実演鑑賞
満足度★★★★
結局観たのは千秋楽だったようで(分ってろという話だが)、少し硬く見えたのはそのせいか。最前列で表情が「見えすぎた」のか、それとも時々役者と目が合ってしまう事があったが(目立つ外見ではないと思うが)調子を狂わせたとか、または良い評判に答えようと肩に力が入ったか・・など、一方では面白おかしく展開する芝居に乗っかりながら、何故か頭では芝居の条件やら客演は誰かといった事を考えていた。寝落ちしそうになるのは我が体の問題で例に違わずであったが、どこか覚めてしまうのを超えられない所が正直あった。
恐らくこの舞台の作られ方・形式が「今の自分」の欲するのと少うし違った。焦点は音楽に向かう。
音楽は頑として変らぬ存在感を持つ(楽曲を変える訳には行かないから当然なのではあるが)。俳優、及び芝居本体と、音楽の配分、関わり、兼ね合いといった事だと思うが、観ながらの感じ方では音楽が前に出、作曲家がイメージを塗り込め過ぎであった。そのように感じてしまう具体的な断片は、コーラスガールの歌いの崩し過ぎな所であったり、上田享氏のピアノのサス(残響)の入れ方等音の存在アピールの強さであったりで、芝居に対する音楽の位置づけがどう決定されるのか、演出と音楽家の力関係は・・等も頭を巡った一つであった。
が、音楽は芝居を補完しており、それが狙いだった事に疑いはない。好みで言えば冒頭歌われるタンゴ調は素晴らしく、頻回挿入される「チーチコフ!」は頻回使用には耐えなかった。
対峙する芝居本体の方である。物語の発端である「死んだ農奴を買う」理由、チーチコフの目論見と勝算がきちんとは飲み込めないまま物語が走り出してしまった。音楽の時間と、芝居の時間、それぞれが理想的に共存したかったが音楽に引っ張られて進む時間の中でドラマは多面的な顔を出す余地がなかった、とは繰り言になるが、キャバレーチックな音楽は明快な物語にそぐわしく、不明さを残す所では些か邪魔になった。
ゴーゴリと言うと「鼻」「外套」など身近で小さなアイテムが大きな騒動を引き起こす様を通して、問題の個人より社会を笑う引きの視線がある(と言っても両作とも芝居でしか見てないが)。チーチコフという存在もそのようであるが、彼は何を欲したのか。