tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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川にはとうぜんはしがある

川にはとうぜんはしがある

ばぶれるりぐる

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/02/22 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

同じ竹田モモコ作の「ぼっちりばぁ」(青年座)を観たばかり。ばぶれるりぐる「いびしない愛」を観たアゴラで、同じく劇団公演での竹田作品だったが、関西役者(だけでなかった)によるノリか、演出か、ある種の芝居のリズムがあり、すき間があって想像力を駆使させられる。舞台は母屋と離れそれぞれの出入口とその間の土間、また離れと言っても屋根があって雨に降られずに移動でき、屋外とは壁、扉で隔てられいるので建物は別でも「内部」。そういった設えなのだがアゴラという事もあって「離れ」との距離が近い。なのでタイトルの「川には・・」の川として見るには、若干無理があり、相互の「隔たり」がテーマだろうに近いなあ・・と終始感じながら見ていた。すのこを置く事で便利!とより実感できる距離が、理想的で、対岸に立って対峙する時の距離感も、もう少しばかり、あると良い・・等と無いものねだりをしても仕方ないが。
大分あとになって確認した所、役者は「劇団員」ではなくオファーした人たち。渋い空気出してるなあ、と思わせる妹の旦那役。妹役も関西では色々と活躍との事。姉は竹田モモコ。本人が出演していたとは露知らず。他県から移住の若者は劇団5454(今はランドリーと添えるのかな)団員、残る娘(妹の)役が一人朝鮮名がいるなと思っていた若手で、実は関西の朝鮮高校出身。高校時代に(演劇部設立が叶わなかったので)劇団を3人で立ち上げ賞を取り韓国の演劇フェスに招待された(5年前)経験を持つその一人。持ちキャラでもあるらしいハキハキした役で大人らの先を行く。そして妙に理解が良く人当たりも良い青年は元広告代理店勤務で、これも年輩の姉妹の先を行く。見た目で年齢を判断して良ければ最年長の妹の夫も飄々として若者の波長を理解していた。
という訳で、この芝居は姉妹が互いに反発を覚えながらも励まし合う関係へと「促される」お話。押さえていた(とはずっと見えなかったが)感情が最後に溢れ出る情景が美しい。
デザインの仕事を家賃無しの四国の実家で継続して行こうと決め東京から出戻った独身の姉が離れに住み始め、二十歳になろうとする姪(妹の娘)が実は絵が描けて、自分の仕事の手伝いをやらせてみてその異才に気づき、自分が一歩引いてでもその才能を開花させたいと思い始める。一方娘が地元で勤めていた手作りパン屋を休みがちになり始めた頃から妹の娘の将来への懸念と姉へのわだかまりが大きくなる。芝居の冒頭で「空き家情報」を見て内見に訪れた青年はちょうど姉の引越し後のゴタゴタの場面に立ち会い、またバイトからちょうど戻って来た娘が、住居に困った彼に別の空き家情報を提供するといった事でこの家族と知った仲となる。姉と姪が二人になると姪は「さきちゃーん」と甘え、話の出来る姉のような存在であった事が薫って来る。
竹田モモコは高知県の幡多地区を舞台にした幡多弁による戯曲にこだわった劇作家だが、田舎の事情を組み込みながら現代にアプローチする。今作では田舎に飽き足らない(その人口比は現実には高い)人の都会志向と、田舎に馴染んで育った人の田舎で完結する傾向とを対置し、妹の後者を体現させている。現実にそこまで田舎の人間関係を厭わず受け入れ、それを代々引き継いでいく事を肯定的に積極的に受け入れている人格があるのか私には分からないが、情報化の現代を最も象徴する広告代理店を離職した若者を登場させ、都市的価値観の限界と、地方の限界とを提示する作品がこの作者によって今後も生み出されて行くのはこの上なく楽しみである。

ネタバレBOX

姉と妹のキャラが逆、のモンダイ。
アーティスと志向で出戻った姉・早希を竹田女史が演じるのは配役として理解できるが、風情がどう見ても姉妹が逆であった。最初は「姉」と認識していても、見ている内に妹・陽子の方が姉だと認識していた。
姉は肩身が狭いとは言え、幼い頃から年長は生来偉ぶるのが習い性で、その片鱗が見えるとか、妹の方が少し遠慮してるとか(姉を怒らせると怖い、とか)、あるいは、一般的な形から少しはずれた風変わりな姉妹なら、それが分かる場面やエピソードがあるとか。
単純に妹が姉を「さきちゃん」と呼ぶ呼び方が上から目線。せめて「お姉さん」と呼ぶ、等があれば少し違ったかな。
そうしたディテイルは観客としては見たいものである。
姉は飛び出し、妹は地元に収まる、という設定にしたい気持ちは分かる気がするので。。
夜は昼の母

夜は昼の母

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2024/02/02 (金) ~ 2024/02/29 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

二度目の観劇はならず、破の序盤ステージを目にしてより日が随分経っているが、褪せつつある記憶を掘り起こして言葉にしてみる。

ネタバレBOX

風姿花伝P・上村聡史演出による優れた舞台を目にした事で、自分が作者ラーシュ・ノレーン作品への「予断」を無遠慮なまでに持っている事はまず断った上で・・。

作品はストーリーテリングのずっと手前、舞台上に存在する個体としての人間描写が、細密画のレベルで求められている、というのが私の感じ方であり、作品への願望だ。
ゆえに役者の課題は「さらけ出された人間」の提示であり、「話を進める」最小限の役割よりも、「そこにリアルに存在し得る」ありようが深い洞察から生み出される事が重要だ、と感じる。
劇が進むリアルタイムの時間は、客観的事態の進行以上に、人物の他者への影響による変化に比重があるため、ある時間経過の後に想起する(観劇中であれ観劇後であれ)時の人物の整合性、リアリティの濃さが相対的に重要になる、という風に言えるか。
高度で複雑な役者の仕事は人それぞれ、説明困難ではあるが、恐らくは「役人物」と「役者本人」との「合作」として、己の中から有用なる人物を発見し、生み出す課題となるのだろうと思う。

という事で、結論を言ってしまえば、ストーリーよりはこの芝居に登場する人物たちの人物像にどれだけ役者が迫れているか、360度包囲されている「家族」内部の関係性と構成員の人格=たたずまいと行動が緻密に描けているか、の話になる。私の関心は(劇から受け取る快楽は)、それだからだ。
そしてそれはラーシュ・ノレーン戯曲の最大の特徴が「人間(あるいは家族)」の本質の暴露だから、である。

過去上演された二つの共通点は、ドメスティックな会話劇である点。一作目は父母と息子・娘、二作目は二組の夫婦。そして本作は再び父母と二人の息子即ち現代の核家族だ。
父に問題のある家族の痛み(現在・過去ともに)は、映画の題材としても多いが、父とはそういうものである、とも言う。反面教師、越えるべき壁。
だがセクハラと強姦が地続きだとは言いつつも「傷」の程度は大きな開きがあるように、「問題ある父」の影響力も様々だろう(同じ家族でも感受性によって大きく違ったりする)。
この作品に登場する父は重症の部類とされている。ただし、作者の経験が反映しているせいかその「度合い」を客観的に測る事をしていない。(そのような他者の目を存在させていない)
父は酒乱であり典型的アル中でもあるが、芝居では「アル中」という概念で父の状態を把握する家族を置いておらず、目の前の父という具体的な存在の言動に即反応せざるを得ないドメスティックな環境がある。幾分余裕のある観客は「これはアル中だ」と脳裏をかすめても、芝居に没入する事でそうした一般的なカテゴリーでの認識は背後に退き、無力に思える。家族の成員が見る家族の風景に同化する。

さてこの父は普段は人の良い人物である。が、酒を飲んだがために無茶苦茶な事をする、全くの別人格の出現に翻弄される経験を家族は重ねた結果、酒と事態との因果関係を体験的に把握するに至る。だが忘れた頃に出現するため、一家の長を常に監視する事はできず、、といった経験を何年もの間重ね(あるいは最初は何年かに一回、それが徐々に頻度を増してきたという事も)、「現在」即ち下の息子が17歳になった家族状況を迎えている、という訳である。
父を山崎一が演じる。
この配役については私は懸念があったが、これはあくまで私が描くラーシュ・ノレーン作品のイメージに照らしてだが、やはりある線を超えられてない、というのは正直な感想。
父の一見情けなく病的なキャラに山崎氏は合っていそうなのだが、実際得意とする技をこれでもかと繰り出していたが、私の記憶と照合した所のNylon100℃による2000年前後の舞台(祖父と幻想の中の息子役)での山崎氏とほぼ変わりがない。彼一流の笑わせ術がある。その定型を駆使してうまく繋げた、という印象だ。俳優が演技を「技で繋げてる」と感じる事はあるが、上手い作劇の芝居だとストーリーへの注意が演技の細部を目立たせず、ポイントを押さえた演技をしてくれてたな、という印象を残す。役者の仕事は概ね、そういうものだと言えなくない。が、この作家の戯曲は「別」なのである。
ただ、本作は戯曲としての完成度に難があり、それゆえ細密画の完成よりは「展開」の妙、役者の身さばきの躍動を取り込もうとしたのかも知れぬ。多くの観客の納得を得る工夫は不正解とは言えない、が、私が求める快楽からは遠ざかる。「人間」の限界のリアルな形での提示は、芸術の重要な役割の一つ。話は逸れるが、どろどろな権力中枢の「人間ゆえの」醜さを、どことなく整理の付く話に置き換えて大衆に飲み込ませている欺瞞を見るにつけ、人間はもっと「暴かれねばならない」欲求が高まるのである。

4人家族の中で最も癖のある役柄は、岡本健一演じる次男だろう。芝居の冒頭は、彼が女装をして鏡の前に立ち、それを見つけた兄が容赦ない嫌悪の言葉を弟に投げ付ける場面だ。嫌悪が性的なものに対するそれなのか、自分の理解を超えた「趣味」に対する反発なのかは分からないが、弟の歪んだ人間性は後々次第に見えて来る。既に50近いだろう岡本氏が十代を演じている事に最初違和感がよぎったが、成長しない精神をもう一人の老成した自分が眺めているような爛れた性質に似つかわしく見えて来るのが不思議、というよりゾッとさせる。
兄はサックスを実際に吹く場面で技を披露していたが、家を出て自立したい願望を吐き出している相対的にまともな存在だが、最後は彼も家族のゴタゴタに関わらざるを得ず決断に至らない。これが家族の病としてなのか、行きがかり上そうなっちゃった(劇が終わる時点では)という事なのかは不明で、おそらくフィクションと割り切って書かれたなら兄は出て行くか「出て行けない」か明確にしただろうが、体験が元になってる故にそこを明確に出来なかった。(現実の家族は己の意思と、意思とは別の必然と間で繋がりが維持されている。)という事で兄の描き方はもう少し別のあり方があり得たかも知れない。
最後の曲者は母(那須佐代子)である。DVではないが酒乱で「迷惑をかける」父を見限り、絶縁するかに見えた母は、父の必死の改心の誓い、歯の浮く台詞、何度も裏切られたはずの言葉を重ねられる内に、「これが最後だよ」と軟化する態度に転じる。観客から見ればそれは父の巧みなトラップで「本当に君がいないと生きて行けない」と言いながらスキンシップに至り、性的な甘味な時間を仄めかしたのに母がフェロモンを発し始める訳だが、観客の目にも彼女の固い意志が明瞭と見えていただけに、裏切られた感は否めない。この一部始終を、次男は見ており、スッキリした顔で居間に出てきた母に次男は近づき、最近携帯するようになったナイフで母の頸動脈を斬る、という怒りの場面が挿入される。これは次男の想像の場面。現実を逸脱した場面はここともう一度、同じく次男の見る幻影として挟まれるが、次男という人間はこの過激な行動を「取らない代わりに取られる」歪な振る舞いにカモフラージュされた人格であると言える。だが掘り起こせばそこに理不尽さへの怒りがあるにせよ、現実の彼は解消できないものを抱え、現状において可能な自己防衛的な生活スタイル(学校には行けずにいる)を維持する他なく、故に家族に対して、とりわけ見切った父でなくまだ塗りしろのある母に期待があるだけに愛憎にまみれた感情が生起するといった様相である。
母は問題児である割にチャレンジをしない次男を諦めなのか敢えての突き放しなのか不明な態度も示す。元々子供への愛情に欠く性質を疑いそうになる人格で、冷酷さがふと現れる。子供に対して不敵な笑みを見せたり。子供らのためには父と離れるべき所、離れられない事を自己弁護もしない感性。家族とは綺麗事ばかりでない事を弁えている態度とも。
女性性と母性のバランスを男の子供の目線で疑う事を普通はしないが、老成した次男は無遠慮甚だしくもそれをやってのける(あからさまに言葉にして表面的な円満を壊すことはしないが)。だが糸が切れたら何をやるか分からない不気味さを湛え、これに言葉を与えるなら、愛の不結実ゆえ、という事になるのだろう。
子供は親を選べないと言うが、親も子供を選べない。親を親に育てるのは子供であったりする(自覚的でなかろうと)意味では、この次男の性質はこういう父の影響によるものだろう、と推察させる第一段階から、実は(子供にとっての味方と見えた)母の影響が最も強くあったのかも知れないと推察する第二段階、そして家族にとって最大の影響力は次男の存在にあったと考える第三段階へ。作品がそう導いている訳ではないが、有機体である家族の問題に対し、あるいは家族環境で受けたダメージを解消する課題に対し、必ず通過する思考過程をこの芝居を見ながら思い巡らしたものであった。

結論。こうした影響関係にある人間の形象という課題には、(芝居は相手からもらう、という事とは別に)単体として自分がどのような「状態」にあるかを突き詰め、己を具象として舞台上に存在させる必要がある。
山崎氏の演技は特に彼が隠していた酒を取り出して飲み、元に戻すも次男に目撃されており証拠まで突きつけられてもなお「飲んでない」と言い張るくだりが極め付けで、笑わせ、呆れさせるのだが、闇の深さ(人間の浅さ、という事であればそれも一つの闇)の出どころが見えないのが疵である。
戯曲の最後、彼がふと漏らした「とっておきの」履歴、すなわち救国軍(的な部隊)に参加していた事、これに息子らが反応し、今父親を見直そうとし始めた瞬間を切り取っている。息子らを懐柔させる手を持ち出した父、それに絆される息子らの「弱点」、としたかったのか、それとも実は父は英雄だったと仄めかす事で暗澹たる物語に光を与えようとしたのかが演出面でも不明だった。私は前者の線で徹底的にこき下ろすのが整合的だと思ったが、それらも人物像の土台があればそれなりに見えて来た可能性もあるな、と(自分に都合よく)解釈したような事である。

この話の舞台は1950年台の前半だったか。長男がサックスで奏でるのが「ディア オールド ストックホルム」。スウェーデンの古い民謡をジャズスタンダードにしたスタン・ゲッツのレコーディングがこの頃で、あるいは作者自身の経験の反映か?と想像。ここでこの曲である必要は特にないので。
東京トワイライト

東京トワイライト

劇場創造アカデミー

座・高円寺1(東京都)

2024/02/22 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了

実演鑑賞

座・高円寺劇場創造アカデミー修了生が集っての作品が松田正隆氏演出の下、昨年夏より数次の稽古を経て発表に至ったとの事。
現代日本を独自に切り取った風景描写であるが、台詞量がかなり抑えられ、動作による表現が大部分を占め、その読み取りに苦労した(面白さもあるが、不明のまま放置せざるを得ない部分の割合が少々高い)。
タイトルにある「東京」をさほど気にしなかったのだが、白昼の銀座高級時計店の強盗事件を、地方の人はどう見ているのだろうとふと気になった。東京=日本の代名詞、とは限らない。
座・高円寺1は兎に角広い。このだだっ広さを活用し、何もない平面を数名の同世代(三十前後)の男女が動きまわる。照明も終盤の二、三の暗転以外は、同じ明りでステージを満遍なく照らし続ける。
言葉による説明を極力省いて作られた事は、役人物の同一性や、動作の意味等で不明瞭な点が幾つか生じた。不明部分が大きいと変数の多い方程式と同じく類推を諦めてしまう。
近年の松田正隆氏は、福島という土地かに因んだ継続的な仕事をしていたが、その手法の延長に今回の作品もありそうだ。難解というイメージが更に固定した感ありであるが、人間のちょっと笑える風情を体現した俳優たちの身体は緩みがなく、地味にポテンシャルを示していた。

ネタバレBOX

今年度春よりシライケイタ新芸術監督体制が始動した座・高円寺、氏の演劇人としての立ち位置を感触としてよく理解できていない自分だが、劇場の芸術的リーダーとしての仕事からその特質が見えてくるかも。。と少し期待している。
509号室−迷宮の設計者

509号室−迷宮の設計者

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2024/02/16 (金) ~ 2024/02/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

まずまずであった・・とは期待の高さゆえの感想。
名取事務所の韓国現代戯曲シリーズでこの作者、金旼貞(キム・ミンジョン)作品は三度目の登場らしい。作者の傾向は判らないが、他公演の概要を見ると一つは日帝支配下の朝鮮を舞台、一つは現代(戦後のどの時期か不明)を舞台としたいずれも濃厚な人間ドラマといった風だが、今作は対象との距離を取ったドキュメントなタッチで韓国の民主化闘争時代の弾圧の側面にフォーカスした舞台。
韓国の著名な建築家・金氏の設計とされている元政治犯収容施設を案内人と共に写真家が訪れる現代と、当局から設計を依頼された当時の経緯、そして現代の案内人の元恋人かと想像させるある収監者のこと、この三つの逸話が錯綜して劇が展開する。
後で振り返ってもたげた要望は、できればその高名な建築家の人生に迫るドラマとするか、拷問を含めた権力の術策を赤裸々に抉り出す告発劇とするか、、どちらかに寄せたものを観たかった。

理由を考えてみると、民主化を弾圧した権力は憎むべき相手である。これに異論は無い。ありようがない。
だが、水責めが行われた独房を、「その用途を知った上で建築家は設計したのかどうか」を問い始めると、「そのように意図したか否かに関わらず負う責任」が埒外に置かれ、問題が矮小化して行く感覚に陥る。
仮に建築家がそんな事を意図しなかったのだとしたら、(政治的スタンスを巡る市民の責任に関して)「あまりに鈍感」である事にある種の咎は生じそうである。

実際にはその高名な建築家は中々当局のリクエストに対して(多忙ゆえか、多忙との弁解が可能だからか)回答を延ばし、会社で対応に当たった部下の一人の青年が、登場人物としてフォーカスされている。実際には彼が設計を行ったらしい推測が成り立つ格好で、芝居の中で「告発」まがいの視線を受けるのは彼である。
写真家(フォトジャーナリスト)が最後に問い詰めるのは彼である。彼女はまた、案内人に「収監者」との関係も問うが、固有名詞を担うのは建築家のみ。数知れない被投獄者を代表する舞台上の彼が、その案内人にとって誰だったかはさほど重要でない。また同様に数知れなく居ただろう権力への協力者に関してもそれが誰にとっての何者であったかは重要でない。
重要となるのは、案内者である彼女が客観的事実を述べる範疇を逸脱し、「私的」言動を取り始めてからの話で、しかしこのドラマではその瞬間は訪れない。弾圧の事実の告発は私的であり得る事を超えて大きく公的な問題群となる。
三者がそれぞれに抱えた人生の断面が見えて初めてドラマは動き始めるのだとすれば、この舞台はそれぞれの人生の行方を微かに予感させるにとどまった。作者は実は人を登場させながら無機質なその建造物を、というより建造物の無機質さ(非人間性)を感覚的に観客に届ける着想があったのでは、等と想像する。その部分に呼応するような効果音(音楽)が印象的ではあった。

養生

養生

ゆうめい

ザ・スズナリ(東京都)

2024/02/17 (土) ~ 2024/02/20 (火)公演終了

実演鑑賞

スズナリ公演であるのと蠱惑的なチラシに惹かれて観に行く。相変わらずシビアな、ブラックな状況と独特なエスケープのカタルシス。深夜バイトで男3人、実体験がベースにありそうだが生々しさと滑稽さと奇妙な装置による効果でフワッとしてる感触もゆうめいらしい。

ウンゲツィーファ主宰の本橋龍、青年団俳優・舞監の黒澤多生、俳優の田中祐希三名による臨場感のある(ふと訪れる夢的な時間も)芝居空間が、その空間の心地良さを維持して続いて行く。冒頭の本橋氏の語りがまずドキュメントな空気満載で、これ実体験でなきゃこうならんだろ、と思わせた最初に観た「弟兄」(だったか..これはかなり実体験反映のケースだったがそれでも脚色創作部分があったのだと知って結構衝撃であった)以来、ゆうめい舞台に漂う空気である。
現代の職場空間、人間関係、状況適応テク、相互の浸食具合等の描写に目を見開かれるのだが、それら細部に時代の風景が逆照射されて行く感じもある。

う蝕

う蝕

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2024/02/10 (土) ~ 2024/03/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コールの後にスタンディングの女子たちが見え、ああこういう公演だったのだな、と。初めて名を見た若手俳優(坂東龍汰、綱啓永)と名前だけは知っていた新納慎也あたりが、娘たちのお目当てだったか。安くない金を払い観劇「参加」した公演を「素晴らしいものだった」事にしたいのは判るが、舞台そのものではなくこの場面(コール)の感動を味わいに来た(結果的に)のかも・・と意地悪く見てしまう。
それだけ難渋さのある舞台だった。だから「簡単に感動した事にしてくれるな」、という気持ちがもたげる。

改稿された事は公演後に知った。当初動画で語っていた俳優たちのノリ、コメントの内容と、初日の幕が開いた日のコメントとは趣が違う。
開幕時点で「え?これは1月1日以降に執筆した脚本なのか」と目を疑う。被災した海岸べりの状態である。そして明らかに能登半島地震が重ねられている。それまでの題材が事実の前に霞んでしまい、急遽内容を変えたのか・・と観ながら考えたりした。
が、実際は、当初横山氏が書こうとしていた不条理劇の設定が、天変地異が襲って土砂に埋まった島、であった所、現実に震災が起こり、この災害を想起させる内容であったため、上演を検討した結果改稿に至ったという。
つまり、そのまま上演したのでは「そこに震災の傷跡がある」事実に対し無神経な芝居となる、と判断されたという事だ。それによって私はこの戯曲は(ストーリー等は大きく変えずとも)決定的に変わったのだろうと想像した。
演出が瀬戸山女史であった事でこの改稿作業が今回の作品への展開を可能ならしめたのだろう、とも推察。鎮魂の劇である。
当初目指されていた「不条理」は、島に残った(あるいはたどり着いた)人物たちの滑稽さ、醜さ、突き放した辛辣な描写で現代日本を浮上させるものだったのかな、と想像している。そんな想像をしてしまったのは改稿前の「原形」の残り香、あるいは埋まらなさを感じたからである。だが急遽の改稿にしては、犠牲者の存在を強く感じさせた鎮魂のラストによく持って行けたと感服する。
数年後、元の戯曲(完成していたのであればだが)を上演する機会が訪れたら、それも一興なんだがな、と未練がましく考える。

ネタバレBOX

今回の能登半島を襲った震災については、東日本の時と随分違う感触であった。原発事故はなく、津波の規模も違ったが、実は死者が予想以上に出ており、把握されない孤立地帯・世帯、寒さとライフライン遮断と、ある種地味な深刻さゆえかメディアを通してはあまり伝わらなかった。
情報が出されない事によるネガの「印象操作」に助けられた政権が長く続き、国会議員の現地入りがバッシングされるという転倒した常識に恐ろしさを感じ、標的をバッシングする事で被災地への(同国民としての)疚しさを自ら解除しようという心根が見え隠れしゲンナリさせられた。
災害そのもの以上に、この国の病みを実感した一月がアッと言う間に過ぎ、三月が目の前である。何から手を付ければ良いのか・・演劇の中にそのヒントを見たい等とは虫の良すぎる願望だが、様々な意味で舞台芸術には期待している。そしてしばしば、予想しなかった形で応えてくれる。
ぼっちりばぁの世界

ぼっちりばぁの世界

劇団青年座

ザ・ポケット(東京都)

2024/02/15 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「いびしない愛」で劇作家新人戯曲賞を受賞(2021)して以来しばらく作者の名を見なかったが、昨年末の「他人」(見逃した)から、今度の劇団(ばぶれるりぐる)公演、その間に青年座に書き下した本作と竹田モモコ氏戯曲の上演が目白押し状態である。
個人的には劇作家協会戯曲賞の「新人のその後」を見守る思いでいたが、今回の青年座「ぼっちりばぁ」公演、出来はどうか、幡多弁にこだわる劇作は継続中なのか、が実は心配だったのが全くの杞憂。納得の戯曲であり、舞台であった。
当地の事情を偲ばせる(実話にせよフィクションにせよ)ドラマで、特異な部類の登場人物の納得できる輪郭と他者との化学反応の描写がある。思い余った瞬間の人物の(解説抜きの)幡多弁が、意味が分からないのも小気味良い。久々に見た尾身美詞の立ち姿もよろし。
なお「他人」は2022年劇団協「日本の劇」戯曲賞受賞作、着実にキャリアを重ねていた。劇団公演も観たい。

地球星人

地球星人

うずめ劇場

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2024/02/16 (金) ~ 2024/02/18 (日)公演終了

実演鑑賞

大勢が出演するうずめ舞台は粗くなる傾向があるが、今回は特色ある配役(燐光群猪熊氏や何と言っても黒テント服部氏..ペーター・ゲスナー氏の恐らくリスペクトが反映してると思しい)もありとても楽しみに劇場へ向かった。
もっと狭い劇場で観たい「パフォーマンス」であった(もっとも大勢の場面は板の上に乗らないだろうが)。些か癖のある性格(コミュ障併発)とぶっ飛んだ空想癖の主人公、小学生の奈月は、年一度田舎のお祖母ちゃんちでお盆に会う従兄の由宇と健気な恋を育み(どちらかと言えば奈月の一方的な)、二度目の夏に二人だけの結婚をする。誓約事項は奈月の方からの要求、他の女の子と手を繋がない、等だったが、問われた由宇は少し考えて「来年の夏まで生き抜くこと」と加えた。それが予言でもあるかのように、奈月は小六にして塾講師(大学生)から性的玩具とされて行く。始めは「ごっくん遊びをしよう」と声かけられる。警戒するも巧妙に誘導され、親のいない講師の実家に通う内、ついに口がけがされる。そして「あそこ」=本番の時も時間の問題と感じた奈月は、由宇にセックスをしようと持ち掛ける。ここへ至る経緯も、小学生でしかも病弱(だが性格は悪い)姉の都合優先な家庭では田舎へ行けるかも危うく、紆余曲折して3度目の夏を迎える。挿入までの経過の描写も子どもらしく細かいが、それが親戚中の者に知られ、さらし者となる。以来、実家には戻れず由宇とも会えない思春期を過ごして23年後。休憩を挟んで後半となる。この時点で1時間余が経過したが、配役が変っての二幕が約二時間。こちらが更にぶっ飛んでいた。

幼少の生い立ちゆえに、セックスが出来ず、味覚もない女性となった奈月が、別の男と夫婦になっている。だがこの夫とは特殊な関係で、夫も人と接触できない性質を持ち、仕事は長続きしないがそれを独特の解釈で必然と悟っている。実に際物でお似合いのカップルとして奇妙な同居生活が紹介される。彼らは自分たちが独自の原則で生きている、と捉えていて、彼ら以外の外界は「外部」と呼ぶ。家族からの干渉は相変わらずで、いつしか二人が奈月の田舎に行こうと思い始める。家族には内緒で。そして叔父さんの手引きでお祖母ちゃんの家屋を紹介され、逗留する事に。そしてそこには由宇もいた。彼も過去がしこりとなり普通の生活でないようだ。三人が次第にこの場所での生活の中に意義を見出し始めると共に、彼らは「外部とは異なる行き方」を模索し始めるのだが・・。
ここから先の展開が生物学的にぶっ飛んでおり、体質まで変わって行くグロテスクな彼らの様態は滑稽でもあり、崇高でもある。作者は、演出は、それを狙ったのに違いない。そしてある程度は成功したが、かなりの無理もある。芸劇というおしゃれな空間で、これをやるのか・・。汗が出たし最後まで涼やかさは訪れなかった。祝祭性のためには色々と犠牲にしており、哲学的な掘り下げのためには喜劇性が勝っている。

近年の芥川作家の作品の舞台化と言えばオフィス3○○の「私の恋人」もぶっ飛んだ世界であったが、今回の挑戦もあまりにもな挑戦である。

ネタバレBOX

今回後藤まなみが上半身を脱いだ。私が観たのは三度目である。一度目は恐らく20年近く前、シアターXの「ねずみ狩り」で(今回と同じく荒牧氏とのコンビ)。二度目は二年前だったか、「砂の女」で(これも同じく荒牧氏と)。最初のは「脱がなくても良い」が「ねずみになった」二人の表現として有効だった、ただし下半身の方は泡で隠し、照明が煌々と当ってシャボンの美しさと拮抗した。「砂の女」は物語の必然であり秀逸な表現となった。今回は申し訳ないが不要であり、男二人も脱ぐが、荒牧氏はストッキングにフェイクの「性器」が見えるのに対し他方のみっつんは無し。そして後藤もストッキングにちょび髭のような毛を付けているが、上半身はさらしている。上は良いのか?という疑問が湧く。この二つの不統一が、表現において最後まで気になった。「脱いだ」事によって表現の大部分が達成している場合とは今回は異なり、進化(あるいは退化)していく人間の心情の機微が表現されるには、「さらしていること」を意識しないようにするという意識が、邪魔をして演技が通り一遍に見えた。一挙に「羞恥心ゼロ」にはならないのが人間であり、かといって一旦脱いでしまったものを恥じ入る挙動は「演技」とは言え中々に生々しく、難しい。ここは上もフェイクにして、微妙な演技に挑戦してほしかった。
サド侯爵夫人

サド侯爵夫人

サラダボール

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/02/10 (土) ~ 2024/02/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

青年団系の劇団、と言っても幅広で多様だが、サラダボールは西村和宏氏による演出が目玉で青年団所属の頃からバリバリやってたらしい来歴を以前サイトで見て興味があった。演出家が軸のユニットはアートとしての演劇の探究の徒、同じ出自の地点は突出してるが、このユニットも拠点が関西にあり、観たのは前作「三人姉妹」(3人の女優のみで演じる)が初。これが中々力作であったのと「サド」は未見だったので何とか時間を割いて足を運んだ(二幕のみの上演はそう言えばSCOTのを観ていたが)。
何とか時間を、、と言うのは本来休息中の所体を起こしての観劇、案の定前半の大部分寝落ちした。
だご三島戯曲の緻密さ、また役者の丁寧な台詞(そこは厳に守っていた感)で物語世界はそこはかと汲み取れた。
些か配役の難で関係性の把握に苦労。鈴木氏の演技の存在感が主役的、侯爵夫人役が脇役的。作者のイメージは少し違うのだろうな。原作を読みたくなった。
登場しないサド侯爵を取り巻く女性たちの反目と紐帯を通して、不在のサドの底知れなさ、仄かに匂う人間味が、想像の中に立ち上がるが、大いなる存在に対し、夫人が最後に取った態度をもって劇的瞬間として幕を閉じせしめるのがやはり三島由紀夫のテキスト。流石やなー、と思う。スベらんなー、みたいな。

岸辺のベストアルバム‼︎

岸辺のベストアルバム‼︎

コンプソンズ

小劇場B1(東京都)

2024/01/24 (水) ~ 2024/01/28 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

まずまずであった。
描かれた世界に作者が登場し、もう一人の作者が登場し、作中人物らも自分が物語中の人物だと気づいたり、動線を探り始めたり・・metaがこんぐらかって入り乱れて、絶叫シーンが増えてきて、といった割といつもの?コンプソンズ芝居であった印象だが、そうした物語構造を骨組みとして、その中を漂う人物による時に鋭く時代に斬り込む言葉や態度が、私には魅力である。昨年の舞台も映像鑑賞し、現代性を帯びて痛烈という記憶だけがある。今作はその印象に比べ薄味に思えたが、斬り込んだ箇所はあった。斬られてナンボな今の日本ゆえ、この演劇は正しく作られていると感じる。演劇への信頼が増す。

兵卒タナカ

兵卒タナカ

オフィスコットーネ

吉祥寺シアター(東京都)

2024/02/03 (土) ~ 2024/02/14 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

海外の作家による日本のしかも日本的なる核の部分に迫る戯曲を、以前読んでいたがこれをどう具現するかに大変関心があった。五戸演出という事で期待もあったが、戯曲に登場する人、事物は純日本製であるのに文体としてはドイツ人ゲオルグ・カイザーの思考が込められている。この両面性を、具象を一定程度削った抽象表現を用いる事で解消し、見事に舞台化した。日本土着の感覚を微かに嗅がせながらも、普遍的・汎用的で骨太なテキストに回収された「物語」は、もはや日本限定のそれでなく、日本の場所と時代設定を用いて国家と人間のあり方を描いた作品と言える。その一方で本作は日本という国に独自のメスで斬り込んだ作品、とも見える。どちらかと言えば後者として私は有難がりたい。
三幕はそれぞれ場所が異なり、三幕三様、展開と共に劇的でダイナミックである。時代はナレーションで確か大正何年、1920年代と認識した記憶。兵卒田中は同じ隊の友人和田と故郷へ帰還する。

小栗判官と照手姫

小栗判官と照手姫

Project Nyx

ザ・スズナリ(東京都)

2024/02/08 (木) ~ 2024/02/14 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

全く予定に入れていなかったが(土壇場で変わる予感はややあったが..)、空いた時間枠にちょうどハマったので観に行った。満席情報は無かったのだが指定席エリアは見た所補助席を除いて満席。最後の一つに自分が収まったかのよう。スズナリの最後列に座るのは多分初めてだ。位置も良かったのだろう、眼前からステージまで視界が開けるようで大変見やすかった。ピンと張り詰めた台詞劇は間近で見たいが金守珍演出の明快なエンタメステージは俯瞰で見るのは悪くないと発見。
「さんせう太夫」に続く女歌舞伎もの第三弾という事だったが、前作に比べ今作はスッと入り込む所があった。前作は安寿と厨子王の姉弟が「悪者」によって母親と引き離されるが紆余曲折を経て遠い地で再会する物語(姉は亡くなっているが霊はそこに居て共に再会を喜んでいる図)。
今作は曇りない心で惹かれ合った聡明な男女(小栗と照手)が引き離され、一方は殺されるも墓穴から出てこの世ならぬ姿、他方は夫の死に随行すべしとの令に本人は従うも入水の際、同行した兄弟の義心により助けられ、人買いに売られる運命ながらしぶとく生き延びる。この二人が様々あって最後には再会を果たすという、ファンタジックなお話。
昔のお話は結末が決まっていてそこに至るまで障害を乗り越えて結末に達するという構図、明確な不幸とそれを潜った末の幸福の対照は、色的にも単調だ。が、このシンプルさ、即ち一人を思い続ける事、信念を貫く事が現代においては稀少であるゆえに、艱難に打ち克って思いを遂げる結末に胸を突かれる。
熊野へ達すれば男は元の姿を得る事を観客は知っており、その日は何時来るのかと成り行きを見守る。二人が全く別々の道を辿り、互いをそうと知らず(一方は自分の記憶も無い訳だが)同道する事となっても、困難は降りかかり、故あって生じる障害に阻まれる。そうしていつしか熊野に至った頃には男は連れ添う謎の女と離れがたい心持ちとなり、目的地への到着が恨めしい。女の方はこの世に残されながら仕える相手も居ない身を、せめてこの誰にも顧みられない腐臭漂う男の道行きを助ける事で人に捧げようとしている。そうした心の内をどちらからともなく打ち明ける事となった時、既に熊野の地にあった男が元の姿に戻る。スペクタクル・マジックをここで使うか、という所であるが、最後尾からは、ここで涙を拭う観客の動きが見える。静けさの中に二人が元あったまぶしい姿への感涙は年齢の為せる技だろうか。「あとは言えない、二人は若い~♪」

ネタバレBOX

なお今回ふと観たくなった理由はチラシに元唐ゼミ(昨年辞めてしまった)禿恵の名前を見た事。唐ゼミでの主演姿しか見ていない彼女が俳優としてどう舞台に映るのかが気になって仕方なくなった。舞台では女買いという男男した役柄で、メイクでは判別できなかったが身も軽くこなしていた。
流れゆく時の中に

流れゆく時の中に

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/02/06 (火) ~ 2024/02/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

テネシー・ウィリアムスの短編3本を合せてこのタイトルとした。幕間の前に二編、後半一編だったが、体調下げ気味で一作目の中盤で睡魔に。二作目の途中で覚醒。パンフの短いあらすじを読んで「そういう話だったの」と分かった位である。三作目は物書きを続けている(自分に重ねた?)青年が、父母も妹もいなくなった家をついに引き払う日、回想も交えて描いた家族の物語で、「ガラスの動物園」の風景が完全に重なる。若干エピソードは異なるが、父が既にいない事、母と妹という家族構成が同じ。妹は引き籠りではなくかつて水泳大会で優勝した栄光が霞む「都合のいい」女に成り下がる(二場面でその変貌が示される)。母は病気で、妹の事で心配をかけてはいけないと兄は気づかっている。父は小さい頃から家では一言も言葉を発しなかった。・・舞台上に飾られ、引越し屋が運び出して行く調度一つ一つに、そうした思い出を重ねる中、青年のイタリア人の友人が彼を連れ出そうと終始いて、青年の話に付き合ったり世間話に持ち込む。「一人にしてほしいと頼んでる」と言う青年に彼は出て行かない理由をやっと言う。「ここで人生を終わらせる気になるなよ」、だが青年はトランクとタイプライターを両手に抱え、何もなくなった部屋を一瞥して出て行く。
短編だけに人物は深く掘り下げた戯曲になっておらず(台詞で説明し切れていない)、従って若い俳優らは人物の深みをキャラを体現して表現する課題を担わされたようである。それならば米国作品でなく自国のものにしてはどうだったろうか。
昨年観た同じ17期生がやった原田ゆう作品(新美南吉伝)で見ているはずだが、今回俳優を見て「あの時の」とは思い出せなかった。あの時は生き生きとやっていたのが翻訳劇という事もあるだろうが作品が変ると随分変わる。俳優とは難しいもの。

夜は昼の母

夜は昼の母

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2024/02/02 (金) ~ 2024/02/29 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

すげえ。3時間10分(「観たい」に書いた3時間40分は誤り)を終えた時の実感。ラーシュ・ノレーン作品でしか味わえない「人間」への深入り、これに迫った俳優(岡本健一が突出)には満腔の労いの拍手を送らねばならぬ。
「パサデナ」「終夜」は一夜(深夜)の劇であったが、今作も昼間を通過するとは言え陽光の遮蔽された家内での1日かそこらの劇。登場人物は父母と二人の兄弟(16歳の弟と何歳か上の兄)。正直な話、脚本としては難があると言える。作者が人物に光を当てる角度を後半付け加えている印象で、「説明」のためには必要だったのかも知れないが、劇的な時間の進行としてはギクシャク感がある。人物像の顕現を「謎解き」としたミステリーと見ると、次第に照準されてきた人物が、ふいに脇へズレる。作者は全てに照準を合せたかったのだろう。
だがこの家族のシチュエーションを克明に描く試みは果敢であり、人間の人格が家族との相互に影響し合って形成される側面と、生来の素質に拠る側面の区別し難しさ、責任の取りづらさ、即ち解決のし難さを浮き彫りにする。特異な人格として岡本演じるダヴィド、山崎演じる酒乱の父マッティン、那須演じる母性と女性性と冷淡さが変幻する母エーリン、堅山隼太演じる自立を模索する兄イェオリ。各々の人物の内的な一貫性が、身体感覚を通った台詞を通して体現されている(達成度はそれぞれだが)一方、家族が積み上げてきた時間の分だけ有機体として「見える」かと言えば、まだまだ、という所だろうか。(しかし家族を舞台とするノレーン作品の最大のネックであり演出・俳優にとっては超難題と言えるのではないか。だが作品はそこを要求している。)
公演終盤にどう見えているか、観てみたいが・・チケットは完売。
詳細後日。

『文明開化四ッ谷怪談』

『文明開化四ッ谷怪談』

サルメカンパニー

駅前劇場(東京都)

2024/01/26 (金) ~ 2024/02/04 (日)公演終了

実演鑑賞

旗揚げ時より福田善之との所縁の劇団との認識あり、うずめ劇場との関わり(客演した姿は見た)等と関心はあったものの今回ようやく初観劇となる。
ほぼ初日であったせいか、俳優の演技がえらく気になった。大声が出ているが、虚しい。まず語り部的な存在が冒頭客をいじった俳優の挙動(の不審)が気になった。素になるなら余程の覚悟をもってやるべきを中途半端にやりやがって・・と終演後どやしつけてやろうか、位の憤りが湧いた。またステロタイプな明治の志士の物言い(二本差しで背筋を伸ばし、前方やや上を見据えて虚勢張って声も張るやつ)も気になった。もっとみっともなく悩んでる姿を観客には見せていいんでござんせんか?彼ら(登場人物ら)は家の外では虚勢張って生きていたんでしょうが、観客に対してそれをやってどうすんの?と素朴な疑問。
福田善之のなんと「書下ろし」で、井村昂氏は補佐的に控える役目だったとか。飲み込みやすいドラマとは言えない。直後に観た椿組の舞台がちょうど時代的に重なり、その庶民感覚に溜飲を下げたものだが、こちらは頭でっかちな士族のよく分からない高尚な?悩みをちまちまやってる感がある。日本の近代小説=私小説のちまちまな感じの、原点でもあろうか?
演出には力を入れている。主役をやって演出もやってる事がそもそも無理難題なのでは・・と思わなくなかったが、福田氏との関係においてはそうなるようである。正直戯曲なのか演技なのか何かぎくしゃく感を否めなかったが、作り手の(というか演出の)気概は受け取った。この観劇後感、次も観そうである。

ガス灯は檸檬のにほひ

ガス灯は檸檬のにほひ

椿組

ザ・スズナリ(東京都)

2024/01/25 (木) ~ 2024/02/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

椿組夏の花園神社公演にも書き下ろした事のある(秀作だった)作家だけあって、祝祭性高く楽しい舞台であった。江戸から明治への変り目を舞台に、上京した元・お殿様とその娘とお付の者ら、お付に選ばれなかったが一行を追って上京した元足軽(主人公)、彼が住まう事となった長屋の奇妙な面々、彼が川に竿を垂らして釣り上げた幽霊の女、占い師、横浜の異人に嫁いだ未亡人、引き籠るその息子・・等が織り成す群像劇。オープニングや、繋ぎで用いられる楽曲+振付がツボに当てて来て楽しい。

オセロー

オセロー

滋企画

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/01/31 (水) ~ 2024/02/07 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

素晴らしい。とは書いたものの言い得ていない。これを受け止める感覚の深層にぐっと迫るものがある。「オセロ」を普通に作るとは思っていなかったが全くの未知数。白紙。何も描いてないカンバスに、一体何が描かれて行くのかが開演した後も先が読めない(ストーリーは知っていても)。無論時系列はそのままながら構成は大胆に設え直しており、一つ一つページをめくるようにして結末へと進んで行く。
SPACの「授業」でしか知らない演出であったが、人間感情の普遍とそれに自ら翻弄されて生きる人生の普遍を、共に味わい直す舞台として「オセロ」を構成した。
オセロとデズデモーナの決定的瞬間を迎えるまでの最も凝縮した最終盤、音楽に載せたオートマチックな動きの繰り返しとした。ここが凄い。
ちなみにその直前、冒頭から日常的な会話で観客との間を取り持つ三人は、物語の進行に従って忠実なコロスと化すが、この最終場に移る前に再びチラっと素のモードを見せ、「次行くか」「行くのか」「仕方ない」と言いながらセッティングをする。重苦しい結末しか残されていない段階での小さな呟きに、これほど救われるとは。
夜、変わらず明るいデズデモーナは夫の異状に気づいて問い質し、オセロは積り積った疑惑を告げる。これ以後、オセロに毒を流し込んだイアーゴーは登場しない。妻は夫に自分を殺すのかと問い、疑われたまま死にたくないとこぼすが、夫の意志に変りない事を知る。ついにオセロが妻にアクションした瞬間、華麗な音楽が流れ、「その瞬間」(オセロが妻を絞め殺す)までの椅子一脚を間に挟んでの定型の動きが始まる。ここに様々な要素が詰め込まれている。ユニークに立ち回る赤い体操着の若手女優三人は為すすべなく二人の成行きを見るが、この定型な動きに、一人ずつ絡み、去って行く。次、そして次、その瞬間よまだ訪れないでくれ(訪れるのは分ってるけど)・・との願いもむなしく最後を迎える。描かれるのは二人が出会った(愛を確認した)瞬間のままの感情を今も持ち続けている事。それがその対面し見つめ合う時間の長さによっても示され、それでもなお男は、その感情は報われないのだと「確信」してしまったがゆえに、決まった事のように迷いなく殺しに行く。妻は相手から逃げる事なく最後まで愛を諦めず求め続ける。愛が消えた故でなく愛ゆえの破滅が、耽美的に描かれている。古今東西ありふれた物語設定だが、恋愛が二人の間でしか成立しない何か(他者あるいは他者の作った基準の承認など必要としない)である事が恐らく、ここでは執拗に描かれており、その強固な前提ゆえに悲劇であり美しく描かれるものである。
演出では音楽の優れた用い方も本舞台の特徴。長く心に残り続ける(だろう)時間となった。

サンシャイン・ボーイズ

サンシャイン・ボーイズ

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2024/01/24 (水) ~ 2024/01/31 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

たまに食指が動く加藤健一事務所今回4度目の観劇。「おかしな二人」「ビロクシー・ブルース」は戯曲を読んだがこれに並ぶニール・サイモンの代表作の本作は棚に飾ったままであった。
老境にあるかつて一世風靡したコント師にTV出演の話が来るが、不仲の二人はコンビ解消して10年以上が経つ。この作品、実際にコントを披露する場面を作っているのが、これを秀作たらしめている。二人の人間的なタイプと取り合せが面白く、ストーリーはTV出演可か、ちゃんとコントがやれるか、という所に注目させるが、二人の人間味と往時の関係性を振り返り、新たな今が生まれる仄めかしのラスト。老いのドラマ。

ダンシング・アット・ルーナサ

ダンシング・アット・ルーナサ

劇団俳優座演劇研究所

麻布区民センターホール(東京都)

2024/01/12 (金) ~ 2024/01/13 (土)公演終了

実演鑑賞

未見のこの戯曲に関心あり、久々に俳優座研究所卒公を観劇。
いつもの赤坂区民センターでなく今回は以前馴染みのあった麻布区民センター、と気付いたは良いが駅から反対に歩いてしまい、5分遅れ。他の二人と共に席へ案内されると、冒頭の主人公の語りが終わるあたりだった。
「現在」の彼がかつての日々について語り、抒情的な音楽が高まると共に暗転、回想される日々の物語が始まる、という寸法。この戯曲が「ガラスの動物園」に影響されて書かれたという背景から考えると、冒頭で彼が語った内容は彼自身にとってのその日々の意味、今の思いだろう、が人物紹介までやったかは不明。それらは追々説明されていた。ちなみに語り手の彼は回想劇には実体としては登場せず、周囲は小さな彼がいるらしい透明な空間に時々話しかける。登場するのは折節に観客に語り掛ける現在の彼である。

アイルランド作家による家族の物語。さあ見るぞと勢い込んだが、体調が思った以上に不調だった模様で台詞の「音→意味」変換が頭の中で追いつかない。ニュアンスだけでも掴もうとするが、特に声量の小さい俳優の所では大意を掴む(点と点で線にする)作業が途切れ、張った糸が下に落ちる。また、身体表現にまで落とし切れない若者の演技では説明台詞が大きな壁。(自分の体調を棚に上げて何だが)一幕はほぼ睡眠時間となった。

二幕から覚醒した。父の居ない家族の在りし日の貧しいながらの暮らしの華やぎと、既に忍び寄っている危うさが一挙に表面化して崩れ去る様とが、無慈悲に描かれる。
アフリカから帰還した神父である長男は精神にやや異常を来しリハビリの身で何時ミサが開けるか分からない。家族を仕切るのは長女、それを補佐する次女、内職に勤しむ三女、四女、結婚して子供(主人公)のいる五女。
可愛らしさと痛々しさ、健気さと酷薄さが共存する。ダンシング、というタイトルは彼女らが時折「踊り」を披露する場面に因んでいるが、3度程のその場面はドラマに絶妙に噛んでいる。
ルーナサは祭の事で、回想劇の初めはその祭の思い出を語りながら、踊りを再現する。はしゃいでいるメインは四女で、これに次女が付き合っている。
次の場面は、結婚していながら何故か実家に住む五女を、別居している夫が送って来た夜。家の中では夕食の準備か何かでにぎわうが、月明かりの下「君は最高のダンサー」と言って踊る二人の場面がある。彼は踊り好きらしい。
暫くは踊りから遠ざかるが、ある時壊れたラジオを五女の夫が修理できるらしい、という事でやって来る。「本当は自信がない」が家に入ると彼は任せて下さいと請け負う。「きっとアンテナだ」と当たりを付け、家の背後の電信柱に登り「頑張ってる」姿、それをよそに姉妹らは会話を交わしている、と、ラジオから音楽が流れ始める。努力が報われ褒められ気を良くした彼は、音楽に合わせ「踊ろう」と姉妹らを誘う。まず次女を誘って少しだけ踊った後、かねて一度踊ってみたいと願ってたらしい三女に声を掛ける。普段大人しい清楚な印象の彼女は一旦断るも誘い上手に断れず、実は達者な踊り手で自然体が動き、二人の踊りが盛り上がる。「この位で」と三女にピリオドを打たれた後、次は・・と妻を誘おうとするや、彼女がラジオを切る(恐らくコンセントを引き抜いたか断ち切った)。怒りを抑えて彼を拒絶し、悲しい顔で男は去って行く。
ダンスが人を繋ぐ場面ではなく、断絶を深めた事で不安定さが極まる。

先述した「ガラスの動物園」の影響はパンフに書かれていた通りであったが、ドラマの殆どを占める回想場面に漂う憂い、壊れやすさでもある美しさは無情に砕かれるといった要素が確かに共通している。だがイデアとしての美しさは倫理的な死を意味せず、思い(魂?)は漂うのだ。(これを別役実は捕えて戯曲化したのやも。)
違う点は、「ガラス」は戦後アメリカの繁栄の「陰」を印象づけるのに対し、本作は強国イギリスに翻弄された小国の、常に変わる事のなかった宿命の色彩が垂れ籠めている。
最近映画「ベルファスト」を観てアイリッシュの魂に触れた思いであったので、それが観劇に反映したのかも。

それにしても、この作品を数年前に観ていた事は後になって気づいた。
後半を観ながら「どっかで観たかも」という感覚はよぎったのだが、風のように過ぎっただけだった。同タイトルを民藝が昨年上演した事は知人から良い舞台だと紹介されたので覚えていたが、自分が観た舞台としては忘れていた。この脳の状態は中々マズイな。(独白)

みえないくに

みえないくに

公益社団法人日本劇団協議会

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2024/01/18 (木) ~ 2024/01/21 (日)公演終了

実演鑑賞

前半の幾つもの(恐らく重要な)場面を寝てしまった。どう感想を書くかと迷うが、、
翻訳家事情が最初に語られるのだが、異言語を逐語的に変換する事の困難は、翻訳を続けている内に気づくような真実ではなく、始めた時点で不可能だと気づく位のものだろう。そこで翻訳家の経歴についての想像が萎えてしまう。嘘っぽくなる。その他の部分でもリアリティに?が挟まる箇所がある。
それが後半になってある種の劇的な緊迫感が生じる。だが私は置いて行かれた。60歳の出版社勤務の女性に「懐いている」JKとの関係性も飲み込めずに終わったが、これを納得させる説明が伏線として語られていたのかも知れない、、とか。

架空の小国の架空の言語(文字)の美しさと、その言語で書かれた小説に魅せられ、そこに夢を見た人達がいた。それが出版界事情という壁、そしてこの小国が他国を攻撃し消滅させられたという衝撃の事実の前に挫折する。しかもかの小説家は軍事政権の攻撃を支持する声明を発したとのニュースも。
全ては闇の中にあり、鬱々とした日常は「夢の無かった」殺伐とした現実の時間へ回帰する。それはもしや彼ら(彼女ら)のもう一つの(その美と出会わなかった)人生か、あるいは出会ったがゆえに味わう喪失の残酷さか。。

ラスト、壮一帆演じる翻訳家がかの国に行こうとスーツケースを引きながら訪ねてくる。そこは定年を前にただ一つ有意義な仕事を残す事に賭けていた出版社勤務(土居裕子)が引き篭もる部屋。そこにJKも居り、真実を見ようと決意する三人の旅立ちの絵で幕が降りる。
成立したかも知れないドラマの様相を想像力で補填したが、届かないものが残る。
歌わない土居裕子の芝居を堪能できたのは収穫ではあった。勿体ない観劇になった。

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