実演鑑賞
満足度★★★★★
観劇直前にキャストが初演と変わっている事に気づいた。演出、脚本と長塚氏の対談がKAATサイトにあってながら見をしたが「若干、俳優が変った事で台詞を変えた」「装置も微妙な所で変わってる」、と言っていた。
初演は下手側中段あたりから観た記憶。今回は最前列ど真ん中。(実は少し前完売だったので当日一か八かで・・と考えていたら、楽前日昼夜とも空席が出ていた。)
観始めると、風景が違う。劇の感触も違う。まず亀田佳明が中山裕一郎に。このドラマの中心的な「目」である記者の存在が、コメディ色を帯びて安心させる亀田氏が、どちらかと言えば朴訥なキャラにシフト。(亀田氏は新国立「デカローグ」1~10話に通しで出演する唯一の俳優のため元々無理であった由。)
変更になったもう一名が、沖縄に飛んだのっけに乗るタクシーの運転手(劇中では「事件」の主要登場人物の一人に)。初演では30代の飄々とした風情の役者で、この芝居のナゾめきの空気を担ってもおり、とりわけ最初のタクシー場面では客(記者)を翻弄する振る舞いで笑いどころ多め、劇の始まりの緊張を解き、沖縄場面(過去と現在、あるいはどっち付かずとある)の風景と観客はニュートラルに対面する事となった、と思うのだが、今回は笑い処は一つあるものの他はそこはかとじんわり、といった程度(つまり弾け方が押さえられていた)。
そのせいなのか、あるいは二度目の観劇だったり見る角度だったりなのか、話の筋を時折「同じだ」と確認できた以外は、別物を観る感覚であった。
と、どうしても比較して観る事になるが、沖縄を訪れた記者とその妻と子どもの話(実は妻方の祖父が亡くなった事で帰郷し、夫の方は別口からの依頼があって取材に訪れた)と、記者が取材する事となった事件にまつわる過去のドラマが交互に進み、最後に「死者たちとの対話」と「過去の時空に紛れ込んだ」とも判然としない異空間が作られ、強烈な言葉が吐かれるのであるが、この最終場面になって漸く、私としては劇に追い付いた。
もっと正確に言えば、そこまでの「見え方」が随分と変わっていて、初演以上に直截に「怨嗟」や「沖縄問題」的な証言が届いて来ることに戸惑っていた。恐らく、タクシー運転手であり「事件」の当事者の役が25歳と若く、生硬に寄った演技の質感によるものだろう。(作者は対談の中で、この俳優同士の空気感なら、もっと踏み込んだ言葉を吐くだろうと思えたりした所を、変えたと言っていた。)
そして初演のやや無責任雑誌記者のキャラを通してコメディ感覚で事態を眺めさせていた亀田佳明バージョンとは異なり、場面の直接的な情報伝達によって「見えてきた」情報もあった(これは二度目というのが大きいかもだが)。そしてコメディ調のヴェールによって流れていた台詞の細部に引っ掛かり、意味を読み取ろうとするセンサーも働いた。
従って、「見やすさ」とは裏腹に、事象が苦いまま粒立って迫って来る(私はこの感触は田中麻衣子演出の技量によるもの、と思う所が過去にもあったのだが、もし「敢えて」なのだとすれば、基本的に異化効果を好む演出なのかも知れない)。ギザギザと不快な感触さえ伴って風景が象られると、初演ではギターをかき鳴らす異化効果が、今回は屋上屋を重ねるようであったのは、私としては少々残念(勿体なかった)。
この「飲み込みにくさ」、そして朴訥感のある記者の捉え処のなさが、最後に効いた。(そして亀田氏バージョンでは最後にその味が出なかったな、と初演で微かに感じた事も思い出した。)
それは、イノセントな、所謂罪意識の無い平均的日本人の感性が、痛烈な皮肉で語られた沖縄の亡霊たちの言葉を、受け止める佇まいに凝縮されている。その言葉らを自分の「大切な存在」を人質に取られた今やっと、「聞く」体勢に「させられた」彼は、せめて記者の使命感に支えられてと言いたい所だが、戸惑いながらどうにか目を見開き、対峙できて(させられて)いる。その姿に、本土人である自分が重なるのである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
初演の時は劇場が遠いのでパスして、後で後悔した。今回は是が非でもと、早めに予約して臨んだ。
初演後の『悲劇喜劇』に戯曲が載って読んだはずなのだが、1964年の米兵殺傷事件の容疑者の経験に迷い込む話という記憶が全然なかった。
俳優たちは、現代の本土のライターとその妻は、いわば事件を目撃するコロスのようなものであって、その周囲の沖縄の人たちが真の主役。現代のタクシー運転手と、妻の祖父で写真館主人の佐久本寛二を演じる佐久本宝の弾けた演技がよかった。重いテーマだからと言って沈むことなく、明るい舞台にしていたと思う。現代のユタ?のおばあと、60年前の飲み屋のおかみを演じたあめくみちこも自然なコミカルさがいい。横浜の若い女性伊礼ちえ(蔵下穂波)の、「基地県なのに、神奈川の人は反対などと騒いだりしない、大人ださー。だからここが好きなの」と、神奈川をいじる皮肉が嫌味でないのも、素直な演技のおかげだろう。
回り舞台と、周囲のたくさんの空の段ボール箱をうまく使い、テンポの速い場面展開だった。
実演鑑賞
満足度★★★★
諦め、傍観、寄り添うってなんだろ?偽善?
我々の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っていて、しかしその犠牲は誰にも認識されない。
静かな芝居がそれらを重く受け止めさせる。
自らを見つめ直す良い舞台だった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
2022年の初演を観たときの衝撃が忘れがたい作品。今回の再演&ツアーでより多くの人に届けられるのは本当に意義のあることだと思う。
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ禍の22年に上演され、評判は良かった(23年の岸田戯曲賞候補になっている。このときは加藤拓也)が、時節柄、横浜までは・・と見逃した。落着いたところでさっそく再演は、公共劇場とは思えないKAATらしい腰の軽さで、長塚圭史、芸術監督の役目をよく果たしている。
作者は、沖縄のまだ三十歳代の若い劇作家・兼島拓也、演出は、最近劇団でもプロダクションでも起用され、映画も監督出来る、こちらも若い田中麻衣子。キャストは小劇場の座組み。
いかにも、よくある沖縄舞台の「ヘイワ・ドラマ」の構えだが、敵役をあれこれ見つけて懲悪ドラマにするレベルを超えた優れた現代劇になっている。久し振りに若者が劇の中心でしっかり世の中を見据えて、舞台の先頭に立っている。
(物語)雑誌記者の浅野(中山祐一郎)は、上司に命じられて、60年前の沖縄で起きた米兵殺傷事件について調べることになったのだが、実はその容疑者が自分の妻の祖父・佐久本だったことを知る。事件の現場は元米軍本部のあったところで、いまは「ライカム」と呼ばれてスーパーマーケットになっているとか、住民の生活の実態とか、現地のタクシーの運転手(佐久本宝)の案内で調査を進め記事を書くうち、浅野は次第に沖縄の過去と現在が渾然となったドラマの世界にいざなわれていく。国境や地域文明の端にある辺境に生きる者が背負わざるを得ない「沖縄の物語」がそこにはある。その物語は自他がつくる「決まり」によって成立するが、時に自分自身も飲み込まれていってしまう現実がある。その場の政治や行政や、さらにはそこに住む人々の思いや、よそ者の観察だけでそれと抗うのはむつかしい。
だが、人々はそこで生きてきた。生きていく。
そこからがうまいのだが、それは、一つの地域の事情ではなく、今世界を見渡せば、どこにでもある話だ。そこで生きる勇気を持ち次の物語を作ることが希望になる。
素材は沖縄問題でよく選ばれる基地問題にまつわる物語だが、問題の捉え方が、新しく、しかも演劇的なところがこれまでの加害者・被害者のキャンペーン作品とはっきり一線を画している。本も演出も、ちょっと乱暴なところがあるのだが、あまり小さなところにこだわらず(こだわっても行き届かなかったのかも知れないが)ぐいぐい押していって若々しい。古めかしい人情ドラマでケリをつけるところからはっきり決別を宣言して、戦後長くこの国に居座っているいじけた精神を批判している。単に沖縄問題を超えて、現代日本に課せられたドラマになっていて見事である。ドラマの作りが普遍的で大きい。この若い作者、台詞が上手い。沖縄ものでなくても書けることは間違いなさそうだ。
ヒルなのに老若男女よく交ざった観客で満席。