地獄谷温泉 無明ノ宿 公演情報 庭劇団ペニノ「地獄谷温泉 無明ノ宿」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    明るい怪談 浸る舞台の 面白さ
    北陸の山奥の思わせるすっかりひなびた温泉。観光客も訪れない温泉宿に、「人形芝居」を生業とする父子が訪れる。父倉田百(もも)福(ふく)は82歳、息子の一郎(辻孝彦)もそれなりの年齢のようだ。トランク一つの身軽な二人は、この宿の主人から余興の依頼を受けてやってきたのだった。しかしこの名もなき宿にははるか昔から主はおらず、村の数人が湯治宿として利用しているだけだ。タキ子という常連客らしき老婆(石川佳代)に一泊していくように勧められる二人。帰る手段がないので仕方なくその通りにする。ところがタキ子が泊まる部屋以外の部屋は病気で失明した若者、マツオ(森準人)との相部屋だった。やがてタキ子の部屋には芸姑のフミエ(久保亜津子)とイク(日高ボブ美)が三味線の練習の稽古にやってくる。唯一この宿の管理をしているものと言えば、無口の三助(飯田一朗)だけだが、誰一人として倉田父子に余興を依頼した手紙の主が思い当たらない。執拗に親子に話しかけ続けるマツオ。無言のまま客たちに奉仕する三助。離れた街へ余興に出かけていた芸子の二人が酔って帰宅すると、酔いに任せて倉田父子に「人形芝居」の実演をねだる。百福の異形と、一郎の虚無のような目に震撼していたタキ子も現れると、父子は人形芝居のさわりを演じ始める。その芝居を目の当たりにした一同は、それぞれに強い衝撃を受ける。ある者は感動し、あるものは恐怖し、ある者は欲情し、ある者は…。

    ネタバレBOX

    名もない宿で名もない人々が過ごしたなんでもない一晩を、静かに、しかしどことなく背筋に冷たいものを感じさせながら描いた舞台だった。人々が文字通り裸の付き合いをしながら生きている田舎の、怠惰で終末観すら漂う停滞した空気。その反面、常に首元に剃刀の刃を突き付けられているような、緊張感。それはあきらかにこの異形の父子の到来に端を発しているのだが、冒頭ではあくまでユーモラスに、むしろ観客はこの異形の父子に感情移入しながら、ぽつりぽつりと現れる、身体的というよりどこか心に欠損を抱えているように見える人々に対して警戒する。マツオは見えていた瞳が見えなくなったこと、三助は言葉を話さないことという特徴が与えられている。しかし決して盲と唖は安易な対になっているわけではない。マツオの触覚への欲求は、次第に視覚の補完を越えて、性的欲望にも似たものへと変化する。それを残酷にも煽るのが百福と一郎の親子であり、彼を凌辱することで、父子はある種の支配欲を満たす。一方三助の無言は、義務的な労働と、本人の意志による献身的な行為に忙殺された結果ととらえることが出来まいか。実際演じた飯田は「動作が多くてしゃべる暇がない」「しゃべっていないことに違和感を覚えない」と述べている(デジタルパンフレットより)。言葉を持たない彼が人一倍性欲に振り回されるのは、その動物的な性質に起因するともいえる。
    それに対して女性三人は親子孫の三世代にわたって自分の子供を持たないことへの後悔や不安、コンプレックスといったものが現在過去未来の三様に描かれているように見える。細かく特徴を見れば、タキ子の芸姑の夢への挫折が物語後半の女性陣の「回復」に強く影響を及ぼすのだが、全体としてはマツオ、三助に対してはやや曖昧で画一的な印象を受ける。タニノクロウはインタビュー(デジタルパンフレット)で、「今回は女性を丁寧に描いた」と言っていたが、もう少し明確に三人の、異なる心の闇が描かれていてもよいのではないか。特に年齢的に中間にあたるフミエの個性がやや埋没している印象を受けた。
     倉田父子の存在感が絶大だ。マメ山田は実年齢のひと回り上を演じているが、その年齢はおろか性別すらも観る者の判断力を失わせる妖艶さは恐ろしい。その繊細で柔らかな動作が時にユーモラスでもあり、セクシーでもあり、またグロテスクでもある。仙人のような長髪を束ねるしぐさを、部屋で、脱衣場で、露天風呂と三か所でする度に、それぞれ別の人物が目撃して、全く異なった感情を抱く。三助は柔和な動きと髪をかき上げるその背中を見つめて勃起してしまうのだ。タニノクロウは俳優にも観客にも本当にサディスティックな演出家である。ひとつの事象を多面的にとらえること。演劇にとってそれは極めて重要なことだ。しかしそれはしばしば図式的で説明的な空間づくりに陥りやすい。この作品では、それを見事に視覚化しつつも、そのまま観客に見せることに成功している。それが今回の舞台の特徴でもある、巨大な回り舞台として作りこまれた舞台装置である。宿の玄関、居室(二階家・上がタキ子の部屋、下が倉田・マツオの部屋)、脱衣場、岩風呂の4杯飾りはやはり圧巻だ。近年これほど作りこまれた舞台美術をスタジオ公演で観ることはない。舞台美術に感動することが出来るのも演劇の魅力である。本水を使用した岩風呂の意匠には多くの観客がどよめいていた。裸の俳優たちが次々と風呂に入ってくる。舞台の上の「ウソ」に手加減が見られないからこそ、演じる価値がある(美術=稲田美智子)。
     この芝居の中心はやはり倉田一郎である。タキ子が出会った瞬間から本当に戦慄したのは小人症の父ではなく、「普通」の男であるはずの一郎の瞳の奥の闇だった。異形の父を持ち、学校にも行けずに胡弓を弾きながら厳しい父の人形芝居の伴奏を続けてきた。しかし彼の心の闇の、さらにその奥でブラックホールのように渦を巻いているものは、その人形芝居の人形に対するコンプレックスではなかったか。父の身の丈ほどもある人形は、顔と手が以上に大きい、グロテスクな赤ん坊だ。フミエはあれも百福の子供なんだと気付くと、怖くなって目を逸らし、イクは食い入るように見続け、その興奮は三助とのセックスへと彼女を駆り立てた。異形の人形を息子になぞらえて戯れる父を、胡弓を弾きながらじっと見つめてきた一郎。心の闇は異常なほど奥の深い寛容を作り出す。無関心ではないが、すべてに関して無感動に見える彼の心の深淵は常人のものではない。ほとんど心の動きを見せないが、無感情ではない人間、一郎を演じた辻は相当な苦労をしたに違いない。好演だった(あえて怪演とはいうまい)。
     常に聞こえる虫の音や沸き続ける温泉の水音など、この舞台を支える音は極めて繊細だった(音響=さとうこうじ)。ひたひたと声の湿り気を感じさせる抑えたエコーが世界観を決定づけるほど効果的だったのは語り部の老婆によるナレーションである(田村律子)。前半はメタシアターの効果を、後半には芽生えた恐怖心によって舞台から抜け出ようとする観客の意識を無理やり引き戻すような、いわば桶につけた顔を上げさせないような腕の役割を果たしている。
    文明から取り残されたような過疎の村が、タニノの執筆の契機になった新幹線の開通によって、迷い込む機会すら奪われてしまった日本全国の「忘れられた場所」が描かれている。開発が押し寄せるはずだったが、結局取り壊されることもなく、そのまま存在している、という「何も起こらない」チェーホフ的な明るい残酷さが最後まで尾を引く。唯一惜しむらくは公演期間の短さ。また、夏に観たい芝居である。

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    2015/09/02 22:45

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