夢の泪 公演情報 夢の泪」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    3回目。
    前田旺志郎氏の出入りのダッシュはいつ見ても凄い。プロレスラーの才能を示す要素の一つにリング内ダッシュがあるが、高評価だろう。

    ネタバレBOX

    カメラが入っていた。事務所に電話が来て初めて鳴るまでの遣り取りがカットされたような気がしたが、勘違いかも知れない。(一番に電話を掛けて貰うよう恩師に頼んだくだり)。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    2回目。
    席が良かったので更に面白く感じた。
    瀬戸さおりさんは尊い。在りし日の久我美子に見えた。
    秋山菜津子さんの低い唸り声と眉間に皺を寄せたしかめっ面。それでひたすら通す流儀。流石。
    ラサール石井氏の上手下手の柱で嘆くシーンも最高。
    前田旺志郎氏は大物になるかもな。
    久保酎吉氏が出ているだけで作品の格が一つ上がる。

    もう一回位観たい程、良い芝居。
    こまつ座は売り方次第でもっとブレイクすると思う。観劇初心者に一度観る機会を与えるべき。黒澤明や手塚治虫、筒井康隆と同じく知って然るべき存在が井上ひさし。知らずに済ますには勿体無い。
    是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    ブルーハーツを聴いて、「本当に世界は変わるかもな」と真剣に思った夜。これを聴いた連中によって世界は変わるかも知れないと。そんなことを思い出した。

    『ブルーハーツより愛をこめて』 THE BLUE HEARTS

    見捨てられた裏通りから
    世界中に向けて
    大切なメッセージが
    届くのを君達は見るだろう
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    東京裁判3部作の二部作目。久しぶりに見ると、よいところ、イマイチのところ、ともによくわかる。
    松岡洋右の弁護人に抜擢された弁護士夫婦、同じ曲を互いに「夫が作った曲だ」と奪い合う占領軍で歌う歌手二人、朝鮮人の父をヤクザに刺されて警察に訴えても相手にされない学生(「いまぼくは感じる…捨てられた」は強い曲)、アメリカで日系人として収容所に入れられた日系2世の将校(「うるわし父母の国」もよい)、以上の4つの筋がない合わされている。いずれも作者の追求したテーマであり、一つのテーマだけで独立した作品も書いている。そういう点では、集大成的な作品である。このなかで、一つの曲の謎を解いていく顛末が、理屈っぽくなりやすい芝居を救っている。

    日本人弁護士に、被告が弁護料を払えないからと、みなで街頭で募金を訴える歌が面白い。「こころやさし君よ」。心優しい人々のはずが、石を投げられ袋叩きにされる皮肉がきいている。全体として歌は、既存の曲に、新しい歌詞をつけているのだが、メロディーと合わない、かなりこじ付けというか無理筋の歌詞もあり、苦しいところだ。

    弁護の証拠を集めようとしても、戦時中の役所の書類は焼却されてしまった。その償却命令が8月7日に出ていたというのが、どうしてだろう。まだ御前会議で決まっていないはず。ポツダム宣言受諾の最初の「ご聖断」は9日なのだが。

    ラスト近くにしみじみ歌われる「丘の上の桜の木」(宇野誠一郎作曲「心のこり」=ひょっこりひょうたん島挿入歌)が、耳に残る。郷愁と戦死者への鎮魂とが込められた名場面。しかし、それで終わらず、さらに10年後、戦争を忘れ旧指導者が復活して繁栄に浮かれる日本を揶揄するシーンで締めくくるのは、井上ひさし流の戦後日本へのきつ~い風刺である

    ネタバレBOX

    娘の英子が弁護士の父母に訴える台詞に、作者のメッセージがある。「人様に裁いてもらっても駄目だ。あとから、あれはよかった、いや間違っていたともめるだけ」「自分たちが自分たちを裁かなければ」(記憶なので正確ではない)。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    観た時間が楽しかった(過去形)に止まらない今もひた寄せる感覚を伝えようとなると「おおおお」とか「ぐうぅ」「んなっ!」と咆哮にしかならないのを、無理やり言語化して結局「良かった!」「楽しかった」「泣いた」等の語彙を引っ張り出すしかなく。
    「感動」という心のありようを表現する事は難しいので、やはりその周辺をぶつくさ書きながら「籠める」以外ないようである。

    な事はともかく。開幕後まず目が探すのは、他でもない我らが桟敷童子の板垣桃子。。だがこれが中々見つからない。サザンの後部席とは言え、舞台上の雰囲気や声で分かりそうなものが、暫く目が泳ぎ、不穏な想像までした(降板...)。オープニングの歌を皆が賑やかしく歌ってるのにそこに居ない(後から登場組)とは考えにくいので、女優3名を消去法で潰すと一人残るのだが、声質も体の動かし方も当てはまらない。あの桟敷童子での立ち姿、風情から想像できない・・。言いたいのは、演技者としての幅が予想外であった事だ。声は高らかで明るく、体もしなやかで華やかな動き。それにまず驚いた。
    一幕は寝落ちしそうな瞬間が何度か訪れた。(周囲にも相当数いたので私の「体調」だけが原因ではなさそうだ。)説明台詞が特に前半に仕込まれるのは博覧強記が戯曲にも滲む井上作品の「通常」で、休憩時間に回復した頭は「この仕込みが後半生きるのが井上戯曲だったな」と気持ちを改め、二幕物の華麗な「逆転」の例を思い出し、休憩後は前傾で舞台を凝視し始めた。読み通りであった。

    弁護士夫婦の自宅兼事務所のある建物の「事務所」スペースが一、二幕とも変わらぬ舞台。ここで最初に「争い事」を持ち込んだ二人の歌い手の「同じ歌」の取り合い問題が、後半思わぬ形で決着を見る。そして改めて歌われ、最後には合唱となるその歌が、最初に耳にしたのとは見事に違って聞こえる鮮やかで静かなクライマックスは、忘れられないシーンとなった。既にメロディーも忘れ(譜割りの難しい歌だったが)前後関係も怪しいが、場面を反芻したくなる。
    弁護士夫婦の夫(ラサール石井)は、東京裁判で松岡洋右元外相弁護団の補佐を引き受ける事となった妻(秋山)を支え、弁護人を有給で雇うよう当局へ掛け合う等「商才」?を発揮する。妻を公務に取られた弁護士事務所には、妻の父の知人という老齢の弁護士(久保酎吉)が応援に来ており、物の見方や法律上・人生上の助言もする役どころ。夫婦の間の一人娘は一本筋が通り、事務所の手伝いをしながら法律家を目指す。復員した正は抜け殻のようになった自分の中身を埋めるかのように勤勉に事務所の仕事に勤しむ。発語はいつも大声で「であります」口調。その感情を排除したような声が「言葉」として事実を淡々と伝える時、言葉の意味だけが情感を伝えてくる瞬間がある。ギャップ萌えと言えようか。

    本論である東京裁判について、正面から言及されるのも二幕に入ってからの事。
    妻はこの裁判はきっと「なぜこうなったのか」事実から振り返る機会、きっと良い影響をもたらそうだろうと熱っぽく語る。「歌」問題の調査(それぞれが歌を教わったというそれぞれの夫への聞き取りなど)を任された正が折々に報告する。この二つが主な案件として並行して進むが、これ以外に、弁護士事務所が受けた相談が紹介されるのは一件。
    こんな相談だった、と報告する形で語られるのは、闇米の運搬を引き受け報酬を稼いでいたある女性が、上野で一斉摘発に遭った際、リュックサックに刃物を突き刺して穴を開けて中身を確認して回る警官の手にかかった。実はリュックには赤子を入れ、米は脇に抱えていた。赤子はその後死んでしまい、女が抗議しに行った所、文句があるならリュックに米を入れているヤツらに言え、と取り合われない。
    この警官らの「返し」が井上の文才を思わせるが、占領下の日本でこれを告発するのは難しいとやむなく帰す。
    この話と同様に「断念」を勧められるのが、弁護士夫婦の娘の幼なじみの青年。彼は父が朝鮮人で、地元の暴力グループに家を襲われた。警察はそっちの味方だから当てにできない、耐え忍ぶしかない、と周りはやむなく説得する。
    朝鮮出身者は戦前「日本人」とされていたが、終戦で一旦処遇を保留されていた所、改めて「日本人」とされた。この事の意味についても作者は人物に語らせている。実は戦前は「日本人」と言いながら実際には区別していた。だが、今度は真正の「日本人」と規定した、それは「外国人」なら配慮が必要だが日本人なら放っておけば良い、という理屈なのだと。ここで歌われる歌は、日本人も朝鮮人も誰も彼も、「捨てられただけ」という歌詞。「ただ捨てられたのだ」が、日本人が到達すべき一つの認識(達観・諦観?)として作者が立てた(捻り出した)言葉だ。
    負けた事を認められない人間が国家に寄り添い、政権に寄り添う。私らは政治によって良いように扱われ、軽んじられ、今も損をさせられ奪われている、つまり「負けている」のだが、これを認めたら権力と対峙する立ち位置に立たねばならなくなる。だから「奪われてなどいない」「政権は自分の味方だし」「反対を言ってるやつはパヨク」とこうなる。長期政権を「過ち=負けを認めない」リーダーが統べていた事も、影響しているだろう。
    不敗神話=無謬性の原則に似て、先人の為したこと敷いたレールを、否定すべきでない、戦争でおかした過ちも「ない」として、改善と進歩の契機を一切認めない態度に通じる。20年前と言えば、歴史修正主義が勢いづいた時期だが、井上ひさしはこの時点でナショナリズムと「負けを認めない」態度との通底を見ていたのだな。

    この捻り出した言葉に、井上氏の精魂が生々しく乗っている感覚を覚える。この作品も遅筆で苦しんだとの話。苦労の跡をこれほど感じ、そしてその苦労を超えて到達した高みをこれほど感じる作品はなかった。

    ネタバレBOX

    板垣桃子は藤谷理子と共に(年の差)歌い手コンビで歌の事で対立しながらコンビ愛が徐々に育まれていく役どころ。
    オーラスは歴史の事も戦争の事も忘れた10年後の場面、ラサール石井が商才を発揮して四階建てビルを建て、弁護士事務所の二階に開いた店に皆が集い、二人の歌い手の歌と酒に酔う姿は「アッと言う間に忘れ去る日本人」を象徴。
    この付録的場面(作者的には思いきり皮肉を込めただろうが)の直前が真のクライマックス。歌の作者の調査の最後の報告を読み上げる正。歌い手の夫それぞれを二箇所の陸軍病院に尋ね、同じ部隊に居た二人の上官が故郷を思って作った同じ歌を教わった事が判明した後の続報である。その上官も横浜の陸軍病院に居る事が分り、訊ねた所、二か月前に亡くなっていた。そこでその人の実家を訪ねて行く途中、丘を登って行った先に、正は「なんとそこに」・・「桜の木が風にそよいでいるではありませんか。(そんな感じの台詞)」と言い、目の前にその情景を浮かべる。軍隊に行き言葉に出来ない体験もしただろうこの青年が、二人の軍人と、その上官との「物語」の最後のシーンに身を置いている姿がそこにある。と、大事な事を、と正が報告を続ける。彼は上官の奥方に会い、歌をめぐる権利問題の決着をつけるべく経緯を話し、回答を待った。奥方は二人が夫の歌を大事にしてくれた事に礼を言い、「好きなだけ歌って下さい。それが主人への供養になります。」との回答を得る。
    万事解決、と一同が喜んだ後、二人は申し合わせる事なく「桜の木」が口をついて出る。全員が、微かに声を合せ、小さな、儚い花の命を愛でるように、歌う。
    この元歌なのだが、『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌でこまつ座常連の宇野誠一郎作曲「心のこり」という歌だとパンフに書かれてあった。Youtubeではヒットしない。どこで聴けるだろうか、いつか聞いて反芻する事ができるだろうか、それが心のこり。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    井上ひさしの「東京裁判三部作」の二作目、2003年初演。音楽は宇野誠一郎(&クルト・ヴァイル=ドイツの『三文オペラ』の作曲家)だが、かなり狙ったマニアックな曲調。歌い辛そう。あえてそれをやっている感覚がある。今作では朴勝哲(パク・スンチョル)氏が独り軽快にピアノを奏でてくれる。

    瀬戸さおりさんはここ数年、井上ひさし作品のヒロインを背負って立つ貫禄。彼女が象徴する気高き精神性が井上ひさし作品を別格とする拠り所となる。今作も最高だった。
    MVPは秋山菜津子さんだろう。何でも出来るんだなあ。歌もずば抜けていた。本物。
    藤谷理子さん(28歳)と張り合う、板垣桃子さん(50歳)、いや全く気付かなかった。この配役がズバリ。才能のある連中を集めた上で更に捻りを入れている。贅沢に面白いことやってんな。

    戦後すぐの昭和21年(1946年)、新橋駅近くに法律事務所を持つラサール石井氏と秋山菜津子さん弁護士夫妻。秋山菜津子さんの連れ子で8歳の時に義理の娘となった瀬戸さおりさん。だがラサール石井氏の女癖が悪く夫婦は崩壊寸前に。
    GHQの将校クラブで歌う歌手、藤谷理子さんと板垣桃子さんはそれぞれの夫が自分の為に作ってくれたオリジナル曲を巡って大喧嘩。音楽出版権を争う事に。
    秋山菜津子さんには東京裁判にて、A級戦犯・松岡洋右元外務大臣の補佐弁護人の依頼が。占領国であるアメリカが裁く日本という国の罪、一体敗戦国にどんな弁護が可能なのか?

    テーマは『戦争(歴史)を誰がどう裁くべきか?』。
    演出家の栗山民也氏が稽古中、「今、こんな戯曲は何処にもないよ。」とポツリ。確かにもう誰も書かないし、書けもしない。
    けれど本当の日本の歴史を誰かが紡いでいかないと。嘘ではなく、“本当”の歴史を。
    かなり面白い、是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    劇団チョコレートケーキの『帰還不能点』を観ていると、非常に判り易い。それは日本が何処で道を間違えたのか、そのギリギリのポイントを探る話だった。
    1931年の満州事変(どさくさに紛れて満州を占領)を国際連盟に非難されたことを受け、1933年国際連盟を脱退。1940年日独伊三国軍事同盟、1941年日ソ中立条約を締結。(欧州へのアメリカの介入を阻止する為)。その中心人物となったのが松岡洋右。1929年に批准したパリ不戦条約(国際紛争解決の為の戦争放棄)が一つの論点に。

    秋山菜津子さんは日本を弁護する為に、世界に通用する論理を模索する。それには交わされた法律(契約書)だけが頼り。今後の国際秩序の礎として、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が戦争の抑止力と成り得るのか?

    GHQの日系二世、土屋佑壱氏が自身の半生を語る。移民としてカリフォルニアで必死に暮らしてきた日本人、日系人は太平洋戦争開戦により敵性外国人として強制収容所に送られた。腕一本で築き上げた財産を全て没収された父親は夜毎うなされて泪を流す。青年だった土屋佑壱氏達は合衆国憲法を楯に取り、所長に抗議を繰り返し続ける。ならばと、文句を言った日系人達は軍隊に入隊させられて一番危険な戦場に送り込まれた。

    在日朝鮮人の前田旺志郎氏はこの世界の仕組みについて気付いてしまう。「単純なことだった。世界に見捨てられただけなんだ。」見捨てられた者達にも人生は続く。さあ、見捨てられた自分はこれからどう生きてやるものか。

    瀬戸さおりさんは土屋佑壱氏の話を聞いてショックを受ける。何も持たない弱者が国家の横暴と渡り合う最後の命綱が法律であることを知る。この契約書だけが生きていく為の頼り。法律を学び、世界と向き合う覚悟を決める。

    作品はまあいつも通り何か中途半端な構成にも感じるが、このアイディアは凄い。これを語ろうとしただけで評価する。普通はそもそも語ろうとはしない。

    「丘の桜(丘の上の桜の木)」の歌、この歌詞が物語に密接に絡まっていれば最高だった。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2024/04/11 (木) 14:00

    座席1階

    テーマは先の戦争の戦犯を裁いた東京裁判。国際連盟を脱退した時の外相松岡洋右の弁護団に参加している夫婦が主人公だ。ミュージカル仕立ての二幕もの。

    物語の本筋とは関係ないが、ヤミ米を取り締まる日本の経済警察が乗客のリュックに小刀を突き立て、コメが流れ出たら検挙という取り締まりでリュックの中に入れて背負っていた赤ちゃんを刺し殺してしまったのに、「恨むならヤミ米を買っている奴を恨め」と捨てぜりふを残して立ち去った、という小話がとても印象に残った。戦後の混乱期ということもあるが、警察の上から目線、庶民いじめ、責任逃れの「おいこら警察」は今も変わっていない。声高に反戦を唱える部分はこの戯曲にないが、こうした小話一つに井上ひさしの思いが込められていると思う。

    あまり仲が良くない弁護士夫婦だが、「この裁判は、どうしてこの国が進路を誤ったのかを記録する大切な裁判」と力説する妻に引っ張られる形で弁護団に加わっていた。だが、松岡洋右の結核が悪化して、弁護団の補佐役は解散の憂き目に。この弁護士事務所を中心に新橋でのヤクザの抗争など多彩なエピソードが盛り込まれる。

    桟敷童子の板垣桃子がこまつ座に初参加。桟敷童子のイメージとはまったく違った感じなので、見慣れているファンとしては若干の違和感があった。彼女の良さが生かされていないというのは言いすぎか。半面、夫婦の娘役を務めた瀬戸さおりはせりふも明瞭で歌唱力も高く、とてもいいと思った。主役のラサール石井はさすがの老練さだが、ちょっと疲れている印象も。相方の秋山菜津子は切れもよく、ラサール石井を飲み込んでしまったようだ。

    個人的趣味では、ミュージカル仕立てとするより純粋なストレートプレイで見たかった気がする。

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