1
雨とベンツと国道と私
モダンスイマーズ
パワハラという重い題材を扱いながら、またその現場を生々しく描きながら(コンプライアンスの厳しくなった「現在」と、同一人物とは思えない過去の光景の両方が描かれる)、加害・被害の二項対立の図式による緊張は復讐譚の結末へ着地すると思いきや、予期しなかった胸のすくラストへと導かれる。
心の内で快哉を叫んだ舞台。
2
現代韓国演劇2作品上演「最後の面会」「少年Bが住む家」
名取事務所
「少年B:」は再演舞台であり、「最後の面会」は新作。このいずれもが秀作であり圧倒された。名取事務所は酷薄な現実を突きつける作品を扱う。(小川絵梨子演出「ピローマン」も名取事務所と知って少なからず驚いた。)内容を持て余す作品もあれば、内容がやや乏しいものも正直あるが、「少年B」は持て余す方(同じ事実を扱う作品があったとしてもこの戯曲ほど当事者の心理を赤裸々には描けないだろう)。「失敗」を犯して服役を経験した引き籠り中の息子を巡って父、母、姉がそれぞれの感情、考えでもって彼と接する。そこに保護司と向かいに転居して来たばかりの女性が絡む。息子の心理が徐々に見えて来る塩梅も、父そして母がそれぞれの感性(の限界)において、息子に良かれと思い接する姿も、明確。同居していないゆえ父母より達観、洞察できている姉の働きかけと、父母との葛藤がある。壁を乗り越えるべきは母であったりする。
外界(社会)を代弁する保護司は息子の実直さに気づく存在でもあり、唯一冷たい世間の代表として女性が(最初はこの家庭の来歴を知らず挨拶に来た後、二度目に手のひらを返す形で)存在するのだが、大部分は閉塞した家族「内部」が描かれる。何年もの間変わらず均衡を保ってきただろう「今の生活の形」に変化をもたらそうとする姉が持ち込む話は、済州島に住むらしい「被害者」と対面する事、であり、ドラマの後半に観客もようやく「その事があった」と思い至る程に、この劇世界は「家族内部」の風景である。そこに光が差し込む様は如何に眩しい事だろう。
「最後の面会」はオウム事件を扱ったという事で一体どんな視点で?切り口で?と関心があったが、林泰男というサリン事件実行犯の中でも多量のサリンを撒いた死刑囚がこの芝居の登場人物であり、彼が在日韓国人の末裔である事が韓国人作家の執筆の糸口となった模様。劇中でもその事実は大きな要素となる。主人公は彼に面会を求めて訪れる彼の娘と名乗る女性。かつて逃亡中に同居し、孕ませたが会う事のなかった娘という事になっている。認知されていない関係だが何らかの手段で漸く願いを遂げた面会の第一回目から、劇は始まる。この劇の結末は衝撃であるが、面会の過程で、様々な問いが織り込まれる。歴史的「事件」に見合う重厚な人間ドラマであった。
3
それいゆ
少年王者舘
唯一無二の少年王者舘・天野天街舞台の世界観を存分に味わえたスズナリでの二時間超。この時点で既に天野氏が逝去していた(7月7日)事実を、4か月後に知った。
その存在を名古屋出身の知人に教わったのが十年余り前、最初が「ハニカム狂」だったかうずめ劇場「砂男」だったか・・その後は観られる限り観た。あの独特な世界はなぜああだったのか、何を目指していたのか、究極その完成形はあったのか・・・謎のままである。
でも、この演劇の世界に出会えたのはめっけもの、幸運であった。
4
オセロー
滋企画
鬼才との風評しか耳にしなかった演出家の仕事(十年のブランクの後の)をSPAC静岡芸術劇場で目にしてより、二度目となったが、他にない(あり得ない)「オセロー」が目の前にあった。
武勲によって王となったオセロー(黒人)が臣下イアーゴーの奸計に掛かり、妻デズデモーナの不貞を確信するに至った結果殺してしまう文字通りの悲劇だが、オセロー役の佐藤滋は己の内なる他者である「疑い」に支配される哀しみを表現し、妻を演じる伊東沙保はその裏の無い愛を形象した。西悟志演出は潜在的「悪」であるイアーゴーを意図的にかネグレクトし、王と妃二人の愛と苦悩の往還を終盤は音楽に乗せた執拗なまでのムーブのリフレイン(正確には少しずつ変化し決定的瞬間へと接近する)で塗り込めた時間によって二人の真実(本質)だけを焙り出させ、奸計が勝利したその勝利の虚しさを描き出したのである。
・・観劇より時を経てその事に思い当たる。
5
荒野に咲け
劇団桟敷童子
桟敷童子とすこぶる相性の良い(といっても本人の力だろうけれど)音無美紀子が再び客演となった「阿呆ノ記」も大変良かったが、劇団員のみで描き切った年末公演のこちらを上位にした。世に馴染めず、世代間継承される貧困(経済的なそれはいずれ肉体又は精神・知的なそれに接続する)の最も無慈悲な帰結を迎えた実際の事件をもとに東氏が書いたものだという。確かに、今作は現実を想起せずにはおれないシリアスな作であったが、それでも桟敷童子節は健在。最後に見せる大転換からの幻想的な場面は涙なくして見られなかった。
絶望的な現実を掬わなければ真の希望を語る事はできない。
6
日曜日のクジラ
ももちの世界
関西で活動する名のみ知る新進の書き手の作品は最近青年座の舞台で初めて観たが、自劇団ももちの舞台を今年ようやく観る事ができた。
わくわくと高鳴る期待に応えつ予測を裏切りつ、繊細に紡がれた言葉が手練れの役者らを通して緊張感をもって繰り出され、喜劇性と諧謔、風刺の精神の躍動を間近で浴びる幸福な時間であった(新・雑遊にて)。
今回限りでなく今後もぜひ新作を拝む機会を。
7
船を待つ
ミクニヤナイハラプロジェクト
東京キャストのバージョンと大阪バージョン両方を観たのだが、私としては音・映像を組み込んだやや長めのが東京バージョンが出色。
ニブロールのメンバーのワークにより、近未来のとある港の光景を切り取った劇に不思議な吸引力で観客を引き込む。
一人天空を見上げた夜、不透明な未来の前に佇む己の存在のちっぽけさが肌に沁み込むように感ぜられるあの感覚。黒で塗り込められた天井の高い吉祥寺シアターの一隅に佇み、見たことのない風景、味わったことのない感覚を噛み締める。なのに、何故か懐かしい。
8
広い世界のほとりに
劇団昴
海外戯曲の上演もよく観るようになったが、コンスタントに海外(欧米)戯曲をやる劇団昴の持てる力がこの舞台では特に発露したと思えた。
家族の紐帯と亀裂、そして再生が生々しく描かれる。ハッピーエンドではあるが深い苦悩を潜って辿り着いた感動がある。偶然出会う他者との交流が至極自然な形で進み、家族の風景がそこに反射し濃い陰影を作る。この部分こそは、ある種の「奇跡」なのだが、人が人とどこかしら繋がっている事の象徴とも見え、不自然さがない。ここには(デカローグで述べた)人間世界を「俯瞰」する目線を観客に与える要素がある。
9
星の伯父さま
風煉ダンス
野外劇で跳ね回っていた身体が、上野ストアハウスの舞台で所狭しと動き演じている。緊張と緩和の調味具合が自分的には丁度よく、これ即ち自由の体現である。
物語の方はサンテグジュペリに心酔する文学研究者が想像世界に迷い込む可愛らしいファンタジーだが、十選に入れたのは観客との隔てのない劇場空間の不思議な空気感、自由さゆえである。
10
デカローグ5・6
新国立劇場
新国立劇場が全十話からなるこのシリーズの舞台化を実現し、高い成果を見せた事に対し、私としては拍手である。人生を俯瞰する目線が、ドラマを目撃するにおいては救いとなるのだが、レビュー等を見ると評価は分かれていて、この「俯瞰」の捉え方の部分が分かれ目なのでは・・とぼんやり考えた。
聖書が描いている古来変わらぬ人間の生のありようを結晶化した、とも言える「十戒」は旧約(ユダヤ教)の時代においては「罰する」根拠(換言すれば民族の指針)であったが、現代的には、十戒とは当然に「破られてしまう掟」なのであり、新訳(キリスト教)の赦す神の視点をもって見なければこのドラマを愉しむ事はできず、人間への俯瞰の視点も持ちがたいのではないか・・と想像されたのであった。
この観点がなければ、正邪を判定する根拠は「法律」しかなくなってしまう(日本では法よりも「空気」だとか「何となく世間ではこうなっている」という感覚が根拠となりそうであるが)。宮台氏の言う「法の奴隷」。要は「法が必ずしも正しさを導かない状況」で、人あるいは共同体は「何をもって正しい選択を行なうのか」。昨今SNSで幅を利かす言説の底の浅さの原因を考えるに、正邪の根拠の浮薄さにあるとすれば、今、事態は思う以上に深刻なのではないかと不安が過ぎる。
では何が人の判断の普遍性の高い根拠になり得るのか、と言えば、法も含めた「物語」もっと言えば民族の、あるいはコミュニティの成員の共通の物語、言わば歴史であり歴史を叙述する物語にあるのではないか。もっとミクロに、共通体験と言っても良いかも知れない。
法律もその文脈を理解しない人間にとっては、揚げ足を取り放題の単なる一文に過ぎなくなる。その文言が書かれた背景を理解するから法律の文言が機能する。
歴史事実を「損得」によって偽造したり改竄を行なえる社会へと墜落しつつある日本だが、(そういう人間が一部居るとしても、またネット書き込みを占領されようとも)そうならない努力を民族の良識を信じて進むしかない。私的には人の感性に最大のインパクトをもたらす演劇に、今後も期待し続ける者である。