見えざるモノの生き残り 公演情報 イキウメ「見えざるモノの生き残り」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    Dear,ハピネス
    エキセントリックな妄想が濃度を上げながらゆるやかに、現実という静謐なサークルをまわり続けて着実にその形を失っていきながらアウトプットされる世界は、半信半疑であろうとも、受け入れざるを得ない現実として大胆に提示する作風と英語を日本語に直訳したような説明的なセリフを抑揚なく淡々と話す役者陣がその特異な世界観を更に唯一無二なものへと昇華させるイキウメだが、他の方々も言及されている通り、今回は少々勝手が違う。私も正直、戸惑った。なぜなら、立ちはだかる現実問題に追い詰められたひとたちは、そこにある対人関係をごまかさないでしっかり向き合おうとしていたからだ。
    とはいえこの芝居を見た直後は、なんだか物足りなさが残った。けれど後々、思い返せばひとはそんなに不幸でない時、幸せについてあまり深刻にならないし、さほど執着しないものだと気づく。そう思うとこの、一見ほのぼのしたようにも思えるドラマには、不満を感じるくらいで丁度いいのかもしれない。

    かつて人間として存在したモノたちと、何かが崩壊しかけた者たちが、ささやかな交流の先に、それぞれの世界でちゃんと生きようとする物語。110分。


    ネタバレBOX

    物語は新入りの座敷童子、ナナフシに先輩座敷童子タイコウチの経験談と、
    なぜ彼が座敷童子になったのか。そのあらましによって描かれる。

    舞台は上段下段に分けられて、下段にまだ死んでいない人間が、上段に座敷童子が配置され人間界を軽く俯瞰するような形だ。舞台美術は非常にシンプル。イス数脚に机。扉に見立てた木枠がひとつ、あとは、上段に柵が2つだけ。照明は透きとおった群青色で、夜明け前を思わせる。

    人々の行き交う足音。都会と思わしき雑踏の中で、舞台に背を向けたひとりの青年に中年の男は声をかけ、一緒についてくるよう指示。そしてこう言う。
    「お前は今日からナナフシだ」
    青年は自分が誰だかわからない。記憶がないのだ。青年はナナフシという名の座敷童子である自分を”受け入れる”

    座敷童子にはお宅を訪問する際、その家に住む者が全員そろっている時でなけれなばらない、「お茶をいっぱいいただけますか?」と言う。人間に触れてはならない、恋をしてはならない、など様々なルールがあり、先輩であるタイコウチの経験談をシュミレートしながらそのHow toを学ぶことに・・・。

    タイコウチの担当した梅沢夫妻はどこにでも居る、普通の夫婦。いただきます。とは言うのに、ごちそうさま。とは言わないことや、自分のことを愛してる。と言葉にして言ってくれない夫の態度に妻は不満があり、夫の方は起業したものの軌道に乗らず、苛立っていた。お互い夫婦関係がうまくいっていないことは自覚しているようだが核心にせまる話合いを避け、顔を合わせれば何となくその場を取り繕ってやり過ごしてしまう。

    すれちがっている夫妻のもとにある日、顔はオッサンだが子どもみたいな体たらくのタイコウチと名乗る座敷童子(子どもじゃないので正確には”家守”)が訪ねてきた。夫妻は”座敷童子”という存在は知っていたものの、座敷童子は鬱蒼とした森のなかにぽつねんと佇む日本家屋にいるもので、高層ビル群が鎮座するトーキョーシティーにいるものではないという固定観念から最初は少々戸惑っていた。奥さんの方は夫婦関係が冷え切っていたということもあってか好意的だったが、旦那の方はあまり気が乗らない様子だったが「座敷童子は幸福をもたらします。」という一般論をタイコウチが投げかけると、旦那はとても好意的に”受け入れた”

    夫妻は自分たちの願いを叶えてもらうことを望んだ。
    「あなたは何をしてくれるかしら?」
    タイコウチは言う
    「わたしには何もできません」
    ”座敷童子は幸福をもたらずが、願いを叶える能力はない”(←当日パンフレットより抜粋)のだ。

    がっくり肩を落とす夫妻だが、座敷童子が家に来てからというものの、どういう訳か事態は好転。妻は夫の仕事を手伝い始め、事業は右肩あがり。夫婦仲も好調だ。やがてタイコウチは任期満了のため家を出た。

    座敷童子がいなくなると、それまでの幸せも同様に、いなくなってしまうものなのだろうか・・・。夫の事業が傾きはじめ、夫婦は喧嘩が絶えなくなった。夫は幸せであることに対して消極的な発言が目立ちはじめ、タイコウチからせん別にもらった幸福のシンボル、ふわふわの天使の綿毛のようなケサランパサランもふたりの目にはもう見えなくなっていた。

    失ったらまたもう一度一からやりなおせばいい・・・。
    夫婦がお互いを受け入れた時にふたりの目には確か見えるケサランパサランは、彼らのこれらを祝福しているかのようだった。

    すべての人間関係は他者を肯定するところからはじまるが、何かがうまくいかないとき、何かのせいにしたいと思うことがある。それでは思い通りにいかないのは当然だとわかっていても、良いアイディアも浮かばず、頭を抱える日々が続くと藁をもすがるおもいで何かを頼りたくなる時もある。
    座敷童子はそんな人間の弱さに対して何も出来ない。けれど誰かをひたすら見守る無力な存在としてそこにいるのが彼らの精一杯のやさしさで・・・。
    誰かに何かをしてもらえないと誰かに何かをすることを躊躇してしまったりもするけれど、そんな気持ちを翻していくことが人間の独善性を立ち直らせていく手段であるし、地にしっかりと足をつけ、前を見据え、こじれた関係を修復し、許し、受け入れ、助け合うことができるのならば、そしてどんなに辛い時でも、隣人をおもいやり、愛を持って接することをを忘れなければ、ひとは孤独という呪縛からほんの少しだけ救われるかもしれない。


    物語は後半、ナナフシが断片的に思い出した記憶の断片とナナフシが見たある二人の掛けあいから梅沢夫妻とは異なる幸せについて検証していく。

    自分は何者であるのか?その手掛かりになるナナフシが思い出した断片的な記憶とは、自分の名前は竹男で母は竹男を女手ひとつで育てていたが竹男が思春期の頃のある日、男を作って家を出ていった・・・というもので俗っぽく、お涙頂戴系のテレビ番組などで見受けられるような、不憫でよくありがちな話。これが非常に短いダイジェストで簡潔に説明される。(他人の不幸はこれくらい軽いという現れ。とも受け取れる)
    そして家を出て行く母親が、困ったらここに連絡を入れるように。と投げやりによこした番号に一本の電話を掛けたことから彼の人生の速度があがる。

    電話口で男は今から来るよう指示。母と薄い繋がりのあるその男は便利屋だった。主な仕事は借金の取り立て。堅気な仕事とは言えなかったが、ナナフシはこれを”受け入れる”
    矢口という若い男に先導され、持田喜美という若い女性の働くファミレスに行く。彼女の両親は莫大な借金を残して行方をくらましてしまったため、彼女がその借金を引き継いでいるのだそう。彼らの仕事はもちろん滞っている借金の返済をさせること。持田喜美の住む部屋まで押しかけ、借用書をチラつかせる。竹男はおどす役を任された。(仕事初日ということもあり、即戦力になっているとはいえないような仕事ぶりだが、彼なりにベストは尽くしているようだ。)

    矢口は持田を説得し、自己破産させようとするが持田は、借金は自力で返していくという。持田は両親が自分に借金を残していったのは、自分に試練を与えるために良かれとしてやったことでそれは生きる糧のようなものだ、と反論。すると矢口はキ ミ ハ オ カ シ イと言い放ち、ナイフを取り出し『俺はキミの幸福の糧を奪う』と脅す。

    他者から見れば明らかに「この人はどうしたって不幸だ。」と断言できるような状況下でも、本人が満足感を得られているのであれば、幸せなんだ。と言えるのか?幸福とは満足している状態のことを表わすものなのか?答えが停滞するなか、幸せの価値基準について問うこのドラマは途中で打ち切られることになる。竹男による持田への暴力行為を持田の家に棲みつく座敷童子、日暮の一手がイザコザと竹男の人生共々を終わらせたからだ。

    かつて竹男と呼ばれた男の一生はあっけなかった、本当に。当人もそれを認めていて、肉体的な死をポジティブに捉えている。彼は自分が死んだホントウの理由を知らない。単なる心臓発作で死んだと思っている。
    日暮はチームリーダーの金倉(別名:ゴッドファーザー)にナナフシにホントウのことを言った方がいいかどうか、判断を仰ぐ。
    金倉は別にいいんじゃね?とでもいうような非常にフランクなノリで交わす。
    ”知らない方がナナフシにとっては幸せだと思うから”なんだろう。

    もしも人生が理不尽を受け入れることの連続なのだとしたら、唐突に命を落とすことになったこの運命とも言い難い不憫なアクシデントを納得し、素直に受け入れられるだろうか?あるいは、もともと自分はこういう運命だったのだ。と諦められるだろうか?
    座敷童子になれる基準、ちゃんと死ねなかったモノ。とはちゃんと生きられなかったコト。への未練のように思えるのだ。
    その罪滅ぼしのためにも座敷童子としてよみがえり、第二の人生とも言える道を”別れの練習”を繰り返しながら、生きる受難を受け入れ、生きる喜びをもたらそうと日夜励んでいる姿は、とても切ない・・・。

    すべての行いは愛があるかないか。で決まるという話をどこかで聞いたことがある。この物語には人間に対する根源的な愛と、現世を生きる者へのささやかな想いと営みで溢れていた。信ずるべきはオカルティズムなパワーではなくて、あなたのすぐそばにいるひとたちなんです。

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    2010/01/11 02:08

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