カシオ 公演情報 カシオ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
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  • 満足度★★★★

    極めて音楽寄りなパフォーマンス
    ケチャ的な声に始まり、記録媒体・機器を使わない「生サンプリング」から「言葉による交響詩」に発展する極めて音楽寄りなパフォーマンスな印象。
    なので極論すれば言葉は聞き取れなくても可(!)なところにいくつか完結する話が「足場」的にあるのも◎。

  • 満足度

    まぁ真っ白ね
    素舞台と言うものは黒いと思っていたら白くしてましたねー。
    さて普段着に白い背景での表現舞台。
    うーん、今ふたつ位?。
    自らの生活背景を告白してゆく方法は面白さを感じたが、
    舞台作品と考えると、普通に通しての話にしていった方がよかったのでは?
    取り留めの無い自己満足映像を強制的に見せられた感じが強く残った。

  • 満足度★★★

    併置される要素
    小学生時代の作文を基にして構成するという興味深い作り方の作品で、床も壁も真っ白で何もない空間の中に子供時代の様々なエピソードが重なり、感傷的になり過ぎることもなく、爽やかさが感じられました。

    単純にテキストを読みあげたり再現するのではなく、音楽的な声の使い方、役の入れ替わり、異なるシーンの同時進行、開演前アナウンスの何度にも渡る挿入等、多彩な手法を用いてテキストを扱っていましたが、手法ばかりが目立っていて伝わってくるものがあまりありませんでした。前作の『ひとがた流し』の方がリアリズムではない手法を使うことに説得力があった様な気がします。
    それらの色々な手法も、既視感を覚えるものが多く、先例を越える魅力を感じさせるまでには達していなかったと思います。
    しかし、役者と役や物語との距離の取り方が独特で不思議な魅力がありました。テンポに対して意識的な音楽も良かったです。

    まだとても若い演出家で、これからも色々と興味深い試みを見せてくれそうなので、今後が楽しみです。

  • 満足度★★★★

    記憶で遊ぶ
    出演者たちの小学生のときの作文をもとに演劇化したという作品。
    ちょっとそれに惹かれた。
    つまり、「記憶」と「演劇」をどう結び付けてくれるのか、ということで。
    あと、フライヤーがいい。

    ネタバレBOX

    「記憶」というのは、曖昧で、自由自在で、勝手で、自己都合なものだ。
    出演者たちの作文が披露されるのだが、本来誰のものであったのかは、さほど重要ではなく、それを他の役者と共有する(役者たちの間を転がす)ところから、物語が動き出す。そこから「虚構」が始まるからだ。

    いや、「虚構」は作文を書いた時点ですでに始まっている。作文というのも、書いたときに本人が意図しないとしても脚色されている。そして文字によって固定されたことで、「記憶」としても「固定」される。「事実」として。
    つまり、「記憶」だって十分に「虚構」なのだが、本人はそれにあまり気がついていない。

    さらに、その作文に従って、役者たちが再現するところは、演じる役者の体験と照らし合わせた(身体的とも言える)と「想像」がない交ぜになっていく。
    冒頭の意外と想定内な演出よりも、「じゃ、それをやります」と言って再現し始めたあたりから、舞台はとても面白くなってきた。
    「物語」になっていく感じとでも言うか。

    作文を書いた本人が、他人の再現に対して、「事実」としての、本人の記憶で説明していくのだが、そらに虚構が浸食していく。つまり、本人が「実際父はそうではなく…」と解説を加えてもそれはまた虚構の虚構(虚構に虚構)である。

    「言葉」と「記憶」と「想像」と「物語」といういつくものラインが織り成していくのが「演劇」であった。

    この舞台は、まさに今様の演劇スタイルで、スタイリッシュなのだが、「物語」がどこから生まれ、どこから動き出していくのかを、きちんと見据えていった、ある意味実験の産物ではないだろうか。

    出来上がった産物(作品)は、とてもセンシティブで、陽光にきらめく綿毛のような、冬の晴れ渡った空のような、そんな印象を与えてくれた。センチメンタリズムな香もさせて。ただし、センチメンタリズムにしては、観察的である。

    小学生という時代を振り返りながらも、今の自分という「軸」があることで、「小学生」では決してない。そういう自分の輝くほっぺのような時代への「郷愁」のような照れと、「観察」とが微妙なバランスで提示される。

    それは、どこかへ大声で伝えるものではなく、静かに自分の、それぞれの自分の中に、ゆっくりと沈殿していくようなものであり、「言葉」にすることでしっかりと堆積していく。

    堆積していく「記憶(メモリー)」は、このワークショップ的なものを体験した役者にとっても心の中に何かを確実に残しているのではないだろうか。
    そんなことを思いながら舞台を観た。

    記憶の不思議さ、どこかに何かがあるわけではなく、そこらに漂うだけの感覚。

    そして、「記憶」がはみ出す様の面白さ、「記憶」の「虚構」から「物語」、そして「演劇」になっていく面白さを感じたのだった。

    何かにスカッと抜けていくわけではない、静かに内在していく様も、今様な演劇ではないかと思った次第。

    唯一気になったのは、「本日は…携帯の電源…上映時間は…」と、開演前の前説が、要所要所で挟まれることだ。
    「今」「この時点」にわれわれ(役者)は「いる」ということは、演出でも十分に理解できる。のにもかかわらず、「今」「現時点」に向かって、その都度アンカーを入れていくのだ。
    この「冷徹」とでもいう仕打ちは、作品世界にひびを入れているのではないかと、ちょっと思う。
    しかし、逆に、自らがやっていることを確認するための、ピッケルとかアイゼンとかそんなものなのかもしれないと思ったりもした。白銀の世界らしいので。

    こらからが期待できる団体で、12月の次回公演も楽しみ。

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