実演鑑賞
満足度★★★★★
本年屈指の話題作の登場である。
木ノ下歌舞伎が岡田利基で桜姫をやる。どうなることか、と芝居ファンは固唾をのむ。
これまでの芝居狂の方々の「見てきた」のように、意外にオーソドックス。いつものようにほぼ満席の劇場だが、いつもはあまり見ない若い男女が多い、これは成河、石橋静河のファンだろうが、こう言う芝居の出来る役者のファンと言うだけあって、場内皆固唾をのんでいるジワが、開幕から続く。こう言う小屋の緊張感は、なかなか味わえない。若い人たちにとっては単に「モノメズラシサ」かもしれないが、モノメズラシサは芝居の出発点だ。
総評から言えば、一番は、この役者二人の大出来が一番だろう。最初の出会いで、成河が桜姫に惹かれてふっと立ち上がるところ、様式化されていない現代演劇の美しさ。最後の桜姫、清玄二人だけになって、ここだけはチェルフィッチュ風の見せ場になるが、振り付けも良いが、二人の役者としての切れも良く素晴らしい幕切れになっている。
演出がメタシアター仕掛けになっていて、それぞれに数役を兼ねる他の役者も全員舞台に出ずっぱり、下座は電子楽器一本で始終音が出ていてこの演者(荒木優光?)も出ずっぱりで、生身と役を往復して大健闘ある。軍助の谷山智宏,変ななまめかしさを見せるお十の安部萌。普通の芝居と全然違う間の作りがうまく、俳優の現実の肉体と役を、距離を持ちながらも往復する意味が、よくわかるように演じられている。たいしたものだ。
本は木ノ下が補綴したものを、岡田が上演台本にしたようだが、とにかく南北の原作に従ってちゃんと七幕まである。大歌舞伎でも見たことのない場があるが、物語はどんどん進む。桜姫は、今は南北の代表作のように言われているが、初演以後はほぼ百年お蔵に入っていたという難物。昭和になってからの復活も、孝夫・玉三郎の京都南座の大当たりまではさして受けていたわけではない。要するに話に「実は」が多すぎて、時代劇というハンディもあって、見物はついて行けないのだ。ここ四十年の名作である。
岡田利基は、その難しさを、チェルフィッチュガ開発した「今から何々をやりまーす」と宣言してから演じるという「三月の五日間」の手法で解決した。舞台中央に縦型のスライド映写のスクリーンがあって、シーンが始まる前に次のシーンの登場人物とあらすじが投影される。そこから周囲に控えた俳優が舞台でその場を演じるのだが、この流れが非常にうまくいった。木ノ下歌舞伎で、よく、始まる前に芝居の予告編と称して、全編の登場人物と見せ場を見せてしまう、という手を使っているが、これがこの複雑怪奇な演目によく似合って
成功している。これを見ていると、ホントは、場の設定だけ出来れば、スジはどうでもいいのではないかとさえ思えてくる。しかも、この上演に関してだけ言えば、このメタシアターの作りともに合っているのだ。期せずして、古典から現代への見事な通路になっている。
岡田利基はパンフでも今作は、古典を現代に翻訳しただけ、といっている。あまり解釈批判を避けて、と言ってもいるが、本人も言うとおり、それは避けられないから、いろいろな意見が出てくるだろう。コクーン歌舞伎の時だってその批評では大げんかがあった。今回は、周到な出来だから、あまり大きな論争は起きそうにはないが、やはり、これは現代の若い世代のトップスター的な演劇人が、難物の古典に取り組んだ成果の一つとして財産にしていきたいものだ。
と書いたところで夕刊が来たので、開いてみたら朝日新聞の夕刊にこの劇評が出ている。全くとんちんかんな劇評で、見てもいない初演時の俳優の心境を元にこの芝居の原点にし、俳優を共演者すべてをなぎ倒す者をよしとし、相対主義が役者の演技をも解体すると断じ、全体を虚無的な芝居ごっこであると結んでいる。他にも短文の中にワケのわからんことを権威に寄りかかって得意そうに言いつのっている!木ノ下も岡田もこの筆者よりは年下だろうが遠慮することはない、反論するなり、からかうなり、言ってやらないとこの貴重なトライアルが無駄なものになってしまう。馬鹿につける薬はないと笑って許すんじゃないよ!