悪い冗談 公演情報 悪い冗談」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-20件 / 27件中
  • 満足度★★★★★

    未来
    過去の反省を踏まえて、未来があやういことにならないようにしたいですね。

  • 満足度★★★★★

    こう来たか!
    個人で行う犯罪と戦争と言う名のもとで行う犯罪の罪の重みは違うのか・・・・。綺麗で平和で安全な日本・・・・その日本が歩んできた道の上に数限りない、私のように名を残さない人たちの屍がある。

    クールジャパンに違和感を感じている私は、この舞台を観て私の中の違和感の答えを見たような気がしました。

    演出の妙が光ります。

  • 満足度★★★★★

    アマヤドリ観劇
    初アマヤドリ
    なんとも言葉にし難い感情が起こりました。
    良い作品ってまとめちゃえば勿体ないと思います。

  • 満足度★★★★★

    生きているうちは、生きなくちゃ
    先日は最前列の観劇で、舞台と客席が地続きなのもあってか、彼らの騒ぎに飲み込まれたような感覚もありました。
    今回はちょっと離れたところから、対岸の騒ぎを眺めるように・・・・だけど、人間の生きることのせつなさやしんどさは、より深く感じられたのです。

    三波春夫さんの歌の頃は、私は子どもでした。
    あんな風に聞いた事は無かったのですが、あの時代いつもあの曲が流れていました。当時の大人たちや世間の高揚感のすごさを、思い出しました。
    そして、あの時代の匂いも。
    そして、今こうやって聞いて見ると、まるで軍歌のようだなぁ・・・と、思いました。歌い方、リズム・・・・。若い方たちは、どう思ったのかしら。

    広田さんの演出は、とても好きです。
    色んな角度から、色んな思いが飛んできて、台本買ってきたので、しばらく楽しめます。「ぬれぎぬ」と「非常の階段」もまた観たいです。

  • 満足度★★★★★

    隔てる川
    それに浮かぶ、水の泡のごとし。


    かなり呑気な気分で客席についた。

    (またまた、誤読的に感想を書いたら、とんでもなく、長文になってしまった)

    ネタバレBOX

    かなり呑気な気分で客席についた。

    それは、「「江戸」にも似たとある都市の姿」とか、「観光立国となるべく国全体をテーマパークと化」などという、当初の惹句に引っかけられた(笑)からである。

    しかし、花火のシークエンスからそこへ移っていくのかと思っていたら、「東京大空襲」。

    偶然とは恐いもので、3月10日のその日が近づいてきたことで、昔々に読んだ早乙女勝元著の『東京が燃えた日』をアマゾンで購入して読んだばかりだったのだ(子ども向けの本だけどね)。

    だから、空襲と隅田川の様子を描写したシークエンスというか、説明台詞には、かなり揺さぶられた。いや、気分が悪くなったと言っていい。読んだばかりの本の内容がリピートされてしまったからだ。それは、もう、外に出ようかと思ったほど。
    隣とか後ろの観客には、変な感じになっている私は気持ちが悪かったかもしれない。それには、申し訳ないと思う。

    さて、舞台だが、東京大空襲はとても強烈なイメージだったが、「川」が象徴的に表現されていた。
    「赤い帯」として。

    最初は受刑囚と被害者家族との「埋められない溝」のようなもの、であると思っていた。
    「赤い」ということで、かなり強烈なイメージを受けた。
    被害者が流した「血の色」であり、また加害者が浴びていて、一生、拭い去ることができないものだからだ。互いにその色が見えて、自分の身体にも見えているはずだ。そして、それを拭うことができなければ(自分だけでは拭えない)、両者の溝は埋まらないということ。

    「殺してほしい」「殺したい」「しかし、しない」というやり取りが、単純に復讐すれば終わりではないことを示している。

    そして、隅田川のシーンとなる。
    3月ぐらいの季節外れの花火大会を待っている、男性と女性のグループが隅田川を訪れる。
    両グループは、片方は男性がほとんどで女性が1人、もう片方は女性がほとんどで男性が1人というグルーブだ。しかも、男性側には韓国人がいて、女性側には台湾の人がいる。

    いつまでたっても上がらない花火から東京大空襲がオーバーラップするような方向へ行く。

    それを導くのは、けんけんぱ、をしながらやって来る少女だ。
    浴衣のような衣装を身にまとっている。
    人には見えない存在らしい。

    浴衣は花火を連想させるが、彼女が引きずってきたのは、東京大空襲である。

    この少女と隅田川、そして、多くの死者たちから連想したのは、能の『隅田川』である。
    子どもを亡くした狂女が、隅田川にやってきて、死んだ子どもの話を聞き、それは自分の子どもだと悟る。狂女(母)が念仏を唱えると子どもの亡霊が現れるのだが、やがて朝になり、消えていくという話だ。
    びっくりしたのは、この能のストーリーの設定が「3月」ということだ(気になったので、家に帰ってから調べた)。

    なんと東京大空襲と重なってくる。偶然だとは思うが。

    なので、浴衣の少女は、空襲によって隅田川で亡くなった子どもではないかと思ったのだ。
    彼女が現れているのは、夜であるし。

    そもそも隅田川の花火大会は、もともと死者の霊を弔うために行われていたもので、そういう意味でも3月の花火大会なのである。

    台湾の女性が、川について話す台詞がある。
    正確には覚えてないが、「目の前の川は、ずっとあるが、違うものである」というようなことだ。
    それを聞いてピンときたのが、『方丈記』。
    「水の泡のごとし」なんだな、と。

    (正確には覚えてないので、先ほど調べたものを書き写す)
    「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

    過去と現在と、そして、たぶん未来が交差する舞台の上は、「川」だったのだ。
    人(の世)は、水の泡の如し、である。

    犯罪者と被害者を隔てているのも川。
    生者と死者を隔てているのも川。

    人の罪は、時代が変わっても変わらない。
    人が死んで悲しむことで生まれるのが「罪」である。

    しかし、人はそれに対していろいろと屁理屈を捏ねる。
    マラソン男がベンチで独白する台詞が強烈である。

    焼夷弾に焼かれて死んでいった者に「罪」はあるのか。

    アダムとイブから背負ってしまった「原罪」があるのか。

    そういうところへ、気持ちは持っていかれた。

    しかし、ラストは違っていた。
    「花火」を待ちわびる2つのグルーブはやすやすと、川を越え、1つの合唱となっていった(2部合唱・笑)。

    これがひとつの「答え」なのではないだろうか。

    つまり、川には「橋」が架かっている。舞台にも大きな橋が架かっていた。
    その橋の上で人は炎に責め立てられるのだが、そうでないシーンがあった。

    転勤で宮崎に行く予定の男性と、彼と付き合っている女性のシーンだ。
    なんとなく、「別れること」を前提として、特に男性は話を進めているのかと思っていたら、どうもそうではないらしい。女性に仕事を辞めて宮崎についてきてほしい、というのが本音のようだ。うまく話せないのがいい。簡単ではないからだ。

    「橋の上」には「愛」がある。
    炎によって命を奪った場所の橋が、愛の橋となっている。
    それが、さきほどの「答え」を強化する。

    「人間なのだから」という台詞が何度か象徴的に発せられるものそれである。

    台湾の女性と韓国の男性から、わかるのは、われわれはあまりに近隣の人々に対して「無知」であることだ。言語のことや民族のこと、対日感情など、知らないことばかりで、それを素直に尋ねることで知ることができる。これもキーワードではないか。

    踊りには「富士山の初日の出」と「隅田川の様子(焼け野原の東京と死体)」が語られる。
    そこには、「祈り」がある。

    つまり、「人間だし」「話せばいいし」「愛があればもっといい」ということだ。
    それによって、未来が良くなるのではないか、という(ロマンチックすぎる)広田さんの祈りが込められている物語とみた。

    冒頭の受刑囚と被害者の家族も、なぜか対話をしている。
    「赦す」ということはできないとしても、「対話」はできる。
    というか唯一の方法ではないか。

    ラストは、花火を見に来た男が、高校時代の友だちと出会うシーンが再現される。
    この「一歩」から、友だちが集まり、女性グループと一体化していく。

    つまり、ここが「現在」の、「2015年の3月」の姿ではないか。
    今、混沌としている世界が、より良くなるための、「一歩」を踏み出している、という希望を込めたシーンではないか、と思った。
    ここから、その一歩が踏み出せるのだ。

    「罪」とか「悪」とかというレベルではない、もう少し「高み」へ作品が昇っていきそうな具合で、三部作は幕を閉じる。

    ただし、もちろん、それは、そんな簡単にはいかない。
    マラソンをしている男の存在がそれを示す。
    彼が常に舞台の上に「不安」を撒き散らしている。
    「通り魔」という言葉が、身体にまとわりついている。
    弱い者だけを狙った通り魔。
    それが「人間だ」と言っているようでもある。
    そして、受刑囚が、暗転の中で、わざわざ這って「川」を越えていく姿は意味深すぎる。

    今回の作品は、多方面へ広げていきながら、最後にシュッと収まり、別世界へ連れて行ってくれるような、アマヤドリ的快感には少し足りなかった。アマヤドリは演劇的な表現がとても優れているカンパニーだと思うから。

    とても失礼な言い方をすれば、今回上演して、それを再咀嚼した上で、再度吐き出して、再演したものを観たい、と思った。
    つまり、今、固いままの、いろんなエピソードやシークエンスを砕いて、練り上げ、さらに「演劇的な面白さ」を追加したら、凄い作品になるのではないかと思うのだ。

    中村早苗さんと笠井里美さんが揃って舞台の上にあるのが、とてもいい。
    この2人が声を揃えて言う台詞が好きだ。
    ト書きのような台詞でさえ、美しく感じる。

    渡邉圭介さんの、なんとも、あの、恋人に気持ちを伝えようとする、もどもどした感じがいい。
    今回も糸山和則さんが屈折して(開き直った)受刑囚にしか見えない。

    今回もいい塩梅で笑いがあった。

    まだまだ書きたいことがあるのだが、長すぎるのでこのへんにしておく。
    できれば、もう1回観たかった。
  • 満足度★★★★★

    あまりの「美しさ」にノックアウト
    フリーパス購入で、初日・25日と観劇。
    最初に観たときはいろいろと飲みこめず、二回目の観劇でノックアウト。

    「(たとえばBJCが「悪い心を持ってる数少ない動物」と歌ったような)人間」でいることについて、頭のシーンからグサグサと刺さってなんともヒリヒリ。
    特に終盤の「女が川に向かう」シーンの残酷なまでの美しさ、ここ最近の観劇の中でもトップクラスに打ちのめされ。

    (ただ中盤の「実験」のシーンは、元ネタをなぞっているようにしか感じられず割とけっこう退屈だったかも・・・^^;)

    小角さん筆頭に劇団員の「セリフ芸」の巧みさもさることながら、そのセリフ芸の豊かな音楽性と一体となってそこに存在する台北からのゲスト・Panay Pan Jing-yaさんの肉体の説得力が印象的。

    回を重ねてくごとに変わってく芝居、千秋楽近くでもう一度観に行けたら、と。

  • 満足度★★★★★

    非常に遅くなり
    申し訳ありません、、ブログに感想を書いてます。
    http://ameblo.jp/kangeki-jyoshikai/entry-12004762024.html

  • 満足度★★★★★

    三部作
    今回三部作「悪と自由」とうたわれた三作品目。

    観た中で今作が一番、自分的にはスイッチが入った。

    例えるなら 前1作目「ぬれぎぬ」は、観ながら小説を読むような、遠そうで近いかもしれない未来。

    前2作目目「非常の階段」。

    ふたつの流れが混じり合う所に ナイトは位置していたのかなと。 一つの流れは、穏やかな家族の流れ。 一つの流れは激しく冷たい家族(個人)の流れ。




    今作は、一番、劇中のシーンに自分の感情を すり合わせるというか

    きもちの中にぐっと手を伸ばして掴まれたような シーンが

    沢山、あった。そこに自分が居たかもしれないという苦しい投影今回、

    観ている最中の涙。

    芝居が終わり、客電がついてから オーバーラップしたように

    また、涙が溢れてきた。

    悲しみなのか 恐怖なのか 諦めなのか 訳が分からないけど 無性に涙が出てきた。

    今回物凄く、観ていて気持ちが動き、辛かった。

    しかし、群舞に救われた気がする。

    何だろう、力強く打ち付ける大地の音、 跳ねる身体 風を巻き起こす、うねる、駆け抜ける 「生」のようなイメージを、

    活力のようなイメージを 「いろいろ、有るけど良い方向を見つけて、そっちにいかなくては!」、

    「動かなくては!!」と今回の群舞には勝手にそう感じ取り、救われた気持ちがする。




    服従の実験というシーン。怖い。怖い。と観てると苦しくなってきました。

    何が怖いのか。「理性」が「やめろ」と思ってるのに、「命令」「浮遊する責任」などで理不尽な実験を服従してしまう・・。

    怖い。ほんとに怖いと思いました。日本も「責任」のあやふやさでいつの間にか、戦争していたりする可能性もあるのかと。




    あと、空襲の場面。

    焼夷弾の投下の中逃げる

    自分がそこに居たかもしれないという苦しい投影をしてしまうのです。

    自分の子がもし、そんな状況になってしまったら。

    飛躍過ぎかもしれないけど私にはどうしても観ながらそんな感情に包まれてしまう。

    劇中の3月の花火大会桜の季節。

    かつての空襲の記憶fireworks(花火)

    それは、かつての焼夷弾( fire bomb)の事なんだろうかと。

    沢山の沢山の悲しみを鎮めるためなのか。

    川の流れにかつての面影はないが、血塗られた、遺体が折り重なっていた

    川は未だにその想いを漂わせているのか。

  • 満足度★★★★

    奥が深い@@
    単純に戦争反対でもないような・・・

    ほぼ全編ランニングしている意味は?

    いろいろ考えさせられます。

  • 満足度★★★★

    難しいなぁ
    アマヤドリさんとなって、初めての本公演でした。

    舞台も大きくなって、出演者も大勢で、外国の役者さんも入って、客演の方も良い方ばかりで、とても良かったです。

    特に外国の役者さん達は、違和感なくやられてましたが、セリフの内容や立場を理解されてやっていたのかが知りたかったです。

    とは言え、いろんな難しいテーマを題材として取りあげた作品については、とても良かったと思います。

    空襲の部分は、まさに自分の住んでいるところの話で、自分の方が話したくなりましたが。。。

  • 満足度★★★★

    隙のない舞台
    作家ご本人が指摘の通り、当初のあらすじ説明とはかなり方向転換していたが、「悪と自由」のテーマは伝わってきた。
    三部作の完結編、今作だけしか見てないが、これはこれで独立した舞台と思った。あ、過去のあの話や実験部分は前2作とリンクする部分もあったのかな‥?
    社会的なテーマを扱っているけど、結構内容は重い。が、若いパワーが溢れ、舞台出演者の同世代が見たらもっと惹きつけられそうな魅力が溢れていた感じ。
    「東京」が舞台だが、この舞台では「TOKYO」と例えたほうがしっくりきそうな、過去と現在と未来の異空間を漂うような話だった。
    陸橋セットと光の演出も印象に残る。毎回見応えある群舞、今回のダンスは特に好き。自分で踊るとふしぎなおどりになってMP減らしてしまうのが悲しいが。
    約110分。

    ネタバレBOX

    奥の一室に若い男と女。女は途中出ていくが男はずっとそこにいる。
    公園内を走り回る男、ぶらついている男、着物姿の童女、花火を見るために集まった同窓生グループ、隣りには女子会、橋の上では今時の恋愛模様、研究室では命令と服従の実験、命令の命令。
    それは日本とアジア諸国の過去と現代の歴史のループのようにも透けて見えて来るような。

    酒宴の場面で、近隣アジア諸国から見た過去の近代日本の歴史を全く知らないごく一部のゆとり女子の幼稚な会話に、今後の日本の未来を想像したらつい憂い、でも自分たちがあの年代の時にも上の世代から似たようなこと思われてたんだろうな、己の過去を思い出し苦渋してしまった。
    戦時中、空襲を受けたのは東京だけではなく、大空襲の被害は日本各地にたくさんある。日本人は日本人でそのことをわかっているつもりだが、他国の人にはそれが理解しづらいというジレンマ。
    その国に暮らす誠意と悪意のないまぜの感情。大勢では絡みづらいが個人では絡み合っている友情。国の大罪とそれ故の悲劇。世界の国からコンニチワと言う割に時代と近隣アジアの渡り難い大河かな。
    唱歌斉唱から三波春夫の変調まで、日本の歌の豊富さにどこか懐かしさがこみ上げ、まだこの時代は輝かしい未来予想図が見えていたんだと思うと同時に言い知れぬ虚無も感じ、息苦しくなりそうだった。

    もう一度見れば、もっと深みにハマれるかもしれない。
    絶叫セリフは苦手なので、ジョギング青年の主張は少しうるさく感じたけど、いい舞台でした。
  • 満足度★★★★

    伝わりにくい
    まあ、いいモノ観れたとは、思います。
    笑いにダンス、演技も演出も安定感が有りセンスがいいのは相変わらず。
    ここのは嵌ると泣けるんだけどなァ。
    それが無かった。照明が終始暗いのは苦手。

  • 満足度★★★★

    アマヤドリらしい
    いろいろあって1ヶ月ほど観劇から離れての復帰作が本作だったこともあり、結構大変だった。多重構造で繋がっているのかどうか判然としない部分も多く、ここのサブストーリーだけで表現をしようとしている事象も多々あって、1回では受け止め切れない。とは言っても、ライティング綺麗さや詩的な表現など「らしさ」を堪能できた。やっぱりアマヤドリは中村早香が居てこそ、と、いう感覚は強化された。所々に感じる存在感、そして群舞のリードが格好良かった。

    ネタバレBOX

    東京大空襲についての表現については、何かアマヤドリらしくないというか、ストレート過ぎる表現のような気がしてならなかった。別に具体的な事象をそこに盛り込む必要を感じなかった。序盤で観たので一体最後はどういった表現になっていたのだろうか。アマヤドリは、前半と後半で相当違う作品になっていることも多いのでガラッと変わっている可能性もあるのでなんとも言えない。
  • 満足度★★★★

    複雑!でも興味深い
    「悪と自由」の三部作全て鑑賞した。前二作はストンと腑に落ちているのだが,今作は自分的にはちょっと難解なのか,まだ消化不良である。でも興味深い作品であることは確か。この時期,忙しくて観劇生活も十分ではなかったが,この作品は無理してでも複数回観るべきだったのかもしれない。この三部作,とても充実していたと思う。ただ,観て満足するだけでなく,振り返って思考する,その気づきの要素がちりばめられた作品。とても見応えがあった。アマヤドリ,今後の作品にも期待しています。

  • 満足度★★★★

    ドン、ドドン!
    追記前の「事前のあらすじ」を念頭においての観劇だったので、開演しばらくは正直戸惑いました。あれ、なんだか様子が違うぞ、と。そして物語が始まっているのかいないのか、それも判然としないままで舞台上にいくつもの場面が入れ替わり立ち替わり。その場で起こっている事を淡々と見ている事を強いられているような気持ちになったころ、いよいよ物語を探すのがシンドくなってきました。
    でも、物語を探さずともそこに世界はずっとあり、ずっと動き続けています。そしてそれを見ている事は決して不愉快ではなかったのです。

    全部を見終えての感想は「これこそが悪い冗談だ」。
    どこに主眼を置こうが、何を正面から見ようが、それは主観でしかなくて、補正がかかってて、自己擁護が常に働いて。
    そんな我々の生命活動なんて「悪い冗談」だ。

    それもまた、悪い冗談なのでしょうか。
    ぐるぐるするね。

    アマヤドリの真骨頂の集団パフォーマンスは今回も見事。
    鳴り響く足音、打ち上がる花火、そして70年を渡った爆発音。
    シアターイーストがはちきれそうになった瞬間でした。

  • 満足度★★★★

    斬新と滞留と
    「ひっかけ問題」のような気もしますが、とりあえずまっすぐに受けとめてきました。
    人間の愚行と未来への憧憬…

    使われる言葉は「東京大空襲」やら「B29」と時代がかってはいるが、そこは現代の不毛を象徴しているのだろう

    脚本としては、ちょっと喰いたりない部分もあるけど勢いのある演出がそれを補ってあまりある!

  • 満足度★★★★

    深い
    一つ一つのエピソードは割とシンプルなんだけど、それが絡み合って、タイトルやセットを含め、そこに込められたメッセージはとても深淵で、見応えがありました。独白の場面やダンスシーンもさすがでした。

  • 満足度★★★★

    視点
    「悪と自由」について語られていますが、私も視点をずらすと正しいと思っていた考えや価値が変わってくるのを日頃から感じていました。
    そして、時間が経ったら、また少し想いが変わるでしょう。
    再演あれば、見直したいと思えました。

  • 満足度★★★★

    配置の妙/約110分
     置きチラシに入っていた挨拶文で作・演出の広田さんが自ら認めていた通り、事前に予告されたものとはずいぶん趣の違う内容になっていたが、犯罪者という特別な人達の悪に迫った一作目と二作目に対し、今作では“誰もが不可避的に抱え込む悪”、さらには“国をはじめあらゆる組織が必然的に抱え込む悪”、つまりは“悪の普遍性”にまで踏み込んだ内容になっていて、「悪と自由」三部作の掉尾を飾るにふさわしい作品になっていたと思う。

     見せ方としては、この“悪の普遍性”を示すエピソードを極大のものから極小のものまで、合間にダンスなど挟みつつ大した脈絡もつけないまま舞台上に配置してゆくスタイル。
     この“配置”が作り出す絵ヅラがおそろしく美しく、また、この“配置”の妙により様々な記憶や思念が脳内に喚起され、退屈するということが一度もないまま二時間近くが過ぎていった。

     力強いモノローグとものものしい音響・照明によって織り成された、東京大空襲のくだりが圧巻でした

    ネタバレBOX

     芝居の観方は時局に左右される。
     このことを強く思い知らされた公演でもあった。

     本作ではアジア諸民族の宥和がダンスその他によって表現されるが、三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言がなされた直後に観たために、“アジアは一つ”とでも言いたげな諸シーンがなんだか胡散臭く思えてしまった。
    「宥和」はある一国の主導のもとになされた場合、それは一国による諸国の「支配」へと容易に変じうる。

     また、日本、韓国、台湾と、国籍を異にする俳優たちが握手を交わすシーンで流れる有名な歌は、二度目の東京オリンピックが近い今、私の耳にとても皮肉っぽく響いた。

     “世界は一家、人類はみな兄弟!”と訴えているかのようなその歌。
     だが、この国は微笑を浮かべながら世界に対して両手を広げる一方で、足では国内の諸地域を踏みつけにし、国からどんどん一体感を奪いつつある。
     国際協調を訴えるより、まずは自国をまとめることが先決なのではないだろうか?
     歌い手がもし今も生きていたら、きっと同じことを思ったに違いない。

     あの歌が皮肉めいて聞こえることは、たぶん、作・演出家の計算のうちだったのではないだろうか?
     
     
  • 満足度★★★★

    フライヤーの原画が素敵!
    アマヤドリさんの作品は何時も示唆的で、その意味するところ、どう捉えたらいいのか沢山の宿題を出されたようで、何日か経って答えが出たり、全く解んなかったり。 ロビーにフライヤーの原画が展示してあり、素晴らしいので一見の価値あり。

    ネタバレBOX

    最初に殺人犯と被害者家族の話があり、人であろうと国家であろうと、
    人を殺す事が許され筈が無い。そして、アイヒマンの実験の下りで、人は思いや信念とは違う行為を、容易く行ってしまう事を語り、恋人と同士の話で、色々選択肢があるように見えて、実際選べる事はほぼ決まっていると語っている。時代が変わり、人が変わり、色々変わっても、また同じ過ちを繰り返すかもよってお話だったんじゃ無いかな。
    劇中、宴会のシーンでのラベルの貼ってない、ビール設定の銀缶の飲み物は、ブルトップを開ける時に炭酸ぽく無くて、何なんだろうかと氣になる。

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