松ぼっくりⅢ 公演情報 植吉劇場「松ぼっくりⅢ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★


     命の論理、命に向き合う者の倫理、この双方が原点だ、という姿勢に賛成だ。それにひきかえ、原発人災の結果を受けて尚そのことに気付かない原子力推進派の愚かなこと!!(追記5.11更なる追記5.17)

    ネタバレBOX

     親方、松山 吉郎の妹、千代美は長野で無農薬林檎栽培を手掛けている木村 次朗に嫁いでいるが、珍しく1週間も植吉に居座っている。その折も折、次朗が、小枝を1本持って訪ねて来た。林檎の小枝である。蕾が良い具合に膨らんで良い林檎が収穫できそうである。それが伝えたくて、長野から17時間掛け、ヒッチハイクとランニングでやって来たのだ。何故、そんなに小枝1本を女房に見せたかったのか。 林檎は、一度、失敗すると次の年も実をつけることはない。これまで、千代美が、帰宅しても直ぐ戻らねばならなかったのは、無農薬で育てる林檎の木にたかる毛虫などを枝1本ずつ手でしごいて、駆除することに忙しかったからである。だが、何万匹という「害虫」を苦労して駆除しても、林檎は実をつけなかった。悩んでいた次朗は、ある発見をする。それは、自然のあるがままに、雑草や「害虫」の駆除もせず、樹木の本来持つ生命力を高めることによって、おいしく安全な林檎を作ることであった。その実践を始めて初の成果だったのである。無論、問題は、これのみに留まらなかった。次朗の畑の周りで農薬を用いて林檎栽培をしている農家からもクレームが入った。曰く「お宅で農薬を使わないからうちの畑に害虫が飛んでくる」というものであった。次朗は、その隣人を自分の畑と隣人の畑の境界へ連れて行き、虫達の動きを観察する。すると隣の畑から、次朗の畑へ虫が飛んでくるばかりで、次朗の畑に一旦入った虫が、隣に戻ることは無かったのである。隣人も気付いた。そして、自分の畑の林檎の木を総て伐採してしまった。「農薬を使った自分の畑の林檎が、次朗の畑の林檎に悪影響を与えてはならない」というのがその理由であった。次朗は、隣人のこの態度にいたく感銘を受け、枝と共にこの話をすることになった。本来、百姓という言葉は、百の命をまんべんなく育てることを意味する。その為には、駆除するのではなく共生することが大切なのだと次朗は悟ったのである。植吉も庭木を扱う職人として日々命と向かい合って生きる人間の一人である。次朗の話の真髄を即座に合点した。
     一方、植吉は、問題を抱えていた。先代から受け継いだ日本庭園を、父亡き後イギリスから戻ったオペラ歌手の娘夫妻が、壊すというのである。先代の思いや、自分達が込めた丹精と長い時間が蔑ろにされる決定であるため、植吉、職人らは、何度も施主説得を試みるが、イングリッシュガーデンに拘る娘は頑として言うことを聞かぬ。どうしても施主が折れないので、散々、庭の手入れをし、丹精を込めた自分達の手でケリをつけることを選んだ。これは特徴的なことである。即ちどうしても生命あるものの命を断たねばならなくなった時、それを実行するのが、その命に最も近い者だということである。ここには、命と命を賭けて向き合ってきた者のみが持つ責任の取り方が現れていると見ることができよう。
     蛇足になるが、イングリッシュガーデンと俗に言われている庭園概念の歴史は浅い。無論、フランスやローマのシンメトリックな庭園技法はずっと古いのだが、現在、日本で言われているイングリッシュガーデンのコンセプトは、たかだか18世紀以来である。ポープに批判されて、シンメトリックなそれまで流行りの流れが変わったのである。それに引き換え、日本庭園の歴史は、無論、古代中国、朝鮮半島を経て伝わって来た庭作りを源流に、東洋的宇宙観を背景に創られている。一例を上げておこう、借景という技法がある。これは、庭園に石一つ置くにしても、周囲の山々や海川、丘陵などとの関係に於いて庭作りをするということである。仮に、三角形の石を庭の何処かに置いてあるとすると、その延長線上に冨士山が見える、といった具合だ。親方が劇中で言っている、日本の庭は宇宙を表す、というのはこういう意味である。

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    2013/05/10 12:37

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