2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」 公演情報 2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
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  • 満足度★★★

    なるほど
    舞台装置、衣装にはすごみを感じた。が、あの装置にあの客席は…。正直集中し辛かったのと、セリフが聞き取りづらかった。

  • 満足度★★

    演技力を見せるストレートな演出
    蜷川さんの得意技であるケレン味を効かせた表現は控え目で、役者達の演技をストレートに見せる演出となっていましたが、物語としては理解も共感もしにくかったです。

    妹を亡くしたのを機に暴君と化していく皇帝カリギュラの孤独な心境を描いた物語で、残虐でありながらどこかしら純粋さを感じさせるカリギュラの姿が印象的でした。
    前半は終始シリアスな雰囲気で進行し、休憩後の場面は雰囲気が変わってコミカルになっていましたが、中途半端であまり笑える表現になっていなくて、異化効果としてもあまり機能していない様に感じました。最後のシーンは蜷川さんが他の作品でも良く使っている手法で、その効果よりも既視感を強く感じてしまいました。

    若い役者ばかりの劇団ですが、叫ぶ台詞も聞き取り易く、老け役を演じていても違和感が無く、実力を感じました。カリギュラを演じた内田健司さんの繊細な存在感が魅力的でした。

    三方囲み舞台で、上空には大きなシャンデリア、奥の壁は鏡張りの黒い空間に、カリギュラは白、他の人は赤で、年齢に応じて皺加工が施された衣装が映えていました。
    効果音と音楽の使い方が説明的で、好みではありませんでした。

  • 満足度★★★★★

    川口ケレア。
    川口覚くんのケレアが素晴らしすぎて、色々思うものの彼のおかげで☆5つ。もう毎日でも観たい。あの広い舞台を隅々まで支配する存在感のクールさ。瞬き一つで空気が凍り、マントを翻して巻き上がる風でさえもがケレアの色に染まるよう。貴族に相応しい立ち居振る舞いは彼の演劇界における覇者の未来を想像させるに難くなく、揺れるピアスに色気さえ感じて、ああもう一瞬たりとも見逃したくない、素敵な素敵な役者さん・・・。彼がカリギュラを演じれば、一昨年のハムレット同様「勝ち」は明白なのですが、そこに内田くんを配して脇に覚くんや小久保くんを置くあたり、蜷川さんの『育てる』という目的が明示されていて、やはりこの劇団の志は高い、と唸らされます。周本さんのセゾニアもやはり絶品でカリギュラの残虐性に説得力を与えていて流石。彼女も大好きなのですけれど、今回オーディションで合格した安川まりちゃんも個人的には応援したい。

    ネタバレBOX

    覚くんの発する台詞の一つ一つが誠実さに満ちていて、その精神にとてつもなく共感されられます。「私は自分の中の彼に似たものを黙らせた」。その言葉がこの物語の全てで、登場人物も、観客もカリギュラの孤独に魅せられるのを必死に押し殺している。そんな気がします。

    そして、蜷川さんの空間を演出するセンス。78歳になってもここまで顕在かと驚かされます。素舞台に鏡の壁、シャンデリア。シンプルな照明で彩られる役者の美しいことこの上なく。初日と一週間後では内田くんのカリギュラが大きく進化。疲れもあるのか、追い詰められた眼差しが狂気を帯びていて、また一つの才能がさいたまネクストという劇団から出たことを嬉しく思います。ただ、もっともっと行けるはず。出来ればもう一回観たかったけど日がないです残念、、
  • 満足度★★★

    緊張感ある舞台だった
    自分が見た時のコクーン版は勝地涼さんと長谷川博己さんが良く、小栗さんは少しお疲れ気味だったのかな、と朧げな記憶。
    今回の内田健司さん演じる皇帝は、ギラつきと横暴さと狂気と悲哀の加減のバランスが絶妙に凄かった。二幕の芝居で油断して笑ってたら首はねられちゃうw。この作品に玉ねぎは必須アイテムなのね。

    コクーンやさい芸大ホールの舞台公演の演出だと、格調さや優雅、みたいな印象を感じる事がたまにあるが、著名人が出演していないネクストやゴールドシアターには若さや艶っぽさ、過激さが舞台の至る所から溢れて見え迫力あって良い。最後のまとめの部分はやっぱり蜷川さんだけど。
    観劇日の日替り配役→セゾニア周本さん、シピオン砂原さん、ミュシュス妻田中さん。でした。

    ネタバレBOX

    カリギュラ、セゾニア、エリコン、ケレアを演じた各氏の存在感がますます魅力的になってきた。
    クーデターによって権力ある者が滅びる様を見るのは、納得もしたり理不尽と感じたり。緊張感ある舞台だった。
    三方囲み座席、舞台正面にあたる位置に鏡張り。天井には巨大シャンデリア。幕締めには照明効果を利用した長い廊下を一人歩き去る王の姿。
    海外戯曲の演出で、このパターンはもう変えてほしい。
  • 満足度★★★★★

    蜷川さんは、役者の身体が発する声に、きちん耳を傾けて演出すべきだったのではないのか
    と勝手に思ってしまった。

    蜷川幸雄+さいたまネクストシアターの『カリギュラ』。

    カリギュラは、ローマの皇帝、そして独裁者である。
    しかし、その前に若者だ。

    とても面白かった!

    ネタバレBOX

    非常にシンプルな舞台装置。
    最初はイスがあるだけ。舞台の正面は例のごとく鏡になっており、そこから役者が登場したりする。
    観客席の正面と舞台の間には「鏡」がある設定のようだ(実際には何もない)。

    カリギュラ役の内田健司さんが登場し、最初に台詞を発したとき、それまで貴族役の俳優たちが大きく演技をしていたのとはまったく違い、あまりにも「普通」にしゃべったのが凄すぎて、震えた。
    このカリギュラはいいぞ! と瞬時に思った。

    いきなりラストの話をするが、貴族たちに襲われて絶命する直前にカリギュラが、「カリギュラはまだ生きている」と言う(正確に覚えているわけではないが、そんなことを言う)。
    それで終わりなのだと思っていたら、その台詞の雰囲気がラストっぽくないので、「?」と思った。

    すると血まみれで横たわるカリギュラがすくっと立ち、「カリギュラは死んではいない。……カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる……」みたいなことを長台詞で言う。

    その台詞は、なんか“ダサイ”なと思った。
    つまり、その台詞はてっきり蜷川幸雄さんが、あとから付け足したものではないかと思ったわけだ。

    蜷川幸雄さんは丁寧に演劇の内容を説明したがる人ではないかと思う。
    例えば、高齢者が演じるゴールド・シアター『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』では、ラストにわざわざ若い役者たちを用意し、それまで演じていた老人たちを一瞬で若者に変えて、馬鹿丁寧と言いたくなるぐらいに説明してくれた。
    また、ネクストシアター『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹に歌わせ、ハムレットとオフィーリアの心情にぶつけて見せてくれた。

    それぐらい説明して、観客にわからせたいと思っているのだ。
    観客は馬鹿だと思っているに違いない。……というのは冗談として。

    だから、このラストに追加された台詞は、ラストだと思っていた「カリギュラはまだ生きている」を、さらに誰にでもわかりやすくするために追加したものではないかと思ったわけだ。

    しかし、帰宅後調べたら、その台詞は、今の戯曲からは外されているものの、作者であるカミュの構想にはあったものだということがわかった。
    確かに、この台詞はわかりやすい。
    しかし、説明的すぎてダサイ。

    ダサくても入れたいと思うのが、蜷川幸雄さんだと思う。外連味と言ってもいい。
    もし、そうした構想の台詞がなかったとしたら、絶対に別の何かを仕掛けてきたのではないかと思う。

    カミュによる戯曲『カリギュラ』は、第2次世界大戦前とは言え、ヒトラーの存在抜きでは考えられない。

    つまり、独裁者の心にあるものは、実は誰の心にもあるものだ(独裁者はいつの世にも出てくるものだ)、と言いたかったのだろう(と勝手に思った)。「カリギュラは死んではいない」「カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる」と。

    この台詞は、(私が勝手に解釈した意味において)ブレヒトの「諸君、あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している」を思い出させる。

    カミュの戯曲は、何かきな臭いことが起きそうな予感する時代の中で書かれたものであり、さらに戦中に手を入れられたらしい。

    蜷川さんは、だからこそこの戯曲を今の日本と重ねてみたのだろう。
    そして、何かきな臭い感じがする「今」に重ね、ブレヒトの言葉のような解釈を加えたと言っていいのではないだろか。

    たぶんそこがポイントであり、ラストの台詞の選択となったというのが、最初の(勝手な)解釈だ。
    しかし、実はそうではなく、若い役者さんたちが演じるさいたまネクストシアターの演目にこの作品を選択したというところに、本当の解釈があるのではないだろうか。
    というよりは、この作品に『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』には、私は別のものを観ていた。

    それは、「若さ故の、何かわからない焦燥感」とでも言うか、「名前の付けられない何か」がそこにある、ということだ。

    何もかもをメチャメチャにしたいという欲求がある若者に、すべての権力を与えて、何かのきっかけで実際にそれを行使したら、こうなった、というような世界がそこにあったのではないか。

    つまり、「悪いこと」と十分にわかっていても、何かも破壊し、汚し、痛めつけたいという欲望がある。
    「愛するが故に」そうしたいという欲望だ。
    それを一見、理論的な理由(もちろん、無茶苦茶なのだが)でコーティングして行ってしまう。
    そして、自らの他者への破壊行為は、痛みとして自らにも及び、自己嫌悪に陥る。さらにその欲求はエスカレートしていく。
    そんなダウナーなサイクルを、若いときに体験した(あるいは妄想した)ことがある人はいるのではないだろうか。もちろん、人殺しや法を犯すことなく。

    カリギュラはそれをやった。しかも、彼が法であり、「世界で唯一自由な人」だった。

    彼の周囲には、彼をさまざまな「愛」で「理解する人々」がいて、理解できない老人たちがいる(衣装でわかりやすく分けて見せる丁寧さが蜷川流)。

    「根は優しい悪い仲間」とでもいうべきカリギュラを取り巻く者たち、さらに「カリギュラのことは理解(共感)できるが、彼の側には立たない」という「仲間」もいる。そして彼らに対峙するのは、彼らを頭から理解しない「大人たち」だ。

    もう、その2軸の構図はどこにでもある。「金八先生」にだってある。
    だから「カリギュラは死んでいない」のだ。
    だからカリギュラの苦悩は観る者に訴えてくるのだ。
    だから「カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる」のだ。

    ネクストシアターの役者さんたちが、その身体で、カミュの戯曲の神髄を教えてくれた。
    蜷川幸雄さんの演出ではないと思う。

    最初の解釈は外側にある出来事であり、あとの解釈が本当の「カリギュラ」の姿ではないのか。
    蜷川幸雄さんは、最初の解釈を見せたのか、あとの解釈を見せたのかはわからない。
    しかし、ラストは、蜷川幸雄演出ではありがちな、カリギュラが舞台の向こう側に去って行く、で終わる。歴史の中に戻るように。
    「わかりやすく見せくれる」蜷川演出からすれば、これは最初の解釈なのだろう。独裁者についての解釈。

    そう考えると、「独裁者」という「名前」に惑わされたので、余計な台詞を付けてしまった「理解(しない)できない大人(たち)」の代表が、実は蜷川幸雄さんだったのかもしれない。
    「わかっていない大人」が付けたラストはこうなる。

    本当のラストは「カリギュラは去らない」のではないだろうか。

    蜷川幸雄さんはの解釈が最初のほうだとすれば(たぶんそうだと思う)、きちんとネクストシアターの役者さんたちの身体から発する声にも耳を傾けてながら演出すべきではなかったのか、と思ってしまう。
    そうすれば、「今」の「カリギュラ」が出来上がったのではないかと思う。

    ……蜷川さんの解釈はどっちかはわからないので、以上は私の勝手な「解釈」である。
  • 満足度★★★

    ネタばれ
    ネタばれ

    ネタバレBOX

    さいたまネクストシアターの【カリギュラ】を観劇。

    ネクストシアターとは演出家・蜷川幸雄の若手俳優の集合体である。

    妹・ドリュジラの死をきっかけにローマを失踪した皇帝ガリギュラは、3日ぶりに人民の前に姿を現すと、市民を恐怖の底に落し入れるほどの政策に転ず始める。
    そして屈辱に耐えかねた貴族たちはクーデーターを計画するのだが、本来カリギュラの憎むべき一部の側近たちは、カリギュラの思想を理解し支え始める。だが、クーデーターはすぐそこまで迫ってきていた.....。

    過去の蜷川作品の傑作は、抑圧された人民を描き、事を成せずに終わってしまう虚しさを描く事が多かったのだが、今作は事を成せずに終わってしまった指導者の話しである。
    指導者の理想と理念が人民との溝を埋めるには、理解と和解ではなく、物事の論理から始めなければいけないとガリギュラはその想いを推し進めようとするのだが、その論理を考えようとしない人民には、理想の国家の形すら見えこないと言っているのだろう。それがローマ帝国から現代まで変わらない指導者と人民の大いなる隔たりと溝であるとカミュと蜷川幸雄が語っている。

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