罪の滴り 公演情報 白狐舎「罪の滴り」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    紅王国、白狐舎いずれも未知なる集団。どちらも1テーマを丁寧に掘り起こして劇化し、面白味があった。民家の一室、ダイアローグを交わす俳優の身体のありようを間近に「観察する」自分と、その視線に耐えて身を「さらす」俳優。この非対称性。つくづくえらいと思う。
    前半はオウム事件で指名手配された長期逃亡者の男女をモデルとした二人の会話劇、それぞれ別の犯行にどう関与したか、など事件の細部に触れ、実相を探りつつも、そこにいるのはただ二人、その心の行き交いにフォーカスしたいような、そのままにしておきたいような、作者と書く対象の微妙な距離感。後半は主に猟奇殺人と騒がれた実際の事件を題材にミステリー小説を書いていた男と、女性編集者の、ある日の顛末。女の催促にあい、男は書けなくなったと漏らすが、男がどのようにして「書いてきたか」、それゆえ「如何に限界か」が男の口から語られ、協力を申し出た女は口述筆記を始めるものの、それでは済まない猟奇な事態に巻き込まれて行く。
    どこかしら既視感のある物語ではあるが、言葉が俳優の体を介して立ち上る新鮮さがあって、それは「この瞬間、新鮮にあろうとする」以外に術のない所に俳優を立たせる「場」の力では、、などとまたテキトーな事を考えた。胡座の足はつらかったが、心地よい「芝居の時間」であった。

    ネタバレBOX

    既視感のある、と書いたが、前半は実際の事件が下敷きだから当然といえば当然と言える。後半は死の倒錯の物語。交尾中にメスに喰われるオス状態? 死即ち生命という事になるが「死」が相対化される渦の中には若者が嵌まりやすい。宗教しかり、社会運動もある意味でしかり。
    編集者という職務は作家に本を書かせる事。懊悩をさらけ出しながら惨殺事件の再現描写を(口述筆記する彼女の前で)のめり込むように語る作家は、作品を上げることの代償、即ち自分自身が殺人者となる事(恐らくその心境に近づく事)のダメージを、懊悩の内に編集者に語る。「これ以上は書けない(なぜなら殺人者の心境になるのがつらいから・・という意味になる)」そう作家は終始一貫変えない懊悩の表情で確かに言った。だが彼女との会話の中で、いつしかこう言っている。彼女が本心から「書いてほしい」と願うのなら、自分にその心境に近づく手助けをするべきであり、それは即ち彼が殺人に手を染める事(そうでもしなければ作家人生のこの先はない)・・つまりは彼女が自分に殺される事である・・。
    この論法を半ば狂気の内に男は女に説き迫り、キリスト者である(らしからぬ風情なのだが)彼女の「信仰」の論理を切り崩して丸裸にさせ、さらに畳みかけて編集者の首を絞めると、彼女は受入れるのだった。
    それが望ましい事であり自分の職務でもあると信じた瞬間が一瞬でもあり、殺される事を「論理的に」受け入れた彼女ではあるが、ここには命の価値についての「倒錯」がある。
    男が本当に「自分で殺人を犯す」事なしにミステリーを書けなかったのかどうかは分からない。何をやれば男が「書ける」ようになるかは男の恣意に委ねられ、女は「何でも協力する」と言質をとられた以上男が出す条件を飲まない訳に行かない・・というのが理屈だが、この理屈を「なぜ」女は甘受したか、と考えねばなるまい。
    作家である男との間に生じたエロスの為せる仕業、が答え。女は果たして、鬼気迫る男の様子、連射される言葉と悲壮感にエロスを抱き始め、エロスの麻酔の内に死を受け入れていったのか、それとも「論理を受け入れざるを得ない所」に立たされた事でエロスという麻酔薬を自ら発散し吸引し始めたのか。しかし恐らく前後関係は実はどうでもよく、こういった順逆は人間の常。
    死をも相対化するエロスというテーマは古くて新しく、新しくて古い。

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    2018/09/05 08:28

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