もしも僕がイラク人だったら 公演情報 カムヰヤッセン「もしも僕がイラク人だったら」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    演劇の根源と可能性を感じる傑作
    脚本が素晴らしく、それを十二分に活かす演出・演技も素晴らしい。

    これ以上ない程にシンプルでありながら、極めて本質的。
    演劇の根源と可能性を共に強く感じた。

    お金なんかかけなくても、大袈裟な舞台装置なんか使わなくても、
    人間の力だけで(と言っても、映像と音楽は使われるが)、
    これほどまでに素晴らしい舞台ができる。
    演劇に限らず、表現の根源とはそういうものだったはずだ。

    内容的な問いかけもとても強く、深い。
    にもかかわらず、解釈は多様にできる。

    素晴らしかった。

    <ネタバレBOXは書きなぐってしまっているので、後で整理します>

    ネタバレBOX

    冒頭、演出家であり、出演者でもある北川大輔さんが舞台(と言っても、ギャラリーの壁の前の空間)に登場。
    空間が小さいこともあり、観客一人一人に語りかけるように、「携帯電話の電源などを切ってください」というような内容から、雑談を始める。
    誰もが前口上だと思っていると、そのまま場の照明が落とされていき、ピンスポットが当たり続けている北川氏だけが空間に浮かび上がる。
    そこで観客は、舞台が既に始まっていたことに気づく。
    そこからも、北川氏の自分語りが続く。舞台は始まっていても、これは北川氏自身の過去の独白なのだろうと思って聞いていると、どうやらこれは北川氏のことではなく、脚本の、つまり劇世界の登場人物の話なのだと気づいてくる。

    (この作品の本家の初演では、この部分はどうなっていたのか、とても気になる。演出家がドキュメントとしてそこに存在している場合と、演出家という役者がそこに存在している芝居とでは、その意味あいが大きく違うからだ。と言っても、どちらがより良いという訳ではない。今回の演出はこれはこれで、どこまでがドキュメンタリーで、どこまでがフィクションかわからない感じが、面白かった。)

    この演技と言っていいのか、話術の感じは、まるで噺家のようでもあった。

    その話展開も絶妙で、携帯の話から、今話題のアプリ:ラインの話。そこで送られてきたメッセージを読むと、既読のマークが相手に通知されてしまい、返信しなければならないという脅迫にも似たものを迫られる。それが嫌で、ラインを見ないという本末転倒な人まで現れるというという話。
    そして、中学時に女子の家に電話をするという例を出して、携帯などのホットラインがない時代は、人と繋がるのは大変だったという話になり、そこでは、繋がれなったことで、他者のことを想像する時間があったという話にもなっていく。

    そこから、東京に状況したての頃のアパートでの話。新聞はとらずに、スポーツ紙を買っていた。スポーツ紙には、政治も社会も経済の話題もすべてが2面の中に書き込まれていて、ここには日本人の関心のすべてが凝縮されている。そこにイラク戦争の問題は、本当に小さくしか載っていない。
    ネットの情報を見ても、そこには匿名の死の記事ばかりが載っていて、
    実際の名前のあるイラク人のことは出てこない。やっとの思いで探したイラク人の固有名から、そのイラク人の日常のことを想像しようとする。

    いくら想像しても、自分をベースに考えている限り、イラク人の生活は想像できない。そこで情報を集め再度想像してみる。
    そこから完全なフィクションの物語が始まる。
    ここで、もう一人の役者:辻貴大さんの演技に移る。

    ・・・・ここからも様々なテーマが出てくるのだが、全てを網羅しようとしたら、長くなりすぎるので、ここから先は省略・・・

    タイトル通りイラク人だった自分を想像した物語であり、
    イラク人の主人公を、悪意があったか無かったか不明だが、利用するイギリス人女性が出てきたり、アメリカ人ジャーナリストらしき者も出てきたり、他人事の日本人も出てきたり、、、とかなりある種の権力的なものを批評的に描いているようにも見えるが、主人公自身も、最後にほんのりと我欲も入っているのではないか、、、と感じる部分もあったり(←この点は、おそらく脚本上のものではなく、演技・演出で、絶妙にどちらとも取れるように見せているのだろう。脚本上は、石油を堀りまくって金儲けしようと一見我欲かと思わせておいて、そうすることで石油が枯渇すればアメリカは用済みだと言ってここから立ち去ってくれるだろうという自暴自棄とも・反骨ともとれるオチのつけ方になっていて、両義性を示しているという感じでもなさそうなので。)、、、だが、それを想像しているのはそもそも日本人だという、、、複雑な構造になっている。

    オールラストでは、想像から現実に戻ってきた北川大輔さんが現れ、
    途中で伏線も張られていたブルース・スプリングスティーンの「ネブラスカ」
    の歌詞を読み上げて、幕。以下歌詞。

    「バトンを回しながら 彼は前庭の芝生の上に立っていた
    私と彼女はドライブに行き 10人の関係のない人間を殺した
    先を切りつめた41口径のショットガンを持ち
    ネブラスカ、リンカーンの町から ワイオミングの不毛地帯まで
    行く手に現れるすべてのものを殺した
    俺達がしたことに対して 後悔なんかしていない
    少なくともしばらくの間 楽しい思いをしたんだから
    陪審員は有罪の判決を下し 裁判長は死刑が宣言した
    真夜中の拘置所 俺の胸は革ひもで縛られている
    保安官、死刑執行人があのスイッチを入れ
    俺の頭がガクンと後ろへ折れ曲がるとき
    あの娘が俺の膝の上にのってるようにお願いしますよ
    やつらは俺は生きるに値しないと断言し
    俺の魂は地獄に投げ込まれると言った
    やつらは何故俺がこんなことをしたのか知りたがった
    この世には、理由もなくただ卑劣な行為というものがあるんだよ」
    (訳詞:三浦久)<ネットから拾ってきました。裏とってません。>

    この最後の問いかけによって、それまで、うっすらとこの作品が批評しよとしている対象は見えていたのに、その姿が煙に巻かれる。

    他者を想像することは可能かというテーマは、他者を取り巻く環境や、そこで生じる力学のすべてを想像すること、因果関係を説明づけることは可能かというところまで突き詰められる。

    それでも、それでも、想像しようとすることからしか始まらないということを問うている作品なのだろう。

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    2013/10/05 15:47

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