奴婢訓 公演情報 奴婢訓」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    空洞の魅力
     寺山修司の演出と多田淳之介の演出の共通点と相違点が面白かった。
     寺山修司は作品の半分は観客が作るものだと言った。半世界という言い方もした。多田淳之介の演出もその点が似ている。だが、その在り方が対称的なのだ。
    寺山修司の演出と多田淳之介の演出の共通点と相違点が面白かった。
     寺山修司は作品の半分は観客が作るものだと言った。半世界という言い方もした。多田淳之介の演出もその点が似ている。だが、その在り方が対称的なのだ。
     寺山修司を足し算的、多田淳之介を引き算的ということもできるだろう。寺山はイメージをぶつけ合わせ、観客の意識を攪乱する。多義的でイメージ豊かな幻想の中で、観客はイメージに振り回され、その混乱の中で自分自身の問題と向き合うこととなる。それに対して、多田の演出は空白的だ。イメージの装飾を剥ぎ取った簡素なものの中にぽっかり浮かんだ空洞。その空洞に観客は自身が日々抱える日常的問題を投影しながら舞台を観ることとなる。この点において観客が演劇に介入する在り方が決定的に違う。
     だが、共に、劇は作家が提示する問いに対して、観客が回答することで成り立つという点では同じであり、見る者の数だけ、その劇世界が創出される。

     その為、ここから先は、その観客数分の1の私自身の体験を記述する。そういう記述方法でしかこの作品を批評することができないからだ。

    ネタバレBOX

     ぽっかり浮かんだ空洞。退屈と紙一重の処で成り立っている世界。ヌーベルバーグのようなまどろみ。その隣には、私自身の手垢にまみれた日常が顔を覗かせている。それが劇世界の中に流れ込んでゆく。日々抱えている些事。とるに足らない欲望。「あれをやらなければならない」「これがほしい」「それをしたい」。だが、それらのことは、私自身のすべきこと、欲望でありながら、本当に自分が望んでいるのかわからない。『奴婢訓』のテーマである「主人の不在」。私は私自身の主人なのだろうか。私は私の主人ではなく、誰かに何かに、動かされているのではないか。では私を動かしているのは誰なのか。その顔は見えない。では、この社会を動かしているのは誰なのか。その顔も見えない。
    不在の主人で満たされた空間で、私は私の主人を探しながら旅をする。「幸福とは幸福を探すことである」(ジュール・ルナアル)ならば、主人を見つけることが目的なのではなく、主人を探すことの中にその本質があるのかもしれない。
    ラストシーンで浮かび上がる寺山修司の言葉。
    「世界は、たった一人の主人の不在によって充たされているのである」。

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