三人姉妹 公演情報 地点「三人姉妹」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    <ジャズ組曲>
    どう表現して良いやら困惑する類の衝撃。一度観なきゃ判らない<地点>をこの1年の間に3作ばかり続けて観たが、今回のはこの劇団の特徴(最大のそれは台詞を不自然な音節で区切って言う)が、一番判りやすい成功の形を見せている舞台ではないかと思った。昨秋の「光のない。」(KAAT神奈川芸術劇場)の壮大さには触れる言葉すらなく、どちらが優れているかという比較の問題では元よりないが‥。
    地点版「三人姉妹」は、元の戯曲を全く知らないと難解を極めるに違いない。ただし、テキストが紡ぐ「物語」と、舞台上で繰り広げられる俳優の身体によって起こされる(台詞の発語も含めた)「事態」とは、何一つ関係を持たないと言い切って誰も(演出も?)文句は言わないだろうと断言したい位「並行」し「自立」している。「テキスト」と「舞台上の事態」の両方の波長が同調したり奇妙なマッチングを示す事もあるが、両者はそれぞれに屹立しているのだ。地点はよく古典を舞台化するが、戯曲紹介として優れた舞台と言える舞台とも違い、よく知られた古典戯曲の<懐を借りて>遊ぶ姿勢を超越している。否、遊んではいるが、土俵は<地点>の側のそれなのである。
    観客の目、「物語」を肯定的に捉える人には恐らくこう見える‥「自然な表現術を奪われた人間(俳優)」を通して語られる事によってテキストの底にある感情や生命力が圧縮され、エネルギーそのものとなって放出される(その想定の中では、俳優の立つ瀬はテキストにある)。逆に「物語」に懐疑的であれば、これを解体するパフォーマンスと理解する事も可だが、こちらの結論は陳腐に思える。「舞台上の事態」がテキストに依存していなければ解体の必要が生じない。
    <地点訛り>の発語について、俳優それぞれの個性に応じた確立のされ方をしている事に、今回気づいた。つまり、地点はずっとこれで行くのだ。地点訛り(否、<地点語>と言ってしまったほうがインパクトを伝えやすいかも知れない)は方法論として既定路線となっており、俳優はそれぞれの地点語を、幅を持つ表現のツールとして育み続けている。その成果を最大限発揮する場としての、三人姉妹であったとも言えるか知れない。
    演出者が当日パンフに、この作品にまつわる「リアリズム」の語を指して地点の舞台も正に「リアルだ」と書いていた。俳優にリアルに語らせてしまうテキストの持つ力の事を言ったのか、「これが我々のリアルだ、ははは」と笑っているのか、判らない。ただ、こんなのリアルじゃない、と言った瞬間「リアルとは何だ」との問いに答えられない自分が居る、事だけは確かだ。
    とにかく俳優は動きづめ、場面は複雑に変化して休む事なく、1時間半と思えない密度だった(もっと長いかと)。笑った。

    ネタバレBOX

    三人姉妹は強引にまとめれば、没落貴族的設定の下あれこれあって、最終的に「身分の確かな人」を得られなかった状況が露呈した段で、三人は寄り添い、ある種の達観でもって時代の変遷を見、あくまで人生の意味を見出そうとするいじましい会話で締めくくられるお話。事は経済的な問題で、だから「働かねば」と言わせつつも、それを強いる何者かに(心までは)敗北するまじという意気が台詞に込められている。ロシアの革命前夜と言える時代に書かれたテキストが今も廃れずに読まれている。今の日本も、事は経済であり、しかしそれに敗北するまじと登場人物に言わせたい時代だが、地点版「三人姉妹」の舞台で現代の照射が意図されたように見えたかと言えば、それは無い(というか読み取らせない)。ただし、古典の再現でなく「現在」の言葉になっている。「吃音する者」の口を通しては「書かれた過去の言葉」にはなり得ないという事だろうか。
    表題は、劇中しつこくリフレインされるショスタコーヴィチ作「ジャズ組曲」ワルツ2番という4分程度の曲。最後「ジャン!」と気持ちよく終わる曲だが途中で流れるのはカットアウトした消化不良バージョン。最後の最後の「ジャン!」を期待しつつラストで流れた曲を追っていると、「ジャン」に役者の叫びが重なって、カタルシス無し。あれこれ、狙いなのかと考えてしまう。

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    2015/03/16 01:47

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