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猫家(歌舞伎・伝統芸能)
東京都設立:2007年
猫家とは 2007年7月、落語を聴いたことのない方、これから親になるであろう若い方々に江戸時代から続く落語の楽しさ・奥深さ及び古典芸能の素晴らしさを知っていただきたい。また、落語を通して現在失われつつある日本の古き良き文化・義理人情を伝えたいとの思いから「温故知新」をコンセプトとして立ち上げ、様々な形で幅広いお客様に落語を楽しんでいただきたいとボ―ダレスな落語会を企画しております。

劇団スゴ6C(演劇)
設立:2010年
明治座アカデミー6Cクラス卒業生が中心となってフットワークの軽い演劇活動をしていきたいです!

劇団イノコリ(演劇)
東京都設立:2010年
劇団「イノコリ」は、主宰・江嵜大兄の独特な言語感覚による脚本と個性溢れる役者を交えて、自分たちが今表現したいと思う事を、今の自分たちにしか表現できないスタイルで舞台を創り上げる事を目的としています。 劇団コンセプトに掲げる「心にイノコル余韻」のフレーズには自分たちが創り上げる虚構の世界に肩までどっぷりと浸かってもらい、終演後の現実で何かしら心に余韻を残して家路に着いてもらいたいという願いが込められています。

劇団たくあん(演劇)
東京都設立:2009年
大学時代に「劇団Radish」(東大駒場の演劇サークル)として活動していた「だいこん」役者たちが、十分な熟成を経て、再び舞台に立つことになりました。それが「劇団たくあん」です。 「だいこん」から「たくあん」へ。 年齢やメンバー構成が変わっても、「演じる側も観る側も楽しめるお芝居を」というコンセプトは一貫しています。 演劇素人でも、仕事が忙しくても、「舞台に立ちたい」「芝居を作りたい」「みんなで楽しいことがやりたい」という思いを持ったメンバーが集まれば、そこからきっといいモノができるはず。 そういう思いで、 私たち「劇団たくあん」は活動しています。

劇団粋雅堂(演劇)
東京都設立:-

pig@pointまにあ(演劇)
設立:2009年
南関東やさぐれ腐女子会というステキな飲み会サークルで、なんとなくノリで結成されたパフォーマンス倶楽部である。 「一応女優」という肩書きの河原を中心に、「ド素人のド素人によるド素人のための娯楽団体」という名目で、賛同者(のんべ)を毎回募り、小劇場芝居やアクション、ライブなど、そのとき思いついたことを勢いでやってしまうという、あるんだかないんだかわからないコンセプトのもとに活動開始。 登録されたURLがつながらなくなっています。

SNAC(演劇、舞踊・バレエ)
東京都設立:2010年
「SNAC」は、作家のマネジメント業務を中心に、展覧会の開催、プロダクトの制作、関連書籍の出版など幅広い活動を行ってきた「無人島プロダクション」と、「グルーヴィーな身体」をキーワードにあらゆるジャンルの最先端パフォーマンスを“X”クロスさせてきた「吾妻橋ダンスクロッシング」が共同でプロデュースを行います。 現代美術/パフォーマンス、プロダクション/イベントと、主とするフィールドの異なる両者がそれぞれ特徴を活かすとともに、お互いの活動が重なり合うことで新たな価値を生み出す場として運営してまいります。 コンセプト Serendipity New Accidents Club ※セレンディピティ(英語:serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。(Wikipedia日本版より) 「SNAC(スナック)」はいろんな事件(アクシデント)を起こしたいあらゆる人々の集まる「社交場(クラブ)」であり、事件(アクシデント)が起きる「現場」そのものです。”セレンディピティ”の意味する力をよりどころに、表現活動者のたまり場となり、わたしたちの未来に向けて一石を投じるような接触が起こる場所にしていきます。

ラ ダンス コントラステ(舞踊・バレエ)
東京都設立:1996年
96年、振付家・佐藤宏と同じ意思を持つ3人のダンサーと共にカンパニーを結成。 コンテンポラリーな感覚でクラシックバレエをとらえ、都会的でセンスあふれる作品を発表している。 97年5月に旗揚げ公演「ウーベルチュール」を開催。この作品でキリン・コンテンポラリー アワードを受賞。 その後、定期的に年2回の公演を開催している。 ダンサーは現在7~16名がメンバーとして共に創造活動を行っているが、常に新鮮な感覚を保ち続けるため 作品毎にダンサーが集まる流動的なスタイルをとっている。 スタッフ構成は、舞台監督を第1回定期公演より八木清市氏が担当。99年から照明プランも担当している。 衣裳は初回の公演よりファッション界の宮本尚子氏が担当。ダンスの衣裳は動きやすいという本来の概念を 取り払い、共に踊り、空間を広げる服、着崩れる服など、ダンスと衣裳の新たな関係を生み出している。 美しい舞台衣裳、斬新な照明と共に、毎回高い評価を得ているダンスカンパニー。

T.K.JUMP(演劇)
設立:-

演激集団INDIGO PLANTS(演劇)
埼玉県設立:2009年
旗揚げ公演『蒼空~空どこまでも蒼く』 ・麻布十番アトリエ・フォンテーヌ 2009年8月5日~9日(計8回公演) ・宮城県気仙沼市中央公民館 2009年8月15日(計2回公演) 第2回公演『残影』 ・日暮里d-倉庫 2010年7月27日~8月1日(計10回公演) 第3回公演『蒼空』 ・日暮里d-倉庫 2011年7月29日~8月3日(計9回公演) ・長野篠ノ井市民会館 2011年8月7日 第4回公演『雷電の如く』 ・日暮里d-倉庫 2012年8月2日~8月7日(計9回公演) 被災地復興支援活動 ~想遠プロジェクト 『想遠Ⅱ』気仙沼ボランティア公演 ・気仙沼アーバンマリアチャペル 2012年8月14日(計2回公演) 劇団ブログも随時更新中っ♪ http://ameblo.jp/indigo-plants/ ツイッターもやってますっ♪ @indigo_plants

ピルココ(演劇)
設立:-
2008 年、ゆっくりと芝居に向き合う集団として、「ピルココ」という集団を結成しました。問題も多くあるかもしれないけれど、とにかく、俳優は役のことを、演出は演出のことをじっくり考えよう、というのが基本コンセプトです。稽古は、通常より少なく、週末しか行いません。一週間、時間を見つけて、しっかりとそれぞれが役割と向かい合い、自分の表現と向かい合う集団として、試行錯誤を重ねています。

劇団空(演劇、その他)
東京都設立:2010年
「歴女探偵~龍馬が消された真相を追え!」旗揚げ公演(2010年6月9日~13日)

「ドレッサー」小田原公演の会(演劇)
神奈川県設立:2010年
「ドレッサー」小田原公演の会は、「ドレッサー」小田原公演の企画・運営・実施・に関する様々な活動を行うために結成。この会は小宮孝泰さんの小・中・高・大同級生などの同窓会有志、小田原市とその周辺のアマチュア演劇団体、文化活動を行っている各団体・個人その他で小田原出身で活躍している文化人の支援や、住民の力でまちづくりや文化活動を実施していくことに関心と理解を持ち、さらに自ら実践しようという気持ちを持つ有志によって構成されています。

大沢ゆかこ企画(演劇)
東京都設立:2009年
①チケット代1000円。 一時間程度の小作品をチケット代1000円で上演するという形態。「演劇なんか見たことない」という人も足を運びやすい。 ②劇場ではない場所で。(最小限で最大限の効果を) 場所をそのままに利用しながらも独自の劇空間を作る。ついでにお出かけ気分を味わえて得をした気分になれる。 ③老若男女、演劇素人からマニアまで楽しめる。(エンターテイメントと芸術性は兼ねられる) 大沢由加子の最大の関心事は、緩急の操作と刺激の配列による物語り話法。それは感覚的な快の追求であるため、広範囲に汎用性のある作品となる。

まごころ18番勝負(演劇)
東京都設立:2001年
2001年旗揚げ。 都内を中心に活動しており、現在までに20回の公演を行っている。 作品の幅は多岐に渡るが、【ハイパーナチュラル】【観客参加型】【本格ミステリ】という3本柱を設け、 『誰も思いつかなかったこと』 『思いついても誰もやらなかったこと』 『角度を変えたら初めて見るもののよう』 といった、新しい体験をお客様に届けようと熟考するため、活動年数に比して公演回数は少ない。 2012年に王子小劇場『佐藤佐吉演劇祭』に招かれたことから、徐々に演劇ウォッチャーの目に留まり始め、じわじわと観客動員数を伸ばしている。 【主宰】ゆきを 桐朋短期大学演劇科卒業後『まごころ18番勝負』を旗揚げ。 公演を行う傍ら、高校生のための演劇ワークショップ講師など積極的に活動する。 また、音響監督として『松本ゆきを』名義でTVアニメやCD、ラジオドラマ、 PC、家庭用ゲームの音響演出を手掛けており、新人声優を対象にしたワークショップ講師も務める。 【脚本・演出】待山 佳成 学生時代からスタジオミュージシャンとして活動。 専門学校講師等を経て、フリーの作曲家としてCM楽曲等を多数制作。 また、ゲーム音楽の作編曲をきっかけにゲーム開発に携わり、家庭用ゲームの企画やディレクション、シナリオ等も手掛ける。 第6回公演より座付の脚本・演出を務めており、日常的で自然な会話や演技をベースに、理系的とも曲芸的とも評される技巧を凝らした脚本とひねくれた構成で話題を集めている。

劇団金子(演劇)
東京都設立:2008年
旗揚げ公演 『 旅するシカーダ ―泣け、死を燃焼させろ 』 出演:江花実里 坂井芳伸 2008年8月 第2回公演 『 漣を抱くセシル 』 出演:赤城智貴 江花実里 葛原まどか 山本駿 加藤友梨 2009年8月 第3回公演 『 喝采に嗤うダリア ~煌煌心中箱~ 』 2010年10月8日(金)~11日(月・祝)を予定しております。

劇団アシュラ(演劇)
設立:2010年

ケルパーブーフ(演劇、その他)
設立:-
―ケルパーブーフとは ケルパーブーフとは、ドイツ語のケルパー(身体)とブーフ(本)をあわせた造語で、踊る戸川悠野と喋るとみやまあゆみによるユニットです。毎回何かにインスピレーションを受け、そこからそれぞれの方法でアプローチしてゆきます。

新月会(その他)
兵庫県設立:1950年

坂東玉三郎(演劇、舞踊・バレエ)
設立:-
坂東玉三郎は、現代の日本を代表する舞台俳優の一人として、その名は海外にまで広 く知られています。そのため、玉三郎という芸名はこの人個人に帰属するようにも思われがちですが、これは、歌舞伎という伝統演劇の世界において、何代にもわたって名乗られて来た芸名なのです。 現在の玉三郎は五代目。つまり、玉三郎という芸名を名乗った五人目の歌舞伎俳優と いうことです。先代の玉三郎は彼の養父で、のちに十四代目守田勘弥を襲名しました。坂東姓から守田姓へという、ここらの関係もわかりにくいところですが、守田家と坂東家は、古くから非常に近しい間柄にあったのです。 歌舞伎における坂東姓の元祖は、元禄の頃まで活躍した道外(三枚目)役の名手、初 代坂東又九郎ですが、のちに、別系の坂東三津五郎の系統が主流となり、坂東家は市川團十郎の市川家、尾上菊五郎の尾上家、澤村宗十郎の澤村家などとともに、江戸の歌舞伎役者として屈指の名家とされる家柄となりました。これに対し、守田家(古くは森田 と書きました)の場合は、いささか性格が異なっています。それは、「座元」とか「太夫元」とよばれ、幕府公認の興行権を持つ家柄だったからです。 同じ芸能を演じる者たちが一座を作り、やがてそのリーダーが自分の劇場を創設する。 新しい芸能の生まれる時に、共通して起きる現象ですが、江戸時代を通じて唯一の商業演劇だった歌舞伎においても、初期にはこのようにして様々な劇場が生まれました。 しかし、こうした庶民の娯楽を野放しにすることは、幕府にとって好ましいことでは ありません。そこで、いつの頃からか明確ではありませんが、江戸では中村勘三郎の中村座、市村宇左衛門の市村座、森田勘弥の森田座、山村長太夫の山村座の四座に限って芝居興行を公認する、ということになったのです。山村座は、のちに「江島生島事件」とよばれる不祥事のために取り潰されましたが、残る三座はその特権的地位を保有し、 勘三郎、宇左衛門(のちに羽左衛門)、勘弥の名義は代々世襲されました。そして、興行主、劇場主というところから「座元」とよばれ、また俳優の代表というところから「太夫元」ともよばれました。太夫というのは、もともと朝廷における官位のひとつですが、のちには芸能人の尊称としても使われていた言葉です。 さて、森田座は木挽町五丁目にあった劇場で、後世に書かれた由緒書によると、創設 は万治三年(1660)、創設者の森田太郎兵衛は小唄や即興の酒落を得意とし、“うなぎ 太郎兵衛”と通称された俳優だったとされています。先に名をあげた初代坂東又九郎をパ-トナーに迎え、又九郎の次男又七を養子にして勘弥を名乗らせ、森田座を譲りまし た。つまり、守田家の元祖は太郎兵衛ですが、勘弥という名跡はこの又七が初代となるわけです。 その後、又七の兄又次郎の子の又吉が二代目を、その弟(いとことも)の福松が三代 目を、又吉の息子鍋太郎が四代目を、というふうに、一族のなかで勘弥の名跡は継承されて行きました。もともと「太夫元」というのは俳優の代表者ですから、幼少の時から芸事の修業をするわけですが、代々の勘弥は、いずれも音楽や舞踊の素質に恵まれてい たようです。 一方、新しい勘弥が誕生すると前の勘弥が又九郎を襲名する、という形で、又九郎の名跡も平行して続いて行きました。この時代の太夫元は若手の花形であることが必要でしたが、劇場の運営となると、なかなか若手ではこなせないものがあります。そのため、興行の名義者は勘弥でも、実質的な運営は又九郎を名乗る者がおこなうという形がとられていたのでしよう。資料によっては勘弥を太夫元、又九郎を座元と記していますが、それは、こうした役割分担を呼び分けたものと考えられています。 しかし、四代目勘弥時代の享保十九年(1734)、森田座は累積する負債のため、ついに経営が立ち行かなくなってしまいました。当時の劇場は、劇場一軒だけで成り立っているわけではなく、周囲にお茶屋などを従えた歓楽街を形成していましたから、劇場の倒産は芝居町全体の死活に関わります。そこで、三座以外でかつて芝居興行に携わった者の子孫のうちから、希望者を募って籤を引かせ、森田座の興行権を代行させることになりました。この籤に当たったのが河原崎権之助の河原崎座で、以後も森田座が経営不振に陥った時には、必ず河原崎座が木挽町の芝居を代行しました。こうしたことは、のちに中村座や市村座でも起こっており、この制度を「控え櫓(仮櫓とも)」といいます。 結局、四代目は森田座の再興を果たせずに没しましたが、延享元年(1744)、森田家では親戚筋から養子を迎えて森田座を再興しました。この五代目以後は、劇場主、興行権名義と実質的な興行者が一本化した「座元」として、代々、継承されていくことにな りますが、森田座は、こののちも幕末までしばしば休座し、河原崎座に代行をさせています。もともと、芝居興行は水ものの上に、江戸は火事の多いところでしたから、新築のたびに負債がかさむといった事情があったのです。のちには、座元は一種の象徴的存在となり、出資者である「金方」が座の支配人である「帳元」を腹心に使って経営に参画する、ということにもなりましたが、座元の家筋を守るということは、やはり並たいていの苦労ではありませんでした。そのため、俳優として名を上げた座元がある一方で、生涯を経営に明け暮れた座元も多かったのです。 五代目以後の勘弥のうち、俳優として名をなしたのは六代目と八代目です。六代目は 狂言作者の中村重助の子で、初代宗十郎の弟子となって沢村重の井から二代目沢村小伝次を襲名しましたが、五代目勘弥の娘婿となり、座元を相続しました。活躍期は十八世紀後半の宝暦・明和期で、勘弥代々のなかでは異色の女方ですが、座元となってからは 立役にも進出しています。七代目はその息子。八代目は、年代にちよっと疑問がありますが、通説では五代目勘弥の子とされています。立役、敵役を本領として所作事(舞踊)も得意とし、再度にわたって森田座が休座している間も、他座の舞台に立ち続けました。 享和元年(1801)、息子の又吉に座元を譲って初代坂東八十助と改名。そして文化五年(1808)、又吉の九代目勘弥が再興した森田座の舞台を勤めて引退しました。八代目勘弥は、又吉の誕生以前、初代坂東三津五郎の子三田八を養子にしていましたが、森田家に実子が生まれたので、三田八は実家に帰りました。のちの三代目三津五郎で、文化・ 文政時代を代表する立役の名優です。そして、勘弥の十代目は、この三津五郎の三男(養子)三八が天保元年(1830)に相続し、翌年、休座していた森田座を再興しました。この三八の森田座には、同じ三代目三津五郎の養子である二代目簑助や初代玉三郎が出演してバックアップをしています。簑助はのちの四代目三津五郎。父に劣らぬ立役の名優でしたが、中年からは中風にかかり、不自由な身体で舞台を勤めました。玉三郎はのちの初代しうかで、伝法な役を得意とした幕末期の名女方です。この時期から、森田家と坂東家は再び密接な間柄となったわけです。 しかし、三八の森田座も、天保八年には再び控え櫓による興行となり、三八の勘弥は 上方へ行ってそのまま病没したようです。折からの天保の改革で、十三年、江戸三座はすべて浅草猿若町に集中移転させられることになりますが、この時も、本来なら森田座 が据わるべき場所に移ったのは河原崎座でした。 やがて三代目三津五郎の未亡人が、中絶していた勘弥の名義を四代目三津五郎に継がせたいという願いを起こします。この相続を巡って、九代目勘弥の系統の者と一時は訴訟事にもなったようですが、結局、この訴えは認められ、嘉永三年(1850)に十一代目勘弥が誕生。安政三年(1856)には森田座が再興されました。そして、この十一代目の時代に、「森田」の字が「守田」に改められたのです。 次の十二代目は、守田座の帳元だった中村翫左衛門の次男です。翫左衛門という人は、 もともと四代目中村歌右衛門の門弟でしたが、マネージメントの才を買われて市村座の帳元となり、のちに守田座に引き抜かれたのです。この時、自分の子を守田家の後継者とすることを条件として出したのですが、長男延太郎が若くして没したため、次男の寿作が守田を相続したのでした。 この十二代目は、明治になって劇場が猿若町から解放されると、率先して都心の新富町に進出し、劇場機構や接客制度に改革を加えた新しい劇場を作りました。八年には新富座と改称。十一年に新築再開場した時には、華やかな瓦斯灯を備えて夜間公演も可能な劇場となりました。そして、彼はこの劇場に一流の俳優を集めて興行し、当時の演劇改良の風潮に同調した名優九代目市川團十郎に新しい脚本を手掛けさせるかたわら、政財界の名士や文化人、海外からの賓客を迎えて、明治前期の”新富座時代”とよばれる一時代を作ったのです。明治十二年には外国俳優を迎えた公演を催し、明治二十年、歌舞伎が天覧の栄に浴した時も、陰の仕掛人はこの人でした。 こうした急進的な試みは莫大な負債を生み、晩年は不遇でしたが、彼が天性の大興行師であり、明治前期の演劇界の主導者だったことは間違いありません。 子供たちのうち、長男は七代目三津五郎となり、その異母弟が十三代目勘弥を襲名し ました。純粋に俳優としての勘弥が初めて誕生したわけです。古典歌舞伎ではニ枚目役で古風な味を見せながら、西欧近代劇や新しい文芸戯曲への理解力にも優れ、自身の研究公演である「文芸座」を主宰するなど、その活躍は目覚ましいものがありましたが、昭和七年、鼻の奇病のため四十七歳の若さで没しました。 冒頭に書いた、現玉三郎の養父である十四代目勘弥は、この十三代目の姉みきの子で、 十三代目の養子となった人です。江戸前の二枚目役に、養父譲りの妙味を見せましたが、女方から老け役まで広い芸域を持っていました。晩年は、昭和四十一年に開場した国立劇場に多く出演。五十年に没するまで、数々の復活狂言に、その持てる歌舞伎の蘊蓄を遺憾なく発揮しました。 最後に玉三郎の代々について、ちよっと補足をしておきます。 初代と四代目についてはすでに触れたとおり。二代目は四代目簑助の前名で、この人は初代しうかの養子だったようですが、のちに離縁となり、明治五年に没したという以外、経歴についてはよくわかりません。そして、三代目は十二代目勘弥の娘、十三代目 には姉に当たるきみが名乗りました。つまり、この玉三郎だけは女性だったのです。 父の勘弥や九代目團十郎が情熱を傾けた演劇改良のテーマのひとつに、当然ながら女優の育成ということがありました。團十郎は、率先して自分の娘二人を舞台に出しましたが、きみはこの二人に先立つ明治二十一年、坂東喜美江の芸名で、新富座における團十郎の芝居の子役として初舞台を踏みました。翌年玉三郎を襲名。以後も歌舞伎の子役を勤め、成長してからは、兄弟たちと若手歌舞伎に出演して舞踊を演じたり女役者の一座に加わったりしていました。 女役者というのは江戸時代のお狂言師-町の踊りの師匠で、かたわら大名家の奥向き に上がって女性だけで歌舞伎を演じた人たち-の流れを汲む役者たちです。当時はまだ、男優が男の役を、女優が女の役を演じるふつうの芝居というものがなかったのです。 やがて明治三十七年、アメリカのセントルイスで開かれる万国博覧会に、日本から喫茶店を出すということになり、選ばれて姉のみきとともに渡米。日本の踊りを披露したりして大そうな評判になりました。そして、博覧会のあとも演劇視察のためニューヨークにとどまり、翌年、この異国の地で急逝したのです。わずか二十二歳。いかにも草創期の女優らしい、果敢な生涯でした。