無駄な抵抗 公演情報 世田谷パブリックシアター「無駄な抵抗」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    コロナ下での「外の道」以来、イキウメの異色作が自分の深奥に届く。時代を捉える感覚というか。
    今回は世田谷パブリック主催公演で、ギリシャの叙事詩「オデュッセイア」を題材とした前作「終わりのない」(まだ四年前とは・・随分昔に思える)に続き、ギリシャ悲劇「オイディプス」を下敷きにした作品との事だが、そんな前宣伝は全く知らずに観た。
    (結論的な事を言えば、この悲劇の悲劇たる核心の「現象」が今作では現代の悲劇に置き換えられているのだが、原典の物語の副題と読めば納得なタイトル「無駄な抵抗」は、今舞台では痛烈な批評の語になる。)
    前川戯曲に盛り込まれる「不思議」は初期はそれが眼目のような所があったが、その「仮想」は問いを含む。言わば形を変えた現代批評。であるゆえに問いの投げ方により「不思議」の入り方が変わる。前作「人魂を届けに」では「魂」が実体化したらしい奇妙な物体であったが、物語の最初の一歩を刻むこの存在は、物語本体が進むにつれやがて霧消し、象徴的存在として最後には「処分」された。
    今作の「不思議」は、いつしか電車が止まらなくなった駅(なのに駅として稼働しており「電車が通過します」のアナウンスが時折流れる)の存在、なのだが、効率化と省力化が進んだ先の、僅か先の未来と見えなくもない。少なくとも現代の感覚ではそれはあり得ないから「不思議」に属するが、一歩間違えばそれはあり得るかも知れない。
    物語本体(幾つかのエピソード)が進み、あるいは共有されるこの駅前広場が、冒頭大道芸人(浜田)に紹介される(円形劇場の客席のような円弧を切り取った数段ある頂上の高い造作)。そこから劇は始まる。
    場面乗り入れの演出も「不思議」との微妙な距離感を作る。平場でのやり取りを、人が遠巻きに座っていたりして、円形劇場風の階段から見るともなしに「見ている」ようで別の次元にいる風である。役を演じた後は椅子に座って役者自身に戻るアレにも似るが、ギリシャ劇風にコロスと呼ぶのが近い。結果的にギリシャ悲劇の筋書きが、円形劇場の中、皆が揃った前で成就するのである。
    各エピソードは、会話により語られる対象であるので、その場所は必ずしも「この場所」である必要はない。が時折、語る人物らによってふと意識されるのがこの駅前広場であり、「電車が停まらない」現象についても言及される。そしてカフェを開く青年(大窪)や警備員(森下)の存在があり、とある社会の一角である事を意識させる。
    今一つの「不思議」は、場面が閉じられるタイミングで浜田が「○○はこんな夢を見た」と言い、人物らが場所不特定な存在となり夢の構成に動員される(コロス的)。夢判断=深層心理のレベルへ観客を誘う。
    かくして全方位的演劇の世界が具現し、「次の瞬間」への集中力が否が応にも鋭さを増す。

    ネタバレBOX

    謎が少しずつ「謎」と意識され始め、その解明へと静かに動き出すミステリーではあるが、人間世界を俯瞰する視点が絶妙に確保されている。クライアント(池谷のぶえ)と旧占い師・現カウンセラー(松雪泰子)の対話が中心だが、一見関わりのない他のエピソードが徐々に関連を帯びて来る。それと共に、物語の濃度は加速度的に高まる。
    最後に残った結ばれないピースを、探偵(安井)の「目星はついてます」の一言で繋ぐ見事な終幕。
    オイディプスとの関連を知っていたら、結末は読めただろうか・・?分からないが、無理くりにねじ込んだ設定とは感じなかった。

    電車の止まらない駅では、人身事故が起き、脱線、追突事故まで起きる。愚かな人間の作ったシステムが愚かな結果を生む。それは恐らく、間違いなく、正にその愚かの極致にある「今」に向けられている(破壊的な顛末にその含意がありありと読める)、と感じる。
    物語の結末に辿りついた人物たちは、そんな社会の象徴でもある「電車の停まらない駅」に対する同情、理解、擁護を止め、一種蔑みの視線を向ける(舞台正面上方を見上げる)。彼らの中に希望を見出す自分がいる。

    0

    2023/11/22 23:22

    1

    0

このページのQRコードです。

拡大