日本人のへそ 公演情報 こまつ座「日本人のへそ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    念願叶った井上ひさし処女戯曲の観劇。ごりごりとした感触、注げるものを全て注ぎ込んだかのような・・である故に場面の作りに精巧さの濃淡があるが、掌を加えない(己に)容赦をしない作家魂。この手触りは井上戯曲ではこれまで味わった事のないものであった。
    第二幕冒頭より展開するは、井上コント(てんぷくトリオ)のフレームを折り重ね束ねたような、同性愛モチーフの精巧な産物、その勢いを減じる事なく(題名が示唆する)井上流ナンセンスを織り交ぜた日本人論が開陳され、手綱を徐々に締め上げるような筆致で終幕へ一気に突き進んだ。
    第一幕は説明の省略技法=歌の多用により、吃音者の治療プログラムとしての劇(劇中劇)の開始以降ノリよく場面展開する。「参加者」の一人である東北出身の女性(小池栄子)の半生を「サンプル」とした劇だが、学もなく世間知らずの十代少女が東京に出、苦界に身を堕して行く主な舞台はストリップ劇場、その描写のディテイルは井上氏にしか書けないフィールドだろう。(戯曲を書こうとする者の多くが自分の体験をベースに書く(事により処女作の脱稿に至る)と言われる。文豪井上ひさしも例外でなかった。。) 惜しむらくは、作品が対面している(事が判る)時代、すなわち冷戦下にあって経済成長を遂げた日本特有の政治的版図、右翼と左翼の対立の表れ方が風刺の対象になっているが、現代に置き換え・読み替え可能とは言えここには宇野誠一郎氏の楽曲が伴走し、時代の制約から脱しきれない。
    ただ、第一幕の語り手である(吃音研究者であり治療プログラムを主催する)先生(山西淳)をはじめ、役者はエピソード説明のため奔走し、小池以外は皆多くの役に扮して八面六臂、このエネルギーが時代感覚の落差を相殺して余る程である。ナンセンスコント風二幕と併せ、この劇は作家の筆に俳優が疲労困憊の域にまで酷使される様を見る劇、とも言える。
    もちろん最後に訪れるのは「役割を演じきった」アスリートへの称賛のみでなく、戯曲の背面から立ち上る思想、作者の眼差しのようなもの。「見て来た」者だけが語れる人間と社会の「現実」、それを直視し批判でなく包摂しようとする精神、言ってしまえば人間愛。どのような人間の中にも生への願望、欲求、情熱、そして体温があり、打算に走ろうが妄信に迷い込もうが、そこに確かに「人間」という存在を見る眼差し、のようなものだろうか・・。他にありようなくそのようにしてある人間、を井上氏は描写する。それは人間の限界でもあるが、この眼差しは私達に、これ以外になり得ない自分、これ以上に気高くはなれない自分に今なり得ているかを問い掛ける。

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    2021/03/28 07:05

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