はじめ ゆうの観てきた!クチコミ一覧

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浮標(ブイ)

浮標(ブイ)

葛河思潮社

吉祥寺シアター(東京都)

2011/02/01 (火) ~ 2011/02/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

な、なんだこれは…!
吉祥寺シアターの、二階バルコニー席。
役者の顔、動きが十分に見える位置だったので、心の底の方から
絞り出すような台詞が、衝動的で動物の様な動きが、
本当に時々弾丸のように私の感情を直撃してきて…
とにかく、ラスト周辺ではタイトルの様な言葉しかいえない。

☆5個じゃ足りないぞ、これは!!! 
迷っている人は以下で『浮標』の原文を読んで、ひっかかる台詞が
一つでもあるのなら絶対に行くべき。 後悔は絶対にしない作品。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/49776_36893.html

ネタバレBOX

三好十郎は去年『峯の雪』を観て、うわ、何て嘘が無くて美しいんだ、と
本当にショックを受けて。 それから作品に当たり続けました。

とにかく氏の作品は「嘘が無くて」「身体の奥底から絞り、引き出すような」
「創り物っぽくない、活きた」台詞で溢れていて。
もう亡くなって50余年経ちますが、恐ろしく古びない作品ばかりですね。

『浮標』は去年の段階で既にホンは読んでいました。

ひたすらに、生々しく、「創り物」でなく本当の人間だったら
いいかねないような台詞の応酬で(こんなに芸術的ではないけど)、
特に八方ふさがりで、自暴自棄に、狂気すら孕んでいく五郎のさまに
深く共感し、何度泣いたか分からない。

傑作であり、三好十郎の中ではもの凄く好きな作品です。

パンフレットにもあるように、自分の拠って立ってきたプロレタリア思想との
決別、愛妻の死、既に倒壊し、滅びゆく日本、といった極限状況のさ中で
1939年に構想され、五週間程の執筆期間の後、1940年の3~4月に
築地小劇場で丸山定夫等によって初演されています。

この作品について、直後に出版された作品集『浮標』(1940年)の
「あとがき」で三好自身は以下のように述べています(以下、引用は
断らない限り片島紀男『三好十郎傳』(五月書房)に拠る)。

「いずれにしても私にとって劇作の仕事は、自己の見聞の「報告」で
あるよりも、その報告を含めた上での、自分の生きる「場」である(中略)」
「ほんとの戯曲らしいものが書けるならばこれからだという気がしきりにする」

では、そんな自信作に対し、初演の様子はどうだったか。

「(終演の後)しかし、客席はシーンと静まりかえっている。ア、やっぱり
駄目だったのかと思った途端、ずっしり幕がおりきって、一瞬、二瞬、三瞬、
沈黙しきっていた百名足らずの観客が、一時に爆発したように拍手-
それがなりやまない」
「私(演出の八田元夫)が、監事室を飛びだしても、まだなりやまない。
まっしぐらに楽屋に飛込んで行った。丸山が眼に涙を浮かべながら、
両手で私の右手をおれるばかりぎゅうっと握りしめた」

まるで眼に浮かぶようですよ。 その時の様子が、今でも。

戦前日本には「七生報国」という言葉がありました。
文字通り、七回生まれ変わってもお国の為に尽くそう、という
そんな意味の言葉ですが、三好は劇中こんな台詞を五郎に
吐かせています。

「人間死んじまえば、それっきりだ。それでいいんだ。全部真暗になるんだ。そこには誰も居やしない。真暗な淵だ。誰かを愛そうと思っても、
そんな者は居ない。ベタ一面に暗いだけだ。ただ一面に霊魂……かな? 
とにかく霧の様な、なんかボヤーツとした雰囲気が立ちこめているだけで、
そん中から誰か好きな人間を捜そうと思っても見付かりやしないよ」

「入りて吾が寝む、此の戸開かせ(筆者注:五郎が美緒に読み聞かせている
万葉集の一節)なんて事は無くなる。人間、死んだらおしまいだ」

「生きている事が一切だ。生きている事を大事にしなきゃいかん。
生きている事がアルファでオメガだ。神なんか居ないよ! 居るもんか! 
神様なんてものはな、生きている此の世を粗末にした人間の考える事だ。
この現世を無駄に半チクに生きてもいい口実にしようと思って誰かが
考え出したもんだ。現在生きて生きて生き抜いた者には神なんか要らない」

戦時はまさに「死ぬこと」、国家の為に「生を捧げること」が徹底的に
叩き込まれ、それが一般通念としてあった時代でした。

自分が拠って立つものの為に死ねば、次の世も生きられる。
別に戦前日本に限らず、現在の、内戦状態、戦争状態にある場所なら
当たり前のように生きている思想です。

その、一見希望があるも、実は捨てっ鉢な思想を、自身の経験から
三好は嘘だ、と見抜いていた。 だからこそ、嘘におんぶにだっこで
乗っかるという、不誠実なことなど出来ず、逆にキツいパンチを
お見舞いしてしまったのでしょう。

とにかく、当時の日本の情勢に真っ向から反逆するような台詞であり、
私はただただよく上演出来たな、と驚くのです。
そして、その勇気と一本気が凄く、わたしには励みになる。

『浮標』に触れると、自分真剣に生きていないな、と恥じ入り、背筋が正されるような思いになります。そして、自分が死んでも、その後に必ず続くものが
ある、と優しく言われているような気がして希望が持ててもきます。
全てが確信と気概に満ち溢れているんですよね。


短いですが、役者の話に。

とにかく田中哲司さんが凄かった。凄過ぎだった。

その凄まじさの一端は劇場販売パンフレットにもあるように
「24時間『浮標』の事を考え続けた結果、みるみるうちに痩せていった」
「完全に五郎が憑依していた」

と壮絶の一言ですが、結果、恐ろしく精悍で、万事に熱く、熱過ぎて
狂気をもはらんでしまう、そんな「芸術家五郎」の姿をそこにみるようでした。

特に、一幕目、尾崎に向かってどうしようもならなくなったら美緒を「殺す」と
言い放った時と、二幕目の、追い詰められてしまい、何処を見ているのか分からない、

そんな時の五郎演じる哲司さんは、本当に狂っているのでは?と
思ってしまう程で。 役ではない、真正の「五郎」をそこに観る想いでした。

藤谷美紀さんの美緒も美しかった。 台詞の一つ一つが「人間」でした。
自分の奥から絞り出すような台詞を聞き逃すまいと、集中し過ぎて
少々疲れもしましたがそれも、とても豊かな時間。
照明の中、じっと目をつぶったままの姿を、不思議と清らかに感じました。

なんというのか…「生」が「性」につながり、そして「聖」へと至る、
そんなことすら考えてしまう程。 とにかく、色んな事を4時間の中で
感じ、考え、そして心打たれて涙しました。

そんな体験、なかなか出来ないですよ。


私はよく評論でいう、「役者の身体性」という言葉が嫌いです。
往々にして身体性とやらに拠りかかり、独りよがりの、全く役を
映し出せていない劇が多過ぎるからです。
そんな状況の免罪符になっているんですよ、この言葉は。

でも、この『浮標』を観た後なら、その言葉も少しは信じられる気もします。
それだけ、役者一人一人が、それぞれの役と真剣に格闘し、その真意を
必死に汲み取ろうとした結果が、舞台の上に表れていたからです。

なりふり構わない、その姿を、人間の姿を私は感動的だと思ったんです。

不毛の砂の上に、ただ生きるは人間。現世もそれと同じ。

ラストシーンで、そうした砂の中をただ一人、「生命」を象徴する
万葉集を抱えながら佇む、哲司さん、というより五郎。

それを左右から静かに屹立して見つめる役者達の姿。
すごく美しい光景でした。

一言、こんな素晴らしい舞台を観せて、ならぬ魅せてくれて本当に
ありがとうございました。 役者、演出、全ての関わった人にただただ感謝。
ろくでなし啄木

ろくでなし啄木

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2011/01/05 (水) ~ 2011/01/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

もう一つの啄木物語
観劇当日、激疲れていた上に上映時間三時間、という話を聞いて
あー、こりゃ寝るな、、と思っていたのですが…。

始まってみれば一幕が本当にあっという間。 凄い引き込まれ方でした。
役者達は、笑いを中心に据えつつも、嫌らしくもわざとらしくも無い。
バランスの取れた動きと発声をしていました。

演出も序盤から物語が気になるように小出しにされつつ、上手い。
三谷氏は、映画よりも制約の多い舞台の方が演出を生かせるの
ではないかと感じました(映画の場合、凝りに凝り過ぎて疲れること多し)。

エンタメ演劇ここにあり!といわんばかりの作品でした。

ネタバレBOX

一つのある夜の出来事を三人の人物の視点で観ていく、開陳していく、と
いう構成も古典ミステリーみたいで、集中力が途切れない理由かな。
こういう話って思わぬ「気付き」があるから面白いんだよね。
あの時、裏ではあんな事が…って何かワクワクするし。

そう。吹石一恵の声って独特だと思ってたけど、今作ではすごくよく通って
魅力的だと思いました。 低く呟くように発声する時はなんか艶やかな。。

藤原竜也も相当コミカルで笑いの起きる動きの数々を見せたかと思うと
打って変って終りの方では苦悩に満ちた独白を聞かせる等、幅のある、
二面性のあるピンちゃんこと啄木を隙なく演じていました。

三谷さんの演出は役者の違った部分の魅力を一気に引き出す意味で
群を抜いていると思います。 既に手がけた作品で顕著ですが…。
普段からよく人を観察していないと出来ない事ですね。

人の観察といえば、テツがついにキレて啄木を追い詰める時の場面。

一言一言、鋭いナイフを向けるように、啄木の小物っぷりを
衝いてきていたけど、あそこの問い詰めっぷりは、あー、こういう人
確かに啄木じゃなくてもいるよなぁ、とついつい思ってしまった(笑
三谷さん、人を追い詰めている時のシーンの台詞がなんか輝き過ぎ(笑

あの場面もあってか、個人的にはこの作品あんま直球コメディには
思えなかったな。 テツが有刺鉄線でアレ傷つけた話を披露する
辺りの啄木と一緒になってのはしゃぎっぷりは微笑ましかったけど。

観てて、啄木に抱いた感想はただ一つ。 「可哀そう」。

自分で自分を勝手に孤独に持っていってるだけでなく、自分は
小物じゃない、と必死に言い聞かせている様がなんか滑稽。
実際と嘘の自分のギャップに荒れ狂う姿も、自分を熱弁すれば
するほどなんか哀れになってくね…。 良くも悪くも自意識過剰な芸術家。
でも、そういう自分を最後客観視出来る辺り、まだまだ「人間」だな、と。
芸術家は本当に自分の事しか考えないから…自己表現が仕事の人達だし。

最後も、凄く(三谷さんらしくスマートに)綺麗に終わったし満足満足。
そうそう、障子が左右から迫ってきて交差した瞬間、人が現れる…あの演出、
手品みたいに洗練されてて観てて気持ち良かったです。
あれ、どういう仕組みなんだろ?
ガラスの葉

ガラスの葉

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2010/09/26 (日) ~ 2010/10/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

重なり合う「葉」の家族達
白井氏の演出は、観る人色々感じると思うのですが、生々しく艶やかな
陰翳にあるような気がしてならない。 闇が妖しくうごめき、
その中を光が鮮やかに照らす。 いつもそう思うのです。

その独特の演出が、一見はごく普通の家族達の裏に潜む思惑や
攻撃性、狂気、崩壊感覚を上手く抉り出していて、ここ最近の観劇の
中では群を抜いて脳裏に刻まれました。 観客が多いとはいえず、
空席も結構目立ったのが不思議な位の、高レベルっぷりでした。

余談ながら局面、局面で流れる、音数少なめなのに妙に耳に残る
ピアノの響きが気になって気になって、後で調べたら「中国の
不思議な役人」でも楽曲を提供している三宅純氏の手になるものと知り、
それなら当然か!!と膝を打った次第。

ネタバレBOX

私は、芥川龍之介「藪の中」が大好きなのですが、この作品にも
同じ匂いを感じますね。 こういう話はものすごく好み。

あの物語では、「誰が若主人を殺したのか」、そのことをめぐり、
証人達の言う事が食い違い、結局全ては「藪の中」に終わるわけですが。

局面、局面で兄スティーブン、弟バリー、母親の証言がことごとく
食い違う。 同じ時、同じ場所にいたはずの人物達が全く違う事を
証言する。 まるで、同じ映画を観ているのに、解釈が食い違う。
そんな有様を見せつけられ、観客は戸惑う。

なにしろ、誰の言葉を信じるかで、登場人物達のキャラクターまで
変わってくるのだから。 

兄の言う事を信じるなら、弟は父親の死を受け入れられない、
限りない妄想にとりつかれた心の弱い人間になるし、逆に
弟の言う事を信じるなら、兄はとんでもない偽善者で母親は
息子可愛さにその片棒を担ぐ共犯者、ということになるのだから。

そもそも、物語の根幹をなす「父親の死」についても、観客に
明かされる要素が少ない。 これは物語を通じ全てにいえるが。
何故死んだのか、だいたい自殺なのか事故なのか。

人物達の言葉が全て嘘とはいえず、かといってまんま真実を
語っているとは思えないので、自然他の部分から読み取っていくことに
なるのですが。 微かに分かるのは。

①死んだ父親はどちらかといえば内向的で、子供たちを恐れてか
 引きこもりの傾向がみられること。

②一応兄は母親の、弟は父親のお気に入りという事にはなっているが
 実は互いに愛しながら、心の深奥では必ずしも完全に心を許さず
 憎んでいるきらいすらあるということ。

③②の「隠された憎しみ」の理由はどうも、兄、弟、母親が相互に
 相手の中に「死んだ父親」を見ており、その互いの存在に密かに
 耐えがたいものを感じているらしいということ。

①~③は私の解釈なので、他の人はまた違ったものを思うかも
知れません。 特に、生前の父親がどういう人間か、その受け止め方で
かなり変わってくると思います。 私は…ノーマルな人とは思えなかった。。

舞台は緊張感に満ち、知性と暴力の相反する要素がふんだんに
盛り込まれた台詞の応酬で時間はあっという間です。
舞台の、時折バチバチと点灯する蛍光灯が良い感じ。 あのせいで、
なんか普通の変哲ない部屋が、まるで息苦しい地下室にでもいるような
雰囲気を良い具合に持てました。

最後、観客はきっと身近な存在の家族でも何一つはっきりしたものは無い、
確かなことはその人だけにしか無い、人生はその繰り返しだ、好む
好まざるに関わらず、との感触を多かれ少なかれ抱え家路に着くでしょう。

皆上手かったけど、銀粉蝶はどんなに仰々しい台詞でも、挨拶くらいに
自然に聞かせる、見せる有様が流石と思いました。
そして田中圭。 前半のぶっ飛びっぷりと、後半の純粋過ぎるバリーの
ふり幅の広過ぎる役柄を違和感なしに見せてくれ、今後も大いに期待。
ダーウィンの城

ダーウィンの城

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2010/10/25 (月) ~ 2010/11/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

タイトルの秀逸さに驚く
初めてこのタイトルを見た時、正直意味が分かんなかったんですけど
終演後、振り返ってこのタイトルの巧みさにうんうんと頷ける部分が
大きかった。

閉鎖的で暴力的で。 こういう人間の姿と確かな現実とを一部分でも
ハッキリと、そして過激に描いた作品は最近ついぞ観なかったので
非常に刺激的でした。

ネタバレBOX

舞台は(おそらく)近未来。 そこには「スカイタワー」と呼ばれる、
50階近くある超高層マンションがあり、世間的に「インテリ」「勝ち組」と
いわれるような人達が1000人程居住している。

また、その対極として住人達に「地上」「下」といわれる、マンション外の
存在があり、断片的な情報から既に安全神話は完全崩壊、半ば
スラム化が発生している「危険地帯」であることが想像される。

本作は「スカイタワー」内での幼児誘拐事件と女性暴行ビデオ
流失事件が背景となっています。

住人達に共通しているのは「自分は選ばれているのだ」という奇妙な
選民思想と、それに付随したすぐ下の階の住人、また「地上」への軽蔑、
そして恐怖。 彼等の行動を規定しているのはこの位しかない。

社会的には勝ち残ってきた優秀な人間達であるはずなのに、その姿は
どこか病的でいびつで異常だ。 そして、他への過剰な暴力、支配欲が
むしろ人間から退化した存在であるかのように感じさせる。

自分の欲望に忠実過ぎるところが、どこか動物的、というか、
「ケダモノ」なんですよね。 

「ダーウィン」=他の人間を押しのけて勝ち上がってきた優秀な遺伝子達が

「城」=自身を守ろうと外部からの存在を一切遮断して半ば引きこもり状態に
陥っている、その状況

改めて思うけど、本当に秀逸過ぎる、皮肉に満ちたタイトルだと思います。

住人皆、変質者に近いサイコパス的存在なんですけど、なかでも一見
唯一マトモに、普通にみえる「地域の連帯」を唱える初老の競馬好きの
男が、私にはものすごく恐ろしく思えた。 何というか…ナチュラルにヤバい。

言っていること、やっている行動は見た感じでは常軌を逸していない分、
安心して付いていった先にはとんでもない結末が待ち受けているような。
現に、最後この男がやっているのは言葉は悪いけど、治安維持隊、
敵からの防御、治安を乱す存在は許さないといった自警団なのだから。

「ピュアな善意」の裏に、本人もまるで気が付いていない異様性、全体
主義性が見え隠れするようで不気味でした。 

なんか「1984」みたいな世界だよなぁ、常に監視され続けるなんて、と
思ってたら、男の自警団で採用されている制服のデザインが
「Big Brother Is Watching You」というロゴに、デフォルメされた
巨大な眼、とあからさま過ぎて噴き出しそうになります。

最後、優秀な遺伝子を持つ人間(と、住人達は思っている)を集めた
「スカイタワー」から逮捕者が出てこの物語は終わる。

他と交わらない遺伝子、種族は脆弱だという話があります。
「スカイタワー」もそれと同じで、自身の脆弱に耐え切れず、内部崩壊を
遂げてしまったのでしょうか?

私にはそうは思われない。

「外」の世界にまで安全強化が図られた結果、治安が大幅に向上した、と
いう自警団の男の話を信じるなら、成熟の臨界点を超えた「スカイタワー」は
その遺伝子をついに外部に拡散し始めたと考えるのが正しいでしょう。
最初は種に過ぎなかった「スカイタワー」は今や空にそびえる巨木となり、
その種子はどんどん広げられていくのです。

皆が望む望まないは関係ない、優れたものが生残り、タイプ化されるのが
生物の世界のスタンダードだから。

吐き気を催す程気持ち悪く、厭らしさ満開の舞台でしたが、強く衝撃を
喰らわせた、その意味で素晴らしい舞台だったといえます。
こういう生々しい話は大好きですね。 劇団の大いなる挑戦に拍手。
峯の雪

峯の雪

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2010/06/22 (火) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

ただ、ただ美しい人たち
長塚圭史氏がイギリス留学中に「胎内」をワークショップで選択、そして
翌年には仲代達矢氏が「炎の人」に出演予定、と今もなお古びない
三好十郎。 一体、何がその生命力の源なのか。

前々からその作品を観てみたい、と思っていた矢先に本作。
即決で観ましたが…。

出てくる人たちが皆凛としていますね。 佇まいから、台詞から。
仲代さんもそうなのですが、良い役者は姿を見るとただ「美しい」と
はっとさせられるのですが。 本作は皆「美しい」です。

ネタバレBOX

内藤安彦氏の演じる治平は本当に素晴らしかった。
台詞一つに、無骨でいささか不器用ではあるけど、優しさに満ちた
深みのある性格が出ていて。。 特に、娘のみきに対する複雑な
心情の表現が本当に、なんといってよいのか。

脇を固める人たちも皆レベルの高い演技。
特に新吾役の塩田氏の、きりっとした佇まいも観ててこっちが
背筋がしゃきっとしそうな、良い男っぷりでした。 最後の最後なのに
かなり良いとこもってった、かな。

戦中のいわゆる「戦意高揚モノ」に括られているらしく、三好十郎本人は
この作品を恥じていた、とパンフレットにはあったけど。

世間の片隅でひっそりと、自分のなすべきことを精一杯にやり遂げる。
そういう、なんというか、職種に限らない「人生の職人」達への尊敬と
深い愛情だけが観終わった後は心に焼きつくような作品でした。
それはとりもなおさず、きっと三好十郎本人が職人だからでしょう。

本作品は「戦時中」のものですが、混沌とする情勢の中、
「戦時体制」は今なお厳しく継続中、といわんばかりです。
現在と照らし合わせてみると、恐ろしいほど古くない上に
一つの清冽な生き方を想わされるよう。

この作品は観ないと損ですね。 観終わった後「人生」を考えます。
抜け穴の会議室 〜Room No.0002〜

抜け穴の会議室 〜Room No.0002〜

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2010/12/18 (土) ~ 2010/12/31 (金)公演終了

満足度★★★★★

年の瀬最後に「懐広い」作品
これは…素直に良い作品ですね。。。
観終わった後、明日とその先の未来に前向きになれ、希望が見えると思います。
そして、自分の傍にいる人間に、好き嫌いはひとまず置いておいて
じわじわとした関心と優しさが湧いてくる。 

パルコ劇場の広さに負けないような、外向きで懐の広い作品で、
作者前川氏が大きく成長したターニングポイントのように思えました。
そのことも含めて、今後の展開に大きく期待が持てます。
やっぱり、前川氏は一番「外さない」人だな。

ネタバレBOX

本で一杯の、岩窟の様な部屋に二人の男。
どうやら、彼等は前世での生を終え、次の生を迎える為の準備期間として
いわば「生」と「死」の境目のこの空間に来ているらしい。

記憶を無くしている彼等は「自身が誰であったか」を知る為、自分達の
過去を記録した書物を探っていく…

互いを知ることの無かった二人が、書物を通じて1973年のある親子、
2005年の靴屋で出逢った二人の男、2011年の環境が変わったところで
再会した彼ら、という三つの時空を追体験していく。
そこで彼等は、互いに全くの他人と感じていたのが、実は二つの生、
前々世と前世とを共に身近なところで共に生きてきたことを知る。

その中で、ある時は取り返しのつかない事も、命を救うような善幸も
あったけど、それは既に過ぎ去ってしまった過去の事。
しかし、彼等は転生の前に結果的に知ることになる。

人間は互いにどこかで関わり合い、連関し合い、終わることの無い生を
生きている。

なら、憎しみより、感謝で迎えた方がはるかに良い、という事に。

時にユーモラスに、シリアスに、そしてどこか哲学的な前川氏の
筆致はどこまでも温かく、追求・告発、というより、共感を目指しての
ものであることは自明と感じます。

二人の名優もそれに応え、等身大の、私達に近しい男を
演じ切ったと思います。

二人が最後、赦し合い、固い握手を交わすシーンはこの作品の
ハイライトであり、私は涙しましたね。 

作品の構造は「図書館的人生」第三章の時間軸を行き来しながら、
自分を探求していく、というもので、恐らく同時期に構想された作品と
思うのですが、こっちは温かさが段違いですね。

この冬、自分の「これまで」と「これから」、「自分」と「周りの人」を
ふと考えるのに最高の作品です!
ザ・キャラクター

ザ・キャラクター

NODA・MAP

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2010/06/20 (日) ~ 2010/08/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

「マボロシ」と「マドロミ」
とみに最近色々と個人的に思う事があったのですが、そんな中野田さんの
「感じる=信じる」の話には頷ける点が多く。

雑誌「+act」でチョウ・ソンハ他が「野田さんは本気云々」という話を
していましたが、この時期にこの作品は相当リスクが高過ぎると思うのです。

1. 猛烈に現実に寄った作品なのでお客が逆に白けたり、引いてしまうリスク
2. 「眠っている人」に冷や水を浴びせかければ、当然猛反撃を返されるリスク

個人的には「よくやってくれた!!!」「よく言ってくれた!!!」と思う。 
ますます「深い眠りに包まれ続けていく」日本で、空気読むどころか
意図的にぶち壊した氏の、反発恐れず、爆死覚悟で強烈な一撃を放った勇気と
暑苦しいほどの真面目さに心から称賛を贈りたいと思います。

ネタバレBOX

相当ダークで残酷なこの作品。
相当難産だっただけあって、後で振り返るとちょっとしたシーンが後での
伏線になっていたりすることに気がつく。 

「人間を(窓から)投げ捨てた」がそのまま「人間(の心を窓から)投げ捨てた」、
「セイレーンの歌声」が最後の終幕での「サイレーンの唸り声」と結び付き。
今覚えているのはその二つだけど、他にも色々。

思ったけど、後半に進むに従ってメッセージ色はどんどん強くなっていくけど
逆に作品自体の温度はだんだん醒めてくるというか、冷静さが増していくような。
感情に流されない、を念頭に相当考え抜かれ書き直されたことが分かりました。

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「マボロシ」は見果てない「ファンタジー」を見続け、そこから抜けられない人。

「マドロミ」はそんな「マボロシ」の危なさ、おかしさに気付きつつも
信じてすがって見ないようにして眠り続ける人。

今回、たまたま「あの事件」がモチーフだったわけですけど、
二人のような人は「あの事件」の中だけじゃなく、今でも
「ネット」の中、「テレビ」の中…沢山溢れるほどいますね。
みんな冷蔵庫に、扉の中にこもったまま出てこれない。 

正直、終盤まで「マドロミ」が好きになれなかった。
無実で被害者の弟と綺麗なままの自分とを照らし合わせ、重ねている、
そんな距離の取れていない危なさがあったので。 

教団側との底知れない親和性を感じたので。

現実社会で「私は純粋なんです」と言っちゃったり、ネットに書き出す人に
表だって言わないけど内心ドン引きしてしまう感覚ですね。 アレに近い。
本筋とはズレますが「純粋で傷つき易い」って今若干肯定されている感があるけど
自分としては本当はとてつもなくヤバいと思っている。
教団の信者が、「みんな変身しています!!!」という大家の言葉に
導かれてみせた、ニンマリして空っぽなスマイルと何かオーバーラップするのです。

「マドロミ」の印象が変わったのは自分の弟が殺人者であることを知り、
弟の背中に「幼」と書きつけたところ。

私にはあれが弟との、直視出来なかったもう一人の自分との決別宣言のような気がして
ただ逃げ回ってるだけ、「探し回っているだけ」の人だと思っていたのが
その後の長い独白も含め今でも脳裏に浮かびます。

「眠り」から醒められる人は傷つくことを恐れない、勇気のある人と感じる。
その姿は本当に生々しくて胸打たれる。 今では希少なものとなったけど。

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個人的にヤバい、と思ったのは中盤の、みんなで一心不乱に四つん這いになって
無言でシャカシャカと音が出そうな勢いで「信」の字を書き殴って、それを掲げ持ち、
ビシッ!ビシッ!ビシッ!とポーズを決めちゃうシーン。

何かもう…人じゃない、虫かなんかに見えちゃって。
本人達は真面目にやっているのが分っている分、かえって滑稽に見えて
笑いそうだったけど、客席からは嘲笑も含めて何も無し。 沈黙。

その後も文字の敵だということで秋葉原のPCを破壊して回ったりと、
第三者的にはぶっ飛んでいる発想だけど、客席誰も笑わないのは
それがぶっ飛んでいるのしろ、その集団の行動原理、論理であることを
みんなが認めているから。 この集団は「こういうもの」だとそれまでの
流れで観客が知っているから。

でも、どの集団も皆同じ。行動原理に則ってそれを疑わないのは
皆同じ。そう考え、自分の周りに目を向けるとゾッとしますね。

ギリシャ神話ではゼウスは色んな姿に身を変え、人間の前に
姿を現すそうです。

今回はたまたま「家元」「教祖」の姿だっただけに過ぎない。

ゼウスは忘れた頃に変身してまた何度でも世に現れる。

でもどんなに姿が変わっても、その本性は変わらない。

でも、また別の変身した姿で世に出ても誰ひとりとして
気がつかないと。 そう確信します。

みんな「物忘れ」、なので。
  
最後に。

「ザ・キャラクター」のモチーフの「あの事件」、当時私は小学生くらい
だったのだけど思ったのは「犯罪ってこんなふつーの感じの人も
でっかいのなの起こせるんだ。なんかすごい」と。

その時まで「犯罪=いかにもな人がいきなりやっちゃう」という
イメージがあったので隣家にいそうな人が何かよく分からない
事件を起こして、それがテレビになるなんて単純にビックリでしたね。

今に至る「動機のはっきりしない、"透明"な凶悪事件」のはしりで
やっぱりその意味では分水嶺だったな、と振り返って思います。
THE OLD CLOCK

THE OLD CLOCK

劇団PEOPLE PURPLE

SPACE107(東京都)

2010/09/15 (水) ~ 2010/09/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

美しい「大きなのっぽの古時計」誕生秘話
とにかく凄く混んでましたね。
大入り満員過ぎて桟敷席が現れ、それでも足りず若干の立ち見まで。

キャラメルボックスの方も客演していたりと、綺麗で切なく、でも最後には
希望に溢れた、観終わった後素直に良かったと思える舞台でした。
体調悪かったけど、観に行って本当に良かった。

余談。

鑑賞後、気になって「大きなのっぽの古時計」について調べてみたら
登場人物のヘンリーは実在の人物みたいで。 奴隷解放運動の賛同者で
ホテルの人間から聞き取った話を元にこの名曲を創ったというのも事実みたい。

ネタバレBOX

スティーブンが生まれた日にジョージホテルにやってきた大時計。
その時計の精霊であるアリーシアとスティーブンは、ホテルの歴史と共に
一緒の時を過ごす。 星座の話を聞いたり、共に遊んだり。

時は経ち、母が、古くから仕えていたリッチが、そして弟のリチャードが
次々に世を去り、あとにはスティーブンとアリーシア等モノの精霊達、
そしてスティーブンにほのかな恋心を寄せ続けた使用人の
ウィンスレットだけが残される。 否が応にも孤独、そして老いを感じる
スティーブン。

そしてやがてスティーブンにも死の手が訪れる。
死に瀕した彼の願いを受け、精霊達は彼の愛した「パッフェルベルのカノン」を
演奏する。 その演奏に導かれるように昇天していくスティーブン。

精霊は年を取らない。 しかし、たった一つだけ願いを叶えることが出来る。
スティーブンの死を見届けた後、アリーシアは渾身の想いで願う。

――スティーブンの魂と天国へ

と。 かくして大時計は永遠に時を刻むことが無くなった。

その話を今は年老いた(しかし、昔の可憐さはなくバイタリティのある
おばあちゃんに(笑))ウィンスレットから聞いたヘンリー。
彼は奴隷解放運動に共鳴し、南北戦争にも関与していたが戦争の
真実の姿を目の当たりにし、曲を書くことが出来なくなっている。

その彼が一晩で書きあげたのが「大きなのっぽの古時計」。

スティーブンを愛しつつも、結局結ばれることの無かったウィンスレットの
想いを歌に織り込んでの「My grandfather's clock」をヘンリーが披露する中、
精霊達、そして今は天国にいるスティーブンとアリーシアが高らかに合唱し幕。


バッハ遠縁のブッファ氏等にぎやかなオモロキャラを配して上手く笑いを
とりながらも、基本はスティーブンとアリーシアの物語です。
自分のこれまでを振り返りながら観ると感動が倍加しますね。
相変わらず地に足のついた、浮つかない骨太な作品でした。

正直、ファンタジーとか嫌いなんだけど何故だろう、すごく素直に
観ていられた、な。 設定に逃げず人間がちゃんと書かれてたからかな。。
すごく共感し易い台詞の数々。

メインのスティーブンを演じた植村氏には脱帽。
38歳、45歳、老年のスティーブンを変化をつけつつ、純真な心を持ち続けた
地に足のついた一人の男として演じた、その存在感はやっぱり凄い。

あと、脚本・演出で、今回「のっぽの古時計」を作曲したヘンリーを
演じた宇田学氏の演技も、実は相当良いのではと感じます。

「ORANGE」の時の頼れる兄貴分消防士とはまた違った、落ち着いた感じの
演技で、なんというのだろう、懐が広いというのか、滋味のある動きをしますね。
今後は役者としての宇田氏をもっと観てみたいですね。
守り火(まもりび)

守り火(まもりび)

FINE BERRY(ファインベリー)

ザ・ポケット(東京都)

2010/05/25 (火) ~ 2010/05/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

重なり合う
事前に、チラシ等で紹介されていた以上に暗くて緊張感のある
ストーリー構成でしたね。 観ながら、え?まだ不幸が続いちゃうの?と
落とされ、食い入るようにさせられることが多かった。

この作品の登場人物達は、それぞれが違うように見えて、実は
皆同じような境遇におかれていて、唯一つ、あのバラック小屋みたいな
家で一つに結びついて、または呪縛されている、と感じました。

ネタバレBOX

母親が、もし捨て子を拾ってこなかったらどうなっていたか。
多分あのまま狂って、近所の鼻つまみ者になっていたのは
タケシの母親じゃなくて、四姉妹の母親だったかもしれない。

または、四姉妹が母親に拾われなかったら。
幸せを知ること無く、そのままあのやくざのように身を落としていた
かもしれない。

そう思うと、各人物達が置かれていた状況が、大きく食い違って
いるのではなく、実はほんの偶然だったことに過ぎない、と気がついて。

そう考えると、四姉妹は幸せだった、のじゃないか、母親に、父親に
守られて幸せだったのじゃないか、といえると思います。

最後に家を焼いたのは、母親への甘えや依存を断ち切り、新しく一歩を
家族が踏み出すためには「守り火」のように必要な「儀式」だったのかな。
ちょうど、人形を燃やすことで災厄から逃れようとするように。
そう思うと、最後はほんの少し希望のある作品でしたね。

四姉妹が、母親のよく聴いていたカセットを聴きながら、その歌を
皆で口ずさむシーンがあったけど、あのシーンの美しさは屈指。
牡丹亭

牡丹亭

TBS

赤坂ACTシアター(東京都)

2010/10/06 (水) ~ 2010/10/28 (木)公演終了

満足度★★★★★

アジアの至宝
「日本」の、ではなく「アジア」の至宝、と敢えて言いたいと思います。
1幕45分、2・3幕各40分(途中休憩5分、20分)の総計2時間45分の
長丁場にも関わらず、本当にあっという間の舞台でした。

一年間徹底した猛稽古の結果、中国の役者と見まがうまでの発声を
身に付けた坂東玉三郎。 自身の舞いもさることながら、脇を固める
春香役の方の息も恐ろしくぴったりで、一幕「游園」から華麗な動きに
圧倒され、美しさに食い入るように見つめている私がいました。

ネタバレBOX

四幕「離魂」で恋煩いの果てに、自身を梅の木の下に埋めて欲しいと
懇願する娘の姿に涙を流すしか出来ない母と春香の姿。 
両脇に設置されたスクリーンでの翻訳も格調高いものであり、
この場面では引きこまれ、私もつい涙がこぼれてしまうほどに
移入しました。 

なんというのか…動きの全て、首のかしげ方、手のかざし方一つとっても
意味が込められていて、その時々の心情が見ているこちらにしっかと
伝わるんですね。 

二幕「驚夢」で、春を司る神がその従者と舞いを踊るのですが、
その動き一つとってもさざ波を表現していたり。 表現が巧みと感じます。

一幕で苔むす庭園に心寄せたり、最小限の動きで心情を最大限に
表現したりする手法。 ふと「もののあはれ」「能」と日本文化の粋と
いわれるモノとの共通点も微かに感じたりと、どこか遠かった中国
芸能に俄然興味が出ましたね。 今後は、その辺りの関係も勉強
したいと考えます。。 でも、奥が深そうだなぁ。。

ともあれ、荘厳で、かつ繊細な芸能に触れたいと思う人全てが
見るべき舞台と最後に述べたいですね。 素晴らしい!!!! 
おもいのまま

おもいのまま

トライアングルCプロジェクト

あうるすぽっと(東京都)

2011/06/30 (木) ~ 2011/07/13 (水)公演終了

満足度★★★★★

もし、あの時別の「選択」が出来たなら
昔、「世にも奇妙な物語」の後継番組で「IF~もしも」という番組が
ありましたが、それとよく似た構成ですね。

一つの出来事を、それぞれ「別の選択をした場合」から追っていく。
個人的には、そういう類の物語は大好きなので凄く楽しめました。
選択の違いによって、細かい部分の設定が変ってきているのも
とっても好感触。

ラストは本当に良かった。 なんか上手くいえないけど
浄化されるような気持ちだった。

ネタバレBOX

中島氏の脚本、特に一幕目は異様に生々しくて(特にアフロ記者の
自己中心的な言い分や独白)、自身の劇団が解散することで
何か思うことがあったのか?と感じる位でした。 
でも、Fineberry『守り火』よりは悲劇的ではなくて良かった。

私には、一幕終盤の記者の
「俺、努力しているのにむくわれねえな、と思ってるやつには
そのままむくわれねえ人生が必ず来る」
「思っていることはいつか必ず現実になるんだよ」
「だから好き勝手心の中で何でも思っていいってわけじゃないんだよ!!」

っていう台詞はホントに響いた。 いや~、まさに至言だと思う。
ま、記者二人はフォロー不能なほどの鬼畜なんだけど(汗
でも、こういう人って人殺さないだけで、結構いたりするんだろな…。

二幕目は、一幕目の緊迫した、サスペンスっぽい悲劇展開とは
打って変って、結構なコメディ調。一幕目で明かされた事実や
設定が絶妙に使われ、素直に上手いな、と(五反田での
「アリバイ」の話とか笑 本人にはたまったものじゃないけど)。

最後は、光の中、静かに余韻を残して終わる。 今後、二人の
行き先にどんな「選択」が待ち受けていても、上手く前へ進んで
いける、そんな未来を感じさせるラストでした。

上演前からの光や音響の使い方が言い表せないほど良いんだ。
飴屋氏のこだわりのなせる技だと思いますが、客席、まるで夏の
どこかの爽やかな別荘みたいな雰囲気でした。 

上演中も、特に一幕目では、独特のダークな雰囲気作りに
大いに貢献していて、流石!!! と思いましたね。
星の結び目

星の結び目

時間堂

こまばアゴラ劇場(東京都)

2011/12/22 (木) ~ 2012/01/02 (月)公演終了

満足度★★★★★

二人の最良の部分が出ています
『青☆組』の吉田小夏氏と、時間堂の黒澤世莉氏が、それぞれ
脚本、演出でタッグを組むという、ファンにはたまらない展開。

吉田氏の、透き通るように美しく、軽快な、でも時に激しい台詞回しと
黒澤氏のどこかセピア色めいた、静かで抑制の効いた演出の二つが
ここでは見事に成功をおさめ、まさしく「大人のための小劇場」作品に
仕上がっています。

冷たく、寒い季節にはもってこいの(それでいいのか…だけど)、
澄んだ作品でした。

ネタバレBOX

戦前~戦中~戦後、と、野望に満ちて店を拡大し、やがて時代の流れに
抗えず停滞、そして没落の一途をゆっくりと辿っていく氷屋の親子二代を

周囲の人々の人間模様も交えながら、一人の女中のモノローグを中心に
描いていく、という、ある種の「年代記」ですね。

時代精神、という言葉があるのですけど、その時代に生きた人間は
どうしても次の時代の「考え」「環境」に適合していくのが難しいのですね。

店を裸一貫ながら、今でいう「マスコミ戦略」を巧みに用いて大店に
盛り立て、派手に、そして豪快に生きた一代目甚五郎。

その時代を目の当たりにした長女の静子は、自然、どこか派手で
きらびやかな生き方が抜けない。そこを次女の八重子や榎本に
痛く衝かれ、動揺する。

性根はものすごく良い人なんだけど、コミュニケーションに難があり、
いいとこ「良いとこの坊っちゃん」の域を出ない二代目甚五郎は、
激しい激動の時代の中で頑張ってみるものの、流れのまま一気に
押し流される木の葉のように、没落に向かって落ちていく…。

男たちが、どこか少しどうしようもなくてわがままで子供っぽいのに
比べ、目立つのは女性たち。役者の魅力もあるが、存在感が大きい。
みんな綺麗で(着物が非常に似合っておりました)、キャラが立ってる。

吉田氏の作品に出てくる女性たちは、時代や周囲の環境、そして男たちに
翻弄されるように、無力であるかもしれないけど、人として筋が通っていて
地道。冬の長い風雪に耐えて、春になれば慎ましげに、でも凛と華開く、
一輪のようです。

なので、男性より女性が観た方がぐっとくる、と個人的には強く思います。
勿論、男性でも、特に中盤、涙腺がかなり痛くなる場面に多く遭遇します。

貴族院議員で裕福な、でもどこか下品さがぬぐえない男、山崎と八重子の
結婚話が破談に終わった辺りから、八重子が人喰川で独白を始める件、

二代目甚五郎が「男の子でも、女の子でも~」と吐露した件、は泣けます。

八重子は白雪の子供で、吹雪もそうだったのだろうか?
そこが凄く気になった。他にも上手く匂わせている部分が多く
想像が膨らみます。

個人的には、戦後、吉永園の人々の消息がどうなったのか
物凄く気になった。戦後になってからは、全く触れられなかったんで。

結局、静子(「良いとこのお嬢さん」だった静子が戦後自分で
料理しているところに、吉永園の没落と戦後の厳しさが)と
恐らく暇を出されて、遊女に転落、最終的には結婚して
駄菓子屋に落ち着いた梅子しか分からなかったのが残念。

でも、最後の場面は観た者の心に深く余韻を残す、どこか
チャップリン『街の灯』を思わせるような終わり方で、徹頭
徹尾、どこか切なくも澄んだ美しさを湛える傑作でした。

過去と現在が入り混じって展開される造りは、過去は過去、
人間は今を生きている、それはどうしようもないけど、同時に
救いでもある、ということを自然と感じさせ、成功している、と
思います。
ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所

ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所

遊園地再生事業団

座・高円寺1(東京都)

2010/10/15 (金) ~ 2010/10/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

「眠り」×「コラージュ」="ドラマ"
宮沢氏の言葉から「メタ」で「前衛」的で分り難い作品なのかな、と
思ってたら、結構考えさせられたり、思わぬところで笑わせられたり
集中して観ることが出来た、面白い作品でした。

宮沢氏のエッセイに出てくる、真面目な感じの中ふと放りこまれる
笑える言葉。 アレが好きな人は結構ツボじゃないかと思います。

ネタバレは、「大いに混乱していますが、それによって読み手が
集中出来ることもある」と信じてます。 書いている私自身は(苦笑

ネタバレBOX

私は基本的に「メタ」「セカイ系」という言葉って大嫌いなんです。
どうでもいいこと、分り易いことをワザと小難しくて針小棒大に語るので
いっつもアホくせーと思ってきたわけだけど。

遊園地再生事業団の、ゼロ年代(この言葉も嫌いですが)を突き抜けての
「ジャパニーズ・スリーピング」は確かにその匂いも感じつつも、どこか
開けて、前向きで、「メタ」「セカイ系」の持つ子供っぽさ、独りよがりさとは
凄く遠い作品のように思えた。 それがまず嬉しかったです。

パンフレットの、野田氏との対談を読むと

「物語」―無邪気に「感動」「メッセージ」「サービス」の集合

が量産されることに深い危惧を感じているようですね。
正直、すごく共感しました。 

「物語」には力があると、よく言われる。
実は、私は本当にそうなの? とずっと前から考えることが多かった。
「整理され」「分り易くされ」「山があって谷があって」、そして最後は
「余韻を残して終わる」。  

そんな、演劇に限らない、全エンタメに共通する、期待を裏切らない
感情を揺さぶってくれる、そんな「文法」に辟易しててどっかでそれを
裏切ってくれないかな、と思ってました。 誰かに。 

本作品は、序盤に登場人物によって解説されるように、
一定の流れに沿わない、混乱した構成を持っている。

人々へのインタビュー、眠りをめぐる数々のエピソード、古今東西の
書物からの眠りについての部分の抜粋…

それらはコラージュされ、バラバラにつなぎあわされた構成のまま、
観客の前にぶつけられる。 時々、語られる内容が「眠り」なのか
「現実に起こったこと」なのか。

語りが何度も繰返される中、境界線が徐々に分らなくなってきたところに、
今度は本当の(私たちがまさに実際に日常で体験している)「現実」が
呟きのように、でも生々しく入り込んでくる。 その光景は何というのか…

「演劇」を真面目に考え続けた結果、それを飛び越えて「現代アート」の
領域にまで越境してしまった感じ。 あの舞台美術も目にしてまず
脳裏に浮かんだのは、その印象。 

観ながら、この「ジャパニーズ・スリーピング」を世界で上演した場合、
観衆はどういう反応を取るのだろう、と考えていました。

「アメリカン・スリーピング」になるのだろうか? 「チャイニーズ・
スリーピング」になるのだろうか? いや、なれるのだろうか?
その一点に興味が俄然わきましたね。 

また同時に序盤で言われるように「一定の法則にしたがって
流れる「物語」を排することで、改めて人々は俳優に、ドラマに
集中する事が出来る」。 次に何が起きるか分からない。
そのスリリングさに一番人は刺激を受けるのです。

この作品の台詞はよく耳を傾けていると分かるけど、
ちゃんと計算されて丁寧に練られて書かれていると思います。
だから、言葉がすうっとはいっていくし、印象に残り易い。

皆が一種の気持ちよさをこの作品に感じるのは、何よりも
「音楽的」だからではないでしょうか。 冷たいけど、どこか
透明な印象を与える、水の中のような舞台美術も、

恐ろしく程に緩急付いて、自分をコントロールし切っている、
空間と一体化している俳優達も、

全て調和がとれていて一定で、耳障りなところ、ノイズが入るところが
一か所も無い。 これは、私よりも、年間数十~百本演劇を観て、
映画を観て、その声高っぷりに一種鬱陶しさを感じる人の方が
共感すると、私は確信しています。

ヘンな感情移入を避けるために、意図的に切り刻まれているだけで
そうすることで観客は台詞に、言葉に集中し、かえってそのことに
気が付くのではないでしょうか?

宮沢氏の名著「演劇は道具だ」(2006)に、「ただ立っていることの強さ」に
言及している箇所があります。 曰く、

「ただ立っていることで、あなたは裸にされ、その強さも弱さもたちどころに
見透かされる」
「その時、触れれば立ちどころに崩れ落ちてしまうからだではいけない。
強いからだをもたなくてはいけない」

本当にそうだと思う。 そして、「ジャパニーズ・スリーピング」は。

弱いからだ―「物語」にもたれかからない、強度の強い「drama」(決して
playではない)と感じました。

最後に。

笑いを入れるところが絶妙ですね。 張り詰めたところに、牛尾千聖が
バスタオル何枚も重ねて~とぶっ飛び出した時には思わず笑った。
牛尾千聖良いなあ、やついの、無視されキャラっぷりも大いに笑う(笑

眠れないことに悩み続ける三人組が脳内物質を見つけにどっか
行っちゃうエピソードもウケた。 「何処へ行くんだ?」「メラトニンを
見つけに!!!」「そっか…頑張れよ(やけに晴れやか)」 見つかるのかよ(笑

あと、女性陣が妙に官能的でした。 というか、過ぎでした。

最前列で観ていたので田中夢が後ろのスクリーンにドアップで
映写された時、本当にどうしようかと思った。 山村麻由美の、
静謐な佇まいも、負けず劣らずなんかエロティックでした。

役者の立ち位置が皆ホントに良い。 ピタリとはまりこみ過ぎて
この人は、もうこの役しかあり得ない、と思えてくるのが、宮沢さん
凄いと言わざるを得ないです。

来年も、遊園地再生事業団で本公演あるらしいので、大いに
期待したいところです。
甘え

甘え

劇団、本谷有希子

青山円形劇場(東京都)

2010/05/10 (月) ~ 2010/06/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

変わることを望みながら
変われない人たちの物語。

小池栄子は熱演でしたね。 危うい位にピュアで世間を知らない、
知らず知らずの内に破滅に向かっていってしまう「ジュン」という
役柄を正面から演じ切っていたように思います。

水橋研二の、どこか壊れてしまったような、虚無的な雰囲気を
湛えた「先輩」役も良かった。 余談ながら、この作品ではこの人が
一番可哀想な気がする。

ネタバレBOX

頭が良いのに世間と繋がれず、結果ズレてしまっているばかりか、
それが自分の純粋性にあるのだと思い込んで、全然問題の本質には
「気づけていない」ジュン。

汚れている周囲、自分が好きだと思い込んでいるのに、実はひそかに
そこから抜け出したいと願いつつ、素直にはなれない先輩。

そんな二人は甘えあいつつも、結局は理解しあえない・・・。

ジュンは家に戻らず、雀荘でそのまま働き続けていればよかったのに。
そうすれば気づく事もあっただろうに、最初から最後まで思い込みが
あったので、結局破滅からは抜けられなかった。 救いは無いです。

前から思っていたけど、本谷さんは「生真面目で純粋、非常に
道徳的な」人だと、今作を観て感じました。 天然で不道徳な
雰囲気はせず、全部計算されているような。。

この作品、本谷さんが語るようには「不道徳」には思えなかった。 
むしろ、直球の悲劇。 全編通してすごくダークでしたね。。

最後、自分を夜這いしにくる男達の、雨だれのように鳴り響く
ノックの音の中、自分、男たち、観客に向けてポツリと放たれる

「私よ、禊がれろ!」

という台詞が今でも忘れられないです。 あの辺りすごく怖い。

賛否両論ありますが、本谷さんのターニングポイントとして記憶される
作品は、この「甘え」になりそうです。
プランクトンの踊り場

プランクトンの踊り場

イキウメ

赤坂RED/THEATER(東京都)

2010/05/08 (土) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

その時空
他の人の言うように、恐ろしく簡素な舞台がどんどん転換していく。

ある時は東京のオフィス、ある時は地方都市の開店間際のお店、
喫茶店 etc etc... 回転ドア式に展開する仕切りを挟んでどんどん
展開していく。 その有様がなんかすんごくスマートだった。

スマートといえば、役者達。 なんか皆恐ろしく役柄に合っていて
見事としか。 安井順平の、相当引きこもり入った兄と、伊勢佳世の、
妹とのすっ飛んだやり取りに何度笑ったことか…。 

このようにコメディ要素も魅せる要素も高く、初心者から玄人まで楽しめる
高レベルな作品だと思います。

ネタバレBOX

兄に背を向けシゲル3人目を必死で抱きしめるカナメに、兄テルオが
「忘れられんのかよ?」カナメ「忘れられるよ」

…あの辺り、この劇の中で瞬間最高風速じゃないかと思いました。
それだけに、最終場で誰も3人目シゲルに触れなかったのがもう、
気になって気になって…。 でも、多分、カナメの様子をみると
もうシゲルとの事は過去になりつつあるようだったので…遅かれ早かれ
消えてしまうの…かな??

シゲルはなんか…如才無い感じだけど、要領良さそうだけど、
最後まで勘違いしたまんまで終わるタイプなんだろうなぁ。。。

次回公演も楽しみです。
東京ノート

東京ノート

BeSeTo演劇祭

新国立劇場 特設会場(東京都)

2010/07/02 (金) ~ 2010/07/17 (土)公演終了

満足度★★★★★

【青年団版】鑑賞
新国立劇場中ホールが美術館の一角へと演出され、美術館特有の
静謐な空間がそこに自然に現れたように感じました。 

時折後ろで聞こえる足音さえも不自然に思えないほど、舞台と
それ以外の空間の境界が溶け合って一つになったように。
私には思えました。

この劇の一番最初、「マヨネーズ腐らせて~」の件、ピンター「帰郷」の
出だしの台詞「ハサミは~」を何故か思い出した。 

そういえば、設定も、何もかも違うけど両者そんなに遠くないように感じる。 日常にある、得体の知れないモノ、を客に感じさせる、みたいな。

ネタバレBOX

静謐な空間で話されるのは、何気ない呟きのように儚く、次の瞬間には
霧散し忘れ去られるような言葉の数々。 

でも。

その中に時折微かな「違和感」が混じっていく。
それはひたひたと忍び寄る戦争の影だったり、終焉を迎えそうな夫婦の
姿だったり、未だに清算されることのない慕情だったり。

その「違和」は透明に広がる水の中にほんの一滴落とされたインクの様に
最初は目立たず、でも時間が経つにつれて表面を徐々に浸食していく。

ただの普通の、何も起こらない美術館での一日のはずが。
そこでほんのわずか同じ空間を共にする人間達それぞれが、
言葉には表れない思いを抱えて生きていることが、徹底的に
選び抜かれた言葉、恐ろしく緻密に計算された構成でもって
時折鋭く私たちの心のひだを抉ってくる。

必ずしも「強い言葉」が核心を突くとは限らない。
一見、他の言葉と一緒に聞き流してしまうような微かな言葉にだって
衝撃を与えるものがたくさんある。

それに気がつくと、この「静かな演劇」の代表作がどこか不気味で
スリリングで緊迫した雰囲気の中、一瞬も台詞を聞き逃せず、
役者の動作一つもうっかり見逃せないような、恐ろしく重厚な作品となって
私の前にあるような、そんな気がしてならなかったです。
砂と兵隊/Sables & Soldats

砂と兵隊/Sables & Soldats

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/09/16 (木) ~ 2010/10/06 (水)公演終了

満足度★★★★★

終わらない歩み…。
この作品、結構好きかも、と観終わった後思う自分がいました。
不条理劇は結構好きなんですけど、それに加えて結構笑わせる
ところもあり、あっという間の観劇タイムでした。

将校の「岩本」を演じた山内健司の、飄々として若干おとぼけな
隊を率いる軍人らしからぬ佇まいが、逆に強く印象に残りました。
「西川」演じる石橋亜希子の笑いの取りっぷりも良かった。

ネタバレBOX

オリザさんの「上演にあたって」、ものすごい作品のネタバレなので
最初から伏せておいた方が良かったのでは…。 皆、普通は
一番最初に読むだろうし。

「戦わない軍隊」「敵に遭遇したことの無い軍隊」…。
暗に「自衛隊」のことを指しているんだろうなぁ、と感じても
表だって言われるのと言われないのとではやっぱり感じ方の
強度が違ってくるし…。

それでも些細な台詞、だべりの応酬からいきなり核心を突いてくる
脚本は凄かった。

母親を探して砂漠を彷徨う一家の会話で、長女が父親に、

「涙を拭いて無理に笑顔を造って走って戻ってきた
かもしれないじゃんか!!!!」

は痛烈だったね。 長女の今に至るまでの寂しさ、理解されにくさが
あの台詞に思いっきり凝縮されているように感じられました。

最後、一番最初のシーンと同じように出てきた軍の一隊が
最初のとは若干ヴァリエーションの異なった会話を交わして
去っていくシーンで終わったのに上手いと思い、さらに登場人物達の
彷徨が順々に永遠に続く(脚本には「観客が全員去るまでこの動作を
繰り返す」と指定あり)演出の執拗さに思いっきりビックリ。

とまれ、上質の不条理劇でした。 またいつか広い所で観てみたい。
エビパラビモパラート

エビパラビモパラート

インパラプレパラート

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2010/06/03 (木) ~ 2010/06/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

音楽と共に死んで、生き続ける奴らの話
「音楽」というものを心底愛し続けた経験がある人はその思いが深いほど
また、音楽でなくても何か、何でもいい、自分がわき目も振らずただ
一直線に突き進んだモノがあるといえる人は、

この劇を見るべきだと思う。 必ず、その場で、その場でなくても
帰り道にふと色々な場面を思い返して涙が出そうになるはずです。

とにかく、何も誇るものの無かった連中が「音楽」に出会って、英雄になって
まっすぐに突き進んでいく。 その熱くて純粋な姿が今思い返せば
思い返すほど眩し過ぎて、冗談抜きで涙が止まらない。

劇団員と年齢が近いせいか、他人事に思えないほどこっちの感情を
揺さぶってくるんですよね。 10~20代が見た方が揺さぶられるかな。

ネタバレBOX

舞台は現代なのか何処なのかよく分からないどこかの島。
そこでは王を頂点に、貴族が牛耳る一種の階級社会で、
前代の王が死んでから政治は混乱し、王女と王子を擁立する
二つの派閥がついには戦争を起こす…。

その激動の中で、戦意高揚に利用されつつも最後に戦争を止めようと
する思いの詰まった「ただいま、おかえり」の詩を響かせ、カナデーラ、
一般にいうところのバンドは散っていく…。

音楽を見つけてそれに純粋に思いをぶつけていく様が、役を演じる役者、
果ては全ての夢を追う人たちとオーバーラップして、劇中胸打たれる
ところが余りにも多過ぎた。 

演出や台詞、演技も変に小難しくなくストレートで気持ちよく、なんか
トンでもないものを見てしまったような気がする。。

今は、「インパラプレパラート」「エビビモpro.」の両劇団にただただ
感謝したい。 Thank You!
歸國

歸國

富良野GROUP

赤坂ACTシアター(東京都)

2010/08/12 (木) ~ 2010/08/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

「あの戦争」についての新しいクラシック
時間の流れだけは誰にも止められない。
嘆いても、叫んでも、諦めても、1年、10年、100年…と時間は平等に
人の上を通り過ぎていく。 

それは悲しく辛いことばかりとも言い切れない。

自分が当事者だった時は見えなかったもの、しかし本質的なものが
時間の経過に洗い流されて顔をのぞかせることは良くあること。

倉本聰氏は、抑制され、冷静で、上品な筆で65年前の英霊を、
「造られた作者の分身」ではない本物の英霊を赤坂の舞台に生々しく蘇らせた。

川の中の石は流れに削られ、水に磨かれ、さらに端正に輝きを増す。
夏に、「忘れられず記憶される」べき新しいクラシックが誕生した、といえます。

ネタバレBOX

正直、「あの戦争は非道だった」とか「戦後の日本は間違っていた」という
メッセージを声高に叫ぶ作品だったら今、ここにレビューを書いていないと思います。

今残された記録に触れるだけでも、様々な「思い」や「記憶」がある。
そこを無視して、「戦争ハンタイ!」とか「日本の誇り」と単色で
描いてしまうのは、造り物の英霊の口だけ借りて「思想」を
語らせているだけで危険だし、かえって過去の人を侮辱しているといえる、とこの際言ってしまう。

人間を単純に見ている、ということでしょう? それは。

倉本氏はそこに与せず、性急に答えを求めず、ただ丹念に65年前の英霊達の姿を
そのままの姿で描いていく。 時間が解凍されたように、リアルな人々がいた。

うわずみだけさらった幾多の作品と異なり、書き手が当時の人間と完全に重なり合う事を
求められる分時間もかかり、先入観も一切放り捨て、いわば「無我」を必要とする、と私は
ここで氏の苦労を想い、さらに突っ込んで氏の意志を感じた。


作中、もともとドヤ街のワルだけど人情に溢れた宮本のエピソードが凄い。

浅草の劇場で働き、戦後は一人息子を苦労して育て、そして縮こまるようにして
亡くなった自分の妹について、彼は語る。


「今日妹が死にましてね…」

「あいつ腐りかけのバナナが好きだったんですよ」

「『腐りかけのが美味しいのよ』なんて言っててねぇ…」


感情を抑制した筆致で描かれる台詞の数々は表現の美しさもあって
人間的で、印象に残るものが多かった。


自分の故郷が長い年月を経てダムの底に沈んだことに慨嘆した兵士が

「変わらなかったのは木の間から見える月だけだったよ…」


兵士達の人間周りを丹念になぞっていくことで、時に現代と65年前の
戦時を交錯させるファンタジックな演出で、逆に戦争状態の悲惨さ、
そして戦後の現在を生きる人々、徐々に当時を意識しないでいくことが
宿命づけられている人々への「忘れることは仕方ない、けどふと
自分達を想い出してみてくれないか」という望みをそこにみることが出来ます。

話は深刻だけど、美しく凛とした劇作と受け取りました。
わが町

わが町

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2011/01/13 (木) ~ 2011/01/29 (土)公演終了

満足度★★★★★

色々振り返り、考えさせられた
70年前の劇とは思えないほど、台詞や心情が現代的だと思った。
ものの考え方とか、結婚観とか現代とは大きく違っている部分も
多く見受けられたけど、「変化」に対する考え方には共感する事が多かった。

というか、これからの人生真面目に生きなきゃな、と痛感してしまった(苦笑

優れた演出が、舞台を、たちまち緑なす庭や、冬の大通り、冷たい
墓地へと姿を変えさせ、出演者も皆それぞれの「人生」を演じていたと感じる。

原作読んだ時には、よく意味が分からなくてふーんと思ったラストに
危うく涙腺をもっていかれそうになり、耐えるのにかなり必死だった。
最前列で観てたら危なかったな。

全年代、あらゆる境遇・環境の人が何かしら「自分」に近い部分を
感じられる内容だし、作者もそれを意図しているでしょう。
また、それを表現出来る深度を持っている舞台だと思います。

「演劇」を観た、と思いました。

ネタバレBOX

この物語、「わが町」は舞台監督が、登場人物達がいうように
「平凡な町」の、「平凡な人達」の、「平凡な一生」を描いたものです。

でも、本当にそうか?

1913年(第三幕) : 翌年(1914年)6月に「サラエボ事件」勃発、第一次
           世界大戦の開始。

1938年(『わが町』初演) : 3月、ナチス・ドイツによるアンシュルス
                (オーストリア併合)実施、9~10月、
                ナチス・ドイツによるチェコスロバキア占領、
                12月、日本軍の重慶爆撃開始…

上記のように、ワイルダー自身が舞台として1913年を選んでいるのは
実に象徴的です。

何故なら、後世「未曾有の総動員戦争」とまでいわれた、この
第一次世界大戦によって、時代は「それ以前・以後」に分かたれ、

舞台の中でもいわれていた「多少の変化」は決定的に「急激な変化」となり、

「その後の世界」を襲ったからです。そして「それ以前」の世界は
戻ってこなかった。

もう永久に。

つまり、第三幕は「平凡(とされていた)時代の終りの兆し」を、迫りくる
「変化」を人々が感じる時期であり、決定的な「一時代の終わり」を、
平凡な一人の一生と重ね合わせているとも読めるのです。

なお、第二次世界大戦は初演時の1938年にはまだ勃発しておりませんが、
翌年1939年9月にはナチス・ドイツのポーランド侵攻が起こり、世界は
再びの世界大戦に巻き込まれていきます。

作者ワイルダーがそこまで予期していたかは分からないけど、
洞察力の高い作者は現状が「あの頃」-「第一次世界大戦」と
酷似した雰囲気に包まれている事を敏感に感じ取っていたの
かもしれません。

本作品では「戦争」の匂いは巧妙に抑えられております。
主題は「生」と「死」、そして「変化」であると。

人間に限らない、万物の生は全てが変化にさらされています。
生まれ、成長し、死して、土に帰り、その一部として今度は永遠となる。
それは全てにいえることですが、それを知覚しているのは人間のみでしょう。

人は上記の一連の流れを何とか万人に伝えんと記録を残し、
墓を建立します。

しかし、百年、一千年のスパンで見たとき、我々は歴史に埋もれ、
その砂の山から頭をのぞかせる事が出来るのは、それこそ「古記録」や
遺跡の類の、ほんの一部であり、確実に私達は忘れ去られる運命にある。

そして、生者と死者とは、いうまでもないですが全く別個の存在です。
死者は死して、その生豊かなることに初めて気がつくのですが、
逆もまたしかり。

古くは中世の「死の舞踏」「メメント・モリ」にみられるよう、またフロイトの
「タナトス」の概念(人間が自己破壊や死に惹かれる根本衝動)に
現れるように、生者も生の中で死を常に意識しているのです。

それは、同時に両者が決して一緒になることも示しています。
残酷なようですが、冷厳たる事実です。

「わが町」でワイルダー作品に初めて触れましたが、氏の視点には
醒めた、というより「冷静な観察者」と、人を完全には突き放せない
「寄り添う友人」としての二つがあり、それが本作を大人のものにしています。

決して触れ合えない生者と死者がそれを知りつつも一瞬だけ交わった
ラストシーンは奇跡的な美しさとワイルダー自身のそっけなく、でも深い
優しさに満ちていてまさに必見です。 


今、これを書く為に「生きるって辛いことね…」の台詞を想い出してたら、
少し泣けてしまった。 持続性がある作品だなぁ…。

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