満足度★★★★
「現代劇」の古典、と言う作品だが、今見てもとても百年前の作品とは思えない。日本にも戦時中に紹介されていて(イタリアは枢軸側ですからね)おなじみで、見ていると、ア、別役はここを読んだな、とか、野田もここはいいと思ったな、とか唐はここだな、と気づくところが随所にあって、戦後の新しい演劇に大きな影響があったことがわかる。もちろんそんな裏読みをしなくても十分楽しめる面白い下世話な筋立ての戯曲なのだ。
不条理劇とか、メタシアターの元祖のように言われているが、人情劇としてもこなれている。今回は長塚圭史演出で、テキストは台詞を整理しているが、はしょってはいない。劇場の枠組みを何度も見せて、メタシアターであることを意識させながらも、メタシアターのわかりにくさは回避されている。今見る芝居として時勢に合わせて作られているのだ。
KAAT製作の舞台は、意外な配役があって面白いが、今回も山崎一を登場人物の父親に、岡部たかしを現実の劇団の座長に、草刈民代を登場人物の母親役にと言う異色キャスト。少ししか出てこないが売春宿の女主人に平田敦子が怪演している。キャストを見ると、俳優のガラで、現実と舞台の上の非現実の対比をしようと言う意図があったのかもしれないが、そこまではいけていない。そういう意図はなく全体を劇構造とみて作ったのかもしれないが。
長塚圭史の演出は戯曲に沿った作りで、阿佐ヶ谷スパイダースの独走の頃から見れば随分過去の演劇の成果も取り入れたものになっている。二幕、池のほとりで少年が木陰から覗くところ、台詞も何もないのだが妙に印象に残って、元戯曲を読み返してみたらちゃんとト書きに「出演者が驚くほどうまく覗く」と指定してある。丁寧に戯曲も読んでいることがわかる。
珍しく6時開演は児童が出ているためだろうが、やはりこの芝居は7時からのものだ。虐待をしているわけでもないのだから、演劇への杓子定規は困ったものだ。