満足度★
かなしくなったひ
平日の昼間という普通なら舞台が混まない時間にもかかわらず、お客さんでいっぱい。
人気劇団だということがわかります。
芝居を見て、悶々として自由記述欄のないアンケートの裏面にこれでもかって言うくらい感想を実名入りで書いてきました。
さらに悶々が消えなかったので、いま書いてるわけです。
なんか3300円払ったことに対する怒りが収まらない。
同じような感想を持った人はいるかなと思って、Twitterやmixiの舞台の感想を見たんですが、どこを見てもほめることしか書いていない。
埋まってた観客の中で、純粋な観客(=義理枠じゃない人)はいなかったの?
これでいいの?
知り合いの舞台だから無批判でいいの?
そんな感じを受けました。
そんな風に思うのは、おまえのセンスが悪いからだ、とか、舞台の見方がわかっていないからだ、とか言われるかもしれないけど、書かずにいられないから書きます。
私は「表現者(クリエイターと言い換えても可)に対しては基本的にリスペクトを払う」人間です。
私が思う「表現者」とは「表現せずにはいられない人」。
すなわち表現せずには死んでしまう人とも言い換えられる。
血反吐を吐きながら表現しているからこそ、表現行為は尊いものだし、それだからこそ、われわれはその対価としてお金を払うわけである。
だから、表現しているもの自体の好き嫌いということ以前に、「表現者」が出してきたモノにたいしては敬意を表する。
そのことを前提に・・・
集団as ifを見るのは2度目。
前回見たのは先日解散を発表した第三舞台の「リレイヤーⅢ」。
これは劇団の崩壊する様を描いたメタ演劇作品。
もとの脚本があるものなので中身については割愛。
で、見たときに感じたのは、演出がこなれてるけど、元の丸パクリだということ。
高校生じゃないんだからさ。
「リレイヤー」という作品に対して、「自分たちはこういう答えを出した」という答えを期待してお客は見に行くと思うんです。
だって丸パクリなら第三舞台を見ればいいわけだから、
そこに彼らなりの結論を見せないと意味がないわけです。
でも、それがない。
その時点で彼らに「表現する」ということに対する意識の低さを感じるべきだったのかもしれない。
ここからが今回の本題。
今回のお芝居を見て感じたのは、集団as if のスタイルは冒頭のハイテンションからはじまり、ギャグを推進力にして客を温めつつインプロを挟みつつ、後半のシリアスな流れにもっていくというスタイルなのかな、ということ。
まぁこれは一方的に私が感じた構図だから、誤読の可能性が大いにありですけど。
今回まず微妙だったのは、冒頭で複数の会話が同時に進行するという演出。
早口でしゃべったからって興味引かないから!
むしろ苛立つんですけど!
2層構造を表現するにしてももっとテクあるべよ。
あと推進力を生み出すためのギャグがまったく笑えない。
あれだけ客がいて1くすりも笑いが出ないというのは、その時点でだめなんじゃないかと。
でも、ここまではそれほど重要じゃない(ただ笑えないってだけの話なんで)。
今回一番問題だなと感じたことについて書く。
それはインプロで金を取ることについて。
インプロとは即興劇のこと。
集団as ifはインプロが必ず含まれるインプロ劇団らしい。
そもそも、インプロって金取れる形式なの?
いやインプロで金を取っちゃいけないとは思わない。
大道芸的に投げ銭形式であれば、インプロ自体に対してお金を払うから、成立すると思うんですけど。
問題にしたいのはインプロを舞台にして金が取れるのかということ。
そもそも表現として安定して高いレベルのものが出せない可能性のあるものを舞台上に載せる感覚がわからない。
だって、インプロは毎回お題が違うわけだから、安定したクオリティの確保ができないでしょ。
そんなものを舞台に上げることなんて、怖くてできないと思うんだけど。
インプロで舞台に乗せるということは「自分たちのインプロはこのライン(=金が取れるレベル)をはずさない」という強烈な自信がないとできないと思うわけです。
ならこっちは「安定して面白いインプロを出し続けられる自信があるわけなんだな、じゃあ見せてもらおう。」という感じになるわけです。
で、今回どうだったのか。
かなりのお客が入っているのに、1くすりもなかったですよ。
他の回では非常にはじけたのかもしれないけど、少なくとも自分の見た回は金を取れるレベルのものじゃなかった。
根本的の問題はこの芝居にインプロを入れる意味ってあるのかということ。
少なくとも前回の「リレイヤー」では稽古の一種という設定があるからこそインプロをやる意味があるけど、今回はないじゃん。
クオリティの確保ができないなら入れる意味はない。
クオリティの安定しないインプロで芝居を面白くしようというのは甘いんじゃなかろうか。
近いものとして芝居上のアドリブというものもあるけど、あれは稽古の結果の上に立ってこその面白さでしょ。お話のベースがあって、それを役者が十二分にわかった上でストーリーの推進力をそがないで(むしろ推進力を増すために)、やるから面白いし、意味があるわけで。
新しいこと=インプロなのですか?
それが「良きこと(=新しきこと)」であるならば、私はそれがわからない人であってかまわない。
少なくとも、あのインプロに価値はまったく感じませんでした。
古い考えかも知れんけど、芝居は「稽古で固めるもんだ」ということはやっぱり正しかったなと実感しましたよ。
細かいところの批判もありますよ。
舞台の話上、そこまで登場人物いらなくない?というほどの人数。
16人いらなくね?とか。
ま、これの良し悪しは大人の事情もあるだろうから一概に批判できないけど。
あとチラシにセンスがない、とか。
音がでかい&劇的「風」すぎて逆に感情移入できないとか。
ま、もろもろあるけど。
でも、最後にほめポイントをば。
照明の人は結構いいセンス。
でも、照明のセンスよかったと思うってことは、芝居自体に照明に応えられるだけのクオリティの高さがないとも言える。
あと笹塚ファクトリーの箱はいいね。それは賞賛。
あくまで書いてきた感想は個人的なものだということ。
「見方がなってない」「わかってない」という意見も当然あるでしょう。
演劇の見方が硬直的で、新しいものが「見られないだけではないか」と不安になったりもする。
それについての批判は甘んじて受け入れます。
では、最後に。
私は、TBSラジオの「ウィークエンドシャッフル」で、番組アドバイザーの劇作家・せのちんさんがおっしゃっていた「演劇(劇団)は3回見てから評価すべき」という意見に同意する考えの持ち主です。
今回、集団as ifは2度目の観劇。
でも、次はない。
今回、自分ルールに反します。
残念なことです。
2011/08/02 22:06
「いい/悪い」は1回で判断です。わたしは。