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俺が彼女を好きなことを神にすらきづかせない‏【公演終了】

俺が彼女を好きなことを神にすらきづかせない‏【公演終了】

劇団鋼鉄村松

シアターKASSAI(東京都)

2010/09/16 (木) ~ 2010/09/20 (月)公演終了

満足度★★★

ナンセンスとデカダンスが同居。
十九世紀のフランスみたいな国の、
終末観的なデカダンさえ漂うひとびとの群像。
西洋の古典戯曲と現代劇を強引に同時上演しているようなミスマッチさに
目を見張りました。
どちらかといえば奇抜な雰囲気を醸し出す登場人物が多いのですが、
秩序の保たれた会話で展開していくので、安心して楽しめました。
ただ、上演時間が2時間10分(途中休憩なし)なのは、
少し長いような気がします・・・。

ネタバレBOX

ある日『決闘介添人』の職を思いついた30歳でニートのギュスターブは
一人目のクライアント、ランドルフの娘・ヒルダに恋心を抱く。
彼女への熱い想いがほとばしるなか、戦争の影が忍び寄ってきていた・・・。

ヒルダとの出会いから恋心を抱くまでに
ヒルダの父・ランドルフと向かうところ敵なしの貴族、ジラルダンとの決闘と
フランシスという貿易商とジラルダンの家来・ドルレアンの決闘の描写に
多くの時間が使われるので、ギュスターブの恋はどうなったの?
という関心ともどかしさに付き纏われました。

小汚い恰好をしている一市民のギュスターブの父が
実は貴族であったが自殺をしてしまった、とカミングアウトをしてからは
物語が一気に加速して、うねりが出ていました。

敵対する国の娘を好きになり、戦争によって引き裂かれてしまう・・・
というとロミオとジュリエットを思い出してしまうのですが、
あれほどまでに熱烈な情感もロマンティシズムもなく、
ギュスターブの切ない片想い・・・、
から進展しないラブレスには胸がヒリヒリしました。

双方のどちらかが死ぬまで続けるのが『決闘』である、と主張する
ジラルダンとそんな彼を仕えつつも矛盾を抱えるドルレアンの苦悩は
よく伝わってきました。

ジラルダンとランドルフの戦いをスクープした新聞記者のセドリックが
十九世紀っぽい時代背景であるにも関わらず、
その辺にいるサラリーマン風の出で立ちで語り口も普通、
貴族のジラルダンは豪華絢爛な衣装に身をつつみ
優雅な振る舞いをするその落差、とても愉快でした。

できれば、ひとびとの、なにげない会話のなかから
貴族と市民の生活様式の違いや、
『名誉』のために戦う意味について、もうすこし詳しく知りたかったです。
【ご来場ありがとうございました】みんなのへや/無縁バター【全ステージPPT実施】

【ご来場ありがとうございました】みんなのへや/無縁バター【全ステージPPT実施】

Aga-risk Entertainment

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/09/14 (火) ~ 2010/09/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

かりそめの会話のなかから浮かびあがること。
今、ここにいることが誰かにバレると何かと都合の悪いひとたちがそれぞれの立場を守るためにタッグを組んで好都合になるように根回ししていくその場しのぎの嘘を嘘だと知らずに信じるひとと、嘘を見抜いたと確信するひと、リアル(真実)を知ってるひとたちのパズルのように入り組んだ騙し合い、誤魔化し合い、知らんぷりなどがトリッキーなモザイク模様となっていくのが心地よい『みんなのへや』。
一方『無縁バター』では、だれかと疎遠になってだれとも無縁になったとあるひとりのひとを通じて、人との関わり合いや、人としての在り方/生き方、やむを得ない嘘について再考させられた。
大がかりな舞台装置を立てこまないとなかなか醍醐味を味わいにくいと思われがちなシチュコメを、簡素な舞台装置を用いて役者の力と脚本の力、そして環境音と簡素な照明だけでみせるという離れ業はストイックでスタイリッシュ。
そしてただバカ笑いをさせるだけでなく、人間に潜むちょっとした悪意や闇、生きる限り逃れられない社会性についてコメディから切り込む作家のセンスがすばらしい。

ネタバレBOX

さながらワンルームマンションの間取り図のようにして簡素化されたフラットな舞台に2パターンのシチュエーションで、人となりをみせていく作品。

『みんなのへや』では同棲中の恋人の不在時を見計らって浮気相手を部屋に連れ込んだはずが、運悪くお互いの浮気相手でさえも鉢合わせてしまい、やましいことを隠ぺいしようと彼氏と彼女は奔走するも、彼氏をストーカーする女子や泥棒の珍入によって事態はややこしくなっていくというもの。

トイレや押し入れなどがこちらからみれば何もないスケルトンの空間にあるようにしか見えないので、『バレないように身を隠している』登場人物らの様相が全部見えてしまうのが斬新で、おもしろかったです。

絵に書いたような泥棒や同時刻にダブル浮気がバッティングなど、あからさまなベタさもなんだか古風で、かえって新鮮にうつりました。

登場人物たちの伏線/動線を巧みにひっかきまわし最後、きれいに回収されていくのが非常に爽快。

終盤、彼氏が家賃と彼女を天秤にかけていると思いこむ浮気相手と、浮気相手がテーブルに置いていた家賃をせしめたと勘ちがいした彼氏とが彼女と家賃を『渡す』『渡さない』で揉める場面が最も笑えました。
それだけに、もう少し、このような会話のなかから繰り出される笑いがあったらいいのに!なんておもったりもしました。

少し気になったのは、登場人物たちにクセや味が見られなかったこと。
無機質な感じを出すためにあえて個性を消していたのかもしれませんが、冒頭で「夢をみつづけてもう27さいー♪」なんてしんみりとしたフォークソングが流れた後に登場するタクヤは歌詞になぞらえて『いかにも夢を追いかけてるバンドマン風』の様相だったり、オーディション行ってからバイト行った、など『いかにも』な会話からはじめまるくらいのベタさがあってもいいような気はしました。

『無縁バター』では、部屋には誰もいないところからはじまり、部屋にあるのは、液体化した人間の死体。
これを仕事として割り切り片づける清掃員、最近増えてる老人の孤独死を取材しに来たルポライター、老人の娘、大家、不動産会社社員らで入り乱れ。

誰にも看取られずにこのへやで死んだ老人はどんな暮らしぶりをしていたのか。どんなことを考えていたのか。清掃員らは好奇な眼差しを向けて遺品を漁り、彼の書き残したメモや原稿用紙を読み、愉快な気持ちにすらなる。
そこには敬う心も同情もなく、彼らの行動は悪意に近い。しかし彼らにはその自覚がなく。平気で死体の匂いを消すために死体をファブリーズするその感覚はなんだか異常で、恐怖すら感じ。

この家のオーナーは、孤独死されたことを迷惑がり、こーゆーことがあって他の部屋の人間は出て行くし、どうしてくれるの。なんて利己主義に。
不動産会社の社員にその分の代金を補償しろ、つめ寄ったり。
彼らにとっては命の重みより採算がとれないことのほうがよっぽど深刻。
というのは現実によくありそうな話で他人事だとはおもえませんでした。

そんな諍いをする両人をみた、死んだ老人の娘はやりきれない気持ちを
誰にもぶつけられないままうな垂れ、ルポライターは、これらをすべて一纏めにして小銭を稼ぐ。

「この部屋では何もなかった、」ことにするビッグジョークは見て見ぬふりをするとか、記憶を失くしてしまうことでしか、慢性的な孤独や不安を拭い去ることはできない。とでもいうような陰鬱な側面も残して。
誰が何のために生きるのが妥当であるのか。見終わった後そんなことを考えました。

終演後のアフタートークは居心地の悪さはなく、客対も非常にしっかりしていて好感を持ちました。
ZOKKYののぞき部屋演劇祭2010

ZOKKYののぞき部屋演劇祭2010

ZOKKY

王子小劇場(東京都)

2010/09/10 (金) ~ 2010/09/20 (月)公演終了

満足度★★★

本能に響く。
失禁蝶々『日本にトイレが無くなる日』&耳だけで感じるささやき演劇、KIKKYをつづけて体験。
前者は人間にとって切実な生理現象を扱う話でその内容は私見ではタイトルがすべてと言っても過言でないようなものでしたので、あらすじを追うというよりも、吐息がかかるほどの至近距離から見つめる臨場感だったり、美し過ぎる岡田あがささんにクラクラしたり、濃密な空間を丁寧に描く構図(カット割り)にニヤニヤしたりしながら楽しく拝見しました。
ちなみにKIKKYの方は、なんだかもう、新感覚のアトラクションって感じで、衝撃度&体感温度に関してはZOKKY超えました笑。
ただこちらはかなりアダルティですので、女性の方はちょっとした勇気と覚悟が必要かもしれません。(もちろんエスプリの利いたギャグは健在ですが。)

ネタバレBOX

失禁蝶々『日本にトイレが無くなる日』

空きのトイレを求めてさ迷う成人男性(鈴木浩司・時間堂)のもとへひゅるりあらわる華麗な女(岡田あがさ)。
漆黒のドレスに身を包む高貴な女はしかしどこか魔女めいていて、片手にはシンデレラを殺した時に用いたような真っ赤なリンゴが握られている。

女は、男の気を惹くために召使に天津甘栗を買いにいかせた話などを聞かせるが、男はそれどころではないらしく、ちっとも話を聞いてくれない。

もうすぐ世界が終わるとしたら、命を乞うことよりも尿意から解放されることを願うような男と、不思議の国での暮らしが長いのか、人間の男の誘い方がよくわかっていないような女の相容れないふたりの欲望は、やがて時計の針のようにぴったり重なり、ふたりにしか理解しえない愛に溺れる・・・。

誘われる男と誘う女以外の4人キャストたち――斉藤マッチュ(劇団銀石)、さいとう篤史、石黒淳士、浅見臣樹が覗き穴から前方後方部の階段を上がりきった右手にあるという設定のトイレの前で、いまにも『失禁』しそうなサラリーマン風男性といった様相で、ポーズを決めこんでいて、5分間ほぼそこから動かない(というか動けない)というのがとってもシュールで笑いを堪えるのに大変でした。

今回は数日前に見た『ワイルドオタッキー』よりもいくぶん、慣れたせいもあって、アングルやフォーカスを自分のなかで微調整しつつ観ていましたのですが、観ればみるほど、精密なつくりで非常に幻惑させられました。
特に、誘われる男の顔右半分が覗き穴を塞ぐ静止画から、女に声をかけられ目玉をギョロリと動かしスッと斜め後ろから女が立ち現れる時のタイミングと遠近感、男が女の方に振り向く速度と角度、ひとりごとのように自分のことを話まくる女の声をバックミュージックのようにして誘われる男の唇から鼻、目へとなめらかにパンをしていくあのエッジの利いたフェティシズムには、崇高なる美を感じました。
また、ラストの方で誘う女が覗き人にウィンクをする瞬間などは、自分が男だったら即キュン死してました。笑

それだけに、ストーリーにももう少しゾクゾクするような何かがあってほしいなぁ、という欲も生まれました。といいますのも、トイレに並ばなければならないという必然性のようなものが見えにくかったのです。
ヘンな話、よっぽどの緊急事態であるならば、ひとはその辺で用を済ませることを視野に入れるのではないかしら、と。そうおもうと、その辺で用を足そうとすると魔女狩りされるとか、むしろ魔女に承諾を得ないと放尿できないというストレス社会だったり、そんな世の中すら謎の機械生命体によってもうすぐ終わってしまったりする方が空恐ろしいような。なんておもったりだったのでした。


KIKKY――耳だけで感じるささやき演劇。

ZOKKYの右隣の真っ暗な部屋。扉がひらくと白い椅子が一脚。
そこに座り、肘掛に両腕を乗せ両手首を固定、更にアイマスクで視界を遮断される。ラジカセからチープな戦の音が流れた後、扉が開く。

最初は遠くから聞こえてくる声が、だんだん近くなってきて。その声は耳からどんどん派生していき、全身に広がっていく。吐息のシャワーを浴びるといったらいいだろうか。

複雑なことは何もないのですが、観客・キャスト双方が隠れている、もしくは騙しているのではないか、という予感も相まってエキサイティングでした。

本能寺の変をモチーフにしていると思わしきプロットもエスプリが利いていてすてきです。ひょっとして観客の本能に響くことへの願いもこめられてたのでしょうか。

一応念のため18禁推奨します。特に純情ボーイ君たちは。想像力の翼を広げすぎぬよう・・。笑

篤姫だったりマリー・アントワネットを体験できる女性向きヴァージョンがあってもいいかもしれません。
ZOKKYののぞき部屋演劇祭2010

ZOKKYののぞき部屋演劇祭2010

ZOKKY

王子小劇場(東京都)

2010/09/10 (金) ~ 2010/09/20 (月)公演終了

満足度★★★★

5分間のワンダー。
ZOKKYの超ラグジュアリーなR&Bナンバー『エロスの解剖』を聴きながら現地へ。当方、ZOKKYは初見です。観劇したのはヌキバカ『ワイルドオタッキー』。
何となく全力でアホをやってるテンションが高い感じの作品なのかなぁなんて想像していたのですが私のこの考え、相当に野暮でした。
『わたしだけがそれをみている』という特別な感覚が、空間に一歩足を踏み入れるとぐわんと身にせまってきて。
美しく色鮮やかに塗りこめられていくとびっきりの嘘や、愛欲にまみれた乞食などに板挟みにされた窮屈な現実が生きるか死ぬかのオセロゲームをしているようで。息をつく間もなくファンタジアに出会うのです。
そしてファンタジアの可能性を追求した超ウルトラ立体構造のフレームワークにもノックアウト。
たった5分、されど5分のワンダーランド。必見です!

ネタバレBOX

王子小劇場を右目で見送りぐるりと迂回し王子小劇場裏口へ。B1へとつづくエレベータのボタンを押してしばし待ち。扉が開くと、エレベータのなかには天井からミラーボールが吊り下がり、その足元にはスポットライトが取り付けられていて。(←ちょっと手狭なワンルームディスコ状態で。笑)まさかここでZOKKY??とおもったのもつかの間、何なくエレベータはB1Fへ。あのミラーボールは一体何だったんだろうか・・・。という疑問を残しつつ、タキシードに身を包むシュっとしたスタッフに迎え入れられる。足元には赤いビロード、その周りに電飾がキラキラ光ってて。アレ?来るところ間違ったかしら。なんて一瞬おもった。そういえば、ZOKKYの先行予約を購入した際に封入されていたMUのハセガワアユムさんのCDレビューに『まるで六本木の間接照明で照らされているようなラグジュアリーさが・・・』って書かれていることをふと思い出し、なるほど合点がいった。

受付を済ませるとスタッフの方からヘッドフォンが渡された。しばし装着。近未来的なエレクトロポップミュージックを数曲聴いた後、名前が呼ばれた。超緊張する。なんだか特殊な治療が施される診察室へと誘導されるような気分。笑 赤いビロードをてくてく歩き、数段階段を上がった小部屋。いよいよ鉄の扉が開かれた。事前に目を通しておいた観劇の際の諸注意を反芻する。
『足元に描かれている足の形にあわせて両足を乗せて待ち、前方から壁がせり出してきたら壁の中央部にある穴から覗く。』

扉が閉まった途端、ZOKKY・・・と数回エコーがかかり、中央部に不思議な黒い幾何学模様がペイントされた白い壁の上方部にピンク色の艶めかしい雰囲気のスポットライトが点滅し、それを盛り上げるようにして左右に橙色のスポットライトが数回踊るオープニングの後、本編がはじまった。

物語は、ある主婦のモノローグから始まる。
彼女は昨日娘のサクラを保育園に預けた後、不倫相手の男とホテルでふしだらな行為に耽っていた。どんな風にして冒されたのか。その感触を確かめるようにして、ゆっくりと身体のパーツに触れていく。そうして男との思い出も心の中へとよくなじんでいくように。

そんな彼女は大手家電量販店に只今絶賛パート勤務中である。ふしだらに花開いた妄想をあっけなくフロアチーフにへし折られ、AV機器売り場への販売応援を指示された。
「AV?」
AVはアダルトビデオの略であると自動的に脳内変換した主婦の妄想は芳醇な花の香りを放つランジェリー姿のうら若きAV女優として立ちあがり、彼女の現実を押しのけて覗き人の目に飛び込んでくる。(←主婦の若かりし頃の幻影、叶わなかった願望(イメージ映像)、さらに覗き人の願望が三位一体となったスゴ技!笑)

欲望が新たな欲望を呼び寄せるかのように、彼女の背後に影をひそめている現実の裏側、深層心理に眠りつづける妄想の扉が開かれると緑色の怪しい光に照らされた、四つん這いになった女が振り子のように規則正しく尻を振り、見知らぬ誰かによって鞭で叩かれ喘ぎ続けているかのような光景が広がる。彼女の冒されたいという欲求は、愛されたいというこころの叫びのようだ。
彼女の背後の奥へ、奥へと無限に続いていくような赤いビロード上に厳然と続いていく長い階段は、苦しいことが積み重なった開かずの扉のようであり、また一度足を踏み入れるともう二度と戻ることができないが、ほんの少しの間だけ何度でも夢を観ることはできる魔法の扉。魔界の入口のようであるようにも思えた。この場面が私はこの作品のなかで最も幻想的だと感じた部分である。

ただ、現実を隔てたその向こう側に見とれてしまったが故に、フロアチーフが歌い出したあのカラオケが何のことやらすっかり忘失してしまった。(←苦しい言い訳)しかし、あのフロアチーフはやたら目線を合わせてきたし、そればかりか覗き穴から飛び出してくるほど顔を近づけてきたので、もしかしたらここが作品のなかで最も重要なシーンだったのかもしれないのだが。汗

さて、妄想と板挟みになり、というよりもむしろ妄想にひきずり込まれそうになっていた主婦の現実はこの後、ひとりの『オタッキー』によって救われる。

彼が「DELL コンピュータは販売しているか?」と尋ねてきたのである。主婦をバックショットにしてわざと表情を見せない演出がとても憎い。(自分の脳内にはこの瞬間、相対性理論の「らぶずっきゅん」が掛かりました。)

「・・・・でる?」
その言葉を聞いた途端、暴れ出す彼女のなかの妄想たちは『ヌキバカ』らしくはっちゃける!
いわずものがな、AV(女優、ビデオ&機器)浮遊のDELL(パソコン&射精)着地。

個人的には、でる・・・・?で主婦がオタッキーをさらって(←逆のパターンも可)駆け落ちとかしてしまうほうがファンタスティックなのに!とかおもったのだけど、主婦の妄想劇だから、それはないか、と勝手に納得。

この作品を選んだのは、やはりワイルドなオタッキーがわさわさ出てくるだろう!という勝手なイメージが先行していたこともあって、案外オタッキーが普通っぽすぎて、ちょっと肩透かしを喰らってしまった。ワイルドになれないオタッキーを表現してたのかな。だとしたら、オタッキー側からの視点もないと辻褄があわないような・・・。ともあれ、こういうのはあんまりリアルすぎると切実すぎて、おもしろさが半減してしまうのかな。

しかし覗くということが、こんなにも楽しいものだとはおもってもみなかった。
最初からドキドキワクワクしっぱなしで。
まばたきをする度に1ショットづつ場面がぐるぐるとメリーゴーランドのように展開していく緻密な構成――カットイン/カットアウト、フェイドイン/フェイドアウト、クローズアップ、早回し/長回しなどすべてを俳優の距離感や存在感で表現する演出が挑発的で舞台空間におけるフレームワークの限界に挑戦しているようにもおもえた。
そしてやはり何といっても俳優がこちらを見つめる瞬間が格別!!
いやはやこれはクセになりそうだ。笑
KUNIO07『文化祭』

KUNIO07『文化祭』

KUNIO

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/09/03 (金) ~ 2010/09/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

青春コンプリート!!
家と学校とを行き来する狭い行動範囲のなかでめまぐるしく活写されていく残酷さと純粋さをあわせもつティーンエイジャーの内省性から高校時代のクラスメイトの顔を思い浮かべたり、あの頃の自分と重ね合わせたりしながら観ていました。
何はともあれ、仲間がいるってすばらしい!
そんな当たり前のことを思い出しました。

衛星放送に殺意を、

衛星放送に殺意を、

ハイバネカナタ

劇場MOMO(東京都)

2010/09/02 (木) ~ 2010/09/05 (日)公演終了

満足度★★★

見えないけれど、確かに存在しているもの。
その影響力を与える手段としてメディア統制を題材に、思考が均一化されていくことへの恐怖と不安を提言するような内容だったのですが、近未来の人々のテレビへの加担度や、日常生活での言論の自由にはバイアスがかかっているのか、など気になるディテールがイマイチ判然としなかったこと、また、外部から監視する視点とその気配が不在していたことから、マインドコントロールされているらしい管理化社会の実像/実態が見えにくかったです。
『現実は小説より奇なり』への切り反しもほしかったところですね・・・。
ある思想をモチーフに統一されたような衣装やスタイリッシュな舞台装置、ストーリーライン等々惹きつけられる要素もたくさんあっただけに、心残りでした。

湿度15%

湿度15%

創像工房 in front of.

慶應義塾大学日吉キャンパス塾生会館(神奈川県)

2010/05/07 (金) ~ 2010/05/11 (火)公演終了

淡々としていた。
ホームページの海底からぶくぶくと上昇していく水泡のフラッシュが目に留まったので観てきました。
極限環境下に置かれた者たちの心理から万人に共通する飢えと渇きを導き出そうとしているように思えたのですが、彼らの生存に関する記述が、物質面の確保に傾倒していたために、淡々とした暮らしぶり、飄々とした佇まいの内側/深層部へとストンと落ちるきっかけを見つけられないまま、終わりまで過ぎ去ってしまったような印象を受けました。
作品の主題を誘導する、なんてことない一言が会話のなかから引き出されていれば、突き抜けた異世界に吸い込まれそうになっていたかもしれません。

ネタバレBOX

灼熱の太陽が照りつける地平線の彼方までつづいていくような砂漠のどこかに井戸があるとの噂をききつけて、探しにやってきた4人の若者たち。

お目当ての井戸は、水を食べて暮らしている部族の集落にほど近い場所にあった。他の仲間にそれを知らせるために、自分らの住む集落へ伝えにいくタツオ。その間、他の者たちは無断で水を汲んで飲み、飢えをしのぐ。

ある日、砂を食べる奇妙な男が彼らのもとに現れる。
最初は気味悪がる若者たちであったが男が無害であることがわかると、徐々に打ち解けて行き、仲間のひとりとして、共に暮らしている風になった。

そんな光景を目の当たりにしたタツオは、今すぐ男をここから追い出すようリーダーに詰め寄るが、リーダーや他のメンバーも、男は無害であることをタツオに説得。そして自分の居場所を他の人間で穴埋めされたと錯覚したタツオは、水を黙って持ち出して彼らのもとを去っていく。

井戸の水が底をつき、食料の水があと残りわずかであるということへの危機感や、その貴重な水を黙って持ち出した仲間の裏切りやらで、疲れ果てたサイは、そもそもリーダーがタツオと口論にならなければこんなことにはならなかった、とリーダーを責める。逆上したリーダーは管理するとの名目でサイから水を取り上げる。

ふと姿を現した、砂を食べる奇妙な男。
彼の身体が水でできていることを知っていたサイは水を確保するために、いよいよナイフを振り上げる。

『地平線のかなたまでつづいていくような砂漠』が具現化された舞台美術と長い道のりを歩いてきたという時間の経過が見てとれる衣装とメイク、そこにやってきた若者が生きるために水をやってきたものの、ほんとうに生きていないような、あるいは生きる気力を奪われたような、空疎な感じが役者の表情によくあらわれていて、生きることの厳しさをまざまざと見せつけられながらもどことなく浮世離れしている異世界が構築されていた、空気感がよかったです。
笑いどころのほとんどない、緊迫感に満ちた作品であったということにも好感を持ちました。
また、井戸が見つかった喜びもつかの間、井戸の水が少なくなっていくごとに疲労も争いも生まれしまいには信頼関係も消え失せる。その間の心理的な駆け引きも含め、巧いとおもいました。

ただ、井戸の水が無くなるだろうということは、観る者が誰にでも想像がつくことであるので、作中で行われた心理的な駆け引きも、当然生まれるだろうことが予想ができてしまうので、次のシーンは一体どうなってしまうのだろう、という関心があまり生まれませんでした。

おそらく、ハラハラするスリルやサスペンスフルな展開はまったく意図していないとおもうのですが、だとすればそれに匹敵する、観客を作品に惹きつける要素は必要だとおもうのです。
個人的には、水が無いあるいは、水を奪われたという観点から物語に切りこみを入れて、争いごとへと拡大させていく方がより一層、物語の設定も生きてくるようにおもいましたし、シリアスさが伝わるような気がしました。

物語の重要なファクターである奇妙な砂男の身体に刻印されていた証をみたサキが彼の本性を知って少しうろたえるシーンがあったのですが、彼は一体何者だったのでしょうか。彼らと敵対する集落の者?不幸を呼び寄せる魔物??どちらとも判然とせず、モヤモヤ感が募りました。

それから、このドラマに登場する若者たちは、水を食べる集落のひとたちが用いる井戸を無断で利用しているのですから当然、集落のひとたちの声というのは何かしら耳に入ってくるものだとおもうのですが。そういった村人の声が会話のなかから引き出されたりしていれば、もっとドラマに厚みが生まれたようにおもいます。

『はるかむかし、地上には砂を食べるひとがいて、空には星をたべる人が住んでいた。』という内容の台詞は詩的ですきでした。
【ご来場ありがとうございました!】蜻蛉玉遊戯

【ご来場ありがとうございました!】蜻蛉玉遊戯

趣向

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/09/01 (水) ~ 2010/09/05 (日)公演終了

満足度★★★★

趣向ワカヌの残酷メルヘン。
胸に秘めた想いを守りつづけたいと願う普遍的な気持ちと幸いを壊したくなる衝動、こころのなかに棲みつく魔物と根拠のない善とが「生きたい」という根源的な欲求を重心にせめぎ合い、交わり合い、嘔吐する、壮絶な争いを繰り広げていた。
人間のドロリとした醜い業がぶちまけられたような舞台だったのになぜだろう。
うつくしくてひかりかがやくおとぎの国にまどろみながらおさんぽしてきた気分になった。

ネタバレBOX

『キョウダイ』
こころとからだ、血でつながっているふたりでひとつの『わたしたちきょうだい』が、だんだん大きくなるにつれ、わたしとあなたが違うことを自覚しはじめ、大人になって離ればなれになってしまったことを、遠い記憶から遡りモノローグ形式で綴っていく・・・。

戯曲のファイルがブログからリンクしてあったので、事前に読んでから観劇しました。活字で目にした時は、おかっぱ頭で目のぱっちりしたうりふたつの無表情な女の子たちが手を繋いでるイメージを抱いたのですが、実際作品を観てみると、白いふんわりとしたワンピースをきた女の子たちが、自由にそこいら中を駆け回っていて、まるできょうだいが共にいきることを祝福しあっているような、躍動感に満ちていて、それは彼女たちの根源的な生命力を意味しているようにもおもえました。
細胞レベルで繋がりあっている、彼女たちが、くっついたり離れたりしながら自我を確立し、互いから逃れたいと葛藤し、離ればなれになっていく様相は身体面ではよくつたわってきたのですが、台詞からは、それが伝わりにくかったようにおもえた場面もありました。私があらかじめ、戯曲を読んでいたからかもしれませんが・・・。実はこの戯曲を読んだ時に、ふたりが共にすごした時間が水のような透明感と響きを持ってさらさらと流れて行くような印象を持って。それが頭のなかに残っていたので、台詞が、1センテンスとして耳に入ってはくるのですが、音としてなかなか耳に響いてこなかったのです。
たとえば、『わたし』という単語が3音に分解(分節)されて『わ・た・・し』と発音されたり、更に『わたしたち』と台詞を重なったりズレたりしていれば、もうすこし違った感覚で観れたかもしれません。また、きょうだいがはなればなれになって、今では互いの安否すらわからないという場面で、物語が立ち止まり、沈黙する瞬間があれば、もっと切ない気持ちになったかなぁ・・・と。
ただこの辺りのことは、この作品の次に拝見した『天葬』では色濃く反映されていましたので、作品ごとに差異を出すために躍動感に絞った演出を意図されたのかもしれませんが。

役者のふたりは、純真無垢な感じがよく出ていてよかったとおもいます。
ただ、緊張していたのか、若干演技が固いような気もしましたが、後半はふたりの演技に引き込まれました。

『天葬』
天葬とは別名鳥葬と呼ばれ、その名の通り鳥が死体を食べるというチベットで行われるポピュラーな葬儀のことである。
この方法で自身の葬儀を行うことを望んでいた父親がチベットで死に絶え、葬儀が行われたとの一報を受けた妻の嶺子、娘の美月、息子の陽司。3人のそれぞれの想いが静かに語られていく。

家族には、家族だから言えること、家族だから言えないことがあるものだとおもうのですが、この家族たちは、その善し悪しを判断することはできるけれども、自身の出したアンサーを胸のなかにしまいこみ、他者に何かを問うことを遠慮してしまうひとたちなのだとおもえました。
そして、時には自分の出したこたえが正しいと自らに暗示をかけてしまう。
たとえば、天文学が得意な娘を、そういうのとは関係のない普通の大学に入れて普通な結婚をさせることが幸せだと思いこむ母の嶺子、姉や母と話すのが面倒くさくてひとり暮らしをはじめる陽司、仕事で世界中飛び回る夫に「戻ってきて」のひとことがいえない妻・・・。

父の訃報を機に家族がひとつに纏まるというのは何とも皮肉。
けれどもなかなかあと一歩踏み込めない彼らのけなげな強引さはとてももどかしく、微笑ましい気持ちにもなるのでした。

『カーニヴァル』
とある町で馬の頭を掻っ切って捌いて売ってる肉屋の女と一緒に暮らすひとりの少女。彼女の母はカーニヴァルの歌い手で、忙しくて面倒をみていられないから、女が預かっているのだという。もうすぐカーニヴァルがやってくる。果たして、ほんとうのお母さんは迎えにくるのだろうか・・・?

『オルゴール箱』を開くとはじまる華やかなカーニヴァル。されど永遠には続かないカーニヴァルは、少女のみる夢も女のみた夢もすっかりシビアな現実としてひとまとめにしてしまって。

ふたりとも、血のつながった母と娘であることを憎み、恨んでいるからこそ、
他人同士のフリをする。
それでも、少女が家を出たいと言うものなら、苦し紛れに『もうすぐほんとうのお母さんはやってくる。』と女は嘘をつく。
だが、自分自身をだませないと悟った時、どちらかを殺さなければならないと悟る。
とても恐ろしい人間の業がほとばしるような作品であったのに、片時も目が離せなかった。
真っ赤な血を流しているのに、それが甘くて美味しいイチゴジャムにでも見えるような残酷だけどスウィートな世界。3作品みたなかでこのおはなしが一番わたしは好きだったかな。
マカロニ・ウェスタン・ほうれん荘

マカロニ・ウェスタン・ほうれん荘

劇団阿佐ヶ谷南南京小僧

明石スタジオ(東京都)

2010/09/02 (木) ~ 2010/09/05 (日)公演終了

満足度★★★

古めかしくて微笑ましい。
ふとした瞬間にメーターの針が振り切れてしまったひとたちを戯画化したような、強烈な個性をもったキャラクターが盛りだくさんで、成熟した大人のハイテンションぶりに恐怖を覚えた・・・。笑
ふとんがふっとんだ的なギャグにはちょっとした疎外感を抱いたけれど、昭和の生んだ大衆文化のひとつの轍としてみると、なるほど、分かりやすかった。
さりげなく社会問題にも触れていていたことも興味深い。
『古きよき日本』を記録でしかしらない私には物語の響きが新鮮に映ったけれど、リアルタイムで『あの時代』を過ごしたひとたちがこの作品をみたら、劇中繰り出される往年のヒットソングや小ネタに共感したり『あの頃』を思い出したりするのかな。

東京アメリカ

東京アメリカ

範宙遊泳

STスポット(神奈川県)

2010/09/02 (木) ~ 2010/09/07 (火)公演終了

満足度★★★★

素の状態でトリップできる。
良くも悪くもとにかくヤバイのを観てしまったな、とおもわず二ヤリしてしまった。
物語はたとえるならば、家族とそれを取り巻く社会について書かれた現代口語演劇がぐにゃりと崩れて誰彼かまわず奇想天外なベクトルへアバウトにゆらゆら流れていくような。
それを阻止しようとも、ロービートな変態テクノが鳴りはじめるとフラフラ踊り出さずにはいられなくなる、みたいな。
歯止めのきかないディープでサイケデリックな世界だったのだけれども作品のなかで言わんとしていることがこちら側になだれこんできて。
その感触はなんだかリアルを超えていた。

ネタバレBOX

東京都世田谷区船橋3丁目に住むとある家族の話を上演するために稽古にはげむ劇団員らと演出家の話。
物語は劇団員らのドキュメントと上演する戯曲の劇中劇の二重構造を基本軸に、『もしも・・・』な視点が混在することにより、どこまでがアンリアルなのかわからないような構造になっていて、戯曲部分はある程度変更点があるとはいえ、ちびまる子ちゃんを踏襲している模様。(ただしこちらはアニメよりもずっとハイパーではあるのだが。)
たとえば、ちゃぶ台を囲んでただ喋るのは退屈だから、ミュージカル調でいこう!と演出家が思いつくと、劇団員はそそくさと立ち上がり歌い、舞う。舞うどころか舞台を自由に這いずり廻る・・・。笑
登場するキャラクターもなんだかやたらパンキッシュな面子ばかりで。
ブルジョワのタマ子はまるこを買収して親友になろうとしたり。まるこの姉のオシリは木星人の彼を連れていたり。まるこの母さんは動物園の入場券食べちゃったりするそんなゆかいな人々が、日本を滅ぼそうとしているらしい海洋生物から逃れるために、タマ子の金でテキサスに逃避行したり、そうかと思えば選ばれし神の子であるらしいまる子が人類救ったり。そんなB級映画的なちょっとお粗末な戯曲を、繰り返し演じていくうちにその役を『ほんとうに生きすぎる』トランス状態のようになったまる子が、海洋生物を惨殺するシーンで用いる本物のレーザービームを演出家に向けて発射。

その後は観客の望むような展開に切り替わるのだけれど、どこがラストシーンなのか、観るひとによって変わってくるんじゃないかと思える余白を残していることがちょっとおもしろいとおもった。

演劇のォーマットに乗せればそこはどこにでもなるし、どこにでも行ける自由さというものをアメリカという巨大な像に向かって投げていたような感じがして、そういうのは挑発的でいいとおもった。
ただ、家族が住む『東京』と家族の向かう『アメリカ』の間に流れている混沌とした何か。
というものは、もう少し具体性を持っていてもいいような気がした。もちろん、格差社会をうたうポップソングだったり、まるこの飼ってる犬のチビがアメリカから飼い慣らされた日本の立ち位置を象徴しているように見えないこともなかったし、アメリカンナイズドなジョークで笑い飛ばしていかなきゃやっていけないほど、時代も人も行き詰ってるみたいなことは、演出家助手が終盤、生きてる実感について吐露する場面で感じられた。だからこそ仮面かぶって生きて行くのも、なんかもう辛い、みたいな大雑把にいえば東京(あるいは都市部の若者の間)で失われつつあること、失われたことで得られたことは、後ろ向きでもいいから、もっと言語化してもいいような気はした。

もう一点、気になったのは、チケット代わりのお面の活かし方。一応、劇中にちょっとだけ話が出て来たけれど、装着しないと会場に入れないっていうくらい徹底してやった方が個人的にはおもしろかったとおもう。もし、装着するのをためらう客がいたら演出家役のひとだったりアシスタントが説得するとか、ね。観るひとすべてが海洋生物になりきった上でこの作品に参加する布石が敷かれていたら、一歩足を踏み入れた瞬間からファンタスティックな世界がはじまっていた舞台空間が殊更劇的に映ったかもしれないなぁ、と。
Sea on a Spoon

Sea on a Spoon

こゆび侍

王子小劇場(東京都)

2010/09/01 (水) ~ 2010/09/05 (日)公演終了

満足度★★★

罪と罰とを乞う痛み
犯した罪と背負う罰に目を瞑り、その狭間でゆれうごく、
誰かのこころのなかに棲む闇を
固唾をのんでずっと見守っているような一時だった。
物語にはたくさんの詩といくつかの幻想で溢れていたけれど、
誰のことばを信じていいのかよくわからない、とおもうことも多々あった。
この話に出てくるひとたちの言動には全然共感できないけれど。
もしもそれが誰かに認めてもらうための正しい選択であるのだとするならば、
あながち否定できないかもしれない・・・。

ネタバレBOX

原発の補助金しか財源のないさびれた港町、浜和町の町役場に勤める宇見コズエには、誰にも言えない秘密がある。
それは今から20年前。彼女が7歳の時。
村人たちを『幸福で満たされた地』へと導く『救い手』(救い人)であるのは、自分だと偽った彼女を信じた村人たちが、全員残らずナメクジのように海に溶けてしまい、ひとり生き残った彼女はこのさびれた港町でひっそりと暮らしているのだった・・・。
世にも奇妙な宇見の真相を確かめるために市役所へやってきたジャーナリストの向井。

その頃役場では、原発のふもとで開催される数万人規模のロック・フェスティバルの準備に追われていた。忙しくて来客に構ってられないといった様子で、原発職員、フェスティバル実行委員らと打ち合わせをする職員たち。

ここでの会話はフェスのマスコットキャラクターのことだとか、アクアウォーターに放射能が汚染されているだのいないだのとか、役場の職員と原発職員が恋仲にあるだとか、そういったとりとめのない事柄ばかり。

そんな中、向井は宇見にある忠告をする。
「ひょっとしてアナタの周りにいるひとたちはあなたに何かを隠してはいないだろうか・・・。」と。その言葉をきっかけにして物語は大きく舵を切る。

向井の忠告した通り、宇見の周りにいる人間は皆テロリストであり、フェス当日に原発を爆破させることを目的としていたのだった。

犯行前夜、明日のルート確認を行う際に目印として地図上に配置していったホタルを一匹づつ潰していくシーンは、ホタルの光、原発が爆発する光、そしてその光は人間の生命を消滅させるという意味を持つ、象徴的なシーンだった。この時に背後で流れるふわふわとした音楽はむしろ、人間のダークサイドをゆるやかに加速させていて、やわらかい狂気を醸しだすのに充分だった。
人間の凶暴性に無垢な笑顔が宿ったような、この空気感は、とても独特で、すごくいいとおもった。

ただ、この場面に辿りつくまでに、彼らのバックグラウンドが雲隠れしていたので、唐突に『テロリスト』という旗を掲げられたように思えてしまってことも事実。

たとえば彼らのなかには、宇見の『救い手』によって両親や友人が犠牲になったひとはいなかったのかな、とおもったりもした。

彼らが革命を起こすには、みなそれぞれおもうところがあって『テロリズム』へと掻き立てられるものではないのだろうか。

また、仮に何者かわからない彼らによる突発的な理不尽なテロリズムだとしても、動機や思想がわからないまま犯行に及ぶとはおもえないし、テロリストらが犯した罪を宇見のせいにして、宇見はそれを罰として背負うことで20年前のあの事件をチャラにする・・・というのも何だか安易におもえてしまった。

宇見の20年間のなかで彼女と関わったことのあるひとたちのエピソードが
会話のなかから表象すれば、時間の『重み』や彼女の『痛み』が伝わってきたかもしれないのだが。

そんな事由から後半部分が、テロリズムの描写に多くが費やされ、宇見の件が結果のみ言い渡されたような展開がちょっと腑に落ちなかった。

個人的には、この作品はテロリズムなんか引用しなくても描ける主題だったのではないかとおもう。たとえば、町役場の人間たちに、彼女と何らかの繋がりを持たせてそこから過去をさかのぼっていくとか・・・。

冒頭で彼女が20年前のあの時の気持ちをモノローグする詩的な場面がラストの罪を背負うというところでしか生かされなかったことがとにかく勿体ない、と感じたのでした。
good night pillow

good night pillow

演劇研究会はちの巣座

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2010/08/27 (金) ~ 2010/08/29 (日)公演終了

満足度★★★

彼女のかかえる想いとは。
私たちが知識として認知している戦争とはいかなるものであるのか。ということについて、真摯的に取り組んだ作品であった。
登場人物のそれぞれの視点から夢、現実、記憶が交錯するストーリーの着想は小劇場で上演されていてもおかしくないとすらおもわれるほど、非常によく練られたものだった。
若干、詰め込み過ぎてしまったかな、と感じる箇所もあったので、もう少しタイトに演出することを心がけると同じ作品でももっと洗練されていくのではないかとおもう。

ネタバレBOX

二発の爆弾が投下されたある日。
ゴミ捨て場からひとりの少女を拾ってきた亮二は彼女にミヤコと名付け、ふたりは恋人同士のように戯れていた。幼い頃に肉親を亡くし、兄を何者かに殺された天涯孤独の亮二には、ミヤコだけが希望の光だった。

そんな亮二を咎める夫妻は亮二の兄を殺した張本人たちであるのだが、亮二は兄を殺した罰として、自分の保護者になるよう言い渡したのだった。ふたりに反抗的な態度を繰り返す亮二だったが、それも愛されたいが故の衝動だったのだろうか。

一方、地上戦が激化しはじめた市街地では人々が逃げ惑う。その時の『記憶』彼女のなかに眠る『戦争』を反芻するミヤコ。そんな彼女の姿をつきとめて群がる群衆…。

彼女は敵陣営のミサイルだったのだ。亮二と孕んだ子ども=核爆弾を出産し終えた彼女は十字架に磔にされて死に、ミサイルは生きる…。

二発の核爆弾=ヒロシマ・ナガサキの原発をモチーフを描くこと自体、かなり難儀なことであるかとおもうのだが、独自の注約を入れ、茶化すでもなく肯定するでもなく、ましてや変に同情を誘うのでもなくあくまでこれでよかったのだろうか?と『疑問』として投げかけた点が、非常にスマートであると感じた。
賛否両論はあるかとおもうが、わたしはこういう描き方はなるべく否定はしたくないです。

実は一番気になったのは、何故か(←関西の劇団はおもしろい、という勝手なイメージ先行につき)ギャグが全然おもしろくなかったこと。
特に、戦隊員らがケチャップを血にみたてて掛け合うシーンとか。正直、失笑すらできなかった。あんな中途半端にやるくらいなら、やらなきゃいいのに、とすらおもった。なので個人的には戦隊員のすべりギャグ(?)がてんこ盛りのシーンは間延びしているようにおもえてしまったのが正直なところ。

それから気になったのは、所々で使われる『夢』という語彙。あんまり使い過ぎると、幻想的なイメージが崩れます。なるべく『夢』という単語を使わずして『夢』であることを表現してほしいです。
照明を切り替えたり、ダンスを取り入れたりするだけで同じシーンでも大分変わってくるかとおもいます。
終盤はその辺りのことがとてもスムーズだったので、物語にのめり込めました。
特に、おはじき、赤い糸などをそこら中に撒き散らしてミヤコと出会ったあの頃をファンタスティックに描いたあのシーンは、時計を刻む音も相まってとても刹那的ですてきでした。
ライフパスファインダー2010

ライフパスファインダー2010

パスファインダ制作室

吉祥寺シアター(東京都)

2010/08/27 (金) ~ 2010/09/05 (日)公演終了

満足度★★★

アカルイセラピーショー。
いつか死する儚き人間はいかにして日々を生きるべきであろうか。
そんななかば実存的な命題を、具体的な例題と親しみやすいキャラクター、
歌にダンスを交え、わかりやすく解説したエンターテイメント・セラピー・ショー
であったのではないかとおもう。
何のために自分は生きているのかわからない・・・。そんな風に
思い悩んでしまうようなひとには、これからこの世で生きていく勇気を
もらえるかけがえのない作品になるかもしれない。
ただ、『自分の殻のなかに閉じこもっていては意味がない。』
『ひととひととはもっと繋がりあうべきだ。』
というようなメッセージが作品のベースになっているので、
今をよく生きているひとにはあまり向かないかもしれないが。

ネタバレBOX

『ようこそライフパスファインダーへ!』そんな風に出迎えてくれるクルー(スタッフ)たち。そのなかにはキャストの方々も大勢いて、開演前から『物語がはじまっていること』『そこに私たち観客も参加していること』を知らせてくれる、素晴らしい導入部分であった。

メタリック調のイントレが組まれたスぺーシーな舞台空間もゴージャスでかなり期待値があがる。素舞台を生かし、二階、バルコニー、通路全般を巧みに用いた演出もとても好み。導入部のロック調の歌も圧倒された。

物語は、生まれてみたはいいけれど『何のために生きていけばいいのかわからない』あるいは『生きることに迷いが生じている』ひとりの青年の心が『新しい自分』=前向きな自分になるための心の葛藤を描いていたようにおもう。

登場するキャラクターは、彼の心のなかに潜む気持ちが擬人化されていた。
悶々と悩み続ける彼を手助けしようとするひとがいたり、ネガティヴな心が擬人化された特撮アニメのような『敵』がいたり、それを排除しようとする、ヒーローが出てきたり…。

そういった描写は好みが分かれる部分かもしれないが、歌とダンスが全編に散りばめられていて、退屈することはないかとおもう。

ところで話のなかで大事なことはすべて歌詞に集約されていたのではないだろうか。特に作品のテーマ曲、ライフパスファインダーのサビはフリ付きで踊れるほど、わたしのこころに残っている。笑
女中たち

女中たち

劇団 風蝕異人街

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/08/28 (土) ~ 2010/08/29 (日)公演終了

秘密の花園のような舞台空間が印象的。
『旬の観たいもの展2010』参加作品。
ジャン・ジェネの『女中たち』は他者への羨やみが妬み→恨み→殺意へとステップアップしていく姉妹の心理模様と『ごっこ遊び』の多層的な演じ分け、そしてこれらを補佐する視覚的な道具が見物の作品だと個人的にはおもうのですが、3点目の視覚的な道具(舞台美術含む)以外では、戯曲の持ち味を堪能することが少々困難な結果になりました。(※原作に忠実なB班の感想です)

ネタバレBOX

色とりどりのゴージャスなドレスと花々に囲まれた奥さまのお部屋で、奥さまが外出中なのをいいことに仕事をサボり『ごっこ遊び』に夢中の姉のソランジュと妹のクレール。

奥さまのお気に入りのドレスを身につけてフカフカのソファーに寝そべり牛乳屋との恋を妄想したりなんかして日ごろの憂さ晴らしをしていた彼女たちは、奥さま役と姉妹役とをとっかえひっかえ演じ分け、奥さまから怒られたり罵られたりしたあの日のことを繰り返し『再現』していくうちに、奥さまへの羨望は憎悪と悪意に変わっていく…。

憎悪は手紙という形で発露され、旦那様を罪びとに仕立て上げとソランジュにカミングアウトをするクレール。
そんな時に部屋にかかってきた一本の電話。
旦那様がもうすぐ帰ってくるらしい。
奥さまを懲らしめるためとはいえ、旦那様を冤罪にしたことがバレたら私たちは死ぬしかない!というパラノイアに冒されて慌てるソランジュ。

考えた末、ふたりは紅茶に毒を混ぜ奥さま殺しへシフトチェンジ。しかしあっさり奥さまに見破られ、奥さま役を演じたままで紅茶をすすり自殺するクレール。その後を追うようにしてソランジュは窓を開け放つ・・・。


旦那様からの一本の電話に慌てふためく姉妹がなんとかその場を取り繕うとしてバタバタと奔走する滑稽さはみていて面白かったのですが、少々表情に乏しいのが気になりました。わざと無にしていたのでしょうか。

また、『ごっこ遊び』の終わりを告げ女中としての現実がはじまる合図のめざまし時計はただ鳴っていたように見え、現実に戻る『虚しさ』や『失意』がみえにくかったです。もちろん、夢から現実に戻るための形式的な支度をしていることは仕草ではわかりましたけれど。

致命的だったのは、クレール役の方の滑舌、声量、抑揚のつけ方。特に早口で発話する場面では、台詞のほとんどが聞き取れませんでしたね。
ソランジュ役の方はよく通る声で目に表情がありました。
特に終盤のモノローグシーンでは自暴自棄になって最後の悪あがきをする惨めな女を豊かに演じておられました。

奥さまのキャストの方もものすごい存在感でしたが、シガレットのふかし方に少し気品が欠けているようにおもえました。

イントレに布を張り、小部屋に見立てた舞台美術は不思議な華やかさがあってみていて飽きませんでした。

ソランジュの方のグリーンのドレスの衣装が奥さまの着用しているドレスよりもなんだかゴージャスで、女中らしいみすぼらしさがなかったのは少し気になりました。
ヴァイオリンの演奏が劇中ほとんどなかったのも少し残念でしたね・・・。
UFOcm

UFOcm

あひるなんちゃら

駅前劇場(東京都)

2010/08/25 (水) ~ 2010/08/29 (日)公演終了

満足度★★★★

UFOを待ちながら。笑
6月のあまうめではじめて関村氏の世界の断片に触れてから気になっていたあひるなんちゃらさん。本公演初見です。
オープニングのオリジナルソングからクスクス笑い、そのまま終わりまでその状態がつづきました。
何がいいって、登場人物がみんなそれぞれ屈・強・な『マイルール』なるものを持っていて、基本的にはそのマイルールをライトに否定するとこから誰かと誰かの会話がはじまったりするさりげない理不尽さや、動きがなんか不自然だったり、その動きは擬音語がピッタリだったりするという点がかなりツボでした。
笑いのツボが刺激されないと( ゚Д゚)ハァ?ってなる世界観かもしれませんが、どんなに斜めから観ていても『失笑』してしまう瞬間はあるとおもいます!笑

街【公演終了!ご来場誠にありがとうございました!】

街【公演終了!ご来場誠にありがとうございました!】

ヲカシマシン

タイニイアリス(東京都)

2010/08/27 (金) ~ 2010/08/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

徹底的にディストピア
時空という抽象概念を介して人間の一生を切り取った前回の『背馳』に対し今回は、日々の暮らしのなかで直視する『街』を始点に、行き交い・立ち会い・そこ・に生きとし生ける人々の生き方・雑多な思考から時代/社会の闇と思わしき記号的・象徴的現象を半ば強引に徹底的につるし上げ投射・照合・弁証を行う。
そうした上で、果たしてこれらは唯一無二の表現方法であったのだろうか。
何かの模倣ではなかっただろうか。と問題提議を掲げた点が潔く、非常に頼もしい。
『泣ける映画』に感動できない人、毎日の動労は辛いと感じる人、愛で地球は救えないとかおもう人、なんかはグッとくるポイントがきっとあるはず。今週末はアリスへゴーです。

ネタバレBOX

客席の通路側には舞台に向かって黒いテープが張られていて、その線からはみ出さないように開演前に諸注意がある。線の外側を観客が行ったり来たりするのだ。

舞台の中心部は小さな横断歩道である。その周りに一段高い台がいくつか。
上手側の斜め後ろには有刺鉄線のような黒い柵がひとつ。というだけの抽象美術。

場所はどこかの『街』であるらしい。それは、あらすじ書きにある『新宿や渋谷』などの都会の雑踏。そこを行き交う人々の事象から生活、雑念などを時にモノローグ形式で淡々とつづっていく。

冒頭、不特定多数の人々が行き交う雑踏を『模倣する』場面で通り魔事件が起きる。ナンバーガールのTATTOOあり(←だったとおもう)にあわせてそこら辺を歩いている人々が包丁でブスブスと無差別に刺されていく。これは言うまでもなく、秋葉原で起きた連続殺人事件の模倣であるとおもわれる。

その事件の起きたすぐ近くの高層ホテルの屋上からは、
人生に疲れたサラリーマンが間もなく自殺をする所だ。

そんなことには無関心なまま、若者は街を闊歩する。
愛がほしくて街をさ迷う女もいる。
ホームレスは死んだフリして生きている。
そうすることが彼の小さなテロリズムであるんだろうか。

関係性を持たない彼らは時々、交差する。
それは、よろよろと歩く薄汚いホームレスを颯爽と街を歩くビジネスマンがよける瞬間だったり、愛がほしい女と不思議な少女がだれかに『愛して』(←アイスと言葉仕掛けをするこ洒落たセンスあり。)ほしい気持ちに感応する瞬間だったり、冒頭の連続殺人事件だったり。

やがて、彼らの交差は舞台というフィールドを越えて、舞台を傍観している私たちの背後にまで感染し、他人であるのに、彼らとすれ違う瞬間だけ他人ではないと錯覚させられる。観客席まで都会の雑踏の一部としてかき混ぜるこの演出方法には、心がざわついた。

そして、実はこれらはすべて街という名の映画でワンシーンでした。』
と劇中ネタばれする場面。これには騙されたとおもった。そういえば、この場面に至るまで、モノローグをする登場人物らがムード歌謡を歌うスターのように大げさなピンスポットライトがあたっていたのはなるほど、そうした理由があったのか。そして更に「あぁこれね。つまらんね。」と吐き捨てるとは恐れ入った。これまで紡いできた光景をあっさり否定してしまったのだ。そして何ごともなかったかのようにしれっと続きを再開させる。

後半は、前半の雑然とした光景が目的意識を持った行動と他者との関係性を通じて、より具体的な主張として提出されていたとおもう。
たとえば、自殺直前のリッチマンは、滞在するホテルの給士に与えたチップを
与えた当人に破らせることで、『神のつくりものである金はヤワではない』という主張を給士に吐きかける。給士に限らず弱者いじめをしてきた彼は知の『巨人』アリストテレスを迫害した罪により、死刑宣告された。アリストテレスはホームレスの化身だったのか。と錯覚させる配役も絶妙だった。

一方、愛を欲する女は広範囲に渡り、ふと目にとまったひとりの男性にわたしを愛してください・・・そう真剣なまなざしで語りかける。あんなまっすぐな目でみられたら誰でも動揺するんじゃないかとおもう。(こういうトラップの張り方もうまいとおもった。)

また、人と繋がりたいと願ってはいるけれど繋がれないことも知っている少女は、『何が楽しくて生きている』のかわからないままどこかへ行ってしまった。

カミュの異邦人に感化された青年はふたつめの太陽を見つけられるだろうか・・・?

最後の『街』=システムが人を同質・均質化し、個を剥奪しているのではないだろうか、という推測。そして『私たちは幸福を前にして敗北してきた』というモノローグには胸がつまる想いだった。
旬の観たいもの展2010

旬の観たいもの展2010

旬の観たいもの展

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/08/17 (火) ~ 2010/08/29 (日)公演終了

満足度★★★

到達点はわかるものの…。
『旬の観たいもの展2010』参加作品、天然果実「Water-Cooler」観劇。
回想形式で謎に迫るサスペンス・ホラー。
目指していること、到達点は何となくわかるものの、
”その日起きたこと”自体にフォーカスされているためか、心理劇を期待するとやや物足りない印象。
照明、衣装、音響、ダンス、衣装などのヴィジュアル的な演出効果をみている分には楽しめる。
役者さんが全員カワイイです!

ネタバレBOX

真っ暗な地下室のような密室に学生服を着た女が6人。
外には出ることができないらしい。
彼女たちの手には、それぞれピストル・ロープ・ナイフなどの凶器が握られている。
何故彼女たちはここにいるのか。どうしてこの6人なのか。
少しづつ記憶をたぐり寄せ、共通項を探し出す。
そして浮かび上がるひとつの出来事・・・。

それは10年前、彼女たちが16歳だった頃にさかのぼる。
秋。文化祭前日にプールサイドで誰かが死んだ。
彼女たちはそれを誰だか思い出せない。
ひょっとして・・・・・
誰かの・・・・呪い・・・・??

公演中なので、これ以上の租筋のネタバレは自粛しますが、
最後の一行がこの作品を物語るキーワードであることは確かであり、
それがすべてといっても過言ではない話であったとおもわれます。

とにかく、自分以外はみんな敵。
真犯人は誰だ?の探りあいが主なのですが、
この探りあいというのが、心理的な面から発露するものではなく、
気が違ったのか混乱したものたちは、自分を守るために殺し合いをはじめる、
というような、考えるよりまずは行動してみる!
なので、ホラー映画的な流れではあります。(血しぶきは一切出てきませんが)

ビジュアルイメージ的には、大槻ケンヂのステーシーに近いですね。
目の周りを黒くしたメイクとかちょっとひとクセある学生服とかゾンビ・ダンスとか。
『殺し合いをする』という意味では、バトルロワイヤルっぽいかもしれません。

ちょっと残念だったのは、彼女たちの『儚さ』が描かれていなかったこと。
そして、『あの日』彼女たちは何をしていたのか。どんな気持ちでいたのか。
どんなことを考えていたのか。など、
彼女たちが一緒に過ごした『あの日』以外のある種ノスタルジーのような思い出や、
『なぜ』あのひとが死んだのか。
『なぜ』あのひとは憎むのか。という気持ちの面がわからないまま、
『コロス!』 『シネ!』のオンパレードでしたので、
彼女たちの憎しみや殺意が一体どこからやってくるのか謎でした。
『猟奇的』ではあったかもしれませんが。それは『狂気』ではなかったですね。

『誰かが』真犯人もしくは『誰もが』真犯人であるという可能性に重きをおいてひとつのキャラクターに統一させて『わからなく』していたのかもしれませんが。
あるいは、すべては真犯人が妄想した多重人格とか!?
もし仮にそうであったとしても、ビジュアル的な紛らわしさがあっただけで、心理面での差異はイマイチわかりませんでしたね・・・。
それに、殺人者には、殺人者なりの正義や論理が犯人自身のなかでは一本筋で貫かれているようにもおもえるのですが・・・。
(たとえ犯行の動機が『むしゃくしゃしてやった。』ということが前提であったとしても)
その辺りの描写がないがしろにされたまま、終盤はなんだか『それっぽい』形骸化されたイメージ映像が続くようで、イマイチしっくりきませんでした。
雨の音と暗転時の照明の効果、空間に奥行きのある演出はすてきでした。
『まばたき』

『まばたき』

ポムカンパニー

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/08/25 (水) ~ 2010/08/29 (日)公演終了

満足度★★★★

毎秒間を丁寧に綴る
『旬の観たいもの展2010』参加作品。
時間軸を交差させたり反復させたりしながら物語を紡いでいく演劇というのを近頃よく目にしますが、この作品はそういった手法をとる作品群のなかでも見せ方が極めて独特です。
ひとが『まばたき』をする一瞬にみるもの・みたこと、はもちろんのこと、他者・自己の心理的距離感の確定・不確定の可能性を、両側面からスケッチしていくシュレディンガーの猫のような構造で、正しい答えを求めようとすると、煙に巻かれてしまうような感覚に陥り、なんだか釈然としないのです(もちろん良い意味で)。
一部、突拍子のない箇所もありますが、時の魔法にかけられたロマンティシズムだとおもえばさほど問題はないでしょう。

ネタバレBOX

ある時、ある喫茶店に偶然居合わせた3組のカップルが同時間軸のなかで、
その時・その瞬間にみる・みた光景をそれぞれの視点軸から反復させながら、リアルタイムに進行していく(であろう)会話を少しづつ積み重ねて行く構成。

まずはしがない劇作家・リョウの彼女、ユリが、「この喫茶店のなかで物語を書くとしたらどんな物語になる?」とリョウに質問をしたことをきっかけに、
視界に入った本を読む若い女の素性から、誰を待っているのか、相手は男か女か、など散々勝手に推測し、時間を切り裂くようにダンサンブルな音楽が流れ出すとその音楽にあわせて登場人物たちが暗転の中テーブルの周りをキビキビと動く。
音楽が鳴りやむと、今度はリョウ&ユリが噂話をしていた女・トモミのシーン(場合)がはじまる。噂をしていた通り来たのは男。彼氏であるらしい。名前はヒカル。

トモミ&ヒカルはどんな関係性で、どんな話をしているのか、ユリとリョウは更に聞き耳をたてて推測していく。
その間、二組のカップルの時間と動作が交互に停止したり、かとおもえば、直接関係性のない二組のカップルが同じタイミングでコーヒーをすすっていたりして、そういう所作をみているのがとてもたのしいし、なんだかとてもお洒落でここちよい。

物語はこんな風にして、はじまりから終わりまで三角形の軌道軸に配置された、座席順をチェンジして、時計を右回り左回り、いそがしく回転する。

3組のカップルが話していることは、びっくりするくらい普通でとてもありふれていることだけれど、口ではイエスでも、心はノーだったりもする。
その相反する感情を、具象化して2つの可能・不可能性として提示する。
どちらが本当なのかはわからない。
当人でさえ、『私が私に距離感』を感じているからだ。
その距離感はまばたきをすればする程ズレていくという。
それも『私』の手に届に届く数十センチ離れた場所に。
そして私とのズレを感じた私はやがて『あなた』とのズレも感じる。

はじまりから終わりまで時間を反復させることはなるほど、
このような関係性のズレを表現するための補佐でもあったわけだ。
これには思わず唸った。

そして気持ちのズレを重ねる台詞。
すごく美しかった。

が、3組目に登場したカップル、兄と妹との近親相姦は、
こんなに危険な関係性でなくても充分に描ける主題だったのではないかと感じたので、
このようにする必然性があったのか、疑問だった。
そして妹のストーカーだと名乗る血まみれ男子。
彼、ただ人を刺すためだけにいるような存在だったし。
狙っているコミカルさもズル滑りって感じでなんだかかわいそうだった。

ネタバレ外に書いた『突拍子もない箇所』というのは、兄と妹のラストの描写。
死んで終わりにする、っていうのはちょっとありきたりで。もう少し工夫がほしい、そんなおもいがつのりました。
今宵、宇宙エレベーターの厨房で【ご来場誠にありがとうございました。】

今宵、宇宙エレベーターの厨房で【ご来場誠にありがとうございました。】

隕石少年トースター

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2010/08/20 (金) ~ 2010/08/22 (日)公演終了

満足度★★★

小耳にはさんだ情報を知りたかった。
人類が抱く大きな夢に飽くなき挑戦を続けたひとたちの運命がかかっている場面において、そうしたひとたちが不在(見えない)するなか、小さな自己実現を達成することだけに目的意識を持ったようなひとたちのイマイチ煮え切らない言動が、劇的ドラマを実感させないという意味でのリアルっぽさを醸しだしていたことは、空気感としては悪くはないとおもうのですが、対立軸や葛藤など、目にはみえない描写が見えにくかったために、登場人物のだれかに共感したり、ハラハラドキドキする瞬間が訪れませんでした。
所々にさりげなく織り込まれた料理人らしさを素材にしたギャグはエスプリが利いていて感心したのですが・・・。
突拍子のない場面設定に実在しそうな人物像をあてはめるミスマッチさや、
おおまかな筋書きは独創的でしたし、興味をそそられる類のものでしたので、仕組まれた伏線や細かい情報を出すタイミングだったり、芝居のテンポ・リズムを変化させてみたり、場合によっては場面をカットすることも視野に入れて再構成されるともっと伝わりやすくなるようような気がします。

ネタバレBOX

科学テクノロジーのめざましい発展により、万有引力のコントロールさえ容易くなった近未来。地球と宇宙とを一本の軌道軸で結び、誰にでも簡単に短時間で宇宙に行くことができる人類史上初の発明品『宇宙エレベーター』の賛否を巡り、実機に乗り込み会合を行うことになった両派の大臣たちに料理を振舞うことになったしがない料理人たちの事の成り行きがほぼリアルタイムで描かれていきます。

両派の大臣たちの会合は、『宇宙エレベーター』内に併設された厨房の奥に位置するホールで行われているとのことなのですが、ホールと厨房をせわしなく行きかうオーナーからは彼らがどんな話をしているのか、その具体的な『外側』の情報がほとんど入らず、とにかく料理をつくることに集中するよう釘を差すので、料理人の雑談に広がりがもたらされているとはおもえませんでした。

『何があろうとも職務を全うすることはできるだろうか?』という趣旨があるためでしょうか、強面のSPや、宇宙人という作業の進行を妨げる邪魔者がちょいちょい入るのですがこれらは、その多くが偶発的なアクシデントであることから、なんとなくその場限りの笑いで収まってしまっているようにみえました。

不思議だったのは、大臣らが厨房に視察することがあるかもしれない、という可能性を視野に入れた描写がなかったこと。
これがあるだけで、場のモチベーションはあがるはずです!
そして、この宇宙エレベーターでは彼が切り盛りするレストランが常設予定ということなのでしょうか?それにしてはこのレストランに掛ける想いも意気込みもスタッフ間でバラバラであるように見受けられましたが。
まずは意志確認のために、朝礼からはじめるという選択肢もあるとおもいます!

やる気のないバイトがヒレ肉をただ叩いるのを見かねたシェフが「太陽が爆発するようなイメージで。」と独自の料理哲学をレクチャーする場面はよかったです。
冒頭での賛成派と反対派が対話する場面でガガーリンの名言を文字って「自分は青かった・・・」というひとことなどはエスプリが利いていて好きでした。願わくはあのような笑い(ネタ)もっとたくさん仕込んでほしかったですね。

また、オーナーがSPに自慢の一品『太陽のフレア』を試食してもらうシーンでは、料理のコンセプトやこの料理に掛ける意気込みなんかを本番さながらにプレゼンしたりする方がナチュラルであるようにおもいました。

後半、宇宙ステーション(基地局)から更に月へ向かうためにゴンドラに似た設備を利用して向かう場面で、月へ行って地球に戻ってくるだけのあることが発覚し、結果、テレポーテーション(瞬間移動)で地球に帰還する方法が選択されるのですが、これはちょっと予定調和なアクシデントのようにおもえてしまい、アッという驚きはありませんでした。
予備の燃料タンクが反対派勢力の飛ばした人工衛星によって撃ち落とされてしまったのではないだろうか・・・とかそのような、憶測が絡んでいたら腑に落ちるのですが。
エレベータの管理会社の人間が登場して、間抜けなトーンで指示していくのはおもしろかったです。
『心の歪みが時空の乱れを生む』という設定にはおぉ!と唸りました。
エレベータ内では重力が自動的に中和されているということもおぉ!となりましたが、『エレベーター内では重力が常に中和されている』という情報はむしろ、序盤で引き出されるべき情報だとおもうのです。
そして、重力がコントロールされていることは、この時代に生きるひとたちにとっては当たり前という認識なのでしょうか。
そのことについて注約するひとが誰もおらず、皆あまりにも普通だったので、その点は少し気になりました。

エレベーターが劇中、どの辺りに滞在しているのか、前後することが多々ありましたが、開演時の暗転でNASAの管制官的なナレーションを入れて、エレベーターを離陸させた場面からドラマをはじめるほうが、臨場感が出るようにおもいますし、『心の歪みが時空の乱れを生む』という設定ももっと生かされたのではないのかな、とおもいました。

あの宇宙人は、エレベータに乗って地球を侵略にやってきたのに、エレベーターガールに恋をしちゃって予定が狂っちゃった・・・ってことだったのでしょうか。
侵略しにやってきたスパイだとしたら、それらしい行動はあるはずですし、しかも時々ネイティブ(宇宙言語)はふとした瞬間に出てしまうでしょうし、それに基地局も攻めるとおもうのですが。
反対派勢力の描き方もちょっと中途半端でしたね。着地点がわかりませんでした。
宇宙ダイヤモンド

宇宙ダイヤモンド

劇団TipTap

中目黒キンケロ・シアター(東京都)

2010/08/20 (金) ~ 2010/08/23 (月)公演終了

満足度★★★

スペクタクルに相応しい。
はじまりからおわりまで沸点で駆け抜ける何も難しいことを考えずに楽しめる作品でした。
ミュージカルの場合、役者の歌、ダンス、演技のスキルがすべてクリアーしていないとその世界に入り込むことが難しいのですが、ひとつひとつのキャラクターの表情が微妙に変化するダンスがすばらしく、圧倒されました。
歌唱力、演技については、役者によって力の差異が浮き彫りになった場面も見受けられましたが、オリジナル楽曲の良さと舞台効果の工夫とで乗り越えているように思えました。
スターウォーズの主題を踏襲した物語の構成は、賛否両論がありそうですが、個人的には許容の範囲内でした。

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