S高原から 公演情報 S高原から」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-6件 / 6件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2024/04/21 (日) 14:00

    1991年の初演から30年以上が経っているが、変わらないのは
    ”死に近い人” と ”それを取り巻く人” との距離感の不安定さだ。
    淡々としているようで、内心どれほど波立っているだろうと思わせる
    役者の台詞と表情に、静かな演劇の真骨頂を観る思いがした。

    ネタバレBOX

    舞台上には、高原にあるサナトリウム共有スペースのセット。
    正面に天井近くまであるおしゃれな飾り棚があり、小さな観葉植物や本が並んでいる。
    一見ホテルのカフェスペースのように小ぎれいな空間だ。
    赤い布張りの長椅子が4つ、ガラスのテーブルを囲むように置かれていて
    そのうちの2つには、開演前から役者さんが寝そべっている。
    このリラックス感、休息感が、病人の生活の場であることを思い出させる。

    ここに面会の人や、ドリンクを注文する患者などが入れ替わり立ち代わりやって来る。
    面会に来る人たちも様々だが、中でも
    3人で”お見舞い”に来て、声高にしゃべったりテニスをしたりと、
    夏休みの学生みたいににぎやかな一群などは、この場所にそぐわないテンションが
    ひときわ目立つ。

    「昼寝の時間」が決まっているような静かな時間が流れるサナトリウム。
    元気そうに話しているかと思うとすぐ横になりたがる患者たち。
    自分自身にも他の患者にも「死」の気配を探さずにいられない、
    薄暗い緊張感が漂い、それはハイテンションの面会者にも波及している。
    患者の状態について無責任な噂話のような会話を交わしているが、
    結局のところ他人の死に対して寄り添うには限界があって
    健康人にしてみれば何と言葉をかけるべきか、わからないのだ。
    だから「テニスやろう」なんて患者を誘ってみたりする。
    先の不安から、ほかの人との結婚を決めてしまったりする。
    患者も周囲も、何だかうまくいかなくて途方に暮れている・・・。

    日常の合間に「死」という非日常が細かく織り込まれているサナトリウム。
    ”静かな演劇”ってこういうシチュエーションにはハマり過ぎるほど雄弁で
    口数少なく腹を割らない患者たちに共感しまくってしまう。

    そして役者の力量あっての表現スタイルなのだということを改めて感じる。
    平田オリザ氏と青年団、静かな応援は続く・・・。


  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    2回目。
    死へのモラトリアム(猶予期間)。

    ネタバレBOX

    死の世界にいる住人が、生きていた頃の知り合いに会うけれど妙な違和感に捉われていく。吉田庸氏が南風盛もえさんに言いかけた言葉は「俺達、もう死んでるんじゃないか?」

    The Cureの『Where the Birds Always Sing』みたいに耽美的にやって欲しい話。現代口語演劇ってのは観てる人のリアリティーのことなんだろうが。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    アゴラ劇場での最後の青年団公演である。満席の入場待ちの人々が階下のロビーに張り出された劇場のセット図面や台本などをスマホで撮影しているいかにも送別公演らしい賑やかさである。といっても観客数は百名足らずだから十分もあれば始末できる。そこが、良くも悪くも、平田オリザという劇作家の存在理由であった。
    サヨナラ公演四公演から「S高原から」を見た。見ている内に過去に見ていたことを思いだした。初演が91年暮れ。せいぜい三十年余前だが、部分は思い出すが人物のキャラやプロットはほとんど忘れている。今回の再演はほとんど手を入れていない(例えば、台詞に頻出する「風立ちぬ」の解釈論は,その後のジブリ映画のタイトルに使われて人口に膾炙したが、初演通り、それがなかった時代で上演している)。新しい現在のキャストもかつての公演をなぞっている感じがする。サヨナラ公演だからそれもアリだろう。それで解ることもある。
    平田オリザは,80年代までに演劇界を席巻したエネルギッシュに新しい世界を作る新しい演劇に対抗して出てきた。当時、唐、つか、鈴木忠志、太田省吾らの先行世代,蜷川、佐藤信、野田秀樹らの続く世代、一見おとなしく見える井上ひさしや串田和美ですら、今思えば十分に破壊力があリ戦闘的だった。その疾風怒濤の中から平田オリザはこの小さな駒場の小劇場を足場に出てきた。平田オリザは当時,日常生活の台詞、演技の上にドラマを見る「静かな演劇」として、ジャーナリスチックにもてはやされる時期もあったが、致命傷は大きな観客を集められる作品に向かうことがなかったことである。青年団はこの小さなアゴラから数多くの後継劇団を生み出したが、身近な日常の生活を基板として、それに甘えて仲間褒めで満足している劇団群で、既製劇団に対抗できる力がなかった。アゴラの閉館は静かな演劇衰退による閉館ではないと明らかになっているが、時代の流れは変わっている。現在は、最近見た舞台では,た組の加藤拓也やエポックマンの小沢道成などには、平田オリザの日常の上にドラマを構築する現代劇を受け継いでいることがうかがえる。
    今「S高原から」を見ると、昔の流行り物を見る哀感も感じるが、演劇はこのようにして時代を超えていくものでもある。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    奇妙な病が発生している日本。一見、病状はないのだが、それが発症すると徐々に弱って死んでいく。深い眠りに落ちるように。かつての結核患者みたいに高原にある高級なサナトリウムで療養生活を送る人々。(何故彼等にこんな経済的余裕があるのかは話の都合だろう)。人から人に感染することはなく、見舞客が気軽に頻繁に訪れる。コーヒー(刺激物)を摂ったりテニス(激しい運動)をしたりは、人によっては禁じられている。
    常人よりも死をリアルに密接に感じる毎日。「メメント・モリ、カルぺ・ディエム」(死を見据え、今日の花を摘め)。堀辰雄の『風立ちぬ』の有名な台詞、「風立ちぬ、いざ生きめやも」(風が起きた、さあ生きようか···、いや生きられはしまい)。
    徐々に“下”の世界とこのサナトリウムとが遠ざかっていく感覚。どうせすぐに消えて失くなってしまうのならば今更何をする必要があるのだろうか?ここは終末の楽園。辿り着いた終着駅。天井で反時計回りにぐるぐる回転を続けるシーリングファンがこの世界そのもののようだ。

    宮藤官九郎っぽい、入院して半年の木村巴秋氏。
    面会に来た彼女の瀬戸ゆりかさん。ある意味、前半の主人公。
    その友人、田崎小春さん。やたら印象に残るリアクション。香坂みゆきっぽい。

    そこそこ成功した画家だった吉田庸氏。作品全体を奏でるのは、彼の言いかけた台詞。
    かつての婚約者でいいとこのお嬢様、村田牧子さんは美智子上皇后に似てる。
    彼がここで絵のモデルになってもらっている南風盛(はえもり)もえさん。凄く何かがありそうな役だが何も見せない。

    中藤奨(なかとうしょう)氏は女好きの遊び人。

    狂気の兄妹、松井壮大(もりひろ)氏と山田遥野(はるの)さん。兄のサイコパス度合いは飯伏幸太を彷彿とさせる。怪獣スリッパ。

    ネタバレBOX

    飲み物を運ぶ看護人、島田曜蔵氏。コールベルをチリリンチリリン鳴らされて到頭最後に壊れる。
    女性看護人の南波圭さんの語る電車内の怪。傘を抱えて寝ていて、駅に着いて気付くと傘が巨大な物に何故か変わっていた。

    倉島聡氏の降板により永山由里恵さんが新しい入院患者を演ったのだが異様な違和感。意図が見えないキャラクター。元々は何の意味があった役なのか?

    平田オリザ氏とは全く接点がないまま来た。そういえばももクロの『幕が上がる』を2015年、Zeppブルーシアター六本木で観たが、脚本が平田オリザ氏だった。(演出は本広克行)。まあ良くも悪くもないような印象。で、今回こまばアゴラ劇場が閉館という事で慌てて観ることにした。(多分、今後観る機会はなさそうだから)。
    やはり同じような感想。つまらなくはないが面白くもない。何か物足りなさが残る。もっと面白くは出来るんだけれどそうする気もない、みたいな。自分の周りにいた小津安二郎信者はこういう考え方をする連中が多かった印象。品が良い、というのか。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    青年団で「今的にgood」という意味で評価したのは、いずれも新作の「ニッポン・サポート・センター」「日本文学盛衰史」で、他の旧作再演は興味深くは観たが淡泊さが勝ち、ぐぐっと差し込んで来るものが無かった。
    だが今回は(本演目は二度は観ているが)意固地に淡泊、と以前見えた印象がなくなり、実にハマった俳優とその演技が最大の貢献であるが、刺さって来た。何度か観た演目だから、確かこの人はこの先痛い目に遭うのだっけ、とか、先を楽しみに観られた面もあるし、アゴラでの最後(大規模なのは)のステージという事が俳優もそうだろうが自分も喰い気味な眼差しを送っていたかも知れぬ。
    が、やはり、「死」と直面している場所である事と、その事実を踏まえての敢えての「意識してなさ」という微妙な線が、微妙に絶妙に出ていたから、と思う。
    最も印象的であったのは、「死」に近いだろう存在として、中藤奨演じる福島が、友達三人(内一人が恋人、他二人が別のカップル)の訪問を受けて対応するエピソード。他の訪問者や入院者のエピソードの合間に、観客は断片を眺める事になるが、彼らは散歩から戻った所での会話で、じゃテニスをやろうとなり、福島当人は医者からストップが掛かっているので「見てるよ」と言い、皆が一旦部屋のほうに下がって後の展開。
    どうやら当人は眠くなって暫く部屋で寝ちゃってた、と後で分かる。その前に三人組の一人の男が先にラケットを持って降りて来て暫~く滞在し、お喋りに参加するのだが、「見て来る」と絶妙に去る。やがて降りてきた福島と、三人が又喋ってる間、福島はまたソファに横になり、「すぐ行くから」と追いやる。恋人が気にして「寝れば」と告げ、他の二人(カップル)は先に行く、と去る。和田華子演じるその恋人も絶妙な距離感を出す。彼女も去り、その後他の人物が登場したり、最後は医師と連れだった看護師が、ある話の続きを「ここでいいから」と話して聞かせるも呆れられる、というくだりを二人は福島の様子を見ながらやるのだが、まだ起きない福島に部屋で休むようたしなめる。スタッフもこの場所が「死」と隣り合わせである事を一切おくびに出さないよう慣らされているらしい節度で、入院者に対している。その眼差しの奥を、観客は想像するしかない。
    相変わらず寝ている福島。先の別のメンバーとの場面でも、話しかけられて返事をせず、寝ていると思わせて肝心な所では「違うぞ」と口を挟む。顔の前で腕を乗せて休んでいて、顔は見えない。
    観劇中の居眠りに掛けては人後に落ちぬ自分だが、体内のコンディションによって睡眠量にかかわらず「どうしたって眠くなる」事は、それなりの歳になれば心当たりがある。福島の様子は、「横になる」という控えめな行為によって内臓がそれなりにやられてるだろう事をリアルに告げており、にも関わらず、認知的不協和を嫌う空気感も手伝って、あたかも何も起きていないかのよう。音楽もなければ劇的に不安を煽るような台詞もない。だが・・一つの肉体が滅びようとする時も、多くの人たちの生活の時間は刻まれ、淡々と流れて行く。
    他の主なエピソードとして、恋人が訪ねて来たと喜んだのもつかの間、同伴したという友人から別れの通告を代弁された青年の背中が語るダメージも、かつての婚約者の訪問を受けた青年画家の語らない内面と表面的な対応の「大人」感も、味わい深かった。

    平田オリザ氏が(恐らくは新劇や過剰なアングラへの「アンチ」として)日常性、現代口語へのこだわりをもって演劇を始めた事を、いつも念頭に青年団を観劇して来たんであるが、いつもそれを裏切って非日常が高揚をもたらす瞬間こそ面白いと感じ、感動を覚えてきた。
    さて今後青年団はどういう変遷を辿るのか、未知数だけに楽しみである。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2024/04/06 (土) 14:00

    1999年初演の青年団の代表作の一つ。典型的な「静かな演劇」だが、良い芝居である。(3分押し)103分。
     高原のサナトリウムで死に至る可能性のある病気を抱えて静養する患者たちと、取り巻く人々のあれこれ。大きな事件が起こるわけではない(細かい事件はいろいろ起こる)が、淡々と物語は進み、エンディングも特に何か、というわけではないのに、何故かエンディングだよなぁ、の終わり方というのも見事に演劇的である。他の団体も含めて何回も上演されているし、私も何回も観ていて、ある意味「好みの平田演劇」の一つ。
     当初は「初めてみたとき患者兄妹の妹役を演じてた井上みなみが、しっかり大人の女性を演じてて、時の流れを誰か知る。」と書いたのだが、私の勘違いで妹役は井上ではなかった。誰が演じていたかは思い出せないのだが、井上を思わせる小柄な人だったとは思う。一方で、兄が島田なのは間違いなく、その島田が看護人の役ででているあたりに、青年団の歴史を感じることは確か。時の流れを誰か知る。

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