アイ・アム・ア・ストーリー 公演情報 シベリア少女鉄道「アイ・アム・ア・ストーリー」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    シベ少、と略して語る兄貴の「伝説的」過去作品解説を印象深く聴いたのは7年近く前の事。自分の知る演劇とは違う世界の事として聞いていたのだが、気になり始めた。元来好奇心は強いが行動に移るのは遅く、一年位置いて赤坂REDで観たのが伏線仕込み90分、回収15分という勢いの代物であった。独自に確立された世界観が提示されていて、印象的だったのが俳優たちの演技。真情を演じつつどこか見る者に突っ込ませる余地を与え、徐々に壊れて行く塩梅が舞台を成立させている事が、私の発見であった。話自体は伏線回収を全て把握できなかったが中々面白いと思った。
    二回目の観劇機会は程なく訪れたが私的には残念な出来。数年が経ち、今回新しい劇場で三回目のシベ少観劇となった。

    ネタバレBOX

    会場のせいか、声量に些か心許なさがあり、特に後半音楽が必須となり、音量バランスの点で勿体なかった(致命的という事ではないが舞台のパワー的にはもっと欲しかった)。
    狙いは明確に分かる舞台である。こういう事を考え続けている主宰の執念には呆れ、もとい、感心する。もっともこれは「演劇を使って」遊ぶ舞台と言える。そう言い切ってしまうのが正解な気がする。
    舞台の進行の不自然さから意図は早々と見切れてしまうので、プロセスをどう面白くするか、狙った部分が明瞭に伝わるように工夫するか、といった部分が割と大事そうである。壮大な(荒唐無稽な)展開の中には「人間を描いた」側面もあるにはあるが、そこが大きな狙いだとすれば少し別のあり方が考えられるのかな、と思う。従ってこれはとことん「遊ぶ」ための舞台である、となる。

    「物語」を少し紹介すると・・ある無医島に若い医師がやって来た(前に居た医師の後任として)。彼は人々に好かれ、彼に思いを寄せる女性もいる。椅子を持ち込んで待合室で休む婆さんもいる。これを取り巻く村の人々の人間模様の断片が、順次描かれる・・夫を亡くして毎日祠に祈っている女/人々が行き交う場を提供する居酒屋のママ/島興しをもたらす大人物を歓迎する人々/転向して来た女の子、彼女と睦まじくなる野生児的男の子/若い医師が元居た都会の医学会に身を置き彼を連れ戻しに来た女医/などなどまだ色々)。これらの場面が各々の短い展開を見せ、くるくると転換して行く。
    当然、役者は役を兼任しているのだが(最初の温厚な医師をやった野口オリジナルがもう序盤から頭にハチマキの村の職人風に扮して笑いを取る)、やがて素早い展開の中で出オチしたり、衣裳替えが部分的だったり、息を切らして出てきたり、誰それがもうすぐ来る、と言われた役の者が「いや、誰それは何何の用で来れない」と言ったり、苦し紛れに「そうだ、何何」と用事を思い出したように退出したり、次第にあからさまに「役替わり」遊びの様相となる。そんな中、一人「母を亡くした息子」の役をやる青年が、序盤の登場以来、登場場面がなかなか訪れず、他の役をやるのでもなく(彼が一つの役しか与えられていないのか、タイミングが合わず他の役をゲットできなかったのか、あるいは振られている別の役の出番が訪れないだけなのかは、不明)、役替えが苛烈になるにつれ、居ても立ってもいられない様子で(彼がいないはずの場面に)出て来始める。
    彼の鬱屈がついに高まり、ある役者が兼任する別の役が登場できず困っているタイミングに、ついに彼は役を「奪う」挙に出る。
    予想される展開における観客の関心は、彼の登場に対し周囲がどう反応するか、だ。「一瞬の唖然」が答え。これにより彼が予め配役されていない役をやった、と推察できる。ただ、彼が不公平に扱われている、という事では無さそうである。いずれにせよその行動は「その時だけ助っ人に入った」という事ではなく、「役が奪われた」事になっているのがミソ。
    味を占めた彼は次々に他の役を演じて行くが、他の役者たちも戦々恐々とし、「後私に残っているのはこの役だけ。これだけは死守する」といった塩梅。この「役略奪」の展開が加速し、「千と千尋」のカオナシみたく(恐らくパロってると思う)、衣裳のみならず役者も自分に吸収して巨体化する。残った者とこの巨体化した怪物との闘いとなり、一人また一人と敗北(巨体に同化)していく・・。

    役者が役をもらう事、役者にとっての「役」とは何か、についての揶揄的な劇展開が頂点に至るのだが、これを現代の「役割」観、承認欲求と自意識の肥大化のメタファーと見るのも正しいと思う。が、そのテーマを掘り下げる芝居と思って見てしまうと、一つの事を繰り返し説明しているだけの単調な劇となってしまう。従ってこれは役者が役を与えられ、演じる形態としての「演劇」を茶化している劇、と見るのが正解だろう。もちろん、この芝居のフォーマットで役者がどれだけ弾けるか、を楽しむ劇でもあるが、私の好みとしては、「別の役に移れず困っている」素振りが、噛み砕きすぎ、親切すぎ、であり、興が殺がれる感がある。もっともそうしなければ判別できない数の役があり、意図が伝わらない時間が生じてしまう可能性もあったかも知れぬが、それでもシレっとやってしまうのがシベ少では?と、門外漢だが思ったりもする。

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    2022/10/21 22:40

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