ネズミ狩り
劇団チャリT企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2011/03/03 (木) ~ 2011/03/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
老練!? じんわり沁みる芝居
地震の翌日に観劇しました。
上演を決行するかどうかにも賛否があったと聞きましたが、避難経路の説明等も含め、丁寧な前説もなり、なにより単純に「劇場に集う」という体験を再発見する機会になりました。
犯罪の被害者と加害者、それぞれの事情やわだかまり、希望や絶望を丁寧にすくいあげる社会派ドラマ。小さな蕎麦屋の日常にある、希望や信念、諦念は、この複雑な社会をそのまま映しているのでしょう。構図そのものは比較的単純のようにも見えますが、ちょっとした笑いや生活のディテールが引力となって、最後まで存分に楽しめました。
現実社会がそうであるように、この芝居もまたやりきれない想いを残したまま終わります。ですが、少なくとも、そうした切なさと、それでも続く日常を見つめる視線には、演劇の希望があるような気もします。また、俳優の魅力もじわっと楽しく味わえる公演だったと思います。
ことほぐ
intro
生活支援型文化施設コンカリーニョ(北海道)
2012/05/31 (木) ~ 2012/06/04 (月)公演終了
満足度★★★★★
「ここにいる」ということ
ブラックボックスの中に楚々と立つ電信柱を見た瞬間、「あぁ、北海道まで来てよかった」と思いました。円形にとられた演技スペースの周囲にはバス停や自転車が置かれ、その上を電線が走っています。
物語の主人公は3人の祝福されない妊婦たち。頼れる男もいなければ、水道代さえない彼女らは、悪態をつきながらも、なんとか身を寄せ合って生きています。
さようなら
オパンポン創造社
王子小劇場(東京都)
2018/04/19 (木) ~ 2018/04/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
淡路島の小さな工場で、鬱屈した日常を送る人々。「ここを出たい、変わりたい」と願う一人の女子事務員が起こした行動から、それぞれが人生に抱く夢や挫折が浮かび上がってきます。
冒頭からほぼ無対象で反復される、工場の始業から終業、スナックでのアフターファイブまでの流れは、繰り返される日常、その抑圧を、とてもわかりやすく、時に楽しく伝えてくれました。とりわけ、高圧的な先輩と、彼に付き従うかのように見えて実際は見下してさえいる後輩工員との微妙な関係は、彼らの暮らしに貼りついてしまった諦念、淀みを感じさせ、このドラマを駆動させるための前提(環境)の役割をも果たして、見事でした。
ここに出てくる人々は、特に凝った、気の利いた発言をするわけではありません。ですが、その一見平凡なやりとりの中にも、彼らの欲望(本心)は確かにのぞいているように見えました。終盤、先輩後輩がついに対峙する場面の演出は、ちょっと歌(「さよならCOLOR」)に頼った感もありましたが、若者の暴走系青春ストーリーと見せかけて、実は、先輩も含めた妙齢の男女の迷いや悲哀をも汲み取っていく物語の奥の深さには、心打たれるものがありました。
9人の迷える沖縄人
劇艶おとな団
那覇文化芸術劇場なはーと・小劇場(沖縄県)
2022/05/13 (金) ~ 2022/05/14 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
1972年本土復帰を前に行われた新聞社での「意見交換会」の様子を、現代の劇団が再現するという二重構造からなる作品。
タイトルから『十二人の怒れる男』のような、多様なバックグラウンドを持つキャラクターによる論争劇を思い浮かべていたのですが、この舞台に「水面下の感情の動き、駆け引き!」とか「手に汗握る議論の行方!」といったドラマティックな筋立て、終着点はありません。
有識者、主婦、戦争で息子を失った老婆、俳優、本土からの移住者……それぞれがそれぞれの立場について語る劇中劇部分は、一見「さまざまな意見」を整理して、キャラクターに割り振っているだけにも思えますが、それを演じる現在の沖縄の演劇人たちの稽古風景が挟まれることで、徐々に「報告劇」としてのリアリティを増していきます。中でも「有識者」を演じる青年が直面している基地/米軍にかかわる理不尽は、二つの世界を橋渡しする重要な設定となっていました。また、意見交換会でうちなーぐちを使う二人の人物「老婆」「文化人」が背負った歴史の奥行きも印象に残っています。とりわけ「文化人」の自負と不安が交錯する表情には、戦後の沖縄で言葉や文化にかかわってきた、多くの人々、演劇人の姿も重なっているように思えました。
「稽古中」の俳優、演出家の会話にしばしば折り込まれる解説、実際にウェブサイトで募集した「復帰あるある」をスライドに投影しながら語り合うレクチャー風の場面など、親切だけれど、演劇としては戸惑いを感じる仕掛けも、振り返ってみれば、単に感情移入を誘うドラマを見せようというのではなく、観客と共に本土復帰前夜を体験するための回路として有効に働いていました。私ははっきりとは聞き取れなかったのですが、同行した人によれば客席でも「そうだったのよー」といった年長者の声が挙がっていたそうです。
今回の那覇の劇場において、この作品は、沖縄の現在を、歴史を踏まえつつ、あらためて捉え直すツールとして機能していたのではないでしょうか。またそれは、演劇でしかできない方法で、だったと思います。
【耳のトンネル】満員御礼!ありがとうございました。
FUKAIPRODUCE羽衣
こまばアゴラ劇場(東京都)
2012/03/09 (金) ~ 2012/03/19 (月)公演終了
満足度★★★★★
人生とママをめぐる大人の旅
羽衣といえば、汗みどろの、ちょっと粗削りな(?)パフォーマンスというイメージもあると思うのですが、今作はとても丁寧で、優しい、そう、ちょうど「ママの耳かき」的な愛らしさを持った舞台だったと思います。
作品全体が、あるミュージシャンの男が自らの記憶を題材に作ったコンセプトアルバムを紹介する……という設定になっているのも、単なる取っ付きやすさだけでなく、羽衣が一環して取り組むテーマ「生(性)と死」「記憶(と現在地)」にマッチして効果的でした。
「4 1/2」 「キッチンドライブ」
劇団子供鉅人
ポコペン(大阪府)
2012/03/25 (日) ~ 2012/04/16 (月)公演終了
満足度★★★★★
可能性のかたまり!
築100年にもなろうかという古い長屋の台所と玄関先で演じられる、賑やかな不条理風演劇。同居男との関係に倦み、台所に引きこもる女のもとに、突如として現れた「パーティーの客」たち。その賑やかで自由なふるまいに、彼女の心は徐々にほぐされていきます。
どうにかしてかつての仲を取り戻したい(でも相手の気持は読めてない)男と、生活に倦み、苛々を止められない女のすれ違いには、大いに引きつけられるものがありました。女のいるキッチンと男のいる部屋を隔てているのは見るからに薄い壁1枚。それなのにどうしても分かり合えないということが、せりふはもちろん、それぞれの部屋で起こる出来事、その対比を通して巧みに伝わってきました。
黒塚
木ノ下歌舞伎
十六夜吉田町スタジオ(神奈川県)
2013/05/24 (金) ~ 2013/06/02 (日)公演終了
満足度★★★★★
「解説」ではない古典との向き合い方
古典とされる戯曲や伝統芸能の題材を「現代版」として上演する際、もっとも陥りやすい誤謬は、その物語をより親しみやすく、簡単に解説することこそが、すなわち「現代化」であると思ってしまうことだと思います。
木ノ下歌舞伎版の「黒塚」もまた、もとの歌舞伎舞踊の展開の飛躍を心情的に補足し、より分かりやすくドラマティックな仕上がりを目指したものでしたが、同時に、この作品が所作(そのものは本家に及ばないにしても)の、一足一足を見せる「舞踊劇」であるという前提をしっかり踏まえていることにまずは好感を持ちました。
劇場の設備(箱馬等)をそのまま使って、作られた山(庵)の装置には多くの段差が仕込まれ、そこを上り下りする身体、またそのための時間が、主人公・岩手の心情表現に豊かに結びついていきます。岩手を演じる武谷公雄さんの好演と巧みな空間設計は、確かに現代の小劇場の世界に「舞踊劇」の伝統を浮かび上がらせるものとなっていました。
物の所有を学ぶ庭
The end of company ジエン社
北千住BUoY(東京都)
2018/02/28 (水) ~ 2018/03/11 (日)公演終了
満足度★★★★★
思考の楽しみとその過程で体感した気持ち悪さが後を引いています。
人間社会を埋め尽くす<概念>を扱う作品は、それほど珍しくはないでしょう。ただ、その多くは、そうしたテーマを取り上げ検証すること自体の新鮮さや性善説的な人間性の肯定に終始していた気がします。この作品が差し出す眺めは、それとは違う刺激に満ちていました。
舞台は近未来。危険な胞子が飛ぶ魔の森の侵食が徐々に進むなか、人間の居住地域との緩衝地帯となる「庭」では、森からさまよい出てきた「妖精さん」への教育が進められています。教えているのは、人間社会の概念、とりわけ「所有」について。記名は所有を表すのか、無記名で置かれているものは誰のものか、そこからどのくらい距離をとると所有権は消滅するのか……次々と提示される疑問は、やがて「物体」だけでなく「身体」にも及び、さらには(人間関係やコミュニティにまつわる)「帰属/アイデンティティ」といった問題にまで広がっていきます。
北から侵食してくる森、死に至る胞子といったイメージは、否が応にも、東北と放射能の問題を思い起こさせます。おそらくはもう、人間の居住地の方が狭まっているというのに、人は妖精さんに教育を施そうとしている。そんな不安定な構造は、この作品を単なる思考の実験、シミュレーションではない、「問い」へと深めてもいました。
同時多発の会話も、(そこにも含意はあるのかもしれませんが)メリハリが効いて聴きやすく、エンターテインメント的。思いのほか間口が広い作品になっていることにも好感を持ちました。
Do!太宰
ブルドッキングヘッドロック
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2010/05/14 (金) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
古くて新しい物語、大きな演劇
演劇ならではの時空間の仕組みを利用した“手法”で、あたらしさや面白さを提供することが、演劇界のひとつのトレンドになっていたような気がする昨今。
でも、今回のこの作品はしっかりとした物語の中で、オリジナリティも現代性も、そして、演劇ならではのダイナミズムも実現していたと思います。
こういった「物語」の中でさまざまな試みに挑戦することの潔さには今ドキなかなか出会えなかったという気もします。2時間20分(休憩なし)の長尺もさほど気になりませんでした。
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
罪と迷いを抱えた青年の魂の彷徨を、山岳信仰と重ねて描く骨太なドラマ。
2018年にも拝見した作品ですが、冒頭の祝詞から厚みのある声の重なりに胸を突かれ、より鮮烈にこの作品の世界観、風景に「出会った」感がありました。
日常会話と語り(独白)、祝詞、神楽……。異なる言葉と身体を交錯させ、存在の根源を探ろうとする手法、テーマは、現代演劇の歴史の中でも長く受け継がれてきた、オーセンティックとも呼べるものです。でも、だからこそ、それを高い完成度で、今日に響くかたちに昇華させたことに意義を感じます。
珍しい凡人
箱庭円舞曲
駅前劇場(東京都)
2011/05/04 (水) ~ 2011/05/11 (水)公演終了
満足度★★★★★
「ニヒル」ではない、問題提起
平凡な人の平凡な生活に潜む悪意を描いて見事でした。
そしてそれは、非凡な人の平凡な悪意を嫌味なく描くことなしには成立しないものだったとも思います。
たくさんの悪意や欲望にさらされて、右往左往する主人公の兄弟。でも実は、この場で明らかになってくるのは、「被害者」風でもある彼ら自身の悪意、そして、いつでも「他者」として生きていたいという愚鈍な態度でもあるのです。
「当事者性」とはなにか。この問題は、震災直後のさまざまな議論を思い起こさせますし、その問いは今も、私達の目の前に置かれています。
ですから、この芝居に簡単に感情移入しようとすると痛い目を見る。では、だからといってこの芝居は、悪意を露呈させて笑う「ニヒル」な作品だったのでしょうか。少なくとも私はむしろ、これが「ニヒルではない」ところが好きなんですけどね。
Y時のはなし 【Vacant公演終了!Y時は次 5月に山口県YCAMとシンガポールにいきます!!!YCAM公演チケットは4月3日より発売!!!山口で会いましょう~~ぜひ】
快快
Vacant(東京都)
2010/03/04 (木) ~ 2010/03/06 (土)公演終了
満足度★★★★★
美しい時間
過去を、その美しさや醜さも含め、どのようにビビッドに記憶し、記録していけるか――。それは、芸術にかかわるものにとって、中でも「時間」を扱う演劇にかかわるものにとって、非常に重要なテーマだと思います。この作品にはそのことへのとても真摯な取り組みがあると感じました。
学童保育を舞台にした、ささやかで繊細な人間模様を再現していく舞台は、にぎやかでポップなおふざけや遊びにあふれているのですが、決してアイデアの面白さだけに終始しているわけではありません。
「ある時、ある場所、ある人びとのあいだにしか共有され得ない時間」を扱うという(普遍的テーマ)の前では、その遊びさえ、輝かしい1回性を持つのでしょうし、実際、劇場ではそれを媒介に多くの人が「繋がっている」感が演出されていました。(対面の客席の笑顔の多さにはちょっと驚きました)
人生には美しい瞬間があります。しかし、人はその時、それを自覚することはできません。
ですが、この芝居のラストのような輝きを通じて、その瞬間を思うことはできるのだと思います。
ホールドミーおよしお
オフィスマウンテン
STスポット(神奈川県)
2017/05/24 (水) ~ 2017/06/10 (土)公演終了
満足度★★★★★
日常を語りつつ、ちょっと脱臼してみせるダジャレ混じりのせりふ。その言葉とは一見かかわりなく、怪しく蠢き、表情を変える身体。テキストと身体を(解りやすい)意味によって統合しない、という演劇実験は、これまでにも数多く存在しましたが、そのほとんどの主戦場は稽古場。観客にもそれとわかる成果を見せる作品はなかなかなかったと思います。ですからこの芝居で目の当たりにした俳優たちの姿、またそれを「パフォーマンス」として成立させる空間づくりには、驚き、圧倒されました。
トイレでるるぶ読んで旅行気分とか、フェスに向かう男たちのトホホも含んだ道程とか。テキストに書かれた緩い日常の断章が、複雑に変わり続ける身体によってこそ具現化し、そこにいる人々の不安定な立場、関係性を暗示していく。この世界観をどう受け止めるかは、観る人の世代や文化的背景によっても異なるのかもしれませんが、少なくとも私はそのプロセスを見守ることに集中し、楽しむことができました。
ここで開拓されたこと、その出発点は、複雑で微妙な身体表現の可能性だったと思います。しかし、それが成功すればするほど、とても強い空間づくりができていく……という一種の矛盾についても、観劇後は思いを巡らせました。演出家の意図の行き渡った強い空間は私も好きです。が、それと同時に、どこか(間の)抜けたような自由さも感じたい。贅沢かもしれませんが、この綱引きのバリエーションを、もっと観たい、感じたいとも思いました。たぶん、オフィスマウンテンは、今、もっともスリリングにそれを見せられる集団のひとつではないでしょうか。
遠くから見ていたのに見えない。
モモンガ・コンプレックス
BankART studio NYK 3C gallery(神奈川県)
2017/03/18 (土) ~ 2017/03/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
BankART Studioのガランとした空間。小さな入り口から斜め奥に向かって伸びる細長いステージには可動式の間仕切りが置かれ、この場所に特徴的なクラシックな柱とも相まって観客やダンサー自身の視線をも遮っています。4つに区切られたアクティングスペースを出入りしながら、それぞれに遊び、立ち止まり、横たわり、時に踊るダンサーたち。そこで表現されるのは、複雑で、指先に触れたと思った先から過去へと流れさってしまう「現在」との格闘です。
観客も巻き込んだ玉入れに興じたり、華やかなユニゾンが披露されたり。コミュニティアート的な触れ合いやエンターテインメントの快楽も交えつつ繰り広げられる格闘が、表層にとどまらない奥行きを感じさせるのは、そこにいる彼、彼女らが、常に危険や迷い、畏れを意識していることに起因するのでしょう。間仕切りの間にある出入り口は狭く、彼らは、とても慎重にそこを移動しなくてはなりません。動いている間もこの空間の不便さは意識しなくてはならないし(そのことがスペクタクルになったりもしますが)、もちろん、壁の向こう側がどんなに盛り上がっていても、そこで何が行われているか、把握することはできないのです。
触れ合いのぬくもりやショウのきらめきは、大きな時間の流れにおいてはごく短命で脆いもの。にもかかわらず、なぜそれは生まれてしまうのか。さりげなくギリギリの環境に身をさらし、奮闘するダンサーの姿は、流れ去る「現在」の不確かさと表現(観客とのコミュニケーション)との関係を鮮やかに切り取っていたと思います。
「演劇」「ダンス」と一口にいっても、その内容はさまざまで、そこに集う観客の層もまたさまざまです。演劇関係者や批評家たちは、細分化されるジャンルとその枠内にととどまって交流することのないアーティスト、観客の、いわゆる「タコツボ化」を嘆きつつ、大した処方箋も見出せずにいます(私もそうです)が、『遠くから見ていたのに見えない』はそうした分断を軽々と越えてみせる快作でもありました。
ことりとアサガオ【舞台写真UPしました】
三角フラスコ
エル・パーク仙台 スタジオホール(宮城県)
2010/03/12 (金) ~ 2010/03/16 (火)公演終了
満足度★★★★
お葬式日和
太宰治の世界を換骨奪胎した埋葬と再生の物語。
時代設定は現代で、家族を失ったらしい女と、家族がバラバラになっているらしい男(二人は長い付き合いで、男の兄弟をめぐっての因縁もある)の会話を軸に舞台は進行します。
女の夥しい<思い出>が埋められた庭での何気ないコミュニケーションが、彼らの絶望や自己憐憫をちょっとずつ和らげていく過程に、鳥を探す「作家」というなぞの男との詩的なエピソードが差し挟まれ、ベタなりがちな設定や物語をギリギリ回避しつつ、膨らみのあるものにしていると感じました。
また、「作家」のかもし出す不条理感も得がたいですね。この「作家」、「作家」かどうかということも含め、全体に対してどう位置しているのか、若干追いきれないところもあり…なんとなくもやもやもする部分もあるのですが、一方でむしろこの不条理、時間間隔を「分かりやすさ」ではない方向にもっともっと
演出も含め)鋭く磨くことで、「日常」の場面が引き立つのではないか、さらに舞台としての面白みもまた増すのではないかという大きな期待を感じもしました。
冒頭、男女が会話するあいだに、何をするでもなく「作家」が舞台を横切るのですが、これはちょっとチェーホフなんかも思い出す遊びというかほのめかしで、個人的に好きです。
最後に舞台とは直接関係ないのですが、前説で本番中に連日続いた地震に触れて、非難誘導の話をされたこと、終演後、劇場出口で知り合いだけでなく、すべてのお客さんに挨拶されていたこと(出演者の人数が少ないからできることではあるでしょうが)、好印象でした。
露出狂
柿喰う客
王子小劇場(東京都)
2010/05/19 (水) ~ 2010/05/31 (月)公演終了
満足度★★★★
ベタの極限に現れる闇
女子高サッカー部の「チームワーク」のありようと、その栄枯盛衰変遷を描く、ハイテンション・エンターテインメント。でも、その先に表現されたのは、言い知れない「闇」のようなものでもあったと思います。
耳の中で残響が唸るほどのハリハリの発声、かえって眩暈がしそうにキレキレの身体。そして分かりやすい(気がする)ストーリーと様式美といってもよいせりふまわし、下品なイディオム……そのすべてが<完成形>に向かっていく充実感がここにはあり、私たちはついこの<祭>にのせられてしまいます。
キャッチャーインザ闇
悪い芝居
王子小劇場(東京都)
2013/03/20 (水) ~ 2013/03/26 (火)公演終了
満足度★★★★
疾走!その先には……
闇の中を、行き着く先もないと分かってもなお、「手応え」を求めて走り続ける登場人物たち。その疾走感に興奮し、安易なオチに流されまいとする姿勢にシンパシーを感じました。
エンターテインメント性の高い演出、演技は、舞台と客席の間の壁を突き破るような「突破力」を感じさせるものでしたが、もう少し、表現に濃淡があるといいですね。時には引いてみることで、この劇団、戯曲の持つ確かな質量を実感させる——という方法もあるのではないでしょうか。
【無事終演しました】荒川、神キラーチューン【ご来場ありがとうございました!】
ロ字ック
サンモールスタジオ(東京都)
2014/05/14 (水) ~ 2014/05/25 (日)公演終了
満足度★★★★
青春の恥ずかしさは剥がれない
主人公二人の冒頭のマイクパフォーマンス(?)とそのせりふの(明確に内容は分からないけれど)激しさに、一気に「持っていかれた」気がします。
青春の恥ずかしさは、貼り付いて剥がれない。ここに描かれているほどには、不幸でもなければ、痛くもなくても、「昔のこと」として乗り越えて来たはずのあれやこれはは、ずっと自分に貼り付いている。だから、ここに漂う部室臭さは自分のものなのだ–—とつい引き込まれてしまう、力のある舞台だったと思います。あの時の自分を乗り越えるためには、必ず、そこに戻らなければいけない–—そんな大人の視点にも共感を覚えました。
物語が進むにつれて、まったく解決しない問題のアレコレに「いったいどうやって風呂敷を畳むの?」と心配にもなりました。結果、やや「力業!」となった終幕には、乱暴さや多少の悪趣味を感じなくもなかったのですが……ともあれ、最後まで息もつかせぬ展開、カラオケシーンのみならず、数々のせりふに込められたロックな魂に唸り続けた2時間弱でした。
マクベス-シアワセのレシピ-
THEATRE MOMENTS
シアターX(東京都)
2010/05/20 (木) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★★
<言葉>のドラマを<身体>で見せる
開演前に出演者が観客に飴を配るという予想外の親しさ、そして昼間からいっぱいで、ワイワイしてる感じの客席にまずはビックリしました。
気軽な雰囲気の「前説」(らしきもの)からシームレスに本題のドラマに入っていく手つきも含め、気持ちよく、伸び伸びしている集団(もちろん「考えている」と思います)なのだなと感じました。
芝居そのものはもちろん、「マクベス」ですからシリアスです。
セットも衣裳も小道具も、できるだけ具象を排した空間の中で展開されるのは声と身体のドラマ。動きもせりふも、決して過剰になることなく、でも、十分に満たされている、といってよいものだったと思います。中でも私は、感情や状況をたくみに表現する<声>に魅力を感じました。<声>が表現する恐怖や喜びには、不思議な奥行きが宿るものです。
痒み
On7
シアター711(東京都)
2014/03/25 (火) ~ 2014/03/30 (日)公演終了
満足度★★★★
「女」はイタいがOn7は…
結婚、出産、仕事……。日常において「女」をさほど意識しなくとも、その生き方によって分断されがちな「女」たち(一応言っておくと、そこまで明確に分断されない「男」もむしろ大変だと思ってます)。その違和感「痒み」を私たちはどう、乗り越えていくのでしょう。ここに描かれた、あの世ともこの世ともつかぬ不思議な場所で、それぞれに強く、逞しく、身勝手に生きる女たちの姿は、まさにその答えに繫がる入口をみせてくれているように思えました。
はじめのうちは、がなるようなせりふ回しと、かしましくもイタい同級生トークにひるみもしましたが、次第に違った顏を見せる女たちの柔軟さに惹かれていってしまったのは、新劇で腕を磨いてきた俳優たちならではの「上品さ」によるものだったのかもしれません。
俳優集団ということで、作・演出家によって、毎回公演の色合いは変わるのかもしれません。それでも、やっぱり今回のように、リアルで柔軟な女の物語を観続けられればいいなと思います。