炎 アンサンディ 公演情報 炎 アンサンディ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★

    岡本健一さん、圧巻
    奇しくも、北海道の大学生が、イスラム国戦闘に参加する寸前に、公安に事情聴取を受けたというニュースを耳にした日にこの芝居を観ました。

    いよいよ、日本人にも、中東問題が卑近な出来事になったと衝撃を受けたばかりだっただけに、より心に食い込む芝居として印象深く観劇しました。

    役者さんあってこそ、成功した舞台だと感じます。

    中でも、岡本健一さんの、「狂演」とも呼べそうな熱演ぶりには、臨場感があり過ぎて、胸が押しつぶされそうでした。

    ただ、最終場面の描き方が、急にリアルさが薄れ、演劇的な雰囲気になったのには、若干違和感を感じました。(「レミゼラブル」のラストシーンを彷彿としました)どなたかも指摘されていたように、いきなり、双子の子供達にアウエイ感を感じてしまって…。

    中東版のギリシャ悲劇的なストーリー展開。

    麻実れいさんの立ち姿が美しく決まって、元宝塚男役トップの面目躍如といった見た目の感動もありました。

    ネタバレBOX

    ほぼ裸舞台で、時や場所が交錯する割には、今どこのシーンなのかということが如実にわかり、演出の手腕を感じました。

    遺書を、双子の子供達に見せることを託された、公証人のエルミルが、何度か繰り返す「確かに、確かに、確かに…」の台詞、この世に、確かなことなんて存在するのか、でも、認めたくなくても、確実に、確かな事実は存在する。そんな作者の思いがこだまするような気がしました。

    自分達への愛情がないと感じていた母親の真実にたどり着いた時に、双子が発する慟哭の科白、「1+1は、1」という種明かしは、気が利いた作者の発想だと思いましたが、それ以上に、双子の娘ジャンヌが、どんな計算でも、必ず最後は1に帰結すると、シモンに向かって、計算式を唱え続ける場面が、むしろ、暗示めいて、観客の気持ちを鷲掴みにする効果テキメンでした。

    岡本健一さんは、6役全てを、見事に体現され、本当に実力俳優さんになられたなあと感無量の思いがしましたが、特に、最後の役、ニハッドの演技には、戦慄が走りました。

    歌いながら、人を殺戮し、その直後に、その死者の表情を激写し、満足げにほくそ笑む…。
    どんな戦場写真を目にするよりも、衝撃的な光景として記憶に残りそうです。

    二幕で登場した、2体の死体もとてもリアルで、至近距離の席で観ていたので、ずっと、目を逸らしたい思いに駆られました。

    頭ではなく、体と目で、いろいろ考えさせられる舞台作品でした。
  • 満足度★★★★★

    圧倒的な舞台
    壮絶な運命に直面する家族を通じて人間の尊厳を問う作品で、脚本・演出・役者のいずれも素晴らしく、3時間を超える上演時間を意識させない強い求心力がありました。

    男女の双子の母親が晩年に突然喋らなくなってそのまま死んでしまい、遺言に従って父親およびその存在を知らされていなかった兄を探すエピソードと、母親の過去のエピソードが展開し、衝撃的な事実が明らかになる物語でした。
    理由・原因を遡及して行くやりとりが2度あり、その終わりのなさに空しさを感じました。最後に明らかになる事実は途中で何となく分かってしまいますが、その事実自体よりもその事実に対する反応が丁寧に描かれていて、強く心を打ちました。
    一番最後の絵面が宗教画のようで美しかったです。

    土で覆われた勾配のついた床しかない空間で、2つの場所・2つの時代が交錯しながら、時には同時並行で物語が展開するものの、照明で巧みにエリアをフレーミングして分かり易く描かれていました。

    物語としてはとても重い内容ながらも、謎が少しづつ明らかになって行くミステリー仕立ての構成や、1人で10代から60代まで演じたり、複数の役を演じたり、場面転換に工夫があったりと、あざとくならない程度に趣向を凝らした演出があって、演劇として楽しかったです。特に効果音に複数の意味が掛けてあり、同じ音が異なる場面で違う意味合いを帯びさせていたのが印象的でした。
    BGMとして使われていた音楽が悲劇を無闇に盛り上げる大袈裟なものではなく、明るさや希望が感じられるピアノ曲だったのも良かったです。

    7人の役者だけでスケールの大きな世界を表現していて素晴らしかったです。特に岡本健一さんは多くの役をそれぞれ説得力のあるキャラクターとして演じていて良かったです。

  • 満足度★★★★★

    原罪・贖罪・復活
    沈黙の意味
    沈黙の重さ
    沈黙の向こう側

    ネタバレBOX

    重苦しいテーマと表現の舞台だ。
    余計なセットや装置は一切排し、舞台の上の役者と台詞に集中させる。

    すでに死んでしまった母・ナワルからの遺言で、双子の息子と娘は、戦争で死んだと聞かされていた「父」と、その存在すら知らなかった「兄」を探せと命じられる。
    彼らは反発しながらも、母の母国である中東へ旅立ち、2人を探す。

    ストーリーとしては、物語の進行とともに、いくつかの疑問を解き明かしていくような、ミステリー仕立てになっている。
    すなわち、
    「父はどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか」
    「兄はどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか」
    「なぜ父と兄を、今になって双子の娘と息子は探さないといけないのか」
    「なぜ双子の娘と息子は、母を嫌っているのか(息子に至っては、母をクソ呼ばわりしているほど)、つまり、双子はなぜ、母に愛されていなかったのか」
    そういう疑問、つまり、「ストーリーの中の疑問」が最初のシーンからわき上がり、観客は双子たちとともに、母がたどってきた「彼女の真実」を見に行くのだ。

    さらに、疑問は湧く。
    言わば「ストーリーの外の疑問」だ。物語の進行とともに、観客の心に染み出てくる疑問と言ってもいい。
    すなわち、
    「母は、なぜ双子の子どもたちに、真実を伝えなくてはならなかったのか。“父は死んだ”と言っていたのだし、兄は存在さえ伝えていなかったのだから、真実は墓まで持っていけばよかったのではないか」
    「彼女(母・ナワル)は、なぜそのような酷い目に遭わなくてはならなかったのか」
    ということである。
    それらが、この作品の本来のテーマと重なる。
    そして、それにラストで気づかされる。

    レバノンが母・ナワルの故郷であろう。その地名は作品中に出てこないが、フライヤーなどや作者の履歴からそれがうかがえる。
    ナワルは十代に愛する男と出会い、身ごもるのだが、男とも子どもとも引き離されてしまう。
    それは、宗教の戒律によるものではないのかと思っていたが、彼女や祖母の胸に下がる十字架によって彼女(ナワル)たちはキリスト教徒だとわかる。
    そこで、レバノンで起こったキリスト教徒とイスラム教徒との凄惨な戦闘を思い出す。
    つまり、「同じところに住み、同じ民族が殺し合う」という、劇中に何度も繰り返される台詞に行き当たるのだ。

    さらに劇中では「私があなたの母(父)であってもおかしくない」という台詞が2度も出てくる。それなのに、殺し合うという現実。
    終わることのない、復讐と殺戮の連鎖。
    これがこの作品のひとつのキーワードとなる。

    ナワルが子どもも身ごもったあと、祖母に「読み書き、計算ができるようになって」「自分(祖母)、母、あなた(ナワル)へと続く“怒り(悲しみ)の泥沼”から抜け出せ」と言われる。
    そして、祖母は「自分が死んだら、その上には何も置くな」「お前(ナワル)が文字の読み書きができるようになったら、この場所に戻ってきて、墓標に私の名前を書け」と命じる。

    これはナワルが双子の子どもたちに遺した遺書とまったく同じであり、それがこの作品の全体を包む。

    すなわち、ナワルの埋葬方法は彼女の祖母のそれと同じ。
    「棺桶には遺体を入れず裸のにまま埋葬すること、空(上)を向かせるて横たえること、参列者がそれぞれバケツ1杯の水を自分の遺体にかけること、埋めたあと、その上には何も書かず、何も置かないこと、そして、あることを達成したときに初めて墓標を立て、自分の名前を書くこと」である。

    なぜ、ナワルは祖母と同じように、そうしたのかが、「ストーリー外の疑問」のひとつ、「母は、なぜ双子の子どもたちに、真実を伝えなくてはならなかったのか」の回答となる。

    ナワルは、強い女性だ。強くなったと言ってもいいだろう。「言葉」を知ることで、怒り(悲しみ)の連鎖(泥沼)から抜け出すことができたからだ。
    連鎖から抜け出すことができたとしても、彼女たちを取り巻く状況はまったく変わらない。
    復讐と怒りと殺戮の連鎖の中にいる。
    しかし、彼女はそうした連鎖の外に出ることができたので、「復讐のため」に「相手を殺す」ことはしない。親友のサウダが自分の家族や親族が殺されたときに復讐しようとするのをとどめるのだ。
    だから、のちにわかる収容所の中で拷問を受けていても、ナワルは歌うことができたのだ。

    しかし、彼女も人を殺している。
    それを忘れてはならない。
    殺した相手は、子どもや女ではないし、民間人でもない。
    「連鎖を止めるため」という大義名分はあるのだが、やはり人を殺したことには変わりがない。

    人を殺すときには、殺人鬼でもなければ、大義名分が必要だ。
    「復讐」も立派な大義名分だから、ナワルの行動も、個人的な復讐のため相手を殺したいと思っていたサウダと同じことなのだ。

    ここに「ストーリー外の疑問」のもうひとつ「彼女は、なぜこのような酷い目に遭わなくてはならなかったのか」の回答があるように思う。
    それは「人を殺したから」その「罰」として酷い目に遭った、のではない。
    もっと根源的な意味であり、世の中のすべてのことを含めた、象徴的なものであろう。

    すなわち、「原罪」。
    つまり、彼女たちが信仰しているキリスト教における、すべての人が持つと言う「原罪」ではないだろうか。
    人は誰しも「罪」を背負っていて、彼女(ナワル)もその1人であり、その罪により、試練を与えられたということではないか。
    ナワルは、それに購うために、人々の罪を背負ったのではないか。

    ナワルはもちろんキリストではない。
    生身の人間であり、「女」であり、「母」でもある。
    新しい生命を宿すということが、ナワルの宿命であり、「贖罪」でもあった。

    このキリスト教的な感覚は、先の「母は、なぜ双子の子どもたちに、真実を伝えなくてはならなかったのか」にもかかわってくる。

    すべてを知ることができなければ、贖罪はない。
    ナワルも祖母も、土中に埋葬され、その墓碑銘が書かれるときに、「復活」する者がいる。
    ナワルが学び知識を得て、祖母の墓碑銘を書いたときには、「ナワル」が「復活」した。

    そして、彼女(ナワル)の子どもたちが「知ったとき」に復活するのは、ナワルではなく、彼女の子どもたちなのだ。
    子どもたちとは、双子だけでなく、彼らの「兄」も含まれる。
    このところは、正直に言えば、きちんと理解できたわけではない。

    「復活」とは何か。
    この物語自体、「一体、何が悪かったのか」という問いかけは、無用である。
    双子の娘が尋ねた老人の問い掛けと一緒であり、それはどこまで行ってもキリがないのだ。
    さらに言えば、孤児院の医師が言う、誰が誰を殺したから、誰を殺すという、復讐の連鎖のようにキリがない。
    キリがないから、ここで断ち切ることにして、新たに始めることにした。それが「復活」ではないか。
    「知る」ことですべてを受け入れ、「知恵」(祖母が糸口を授けた)で解決の糸口を見つける、それがこの作品のテーマだったのではないかと思う。

    ラストに、「父」「兄」がことの次第をすべてを知ることは、彼を非難するためでなく、ナワルが自ら「自分の息子をいつも愛する」と誓ったにもかかわらず、(そうとは知らず)呪ってしまったことも含めて、彼に知ってほしかったのだろう。
    それは双子対するものとまったく同じ意味であり、彼も双子と同じ地平に立たせるということである。その「地平」にはナワル自身もいる。
    その「地平」とは、すべてを「愛する」場所である。

    ナワルの子どもたちも、そこに立って(たぶん)そうできたのではないか。

    ナワルがこの事実を知ってから5年間ひと言も言葉を発しなかったのは、恐ろしい事実に言葉を失っただけでなく、その先に行こうとしたからだ。
    そしてたどり着いたのが「こうやって一緒になったからには大丈夫」だった。

    双子も、その真実を知り、母の沈黙の意味を知ることで、母・ナワルと同じところにやっと立てたのだ。彼らも「沈黙」ののちに。
    そして、「母の沈黙」に耳を傾けることができた。

    「父」「兄」も、時間はかかるだろうが、そこにたどり着けるだろう、と示唆するラストは美しい。
    彼(ら)の席がきちんと用意されてあり、そこに這ってたどり着くのだ。

    そして、すべてを包むのは「母」(の「愛」)なのだというラストでもある。

    「こうして一緒にいるのだから、大丈夫」というナワルの結論は、彼女の愛した男の最後の言葉「一緒にいることは美しい」であることが哀しい。
    「1+1」が「1」になることがあるのか? の問い掛けの意味を知ってしまった双子たちの姿も悲しい。

    戦争は、たぶんもうしばらくは、なくならないだろう。
    この作品は、戦争の悲惨さを描くとともに、断ち切る強さ、知ることの尊さを描いている。

    母・ナワルは強い。だからこそ、自分の子どもたちもそうあってほしい、とすべてをうち明け、それを彼らの手によって明らかにしてほしかったのだろう。
    文章で書くよりも、体験してほしかったのだ。
    実際に人に会って、話して、土地を体験して。

    「罪」と「贖罪」の間には「知ること」があり、「贖罪」と「復活」の間には「赦し」(愛)がある。


    ナワルを演じた麻実れいさんは、背筋をしっかりと伸ばしているような強さを感じた。十代のナウルは少し厳しかったが。
    ニハッドを演じた岡本健一さんは、スナイパーとしてのクレイジーさが舞台の上で異彩を放っていた。ラストの衝撃が心に響く。
    ナワルの友人サウダを演じた那須佐代子さんは、ナワルの唯一明るい表情の時代を助け、健気な印象が良かった。

    ※キリスト教に関する、非常に薄い知識で書いているので、本来の意味から外れているかもしれないが、そこはご容赦を。
  • 満足度★★★

    力作
    母を訪ねて現代中東編というか。
    平地舞台に周囲は漆黒、人と椅子しかない舞台なのに、その余白部分を埋めるような波乱のような真実、激動?劇的?で緊張感ある展開に次第に重苦しくなったりした。言葉がうまく見つからないまま肩凝ったw
    10代から終盤の麻実さんがギリシャ悲劇然、どの舞台よりも控えめなしゅうさん、全員良かったです。
    海外のニュース映像を見ているかのような、あまり慣れ親しんだ題材ではないし、悲惨な事例があるにはあるが、凄惨な描写がある訳ではない。だけど、強烈な余韻ある舞台だった。体調を万全にして見た方が良いと思う。
    休憩込み約3時間15分

  • 満足度★★★

    死者は自ら遺書を読むことはできない
    今秋の最も期待される役者人、演出の舞台でしたが、正直この舞台を日本でやるのは難しいと思いました。主人公ナワルの死後、遺言代理人から、双子の姉弟に、遺言として2通の手紙を自分たちの父と兄に届けるようにとの指示の元、中東の母の生地に赴き、結果的に、母の衝撃の半生と、自分たちの出生の秘密を知ることになる。最後のクライマックスで、その父兄に宛てた2通の手紙が読まれるのだが、舞台上では、死者であるナワルが現前として、その遺言を滔々と読むのである。この演出は、死者が葬式の場で立ち上がり、遺言を自ら読むような光景で正直気持ちが悪かった。映画と同様、死者は飽く迄過去の回想の中でのみ存在し、手紙の場面ではナワルは音声のみという演出にできなかったのだろうか?これでは、生者である双子の姉弟が真実を知って、母の心を知り、母の死と子供達の再生という演劇的カタルシスが台無しだったと思う。

  • 満足度★★★★★

    美しくて残酷なセリフとどんでん返しの連続
    何もかもが凄まじい…。ストレート・プレイにこれほどまでに心揺さぶられ、涙が止まらなくなったのは本当に久しぶり。脚本も演技も演出も高密度です。観客も体力万全で!上演時間は約3時間15分(途中休憩15分を含む)。

    ネタバレBOX

    たしかに「オイディプス」でした。

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