フラジャイル・ジャパン 公演情報 刈馬演劇設計社「フラジャイル・ジャパン」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    鑑賞日2018/05/26 (土)

    非常にたくさんのモチーフが詰め込まれている。宣伝時・作中含めてダークツーリズムを前面に出してはいるが、どうもそれ以外の要素の印象の方が強く残る。

    街に住む人々の…自分の想いに周りを引き込もうとする「業」の方が強く迫ってくるのだ。…DV、不倫、出世欲、心理誘導、利権誘導、村八分、憶測による勝手な噂… 災害絡み"以外"のトラブルの方が非常に目につき、災害よりも「人間怖え…」の印象も少なくない。

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    ネタバレBOX

    (続く)

    役者の個々の演技の見事さや、各シーンの演出が好みである故か、観後の満足感は極めて高いものの、さて作品として消化しようと思うと…なかなか噛み切れない。

    「76をめぐる暴言」以降、刈馬作品にかなり心酔している私ですが、これまでの「表出する緻密さ」とはまた一風変わった印象に戸惑いも生まれました。いつも人間を凄い彫り込む感じが刈馬作品にはあるんだけど、今回のどの登場人物にも感情移入を許さない感じは何なのだろう… そこに何か狙いがあるのではと窺ってしまう。

    ぎゅうぎゅうに詰め込まれた要素と、発散気味に見えるバランスと、…相反する印象がある掛け合わせのぶつかりあい。そのくせ…かなり観客に委ねたテーマの掘り下げ。

    だから観る人により…もっと言うと観る人の「バックボーン」により、心に残る「印象」と「感じる想い」がかなり違うのではと思いました。

    結局、最終的に私がコレだ…と思って汲み取ったポイントは…

    「無責任に…他人に過剰な責任を課す社会の怖ろしさ。それが日本社会に蔓延していることへの警鐘。」です。

    草平が記憶を取り戻すことで明かされる…災害当時の意思決定の過程。

    「無理な避難をして(それで怪我人が出て)、もし何も(災害が)起こらなかったら…責任がとれるんですか?」

    そういう言葉が出るほど…普段から追い詰められている「教師のシビアな苦境」が慮れる。報酬を大幅に超えた過剰な責任の負荷、社会圧力。

    「過剰な責任を…さも当然の様に負わせる空気」が、危機において「勇気ある決断と行動」を阻んでいたという事実が、深刻な負のスパイラルを感じさせます。

    9年前というと実は自分の子もちょうど中学生で、その先生たちが自分が中学生の頃の先生たちと比べると…萎縮した感じ、学校自体が社会に対してガードを固めた感じがあったのを思い出します。モンスターペアレントって言葉も既にありました。何となく符合する気がします。

    ​そして災害後においても…コトに決着をつけるために…「人身御供」あるいは「みせしめ」を要する社会圧力の空気も非常に重い。

    健三を中心とした訴訟は、おそらくは個人対個人の衝突のキッカケを大きく超えて、便乗した勢力により膨らんだ暴走を感じさせます。

    防災機能として自らを律し、改善を施していくべき「社会」は…結局何も責任を負わず…人身御供として教師とその遺族のみが割を食った。

    ​ひいては「どこにでもある街の話」というラストが、如何にも「これが日本社会に蔓延る闇である」と言っているように思えました。
    タイトル「フラジャイル・ジャパン」=「脆い日本」…とも密接に結びつく様に思えるこの暗喩。

    実体が見通せぬ日本人社会の圧力による負のスパイラルを強く揶揄しているのだろうか。

    唯一の救いは、イノシシ事件における…
    「私が責任を取ります… だから皆さんも責任をとってください」の流れ…皆で知恵を出そうとするメンタリティですが、これも目の前にいる仲間内の決断だからできたとも思える。

    問題は姿を見せぬ… 責任のない所から正論めいた私見を…さも社会の代表の意見であるかの様に唱えるマジョリティ。

    ただ、そんなことに耳を貸すな、目の前の人のために決断せよ… ということかもしれない。

    今になって考えれば、それを果たせなかった父(遊作)を… 超えて一歩を踏み出したのが、…その娘(環)であるというのは素敵な構図ですね。

    あと、もう一つ扱いが印象的だったのは「被害者の加害者化」です。

    強い被害者意識… 世間も後押しする絶対的正義… それがいつしか…被害者を加害者たらしめる構図もひどく印象的でした。

    訴訟が加害者遺族をこの街から追い出したという事実に対して… 健三がそれを受け容れたのも相手が環だったからこそ…とは思えますが。
    ただ、おそらく健三も遊作を責めたかった訳ではなく、市の危機管理の問題を問うただけだったかもしれず、でもそういう核心の描写は一切なく、その前後の関係性の描写から想像しなければならない… 社会状況を過多なくらいに説明するのに、ここら辺に関する観客への突き放しっぷりは何だったんだろう。

    伊達家と太刀守家の確執の解決(?)が…最後に持って来られるあたり、ここにも核心があるはず。

    だだ健三と海は、言ってみれば「手締め」として心に踏ん切りを付けたが、エンディングに両家が揃う図式は、実は凄まじい相関関係にあるわけで、何か凄い皮肉にしか見えない。…この後味が誘発させるモヤモヤとした感情!

    刈馬作品でよく扱われる「善意のぶつかり合いによる止むを得ない悲劇」は…観客の感情移入をすごく誘引するのですが、本作でそれを敢えて阻む感じになっている意図はなかなか掴めないでいます。

    …ただ先述の通り、観る側のバックボーンにより異なる「引っ掛かり場所」を無数に作ってあるのだとしたら、観客数と同じぐらい…壊れつつある「脆い日本」が映るのかも。

    さてここまで長々語って、もう各論には入れないですが笑、ちょっとだけ…飛び道具的な存在感の佐野かおるさんの「街子」とTERUさんの「草平」の関係性は素敵でした。

    思えば、この「街」の話で「街子」という名はすごく意味深。
    この街に一切しがらみのない彼女の振る舞いに、何か作品としての意志があるのかも。…あの…自分が空気を読めないのを理解した上で、周りに必死に誠実であろうとする態度は… もしかしてあるべき態度の指針なのかも。

    あと、やっぱり まといさん演ずる「梨南子」は、解釈を悩ませる存在としてとても素敵でした。あの空気は堪らん。

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    2018/08/18 00:18

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