は悪評の内に消え去っていった歴史上の何万何億の人間が、その生を昇華(鎮魂?)される儀式。これを仮に「演劇」だと定義するなら、この和風オペラこそ演劇の王道。
美しいシルエットとなった彼らは、その「美」において(赤穂浪士に劣る事のない)伝説となった。。
井上ひさし、林光(以上故人)と、上村聡史の合作に惜しみない拍手。

まほろばの景

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まほろばの景

烏丸ストロークロック

何年か前に公演を見逃して以来気になっていたが、漠然と想像していた路線を更に越えた領域に達し、これは好きな世界である。どう咀嚼してよいか判らずまだ手つかずだが、拐われ連れて行かれた場所は冷厳な風景で、心は驚愕に震え、頭は驚嘆で雀躍した。

プルートゥ PLUTO

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プルートゥ PLUTO

Bunkamura

グレードアップした再演との事だが、著名な振付師が演劇舞台に舞踊を織り込んだ・・というレベルではなかった。シディ・ラルビ・シェルカウイという才能がなければ、他のアプローチで同じ山には登れないだろう。
初演も原作コミックも未見だが、原作の成り立ちからして重層的な芝居の予感、関心大いに沸いて観劇した。お薦めしたいが残念ながら日本上演は28日が最後(来月より海外)。
要所で映像が用いられ、特に序盤では原作コミックの場面が映し出されて劇世界を原作に寄せて「説明」すると同時に、漫画というジャンルへのオマージュを表現する。美術では漫画のコマを模した図形(四角形)のピースを変幻自在に用い、巨大なコマ形をバトンで上げ下ろし、映写幕にしたり背後の場面の枠としたり、象徴的な表現に終始するかと思えば作りこんだバザールや店内の鮮やかな具象が出現したり。
また「芝居」の領域に積極的に絡む凄腕のダンサーたちのアンサンブル、ソロは「芝居」全体を一つの生き物とする神経系統や循環器など生命機構の一部として躍動し、「人物」を体現する俳優の世界と同居していた。
その他ロボットの模型などの小道具、衣裳、ロボット役(或いは人工部分を身体に持つ役)の演技の端々まで、SF世界の風景の構築に動員され、大胆で緻密。
ダンスで印象的な箇所、役者も含めて群舞となる場面があるが、暗色基調の衣裳がそのシーンだけは個性溢れる色彩の衣裳をまとい(パステルでなくコンテのような、地味な差でも豊かな色彩感のある)、高度に発達したロボットが席捲する世界の物語に、新たな変化の予感(希望の予兆?)を表現した。

現実の21世紀に加速した矛盾と重なりあう矛盾(イラク戦争を想起させる)が一人の人間の感情に集約される。即ち復讐のベクトルの存在が、次第に浮かび上がってくる。現代を語るに外せない9・11由来の世界秩序の問題がこのドラマの軸となっている訳だが、(今や日本のどんなドラマ、映画でもお目にかかれない)正当な視点が示される。
その一事、復讐側と秩序側が本来的には対等であること、「怒り」の側を体現する役(吹越満)の演技によって形象された人物は、今や秀逸に感じられる。しかもご都合主義の匂いは周到に排され、架空設定の真性SFなのに、「今」の事のように突き刺さる。

奇行遊戯

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奇行遊戯

TRASHMASTERS

2010年上演作の再演とは後で知った。
トラッシュお得意の二幕構成(後半が近未来。緊迫感ある音楽をバックに高速ナレーション+テロップが間を繋ぐ)が突如「復活」?(新作で)と思ったのはヌカ悦びだったが、久々にガッツリと構築されたトラッシュ舞台を観た。
この独自の二部構成舞台は、じっくり練り上げた戯曲である事が不可欠で、現在の中都留氏の多忙さでは当分お目にかかれないだろう・・とは今回の舞台を見ての実感でもあり、つまりよく出来た舞台だった。
「よく出来た」とは言葉足らずで、「呆気に取られた」という位が程度に即している場面は、漁村の人々の(九州弁を駆使した)口調とそれに伴った身体の動きや佇まい、台詞の展開の巧さ、自然さ。最近の中津留戯曲からは想像できない「心地よい」台詞劇の才能がそこにあった。むろん中津留氏独特の「事件性」のねじ込み、「対立」のねじ込みはあるが「リアル」に踏みとどまり、俳優の奮闘により醸成される温度とアトモスフィアが舞台を包んでいたのだ。
そんなことで中津留氏の「新境地?」と色めいたのだったが・・(しつこいか)。
もっとも、リアルとは言っても、二幕に入ると一幕で漁村の土臭い人間ドラマを演じた者らが一転垢抜けた東京人となり、マグロ養殖の大手企業の社長、妻、副社長、社長秘書、ボディガード、また交渉役として訪れる捕鯨反対ならぬマグロ漁反対の過激派組織の幹部などに「変貌」していたり、社長が政界の要人と会ったり、中国多国籍企業の特使の難しい申入れを国家間の外交政策(対日経済制裁の阻止)を条件に飲む事となったり・・・と「リアルの顔をした荒唐無稽」ぶりを存分に発揮しているのは「期待」通り?だ。
ドラマとして「展開優先」の憾みが残る一箇所が今も引っかかっているが、実に面白く、冒頭から通底するあるトーンが絶えず流れ、最後まで見せる。幾つかの重いテーマが錯綜し、正直前半の一幕だけで十分完成した一つの芝居だが、もう一くさり、ガッツリやっても、どうにか客をねじ伏せた。「疲れた!」とロビーに出たお客が(演出の知人らしい妙齢の女優が中津留氏らの居る場所で)言った一言が雄弁に語っていた。疲れる芝居であるのは確か。そして一見の価値あり。

「展開優先」が憾みの一箇所とは、第二部で社長が中国企業の交渉役から、我が一族のマグロ養殖業の原点である故郷の町と海を開発のための土地として提供を求めてきた際、日本政府の愚かな対中非寛容政策(選挙対策?)に対する中国側の報復を阻止するとの条件を付けてきた事で、パートナーが中国系であり良好な日中関係を望む社長がいきなり日本経済の未来を担って申し出を飲んでしまうくだり。ここを経なければ話が先へ進まないとは言え、二幕で皆が東京人になった不自然さよりも人物らしさに関わる部分で、私の感覚では唯一の欠陥。

総評

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