たんげ五ぜんの観てきた!クチコミ一覧

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山崎方代の歌物語

山崎方代の歌物語

劇団黒テント

タイニイアリス(東京都)

2014/10/18 (土) ~ 2014/10/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

良い意味で、伝統
黒テントは、様々な著作でかつての活動については知っていたし、
『ショウボート昭和』というレコードでかつての公演の音楽は聞ていたが、
実際の舞台を観たのは初めて。
(佐藤信氏の鴎座は何度か拝見しているのだが)

黒テント特有の演技・演出がとても魅力的だった。
アングラ世代の一傾向として、
良い意味で「洗練されていない俳優の生身の良さ」というのがあると思うが、
それがとてもよく伝わってきた。

私は、本来、ミュージカル的なものは苦手なのだが(観ていて恥ずかしくなるから)、
この公演はその洗練されていない雑然とした風味により、
恥ずかしい感じはせずに楽しめた。

作品自体の満足度は☆4。
他の評者が皆✩5で絶賛しているので、厳しいことも書くけれど、
全体を通して平均的にとても面白かったが、
とびぬけてこの点に圧倒されたという部分は無かった。

ただ、黒テントの伝統(60~70年代の演劇が持っていた魅力)がきちんと継承されているということが感じられたので、その点に敬意を払い✩5。

嘆きのベイルート

嘆きのベイルート

ピープルシアター

シアターX(東京都)

2014/10/22 (水) ~ 2014/10/26 (日)公演終了

満足度★★★

正攻法
脚本・演出・演技、すべて正攻法の芝居。
私には古典的過ぎる作風のため、あまり惹かれるものがなかったけれど、
正攻法で骨太の作品が好きな人には良いのだと思います。

テレビなどでも拝見する伊東知香さんは存在感があった。

カンパニー・フィリップ・ジャンティ「忘れな草」

カンパニー・フィリップ・ジャンティ「忘れな草」

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2014/10/16 (木) ~ 2014/10/26 (日)公演終了

・・・
人形を使ったマイム芝居。
私には惹きつけられるものがなかった。

まつろわぬ民

まつろわぬ民

風煉ダンス

調布市せんがわ劇場(東京都)

2014/10/09 (木) ~ 2014/10/19 (日)公演終了

満足度★★★

個性的な
以前、発見の会の公演で観た役者さんがたくさん出ていた。
その時も思ったが、極めて個性的な演技の在り方でとても面白かった。

生バンドの演奏も臨場感があって素晴らしかった。

舞台装置も面白かった。

ネタバレBOX

作品が問いかけているメッセージには内容としては共感したけれど、そのメッセージが一義的であるために、物語としては興味をそそられなかった。
アンドロイド版『変身』

アンドロイド版『変身』

青年団

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2014/10/09 (木) ~ 2014/10/13 (月)公演終了

満足度★★★★★

評価が難しい、、、
まず、私はアンドロイド演劇の可能性を期待して観に行った。(初見)
そういう意味では、あまり面白くはなかった。

ただ、普通の芝居として極めてよくできていて、そこには大満足。

でも、それは文学的な意味であって、演劇的な部分ではない。
さらに、非物語的な作風から出発した平田オリザ氏が物語に回帰するのが良いのかも微妙。

また、この作品では、現代の社会状況への痛烈な問いかけが孕まれている。
その点も、とても素晴らしいと思う反面、ここまで前面にその批評性(メッセージ性ともいえるくらい)が出てくるのは、彼の今までの作風からして良いのだろうかとも思ってしまった。
ただ、こちらに関しては、今の社会状況に演劇が対峙するのには、作風云々ではなく、これくらい露骨に批評性を出していくしかないと思ったのかもしれない。それならば、素晴らしいともいえる。

最後まで<ネタバレ>を書いて、振り返ると、
平田オリザ氏が作ったと思うから、今までの彼の作風と比較して引っかかる部分が多いだけで、新しい作家の作品だと言われたら、もっと素直に賞賛できる気がする。つまりは、素晴らしい作品だったということだ。

ネタバレBOX

<アンドロイド演劇について>

技術的な意味ではなく、演劇的虚構として、演劇の構造内に入れば、もっと人間のように見えるのかと思っていたが、正直、ロボットにしか見えなかった。ただ、今回はロボットの役だったので、それが正解なのかもしれないが。

また、やはりロボットがいると、意識がロボットにばかり行ってしまうし、常に空間が異化され続けているため、生身の役者の演技に意識がいかない。
意識して役者さんの演技を見ると、細かい心の揺れのような部分まで丁寧に演じているのにも関わらずである。(素晴らしい演技だった。)
勿論、この構造を面白いということもできるし、まさにこれこそが、作品内のテーマとシンクロしているという観方もできる。
だが、それはあくまで理屈で意味づけすればというだけで、観劇時の実感としては、あまり有効に機能していたとは思えなかった。

<物語ほかについて>

不条理演劇の多くがそうであるように、ザムザがロボットであることによって、これは戦争などで負傷した人間のメタファーなのではないか、または、人間がロボット化されていることのメタファーなのではないかと、寓意的に読み取ろうと意識が向いていった。そこには、この物語(2040年)の背景として戦争問題や労働問題などが語られていることも影響している。
だが、それは見事に裏切られ、やはりメタファーではなく、「ロボットである」ということで話は進む。
そこに、この家に下宿することになった医師が登場し、家族を精神がイカレタ者かのように扱うことで、もしかしたら集団で気がおかしくなったのかもしれないという疑念も挟まれる(どちらが正気でどちらが狂気かという)。だが、あくまで物語の主役はこの一家なので、物語としては、むしろこの医師の方が狭量であるかのうように話は進む。
そこから、「人間を人間と位置付けるものは何か」ということを、医学的に分析しながら検証していく。例えば、手や足はなくても人間である、、、、近年では、医療機器の発達によって、臓器がなくても人間として機能する、、、すると最後には脳が人間の存在根拠となる。ということは、脳以外は全てロボットでも人間になる。では、植物人間は?また、人工知能で生身の肉体を持っていたら、それは人間か?もしそうなら、脳が根拠ではなくなる。では、グレゴワール・ザムザは?、、、、という具合。

その後、人間と非人間との境界線の問題は、社会的文脈としても提起される。国籍のない人間は人間なのかなど。詳述はしないが、様々な視点から人間が「人間」であることの意味が問われる。

そこに、近未来の設定だけあって、今の社会状況がより悪い方向に進んだらという現実的な問題が重ねられている。
それは、日本にとっても切実であるし、世界的に見ても切実な問題。本当に危機的になってきた状況が重ねられている。
簡単に言えば、戦争のことだ。人は理由もないのに相手を憎み、殺すということなど。人間こそが残虐であり、人間こそが非人間的だというパラドックスも内包されている。
戦争の問題に労働格差の問題が絡み、貧困を脱するために、戦争に行くということも語られる。まさに、これはアメリカ型の社会の特徴。徴兵などしなくても、戦争志願者が無くならないのは、この構造のためだ。日本もそうなりつつある。
フランスの設定ではあるが、日本と近隣諸国との関係のようにも見え、またウクライナのことや、イスラム国のことなども頭をよぎる。

ともあれ、この物語展開の巧妙さとそこに込められた批評性は凄いものがある。
平田オリザ氏が作ったと思うから、今までの彼の作風と比較して引っかかっているだけで、たぶん新しい作家の作品だと言われたら、もっと素直に賞賛できる気がする。
生きると生きないのあいだ

生きると生きないのあいだ

ティーファクトリー

吉祥寺シアター(東京都)

2014/09/27 (土) ~ 2014/10/05 (日)公演終了

満足度★★★

多様な解釈を生む作品
興味深く観たが、
それほど惹き込まれなかった。
突き放されもしなかった。

ネタバレBOX

かなりの部分が結局は言語による意味伝達でしかないのではないか。

それが抽象的であったり、矛盾を孕んでいたり、切断などされているため、
当然多様な解釈を呼ぶものではある。
だが、その手法は反主流派の常套手法とも言える。

結局は多様な意味を「解釈する」というところに落ち着いてしまう。

と言っても、解釈するものとしては面白かった。

「自己の殺人の記憶が、過去を掘り起こしてみると、
実はそんな事実は無かった」という場面は、
私自身、殺人ではないにせよ、思い当たるところがあった。
ある罪悪感から、過剰な加害妄想をしてしまいそれが記憶をも変容させてしまったり、
その逆に、その罪悪感を消そうと自分勝手に過去を忘れてしまうなど。
私一人の中でさえ、このワンシーンから、複数の経験を想起した。

また、憎悪の連鎖により暴力が暴力を生むが、それを断ち切るべく「許そう」とすると、「許さないでくれ、許されると救われない」となる場面。その前に「許してくれ」と乞うていたのにという複雑さ。
このシーンは現在社会の中でのさまざまな暴力の構造を想起させたり、DVなどの共依存の力学関係を想起させたり、と多様に読み取ることが可能である。私も観ながら様々に想いを巡らせた。

この2シーンは特に印象的に心に残っているが、共に、開かれたテキストを、多様に読解できたという楽しみでしかなかった。
百B円・神聖喜劇

百B円・神聖喜劇

野戦之月海筆子

夢の島公園・第5福竜丸展示館脇・特設ドームテント(東京都)

2014/09/21 (日) ~ 2014/09/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

評価が難しい
演劇の評価は非常に難しい。基準が他の表現より複層化しているからだ。

作品を客観的に評価しろ(って、そもそも「客観って何だよ」という話だが)と言われたら、✩3。

ただ、桜井大造氏の演技は凄かった。「特権的肉体」ってやっぱあるんだなと感じられた。台詞を凌駕する身体、その存在感。
また、障害によるものか演技なのかわからないけれど、舌足らずの役者さんの演技もとてもよかった(名前がわかりません、失礼)。

劇団に抱いていたイメージから、もっとプロパガンダっぽいメッセージ性なのかなと思っていたが、シュールレアリスム的作風なので、メッセージを押し付けられるという感じはしなかった。むしろ、こういうテーマで作品を作り続けていることに敬意を持った。

ラストの「屋台崩し」は、他のテント劇団もそうだが、もともと劇をカタルシスにさせない為の演出だったはずなのに、今や観客にカタルシスを与えるための演出になってしまっている。
その転倒は原理的・本質的には良いのかかなり疑問だが、
観劇体験としては、カタルシスとして素晴らしいというしかない。
しかも、そのラストで登場人物全員が舞台の前面に出てきて、歌を全力で歌うのだが、この古典的すぎる演出も、それを本気でやられると、やっぱり感動してしまう。特に還暦近い(を越えた?)役者にそれをやられると(上手い下手ではなく、とにかく全力でやるという姿勢を見せられると)、それは凄まじい説得力を持つ。

結果、終わりよければ全て良しという感じで、良い気持ちで帰路についたが、それも一つのカタルシスでしかないことを考えると、前衛がカタルシスでいいのかという強い疑問ももってしまう。
作品内でテーマにされていた内容(問題提起)に関しては、それほど私の心には残っていないので。

観方によっては✩3だし、良かった点を見れば✩5だし、
間をとって✩4でもいいけれど、、、
長年の活動にも敬意を評し✩5。

大熊ワタル氏を中心とする「野戦の月楽団」の音楽もとても良かったし。

幻書奇譚

幻書奇譚

ロデオ★座★ヘヴン

新宿眼科画廊(東京都)

2014/09/19 (金) ~ 2014/09/24 (水)公演終了

満足度★★★★★

脚本力!ユーモア!批評性!
私は演劇の可能性はドラマではないと思っているのだが、
そんな人間をも圧倒するドラマの力。

緊張と緩和のバランスも絶妙で、
とても笑える。

エンターテイメントとしても面白いにも拘わらず、
今日の世相を強烈に批評している。

素晴らしい作品。

ネタバレBOX

展開が二転三転というレベルではなく、目まぐるしく反転を繰り返す。
Aという真実が浮かび上がりかけると、Bにひっくり返され、更にCに、Dに、E、、、という具合。
剥いても剥いても真実にたどり着けない玉葱のようだ。

もともと人間は疑心暗鬼から自分勝手な妄想に駆り立てられる性質を持っている。
それが、ネット社会の到来と、政治不信の社会状況から、おそろしい加速をみせている。
この作品はそんな社会に渦巻いているあらゆる陰謀論を相対化している。

特に素晴らしいのは、その陰謀論への批評が、
左・右どちらの陰謀論をも風刺しえているというところだ。
左派が過剰に「すべて権力の陰謀だ」と短絡してしまうような在り方をも批評していると同時に、
右派がすぐに「中国や韓国、北朝鮮の脅威」を煽る在り方をも批評しえている。
つまり、ここで批評しているのは世相に漂っている空気のようなものだ。
それは左右の違いをも超えて飲み込み蔓延しているもの。

こういう立場を越えてすべてを相対化する姿勢は、
自分は責任を負わずに他者(多くの場合、左翼的な正義)を批判して、
自分だけは「正義を振りかざさない」と言いながら、
結局その姿勢そのものが神の視点になるという場合も多い。
ポストモダン思想を安易に受容し、自己正当化をはかる者に多い。
だが、この作品からそういうズルさは感じない。

ここで相対化され続けるそれぞれの意見に、それぞれに説得力があるからだ。それは、ひっくり返される場面さえも、最終的に嘲笑うための材料になっている訳ではなく、それぞれに自立した真実味があるからだろう。

これは柳井祥緒氏の内面の分裂・葛藤から来ているのか、
それとも、極めて秀逸なドラマツルギーのテクニックから来ているのか、
わからない。どちらであれ、本当に素晴らしい。

ラストは、中井英夫の「虚無への供物」のように、玉葱の芯はないという終わり方でぼやかすのかと思ったら、芯自体は明らかにされた。
結果、虚無への供物だった訳だが。

「真面目が世界を滅ぼす」
こんな感想をクソまじめに書いている私には突き刺さる言葉だ。


ミドル英二さんが以前、「素晴らしい戯曲は役者を上手く見せる」という主旨のことを書いていたが、今回、本当にそう思った。
というのは、最初役者が出てきた時、
会場が狭いこともあって「演技が過剰だな」と思ったのだが、
観ている内に、まったく気にならなくなっていったからだ。
「そういう世界の人」と認識するようになっていった。
特に音野暁さんの三枚目役がとても面白かった。
【全ステージ終了致しました。ご来場ありがとうございました】イける☆この頃

【全ステージ終了致しました。ご来場ありがとうございました】イける☆この頃

ウンゲツィーファ

新宿眼科画廊(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/17 (水)公演終了

満足度★★★★

役者の個性を活かす演出の妙!
演出と演技が一体となっている。
それぞれの役者の持っているおそらく「素」の魅力を、
そのまま舞台に乗せているという感じ。

当て書きであり、当て演出なのではないか。
その為、役者が全員とても魅力的。
素晴らしかった。

ネタバレBOX

誰しもが少なからず抱えている孤独や不安。
それを安易な形で解消するため、他者に依存する。
恋愛はその典型であり、性行為はその不安を解消する手っ取り早いはけ口となる。

依存は恋愛に限らない、家族、友人、、、買い物、ネット、携帯、テレビ、、、など、誰もが何らかの形で不安のガス抜きをし、ダマしダマし生きている。

まさに主人公もそうなのだが、どこかでそれが許せなくもある。

恋人は一度主人公の元を去った。
その間(1週間)に、彼女は共通の友人と付き合っていた。
そして、また戻ってきて「会ったら、やっぱりあなたが好き」と言う。

彼女にとっては、おそらく誰でもいいのだ、自分の空洞を埋めてくれる相手なら。
だが、それは主人公も同じこと。

そのことに自身が気付いた主人公は絶望に暮れる。
通っていた大学からも除籍処分も受け、未来も見えない。
そして、死のうと思う。
死のうとするが、どうしても死ねない。

そこにバンドをやってるバイト先の先輩が戻ってくる。
そこで「死にたい。でも生きて行こう。」というような能天気な歌を歌いだす。

その先輩の歌のバカバカしさに、逆に主人公は救われる。
自分が抱えていた不安はちっぽけなものだったのだと。

そこで幕。


興味深いのは、登場人物たちが、皆、それぞれに不安を抱ていそうに見えるのだが、その悩み自体やその背景はあまり語られないということ。
多くの人は主人公のように深刻に物事を捉えていないということを批評しているのか。
あるいは、深い孤独や苦悩を抱えていても、それを他人には安易に見せないということを表象しているのか。
いずれにしても、どうとでも解釈できて良いとも言えるが、
単に物語を薄くしているようにも思える。

だが、全体として絶望に対比する形で笑い・ユーモアが現れるのが良かった。それが緊張と緩和の落差を生み、笑いを増大させていた。

特筆すべきは、
意図的な演出か、役者のミスかわからないのだが、
ラストでバイト先の先輩がギター片手に新曲を歌う場面。
彼はうまくギターを弾けずに失敗をする。
そしてもう一度やり直す。

演出の可能性もあるが、観ている側の印象としてはミスをしたように見える。
そこで大きな笑いが生じる。
お芝居という嘘が壊れたからだ。しかも緊張を強いる場面で。

また、同じ場面で、舞台上の他の役者がそのバイト先の先輩の演技に素で笑ってしまったのだ、違う場所にいるという設定なのに。
この普通の芝居で言ったら痛恨のミスも、この芝居では極めて大きな笑いに替わる。

それを可能にしているのは、このドキュメンタリー的とも言うべき役者の「素」が活かされた演技があったからこそ。
それが役者を救ったというよりも、そのアクシデントこそが面白かった。
(これに関して役者を責めるつもりは微塵もない。むしろ、「ナイスハプニング」と言いたい。)

この芝居は、アクシデントが起れば起こる程、面白くなる舞台なのではないか。もっと意図的にアクシデントが起る仕掛けをばら撒いておくのも良いかもしれない。

アクシデントが面白いのではない。虚構が崩れることが面白いのだ。
そして虚構が崩れても、劇空間が崩れない「役者/素」が存在していたから凄いのだ。

とても面白い役者の在り方だと思う。
親愛なる我が総統【ご来場ありがとうございました!次回は4月!】

親愛なる我が総統【ご来場ありがとうございました!次回は4月!】

劇団チョコレートケーキ

サンモールスタジオ(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/15 (月)公演終了

満足度★★★★

・・・
今公演では、いつも感じる劇団チョコレートケーキの力を感じられなかった。

と言っても、いつもながらの真摯な姿勢に✩は4つ。

ネタバレBOX

私は昨年3月にこの作品を一度見ている。
その時は素晴らしい作品だと感じたが、
今公演では、その強度を感じることができなかった。

演技・演出が大きく変わったのかどうかはわからない。
ただ、既に知っている物語の作品だったために、
私の意識が演技と演出の細部にばかり行ってしまったという部分は大きいと思う。
するとそこにある「間」が非常に気になってしまったのだ。

役者の身体内部から生まれる情動と、その駆け引きによる役者同士のコミュニケーションから生まれる「間」ではなく、外側から演出された「間」のように感じられてしまった。

意図的にやっているようにも感じたが、過剰な演出という気がした。

勿論、ポストドラマ演劇の一方法のように、役者の内面と行為を敢えて分離し、人工的な間を導入するというやり方はありえるが、この作品はリアリズム演劇だと思うので、そういう受け取り方はできない。

感情が爆発する部分も過剰に見える部分が多かった。

とても好きな劇団で、期待値が高かったのも、
厳しく観てしまった要因になっていると思う。

ただ、脚本はとても素晴らしいと思った。
星の王子さま

星の王子さま

青蛾館

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2014/09/11 (木) ~ 2014/09/15 (月)公演終了

・・・
寺山修司の問いかけも実験性も無思慮に解体され、
エンターテイメントに帰していた。

前衛は二度現れる。一度目は衝撃として、二度目はパロディとして。

ネタバレBOX

当時寺山がやっただろうことを再現されてもシラケるだけだが、
かと言って、ここに新たな命が吹き込まれていたとは到底言えない。

脚本を活かす訳でもなく、脚本や舞台を解体しポストドラマ的演出を試みる訳でもない。
それらが中途半端にブレンドされていた印象。

ラストシーンは特に残念だった。
ほとんど当時の演出の再現。それをほんのちょっとだけ相対化して終わる。
しかも、当時は行っていないだろうカーテンコールまで行われる。
これでは、劇の虚構と現実世界というテーマがパロディとしてしか受け取れなくなってしまう。

ただし、過剰に深読みすれば、
まさに現代社会はこのパロディに支配されているということを表象していると言えないこともない。

最終場面で、大鶴美仁音演じる点子によって、舞台後ろに張られた幕が剥がされる。
それと同時に劇の虚構が暴かれ、屋台崩しとなる。
舞台裏にいた役者たちは、演じるこをやめた現実の人間として現れる。
作品内でも語られてきた何が本当で何が嘘なのかというテーマは、
この演劇の虚構と現実の実人生の地平との問題に敷衍される。

ここまでは当時の演出とほとんど同じだ。
そこで、声高に劇の虚構を暴き立てているが点子/大鶴美仁音は、
劇構造の外にいる狂言回し役(劇伴の演奏者でもある)によって、
彼女の振る舞いさえも、まさしく演技以外の何物でもないではないかということが突っ込まれる。
それに、他の演奏者の一人も同様の相対化をする。
今、大鶴は点子を演じているのか、大鶴自身を演じているのか。
そもそも本当の大鶴美仁音とはどこにいるのか。
私たちは日常でさえも、何かの役割を演じていない状況などありえるのだろうか、、、、と。

この演奏者たちによる相対化は、
当時の寺山演出では「観客(を演じていた俳優)」が行った。
それをこの作品では劇構造の外にいる演奏者に行わせているのだ。
特筆すべきは、その演奏者は二人とも台本(カンペ)を見ながら台詞を言っているということだ。このドキュメンタリー的な現実の位相の導入もすべて台本を基に行われている虚構であるということが明示されている。
(ただし、これが劇構造の外の演奏者によって行われていることにより、
「役者じゃないから、台詞が覚えられなくてカンペを見ているのだろう」という誤解を生じかねないものとなっていた。私も最初はそう思った。いずれにしても、本来最も批評性を内在している部分が、単に陳腐なものののように見えてしまっていた。これは非常にもったいない。)

いくら虚構を暴き現実を掴もうとしても、その現実がまた別の虚構であることの堂々巡り。まるで玉葱の皮むきのように、どこまでいっても現実・真実にはたどり着くことはできない。

これは寺山も意図したテーマだ。
だからこそ、寺山はこの劇で屋台崩しをやり、そして(他の作品でもそうだが)カーテンコールをしなかった。
劇場内部の問題と、劇場外の日常とは同地平なのだということを意図して。

だが、この作品では、最後にカーテンコールが行われる。
すると、結局これは、すべて含めても「虚構」「興行」だったということが露呈してしまう。

今日の社会は、すべてが虚構にまみれ、嘘ではない現実や真実がどこかにあるという幻想を抱くことさえ奪われているということか。
それともすべては「興行」「エンターテイメント」という資本の原理に回収されざるをえないということか。
いずれにしても、ここにこそこの作品の強烈な問いかけがあると深読みすることもできる。

おそらく、単に、慣例としてカーテンコールをやっただけに過ぎないと思うが。

どちらであれ、ラストのカーテンコールにこの作品のすべてが現れていたと私は思う。
21世紀の応答

21世紀の応答

サントリー芸術財団

サントリーホール 大ホール(東京都)

2014/08/30 (土) ~ 2014/08/30 (土)公演終了

満足度★★★

・・・
パンフレットにあるシュトックハウゼン自身の言葉を読む限り、
「それが具現化すればとんでもない舞台だ」と思ったが、
少なくともこの公演はその言葉にまったく追いついていない。
(「雅楽版」はどうだったのだろう?)

ただ、言葉が示している地点が極めて高いので、
シュトックハウゼン自身が手掛けたところでそこに到達できたのかはキワドイと思う。

演奏も舞台上のパフォーマンスも、寸分違わぬ精緻さで行われたら、確かにとんでもなく壮大なスケールの作品になると思うが、
そんな公演は、1977年「雅楽版」初演であれ、1979年「洋楽版」初演であれ、それ以後であれ、存在したことはあるのだろうか、、、

ネタバレBOX

特にパフォーマンスと音楽との関係について気になった。

シュトックハウゼン自身はこの公演において、音楽とパフォーマンスは別たれるものではないと考えていたようだし、
実際に成功していれば、そう感じられたと思う。
だが、私には今回の公演において、この二つが軌を一にしているようには思えなかった。
そうなった時、人間の受容機能として、視覚が聴覚より多くのものを受け取ってしまい、音楽がパフォーマンスに従属してしまっているように見えてしまった。
私自身はこの公演を、「音楽ありき」で観に行ったのにである。
それに、おそらく個別に評価しろと言われたら、圧倒的に音楽的な面の方が面白かったと思っているのにである。
音楽的にはそれなりに楽しめながらも、全体としてはあまり良い印象を持てなかった。

音楽とパフォーマンスの融合という時、人間における(近代的生活を行っている人間においてかもしれない)視覚の優位性ということは意識しておく必要があると感じた。
「意味という病」ではないが、視覚表現において観客は表象されたものに意味を見出そうとしてしまう。今作のように「意味ありげ」な場合は尚更だ。すると、意識がそこに集中してしまい、その分、音楽への集中力が明らかに削がれてしまう。
(勿論、この二つがぴったりとシンクロしていれば、そんな事態にはならないのだが。)


また、この公演においては、それほど重要な要素ではないが、
一応、書いておく意義があると思ったものとして、
メタシアター的演出の部分。

1977年の「雅楽版」、1979年の「洋楽版」初演時ではどう観客に受け取られたのか気になるが、2014年にこの演出を見ると、一種のキッチュ・パロディにしか見えない。
メタシアターである驚きや戸惑いは微塵も湧き起こらない。
「あ~、メタやるのね」という感じだ。
もはや安易なメタ構造はエンターテイメントの一部として、観客に受容されてしまう。

エル・スール ~わが心の博多、そして西鉄ライオンズ~

エル・スール ~わが心の博多、そして西鉄ライオンズ~

トム・プロジェクト

シアターX(東京都)

2014/08/13 (水) ~ 2014/08/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

人情話と思いきや、、、 (追記しました)
所謂「演劇」らしい「演劇」。それも人情もの。
始まった瞬間、苦手なタイプの作品に来てしまったと思った。
そういう作品は観ていてこっちが恥ずかしくなるからだ。

だが、観ている内にどんどん惹き込まれていった。
何度も目頭が熱くなった。
観終わった後も、瞼が潤み続けていた。

と言っても、作品のスタイルは最後まで変わらない。
つまり、そのスタイルがあまり好きではない者をも納得させるだけの強度のある作品だったということだ。
(裏を返せば、人情ものが好きな人には文句なくお薦めできる。)

役者さんの演技がとても良かった。全員良かった。

作・演出は東憲司氏。間違いない作・演出。素晴らしい。

<ネタバレにの最後にヒロポンについて追記しました。>
追記を書いて思い直すと、この作品は、表面上人情話に見えるけれども、実は反人情話なんじゃないかとさえ思えてくるから不思議だ。

ネタバレBOX

何と言っても役者さんが良かった。
特に「タカオ」役のたかお鷹さん。(役名も本名と重なっている)
たかおさんが老人役で登場し、昔を回想し、話がスタートする。
66歳のたかおさんが、そのまま少年の役を続ける。
最初、無理があるんじゃないかと思いながら見ていたが、
そのうち少年にしか見えなくなる。凄い演技力だと思った。

他の演者も皆素晴らしかった。

「ヒロコ」役を演じた岩井七世さんの溌剌とした存在感もとても印象に残った。

内容としても、売春婦や朝鮮人、長屋に住む人たちという差別される者や底辺を生きる者が、その現実をひっくり返す夢を、西鉄ライオンズに託しながら生きているという話。
その視点の在り方はさすが東氏、素晴らしかった。
人情話と言っても、現実の過酷さは突きつけられる。キレイゴトではいかない。

ヒロシは売春婦ユカリに、彼女のことを思ってこそ、売春をやめて欲しいと乞い。苦しい職業の鬱屈を晴らすためにやっているヒロポンも止めて欲しいと乞う。ユカリは、自分の為にも、ヒロシの想いに答える為にも、その現実から何度も抜け出そうと試みる。その時に彼女を励ます力になったのが、西鉄ライオンズの姿でもあった。だが、結局、他の仕事を見つけても、直ぐにクビになってしまう。その辛さからも、そして中毒性からも、ヒロポンも止められない。その彼女の姿にヒロシは幻滅してしまう。そして、西鉄ライオンズにも希望を持てなくなってしまう。
最終的には、売春防止法の施行もあり、彼女は博多を離れ、元に暮らしていた土地で仕事を見つけ生きていくということになった。西鉄ライオンズのような逆転劇を期待して。だが、その後結局どうなったのかは、作品では明かされない。
おそらく、西鉄ライオンズのように輝かしい逆転劇は現実には起らなかったのではないか、、、(この点は観客に委ねられている)。

ラストシーンで、今までの回想が終わり、少年「キヨシ」は老人に戻り、舞台には当時の野球中継の映像が投影される。それを、(おそらく記憶の中の)他の登場人物たちが、若い姿のまま嬉々として応援している。
だが、年老いた「キヨシ」だけは、笑顔ではない。
その意味深なラストも素晴らしかった。

この終わりは、
人情もののキレイゴトではないということが暗に意味されているということだろうか、、、、わからない。少なくとも私にはそう見えた。

<追記:2014年8月16日>
売春婦ユカリが現実の過酷さから目を逸らすために覚醒剤ヒロポンを使っていたことの意味は、殊の外大きいように思う。ヒロポンは戦時中に戦闘における不安を払拭するために軍内で広く使われていた。敗戦とともに軍で不要になったものが民間に流れた。それが戦後のヒロポン流行だ。つまり、そこには明確な歴史の転位があり、不幸のリレーがある。それも現実から目を逸らすための手段としての薬物。西鉄ライオンズに希望の夢を見るのは現実から目を逸らすのではなく、現実と対峙するために必要なものとして、ヒロポンと対比して描かれているとするのがこの作品の普通の見方だろう。だが穿った見方をすれば、西鉄ライオンズへの希望もまたヒロポンと同じなのではないかという解釈もできる。いずれによせ、この作品においてヒロポンが背負っている意味は、単なる覚醒剤という意味よりも遥かに大きい。
「廃墟の鯨」

「廃墟の鯨」

椿組

花園神社(東京都)

2014/07/12 (土) ~ 2014/07/23 (水)公演終了

満足度★★★★★

思想の劇作術化:群像劇の可能性
東憲司氏の思想(視線)が、椿組の群像劇の手法と混じり合い、
あらたな劇作術が生まれている。見事なコラボ。

物語演劇にも、このような可能性があるのだなと感じた。

作品自体の満足度は☆4ですが、この劇作術に✩5。

詳しくはネタバレで。

ネタバレBOX

物語を牽引している人物は数人いるのだが、
その人物たちが、ヒロイン・ヒーローとして機能することはない。
観客にカタルシスは与えないのだ。

中心人物たちは、希望を掴むこともなく、無残に死んでいく。
それも仰々しく死ぬというよりも、割と簡単に死んでいく。

では、この物語の主人公は誰かというと、それは、その他大勢の人々。
つまり、一般庶民、、、無名の民、、、群、、、、である。

東憲司氏は、以前から、庶民に対しての視点を強く持っていたが、
その視線が劇作術にまで反映されたことは、
私の見た限りでは無かった。
今作では、そんな劇作術が生まれている。

物語演劇にこのような反転のさせ方があるのだなということに驚いた。
物語構造を反転させていると共に、権力構造を反転させている。
力を持った強い者が主人公なのではなく、
力のない匿名の民が主人公であるという。

ラストシーン近くでは、かつての築地小劇場などのプロレタリア演劇は、こういう感じだったのかなと思いながら見ていた。

作品の類似という意味では全くなく、その思想の劇化というような部分で。
また、それを観客が共有するというような意味でも。

ある意味では、これこそまさにプロレタリア演劇!
(主義主張のあるプロパガンダという意味では全くなく、権力構造を根本的に反転させている劇作術だという意味で。)







CEREMONY セレモニー

CEREMONY セレモニー

東京デスロック

STスポット(神奈川県)

2014/07/05 (土) ~ 2014/07/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

異化効果・叙事的演劇の発展形?
ポストドラマ演劇の範疇だとは思うが、
脚本も構成もきちんとある。
所謂「物語」のある芝居ではない。

「CEREMONY」とは何か?を様々なテーマを巡って観客に問いかける。
それは同時に、演劇とは何かを問うことでもある。

とても今日的な作品だと思った。
演劇も一つの儀式であるが、かつてのアングラ演劇などは、ある種の虚構空間を現出させることで一つの儀式たろうとした。
それに対して、この作品は、現実と地続きの空間の中で儀式としての演劇が行われる。
その為、常にその表現は、観客の意識によって相対化され続ける。
部分的に観客参加のような部分があったり、幻想的空間が起ちあがりかけることもあるが、その儀式に観客が酔いしれ、浸りきることはない。

現実とは異質の虚構空間、超現実に出会うことこそが演劇の可能性だと思っている人からしたら、「なんだこりゃ」「ただのお遊びじぇねえか」と思う人もいるだろう。

ただ、ここにこそ、演劇の新たな可能性があるのかもしれない。

理屈っぽく言えば、
アングラ演劇の儀式性がアルトーの系譜なのだとしたら、
この作品の相対化の仕方は、ブレヒトの異化効果・叙事的演劇の今日的なあり方とも言える。

ブレヒトの異化や叙事的演劇は、現実への強い批評性に根差していた。それは、体制批判や既成概念に喧嘩を売る刃にもなった反面、時に一義的メッセージに変換されかねない危うさももっていた。プロパガンダになりかねない危うさを。
それに対して、この作品の批評性は緩い。悪く言えばヌルいとも言える。そうは言っても、多田淳之介氏の現代社会への批評的意識は作品の随所に感じられるため、敢えてその緩い立ち位置を選んでいるのだと思う。そうしてできた作品は、緩いが故に、開かれた問いとなる。答えは一つだけではなく、観客の数だけ存在するものに。

上記のこと全て含めて、良くも悪くも、とても今日的な作品だと思った。
私の中でも、評価したい自分と、批判したい自分が混在している。
この緩さが、作者に押し付けられることなく、自分で色々考えられるという意味で、とても「心地いい」と思う自分と、
何か強烈なものが欠如していて物足りないと思う自分と。

【満足度】について、
作品そのものの印象は✩4だけれども、
可能性を模索している、挑んでいるという姿勢を含めて✩5。

(<ネタバレ>は後日追記するかも。)

トーマの心臓

トーマの心臓

Studio Life(スタジオライフ)

紀伊國屋ホール(東京都)

2014/05/24 (土) ~ 2014/06/22 (日)公演終了

満足度★★★★

特異な体験
お客さんの9割以上は女性。
男性が演じる宝塚という感じ。
まず、それに驚いた。

私の席が舞台から遠かったので(最後列のひとつ前)、演技の仔細はよくわからなかったけれど、そんな悪条件でも集中して最後まで観ることができた。

作品の世界観も、客層、興行の在り方も含めて、普段観る作品と違いすぎて、どう評していいかわからない。(詳しくはネタバレに)

満足度は、特異な経験をしたという意味も含めて✩4。

ネタバレBOX

萩尾望都の少女漫画を舞台化した作品。

舞台を観終わって、「?」が多かったこともあり、原作を読んでみた。
(「?」と言っても、難解な物語だったという意味ではない。
 細部で、腑に落ちない部分が何カ所かあったのだ。)

舞台で覚えた「?」の謎は、キレイに解けた。

内容がとても複雑なものを、舞台という場面背景を限定せざるを得ない空間で再構築するために、原作にあったいくつかの要素がカットされていたのだ。その部分の伏線が繋がらなかったので、違和感を覚えた。
これは、作品の独立性が緩いという言い方もできるが、そもそも、この作品を観に来ているお客さんの多くは、原作を既に読んでいて、その世界観が好きで、なるべく原作に忠実にやってほしいと望んでいるのだと考えると、これだけの複雑な要素が絡まる作品を、うまくひとつの舞台に纏めた脚本・演出の倉田淳氏の手腕にむしろ賛辞を贈るべきなのかもしれない。
この点は評価が難しい。

また、誇大な演技が数カ所見られたのも「?」だった。
原作を読むと、やはり繊細なシーンだった。
ただ、この点も、紀伊国屋ホールという大きな劇場では、小さく繊細な演技では伝わらないため、大きな演出を付けざるを得なかったのだろう。
私自身、後ろから2番目の席だったので、その場面で繊細な演技をされても、まったく見えなかった可能性はある。
そう考えると、この点も評価が難しい。

共に、このような観客・興行を前提とした公演ということを考えると、仕方がないとも思うが、原作の世界観に惹かれて行った訳ではなく、また普段小劇場でばかり観ている人間にとっては、どうなのだろうとは思ってしまった。

もう一点、これは良い点だが、
主演のユリスモール役山本芳樹さんの所作が、漫画に描かれていたユリスモールと所作と瓜二つだったこと。生で観ていた時は、漫画側の世界観を知らなかったため、「こういう世界観の演技としてはうまいな」位にしか思っていなかったが、原作を読んでびっくり。忠実なんてものじゃなかった。素晴らしかった。


内容としては、「ファウスト」のような、キリスト教的な善悪に引き裂かれること。
その悪の傷を受けて堕天使となってしまった者に救済は可能かということ。
性が分化される以前の人間存在そのものの愛、そして孤独。
人種問題など、、、
複雑な要素が絡まった傑作。
ジャガーの眼

ジャガーの眼

新宿梁山泊

花園神社(東京都)

2014/06/14 (土) ~ 2014/06/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

熱演・好演!
役者さんたちの熱演・好演が素晴らしかった。

金守珍さんの演技は凄かった。
大鶴義丹さんはやはり存在感がある。
水嶋カンナさん、大鶴美仁音さんも好演!
申大樹さんの熱演も素晴らしかった。

最前で観たということも満足度に影響しているのかもしれないが、
テント芝居の醍醐味を満喫した。

サラエヴォの黒い手【ご来場ありがとうございました!!】

サラエヴォの黒い手【ご来場ありがとうございました!!】

劇団チョコレートケーキ

駅前劇場(東京都)

2014/06/11 (水) ~ 2014/06/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

現代への問いかけ!
集団的自衛権の行使容認の問題や、中国や韓国、北朝鮮との関係など、
自国内の問題としても、近隣諸国との関係としても、
緊張感のある状況が続いている現在の日本。

そんな社会状況に、第一次世界大戦のきっかけとなった事件を描き作品として問うことの意味は大きい。

前作「〇六〇〇猶二人生存ス」では、日本の特攻の起源を描いていたが、
脚本の古川健氏は、戦争やファシズムの起源を解きほぐし、何が問題であったのかを再考すると共に、何が現在にも繋がっているのかを読み解こうとしているのだろう。そして、それを現在への問いへと変換している。
その姿勢に本当に感服する。

正直に言えば、芝居自体としては、今まで観た劇団チョコレートケーキの作品の熱量と比べて、少し物足りない気もしたが、上記のことを踏まえると、そんなことはどうでもよくなる。

また、メッセージ過多だなと思う部分もあり、純粋に作品としてみたらどうだろろうと考えてしまったが、演劇のように観客を想定して発せられる表現において、そもそも純粋な表現などということはあり得ない。作品は常にコンテクスト(文脈)の中で機能している。社会的なものを背負わない観客などいないのだから、それを無視して表現など成り立たない。
そう考えたら、この少し過多なメッセージもむしろ好意的に感じられた。

このような真摯な若い劇団がいることは本当に救いだと思う。

ネタバレBOX

この作品が語っている第一次大戦を起こした原因のひとつは、「愛国心」。
「青年ボスニア」のメンバーも、「統一か死か(黒手組)」のメンバーも。
皆が自分のためというよりも、自国のために正義を掲げている。
自己犠牲的で、他人のため、社会のためと思っていることが、尚更、正義の感覚を当人たちに与える。

この辺りも、集団的自衛権の問題や尖閣諸島や独島/竹島問題などが起るとすぐに愛国心が持ち上がる日本の状況への批評にもなっている。

奇しくも、私が観た6月15日は、サッカー日本代表のワールドカップ第一試合があり、街中に「ニッポン」コールがこだましていた。
ワールドカップを否定するつもりは微塵もないが、自国の名を叫び一つの集団にまとまることを快楽とする精神のあり方には、ナショナリズムに通ずる危うさがあるのは否定できないのではないか。実際、オリンピックをはじめとしてスポーツがそのよな利用のされ方をした例はある。
少なくともそのような気運がこの国で盛り上がりはじめていることを感じていたので、「ニッポン」を叫ぶ無数の声を舞台上のBGMとして重ねながら作品を観た。

また、ロシア帝国汎スラブ主義工作員のセルゲイが、共産主義革命を起こす契機として世界大戦を望んでたというのも原因のもうひとつの大きなもの。
セルゲイは
「戦争の火はヨーロッパにはびこる古い権威を燃やし尽くし、新しい世界を作るきっかけとなってくれるのです。」
「農民と労働者の暮らしは、戦争が無くても苦しいのです。そこに戦争が起こる。貧しい暮らしは更に圧迫される。そうなるとどうなるか?」
と言う。
実際、ロシアはその後、セルゲイの望んだ通り革命が起きた。
ただ、この時代は、まだ「革命」というものが希望としても語られ得たからそうなったのだろう。

現在にこの問題を照らすと、赤木智弘が「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(「論座」2007年1月号)で提起した、戦争をすることで、社会が流動化し、構築された格差を崩すチャンスとなるという議論と重なるのではないか。赤木自身、本心で言っているのか、偽悪的に言っているのか、他の文章を読んだことがないので判らないが、セルゲイの思想から革命の希望を除くと赤木的な発想となると思う。

最後に、複数の民族・人種が混在しているセルビアの問題を、
中国や韓国と日本との関係(尖閣諸島や独島/竹島問題)と重ねて、寓意的に提起している点も素晴らしかった。メッセージ過多ではあったが。

総じて、素晴らしい批評性のある作品だと思った。
岡本綺堂『半七捕物帳異聞』

岡本綺堂『半七捕物帳異聞』

江戸糸あやつり人形 結城座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2014/06/05 (木) ~ 2014/06/09 (月)公演終了

満足度★★★

伝統と革新
江戸時代の寛永12年(1635年)に旗揚げされてから、380年。
その記念公演の第一弾。

岡本綺堂『半七捕物帳異聞』を原作に、花組芝居の加納幸和氏が脚本と演出を担当。

私が結城座を観たのは初めてで、江戸糸あやつり人形の世界には魅了された。

ただ、私の席が舞台から遠かったため、そして人形は人間よりもはるかに小さいため、よく見えなかった。

それが原因か、私の体調が悪かったからか、作品世界には入り込めなかった。

もう少し近くで観ていたら、作品の印象はだいぶ違うのだろうと思う。
オペラグラスを使った方が良かったのかも、、、。

プルーフ/証明

プルーフ/証明

DULL-COLORED POP

サンモールスタジオ(東京都)

2014/05/28 (水) ~ 2014/06/04 (水)公演終了

満足度★★★★★

素晴らしい演技
一年前のDULL-COLORED POP 『プルーフ/証明』(谷賢一演出:百花亜希主演)が素晴らしかったので、今回ももう一度観たいと思い、拝見しました。

一年前に観た時と、微妙な部分で印象が違ったのがとても面白かった。
前回同様、百花亜希さんの演技に圧倒された。

今回も素晴らしかった。

ネタバレBOX

一年前の百花亜希さん演じるキャサリは、頭脳明晰で、更に感受性も豊かであるが故に、微細なものを感受しすぎてしまう様、正気と狂気のギリギリのところに立っている様が壮絶だった。
前回は、ストーリーから考えて、おそらくキャサリンが言っていることは正しいのだと思っていたが、心のどこかで、もしかしたら彼女の狂言の可能性もゼロではないとも思っていた。それほど、キャサリンは狂気を孕んでいるように見えた。

今回のキャサリンは、もう少し人間的に見えた。ハルに恋心を持つ部分で見せる女の面などは本当に秀逸だった。全体としても、狂気を孕んでいるというより、普通の人であるキャサリンが、ハルや姉に理解してもらえないという絶望・孤独がとてもよく伝わってきた。
その為、ラストも、まさにキャサリンは正しいことを言っているのに、なぜ皆理解してくれないのだ。というように、素直に見ることができた。(最後で、ハルは信じてくれる訳だが)

この違いは、谷賢一さんの演出によるものなのか、
百花亜希さんがキャサリンという役を内在化させる上で変化したことなのかはわからない。
いずれにしても、それぞれの良さがあった。

全体から受ける印象としては、前回の正気なのか狂気なのか判らないものの方がハラハラして面白かったが、
百花さんの演技自体は、今回の方が、より深いところで演じているように見えて良かった。

前回も今回も、違った面白さがあって良かった。

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