満足度★★★★★
表現とはこういうことだ!(と思った)
「私の子供=舞踊団」。<br>
ダンサー田中泯(みん)が、2011年に一般公募を始めたメンバーで作ったワークショップを母体とする舞踏団。埼玉県富士見市民文化会館「きらりふじみ」が田中泯とともに思案して立ち上げたという。
今回観た『イマダンス』は、この舞踊団初の「ソロシリーズ」。
内容は、舞踊団から選抜された男女六人が、一夜目に三人、二夜目に三人、多分一人30分弱くらい、たった一人で「オドリ」を観せるというものだ。
衝撃的だった。
登場する男女はただの素人である。たいてい普段はそれぞれ仕事をしている。
聞くところによると、各オドリは一から自分で動いて作り上げさせ、それを田中泯が追い詰めていくらしい。
本番の舞台には音楽や照明があるが、そういうものがない状態で。
え・・・?
課題もモチーフもなく伴奏もないまま、「踊ってみろ」と言われて、ヒトはどう動くのだろう?
しかし眼前に現れた「オドリ」は、一人の人間がとことん己と向き合って、絞り出して凝縮したかのような、濃密な「オドリ」だった。圧倒された。
一人目の大柄な男性は、30代後半くらいか。くしゃくしゃの髪。よれよれのジーンズの上下(作業着?)を着ている。何をするのかと思えば、入場してきて壁沿いに横たわり、そこから長い長い時間をかけて「立つ」のだ。
そこに至る、例えば腕を曲げる動き、膝を伸ばす動き、恐ろしくゆっくりで、その動きは時に畸形的ですらある。ただそれを観ることは決して退屈ではなく、それどころか非常に緊張感のある、濃密な時間として感じられる。ついに舞台の中央で直立した時には、言い知れぬ感動がある。しかしそこで終わりではなく、バランスは再び崩れていく。機械の音のようなBGMとも相まって、ギーコギーコと関節がきしんで呻いているようでもある。なんだか、途中からとても悲しくなった。悲しみが直接どくどくと流れ込んでくるような気がした。
二人目は、30くらいの女性。白い布を巻き付けたような姿から、細い右腕が虚空に突き出していく最初の動きから目を奪われた。繭から生まれる白鳥か鶴のようにも見えた。彼女の動きはとても美しくてしなやかで強靭で、どこか根源的な悲しみや不安や脆さのようなものもあり、動き一つ一つに目が惹きつけられっぱなしだった。
これだけイマジネーションを喚起してくる突き詰めた表現を、公募した素人によって結実させるとは・・・田中泯マジックなのか。
観ていて一番強く思ったのは、「ああ、表現って、こういうことだったんだ!」ということ。
世の中は様々な表現物(創作されたもの)であふれている。
が、観る者の嗜好に迎合したり、流行の要素を集めたり、定型のバリエーションで「まあいいか」で済ませたり、9割はそういうものばっかりだ。
どこかで何度も見たような、有っても無くてもいいような創作物が「フツーにいいんじゃない?」という「褒め言葉」で流通しているのはなぜなんだろう?
一度は「表現」というものの根本、いちばんシンプルで純粋な「表現」の形、というものを知りたいと思っていた。
その体験が、この舞踏団で、見られた。
田中泯のルーツである「暗黒舞踏」は、頭を剃った裸の男たちが全身を白く塗りたくってパフォーマンスをする。
しかし『私の子供=舞踊団』では、田中泯は一切白塗りなどは使わない。
白塗りという記号性に頼ることを許さないのかも。
イメージを持たせない、テクニックに頼れない(頼らせない)。リズムや音楽に乗ることも許されない。また今回は、プログラムどころかやテーマすら与えてもらえない。
リズムどころか慣性に任せたような動きは一切ない。
普段何も考えずに歩いたり立ち上がったり呼吸していることの不思議さを、だからこちらは痛いほど感じる。
内面表現にも非常に共振した。しかしそれについても、一般の劇団員や大学の演劇部が練習(エチュード)でやるような、喜怒哀楽の感情表現など一切しない。悲しみや苦しみの表情や動作をすることは、定型もあり自身の経験もあるから結構やさしいように思える。けれど彼らはそれをしない(させられない?)。
表現って、オリジナルな創造って、こういうものかもしれない・・・(しつこくてゴメン)と、これほど腑に落ちたように感じたことはない。
舞踊技術の完成度とかは無縁に、あれで完成しているように感じた。
その後どんなにうまくなって経験を積んでも、あの夜のあのおなじ「オドリ」はできないんじゃないか。そう思って痛ましいほど厳しい道だと感じたものである。
しかし思い起こすと、発展の萌芽や可能性は多々感じさせられた。
清冽で美しかった女性の演技では、後半の髪を乱したエロティックな瞬間にドキリとした。今回の舞台では大きく発展しなかったが、「その先」を思うとゾクゾクさせられる。もしかしたらあの細い身体から、もっと「怖いもの」、「エロティックなもの」、「グロテスクなもの」が引き出されてくるのかもしれない。
畸形的で悲しみに満ちた(と思えた)男性の演技も、その先に「崇高なもの」につながる何かを感じた。
あのオドリは一夜限りだが、彼らの内面にはまだまだ表現を待つ多くの未知なるものが息をひそめているだろう。
いずれにしても、活動が続く限り観させていただきたい舞踊団である。