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shelfワークショップ・クリエイション・フォーカス

  • YasuhitoYANO YasuhitoYANO(343)

    カテゴリ:ワークショップ告知 返信(1) 閲覧(160) 2017/11/22 21:36

shelfワークショップ・クリエイション・フォーカス

【日程】2017/12/12(火)~15(金)の4日間 *原則4日間連続参加可能な方を優先
【時間】18:30~22:00
【場所】世田谷区内 ※ご応募頂いた方に直接お知らせいたします
【申込〆切】2017/12/10(日)24:00まで
【参加費】4日間連続 8,000円(1日単発 3,000円)
【応募資格】年齢・舞台経験不問
【定員】16名を予定

【内容】

shelfで来年度に制作を予定している海外ドイツ戯曲『つく、きえる』(作/ローラント・シンメルプフェニヒ)の読み合わせから始め、そこからどうやって俳優の身体を使って劇空間を立ち上げていくか? というところまでを、出演予定者以外も合わせて一般に参加者を募集。集まったメンバーでshelfの新作制作のクリエイションプロセスを共有していきます。

11月に実施した個々のアクティング・ワークショップとはまた別な角度から、集団創作としてのクリエイションにアプローチする実践的なワークショップです。経験不問。使用戯曲はこちらで準備いたします。

【申込方法】

お名前、ご住所、電話番号、年齢、プロフィール及び、shelf作品の観劇の有無(あれば作品名)をご記入の上info@theatre-shelf.orgまでお申し込みください。折り返しご連絡いたします。

【shelf、及び矢野靖人の今後の予定】

・2018年5月上旬 shelf「Hedda Gabler」(作/ヘンリック・イプセン)をリクリエイション。中国は南京大学の招聘を中心に南京・上海・杭州3都市4劇場ツアー実施予定

・2018年6-7月 W!ld Rice Singapore Theatre Fest!val 2018 参加作品 “Too Many Lives”(新作書き下ろし、作/アルフィアン・サアット)演出のため、矢野がシンガポールにて6週間に渡って滞在制作を実施(会場/LASSSALE COLLAGE OF THE ARTS)

・2018年12-1月頃 shelf新作、「つく、きえる」(作/ローラント・シンメルプフェニヒ)制作、上演(会場/CLASKA 8th Galleryを予定)

【お申し込み・お問い合わせ先】

〒156-0045 世田谷区桜上水3-9-6-102
e-mail info@theatre-shelf.org
tel. 090-6139-9578 fax. 03-5317-0802

【ローラント・シンメルプフェニヒについて】

1967年、旧西ドイツ・ゲッティンゲン生まれ。ドイツ語圏で最も頻繁に上演される現代劇作家で、自作の演出を手掛ける場合もある。また、近年は自作がオペラ化されることもあり、小説家としても注目を集めつつある。ベルリン演劇祭・ミュルハイム劇作祭などの招聘・受賞、多数。
イスタンブールでフリージャーナリスト兼作家として活動したのち帰国、ミュンヘンの演劇学校にて演出を学び、ミュンヘンカンマーシュピーレ劇場・ウィーンブルク劇場・ベルリンドイツ座などで研鑽を積み、現在に至る。

日本での上演歴として、2009年『昔の女』(新国立劇場)、2011年『イドメネウス』(国際演劇協会・ドイツ文化センター)、2013年『つく、きえる』(新国立劇場)が挙げられる。
  • オーディション実施者は合格者になるべく早く契約書を提示し、正式な契約を結びましょう。双方が納得できる公平で健全な関係を築き、突然の参加キャンセルなどのトラブルを回避しましょう。
  • オーディション合格者はなるべく早く実施者から契約書を受け取り、よく読んだうえで正式な契約を結びましょう。想定外のチケット販売ノルマやグッズ買取の強要などから身を守りましょう。
  • shelfの12月ワークショップについて、代表の矢野が日頃、考えていることを少し長めに書きました。ご一読頂くだければ幸甚です。

    (※次々回公演「つく、きえる」(作/ローラント・シンメルプフェニヒ)の出演者募集、ではありませんが、実は若干名、非公式に出演者を募集しています。参考までに。)

    ーーーーーーーーーーーー

    演劇の、演出について。テキストとの向き合い方について。...自分は基本、テキスト原理主義者だと思っている。作家の言葉については、出来ることなら一言一句変えたくはない。しかしそれは作家を信頼しつつも決して礼賛して神棚に上げているからではない。それは作家に対して至極失礼な態度だ。

    なぜなら、最終的な”作品”の責任の所在を、演出家や俳優にではなく作家に求めることは現場でレベルでは責任の転嫁だし、エクスキューズだし、そもそも無責任な態度であり、演出や創作がそもそもうちに孕む(作家に対する)暴力を隠ぺいする態度だと思っているからだ。

    他者としての劇作家が書いたテキストをまた別の他者である演出家が演出する。そこにはどうしても暴力が働く。どこまで書かれた通りに演出しようと、絶対に改変が加わる。テキレジや、プロットなど構成の変更を加えればなお更だ。そして僕はしばしば、否ほぼ常にテキレジや改変を行う。

    それでは、それでもなぜ、僕が自分をテキスト原理主義と自認しているのか。それは 他者の書いた(それは内なる他者でも同じなのだが、)テキストを扱い、演出しあるいは俳優にその他者のテキストの発語を強いることは、一つの制約であると考えているからだ。

    そしてその制約は制限ではなく表現が飛躍するために必要不可欠な、形式の、或いはゲームのルールのようなもので、人は基本的に自由を持て余している存在で、むしろ制作の中でこそ本当の自由を獲得できる存在である。という僕の一つの信念があるからだ。信念というかそれは一つの仮説といっていい。

    人は自由を持て余している。この考えはともすれば非常に危うい。人が常に外からの制限を必要とするという考えは極端に振れれば日常生活への正義面したパターナリズムの介入を許容しかねない。その誘惑に駆られている為政者や著名人は昨今益々増えて来ている。世間を少し見渡せば簡単に観察できる。

    だからこそ、というかそこにフィクションの、演劇や舞台芸術などが社会にコミットすべき理由と可能性があると思っている。フィクションはフィクションに過ぎない。しかしだからこそ、その制約を得ての自由を、虚構の中に実現することが出来る。そこには現実世界への批評性と影響力とがある。

    ※舞台芸術の、とフィクションから映像表現をいったん外したのは映像は簡単に観る者に没入感を与えることが出来る性質があるからで、それは危険なことと考えているからだ。もちろん没入を忌避する映像もあるし、没入をさせる舞台表現もある。(ディズニーランド的なものはその最たるものと思う。)

    ※断っておくと僕はディズニーランド的なアトラクションや、没入して日常をひととき忘れさせ、映像やファンタジーに浸る快楽を否定しているワケではないし、決して嫌いじゃない、むしろ好んで見たり、遊びに行ったりする方だ、と思っている。ハリウッド映画とかスペクタクル映画、大好きだしね。

    話をテキスト原理主義の話に戻すと、一人の妄念が如何に集団創作より激しく強く、豊かで魅惑的で、矛盾に満ちていて興味の尽きないものになり得るか。を僕は多くない読書体験で知っている。そこと向かい合うことが、他者の言葉と思念と格闘することこそが演劇の醍醐味だ。と僕は今そう思っている。

    というわけで、今述べて来た考えの元に同世代・同時代の希代のドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒのテキストと真っ向から向かい合うワークショップを、12月に行います。定員までまだ余裕があります。一人でも多くの皆様のご参加をお待ちしております!

    演劇の、演出について。テキストとの向き合い方について。...自分は基本、テキスト原理主義者だと思っている。作家の言葉については、出来ることなら一言一句変えたくはない。しかしそれは作家を信頼しつつも決して礼賛して神棚に上げているからではない。それは作家に対して至極失礼な態度だ。

    なぜなら、最終的な”作品”の責任の所在を、演出家や俳優にではなく作家に求めることは現場でレベルでは責任の転嫁だし、エクスキューズだし、そもそも無責任な態度であり、演出や創作がそもそもうちに孕む(作家に対する)暴力を隠ぺいする態度だと思っているからだ。

    他者としての劇作家が書いたテキストをまた別の他者である演出家が演出する。そこにはどうしても暴力が働く。どこまで書かれた通りに演出しようと、絶対に改変が加わる。テキレジや、プロットなど構成の変更を加えればなお更だ。そして僕はしばしば、否ほぼ常にテキレジや改変を行う。

    それでは、それでもなぜ、僕が自分をテキスト原理主義と自認しているのか。それは 他者の書いた(それは内なる他者でも同じなのだが、)テキストを扱い、演出しあるいは俳優にその他者のテキストの発語を強いることは、一つの制約であると考えているからだ。

    そしてその制約は制限ではなく表現が飛躍するために必要不可欠な、形式の、或いはゲームのルールのようなもので、人は基本的に自由を持て余している存在で、むしろ制作の中でこそ本当の自由を獲得できる存在である。という僕の一つの信念があるからだ。信念というかそれは一つの仮説といっていい。

    人は自由を持て余している。この考えはともすれば非常に危うい。人が常に外からの制限を必要とするという考えは極端に振れれば日常生活への正義面したパターナリズムの介入を許容しかねない。その誘惑に駆られている為政者や著名人は昨今益々増えて来ている。世間を少し見渡せば簡単に観察できる。

    だからこそ、というかそこにフィクションの、演劇や舞台芸術などが社会にコミットすべき理由と可能性があると思っている。フィクションはフィクションに過ぎない。しかしだからこそ、その制約を得ての自由を、虚構の中に実現することが出来る。そこには現実世界への批評性と影響力とがある。

    ※舞台芸術の、とフィクションから映像表現をいったん外したのは映像は簡単に観る者に没入感を与えることが出来る性質があるからで、それは危険なことと考えているからだ。もちろん没入を忌避する映像もあるし、没入をさせる舞台表現もある。(ディズニーランド的なものはその最たるものと思う。)

    ※断っておくと僕はディズニーランド的なアトラクションや、没入して日常をひととき忘れさせ、映像やファンタジーに浸る快楽を否定しているワケではないし、決して嫌いじゃない、むしろ好んで見たり、遊びに行ったりする方だ、と思っている。ハリウッド映画とかスペクタクル映画、大好きだしね。

    話をテキスト原理主義の話に戻すと、一人の妄念が如何に集団創作より激しく強く、豊かで魅惑的で、矛盾に満ちていて興味の尽きないものになり得るか。を僕は多くない読書体験で知っている。そこと向かい合うことが、他者の言葉と思念と格闘することこそが演劇の醍醐味だ。と僕は今そう思っている。

    というわけで、今述べて来た考えの元に同世代・同時代の希代のドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒのテキストと真っ向から向かい合うワークショップを、12月に行います。定員までまだ余裕があります。一人でも多くの皆様のご参加をお待ちしております!

    2017/11/29 06:00