星の王子さま 公演情報 星の王子さま」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.3
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★

    寺山修司作品は4作目
    まぁ、一言で言えば、奥が深いですね。ひとつのお芝居をするには、皆が主人公なんだと言う事のメッセージを感じた。いい作品だと単純に思いました。

  • 満足度★★★★

    Tamagoのような
    寺山の原作を知らないで観たところ、当然なのだろうがTamagoPurinのような印象を受けて気に入った。ちょっと健全すぎるとは思う。

  • 満足度★★

    言葉が届かず
    ダンサー・振付家のスズキ拓朗さんが演出を手掛けた公演で、軽やかな雰囲気が印象的でしたが、寺山戯曲に対して演出がマッチしていないと思いました。

    少女と男に変装した女が謎めいたホテルに入り込み、そこで怪しげな人物達と遭遇する物語で、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の要素が絡んで迷宮的な世界観を描いていました。
    オープニングはこれからの展開を期待させる魅力がありましたが、ダンスや音楽の無い台詞だけで進行する場面は求心力が弱く、独特な言葉が伝わって来ませんでした。終盤では寺山作品らしい虚構と現実がごちゃ混ぜになる展開となるのですが、その時に現実と虚構を繋ぐ役目を役者でも(戯曲で指定されている)サクラの観客でもなく、劇中音楽を演奏していたミュージシャンに振っていて、開演前のアナウンスをその人が行っていた意味が明らかになるのが巧みな構成となっていて良かったです。

    ミュージシャン達は作業着にヘルメット姿、床には養生ベニヤが敷かれ、カラーコーンやローリングタワーを舞台美術として使って工事現場をイメージさせていて視覚的には楽しかったものの、物語との関連性があまり感じられなくて、 残念でした。

    音楽劇となっているものの、歌に関しては音程が怪しく歌詞も聞き取り難く、あまり満足出来ませんでした。
    効果音が耳に痛くて、もう少しマイルドな響きでも良いと思いました。

  • ・・・
    寺山修司の問いかけも実験性も無思慮に解体され、
    エンターテイメントに帰していた。

    前衛は二度現れる。一度目は衝撃として、二度目はパロディとして。

    ネタバレBOX

    当時寺山がやっただろうことを再現されてもシラケるだけだが、
    かと言って、ここに新たな命が吹き込まれていたとは到底言えない。

    脚本を活かす訳でもなく、脚本や舞台を解体しポストドラマ的演出を試みる訳でもない。
    それらが中途半端にブレンドされていた印象。

    ラストシーンは特に残念だった。
    ほとんど当時の演出の再現。それをほんのちょっとだけ相対化して終わる。
    しかも、当時は行っていないだろうカーテンコールまで行われる。
    これでは、劇の虚構と現実世界というテーマがパロディとしてしか受け取れなくなってしまう。

    ただし、過剰に深読みすれば、
    まさに現代社会はこのパロディに支配されているということを表象していると言えないこともない。

    最終場面で、大鶴美仁音演じる点子によって、舞台後ろに張られた幕が剥がされる。
    それと同時に劇の虚構が暴かれ、屋台崩しとなる。
    舞台裏にいた役者たちは、演じるこをやめた現実の人間として現れる。
    作品内でも語られてきた何が本当で何が嘘なのかというテーマは、
    この演劇の虚構と現実の実人生の地平との問題に敷衍される。

    ここまでは当時の演出とほとんど同じだ。
    そこで、声高に劇の虚構を暴き立てているが点子/大鶴美仁音は、
    劇構造の外にいる狂言回し役(劇伴の演奏者でもある)によって、
    彼女の振る舞いさえも、まさしく演技以外の何物でもないではないかということが突っ込まれる。
    それに、他の演奏者の一人も同様の相対化をする。
    今、大鶴は点子を演じているのか、大鶴自身を演じているのか。
    そもそも本当の大鶴美仁音とはどこにいるのか。
    私たちは日常でさえも、何かの役割を演じていない状況などありえるのだろうか、、、、と。

    この演奏者たちによる相対化は、
    当時の寺山演出では「観客(を演じていた俳優)」が行った。
    それをこの作品では劇構造の外にいる演奏者に行わせているのだ。
    特筆すべきは、その演奏者は二人とも台本(カンペ)を見ながら台詞を言っているということだ。このドキュメンタリー的な現実の位相の導入もすべて台本を基に行われている虚構であるということが明示されている。
    (ただし、これが劇構造の外の演奏者によって行われていることにより、
    「役者じゃないから、台詞が覚えられなくてカンペを見ているのだろう」という誤解を生じかねないものとなっていた。私も最初はそう思った。いずれにしても、本来最も批評性を内在している部分が、単に陳腐なものののように見えてしまっていた。これは非常にもったいない。)

    いくら虚構を暴き現実を掴もうとしても、その現実がまた別の虚構であることの堂々巡り。まるで玉葱の皮むきのように、どこまでいっても現実・真実にはたどり着くことはできない。

    これは寺山も意図したテーマだ。
    だからこそ、寺山はこの劇で屋台崩しをやり、そして(他の作品でもそうだが)カーテンコールをしなかった。
    劇場内部の問題と、劇場外の日常とは同地平なのだということを意図して。

    だが、この作品では、最後にカーテンコールが行われる。
    すると、結局これは、すべて含めても「虚構」「興行」だったということが露呈してしまう。

    今日の社会は、すべてが虚構にまみれ、嘘ではない現実や真実がどこかにあるという幻想を抱くことさえ奪われているということか。
    それともすべては「興行」「エンターテイメント」という資本の原理に回収されざるをえないということか。
    いずれにしても、ここにこそこの作品の強烈な問いかけがあると深読みすることもできる。

    おそらく、単に、慣例としてカーテンコールをやっただけに過ぎないと思うが。

    どちらであれ、ラストのカーテンコールにこの作品のすべてが現れていたと私は思う。

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