青色文庫 -其弐、文月の祈り- 公演情報 青☆組「青色文庫 -其弐、文月の祈り-」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    プログラム A 『十二月八日』(原作・太宰治) 『野ばら』(原作・小川未明)
    リーディング公演2本立て。

    入口に猫が横たわっていた。
    よく出来た置物かと思ったら、ぱっと顔を上げてお出迎えしてくれた。

    ネタバレBOX

    目白にある「ゆうど」というギャラリーは、いつくかの劇団の公演で訪れたことがある。
    使い方はさまざまだ。
    青☆組の公演にはマッチするだろうな、と思っていたら、やはりぴったりだった。

    Aプログラムは、『十二月八日』(原作・太宰治)と『野ばら』(原作・小川未明)の2本立てで60分のリーディング公演。
    座って観て、聞くにはちょうどいい時間。

    両作品ともに共通するテーマは「戦争」。
    サブタイトルにある「文月の“祈り”」が響く。


    『野ばら』
    男性俳優2人のリーディング。
    国境で対峙する2人の男が、次第に心を通わせるのだが、戦争によってその関係が引き裂かれるという小川未明の作品。

    国家の思惑は、あまり国民個々人の感情とは関係ないところにある、ということを強く感じた。
    戦争に限らず、2国間の揉め事の大半はそうではないか。

    タイトルの「野ばら」が、2人の男を結びつけ、若い男の死を連想させるラストまで、象徴的に言葉となって発せられる。
    女性の俳優さんたちは、下手奥に固まって座り、シューベルトの『野ばら』をハミングする。
    時には、鳥のさえずりのような「野ばら」の口笛となる。
    さすがに上手い演出だと思った。

    しかし、彼女たちの気配が強すぎるような気がする。観客の目の前に実際にいるので。
    国境にポツリと2人だけがいるという設定なのだから、女性たちは本当に「気配」だけでよかったのではないだろうか。
    つまり、舞台袖の見えないところにいて、ハミングする、ということだ。

    それにより、2人の男たちを待つ「家族」のことが、より鮮明に観客に刻まれたのではないか。
    このときの「歌」は、暖かい「家族」の象徴となる。
    2人の兵士は、2人だけだったから、関係が築けたと理解しやすいのではないかと思うのだ。

    2人の兵士の距離が近づくときの表現として、並べられたイスの両側に座った2人の距離を実際に近づけていく、というのはわかりやすい。
    しかし、老人の兵士のほうから歩み寄って、距離が近くなったということに意味を感じた。

    また、これは原作どおりだと思うが、死ぬのは若い兵士で、老人は生き残る。
    さらに勝つのは大きい国、というのもとても、考えさせられる。


    『十二月八日』
    太宰治の作品を吉田小夏さんが翻案したもの。

    原作には登場しない、主人公の夫である小説家の妹が登場する。
    妹の出現により、小説家を訪ねてくる学生と妹の関係が、すっと浮かび上がったりする。
    桜桃のような、美しいあめ玉が観客の脳裏に現れる。
    そこには「人」の「営み」が見えてくるのだ。

    リンゴを持っていく家庭のエピソードも、彼らの台詞が入ることで、ささやかで美しい「人々の生活(営み)」が見えてくるようになる。

    妹が見上げる、空から降る雪のエピソード(シーン)は、本当に美しく愛らしい。見事だ。

    そうした作品への書き込みが、太平洋戦争が始まったその日から、彼らのささやかで美しく愛らしい「営み」が徐々に壊れていくであろうということの、予感をさせる。

    ラストに主人公の妻が、夜道を歩くシーンがあるのだが、それとこれらのエピソードが繋がっていく。

    そういう意味においては、太宰治の作品というよりは、そこから発展したものと考えてもいいのではないかとも思う。

    吉田小夏さんは、短いセンテンスとやり取りで、そうした「情」(情景)を表現するが上手い。
    リーディング公演であっても、役者の一挙手一投足に、本当に神経を使っていることがわかる。

    軍歌『敵は幾萬』の2番(?)から始まり、軍歌がいくつか劇中で歌われる。
    軍歌の暴力性を感じたのは初めてかもしれない。
    美しく愛らしい「人の営み」を、強い力でねじ伏せるような響きさえ感じた。
    屍(かばね)ばかり出てくる、『海ゆかば』が象徴的に重なる。

    このような「歌」の使い方は、先の「野ばら」とは対照的だ。
    ここにも演出の巧みさを感じる。
    「歌う」ことで、一方では「家族」の温かさを感じさせ、もう一方では「家族」を破壊する暴力を感じさせるのだ。
    たぶん、「小説」にも「演劇」にもそうした2つの力があるのだろうな、とぼんやり思ったり。

    個人的な感覚なのだが、小説家が「日出ずる国」「東亜」と、「西太平洋」のことで怒るシーンがあるのだが、ここはそんなに強い口調で怒る必要があったのだろうか。
    怒ってみせる、ぐらいのほうが、全体のトーンとしても合っていたように思う。

    「戦争は始まった」という、理不尽さと不安感への、やり場のない怒りのような感情が、「西・東」のことに託けて少し怒ってしまう、というところもあろうが、地理に暗い小説家が、妻に言われたことに対して、(怒ってみせるという)軽いユーモアで返すシーンであり、小説家のことがわかるよう場面だと思うからだ。小説家は本気で怒っているわけではないと思うのだ。
    私は、原作のこの部分をそう読んだ。

    2つの作品に通ずるのは、先にも書いたが、「国家の思惑は、常に国民の感情とは関係ないところにある」というものだ。
    敵・味方と対立する者たちにとっても、戦争が行われる国で生活する者たちにとっても、個人的な感情はお構いなしに状況は進んでしまう。
    「だからどうするのか」の先は、観客が考えるしかない。


    残念ながらBプログラムは、夜の回がないので行けない。

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    2015/07/09 08:00

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