新宿ジャカジャカ 公演情報 新宿ジャカジャカ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★

    時代の残留思念が蘇らせた一夜の幻?
    1969年の国鉄(当時)新宿駅ホームに終電を逃したりした一般人が留まっているとそこへ新宿西口のフォークゲリラたちが乱入してきて…という物語、その頃には物心がついており「広場ではなく通路だ」なんてことも記憶にある世代なので40年の歳月を経てごく身近で体験する、的な感覚。
    当時はまだそういうことがあったという事実認識だけだったのが、そのバックグラウンドについてようやく知ることができた、とでも言いましょうか…。
    (観た翌日の夜にTVで68年の新宿駅近辺の様子を紹介していたのもタイムリー)
    また、伝説的フォークシンガーたち(岡林信康、高田渡、高石ともやなど)の聞き覚えがある歌に彩られており、そんなところは懐かしい。
    さらに当時のフォークゲリラの一員が歳をとってから見た一夜の幻想とも思わせる、あるいは時代の残留思念が当時の一夜を幻として蘇らせたかのような幕切れがちょっぴり切ない。
    幕切れと言えば、後方の野外に電車があることに前年秋の『市電うどん』(横浜未来演劇人シアター)も連想。

  • 楽日前にやっと
    夏の風物詩、毎年の恒例です。歌がもりだくさんで楽しかった。何度か見た人によると、今日の夜はかなり良かったらしいです。昼間にライブもあったからかしら。

    ネタバレBOX

    特別ゲストの山崎ハコさんのソロが素晴らしかった。

    電車に乗っていく大勢の人々と、乗れずにたった1人残る人と。苦味を残したエンディングが良かった。
  • 満足度★★

    昭和の香りが
    感想はネタバレ以降に。

    ネタバレBOX

    椿組の役者って若手でも昭和の臭いがするよね。っと思って観にいったのだけれど、あんまり昭和臭さが感じられない。
    なんと外波山さんすら昭和臭さが感じられないのはキャストというより脚本・演出によるのだろうか。

    当時の事は数枚の写真と雑誌記事でしか知らないので、西口フォークゲリラの面々があのように「組織化」して「戦おう」としていたのに違和感が。
    調べるとどうやらベ平連が中核に居たみたいですね。

    劇中では警察と共に規制を加えようとする鉄道職員ですが、当時の国鉄職員と言ったら一番先鋭化していた左翼労組なのでは??

    68年当時の若者にとって旧世代は戦争を体験してきた世代であり、彼らも戦争についてかなりリアルに背負い込んでるからこその反戦であるのだけれど、そこらの世代ギャップとか「切実な」反戦感情とかが伝わって来なかったですね。

  • 満足度★★★

    フォークゲリラと挫折の雄叫び
    新宿花園神社でのテント公演である。
    懐かしのフォークソングが随所に挟まり、雰囲気はあったが・・・。

    ネタバレBOX

    先日観た『ベンガルの虎』に比べるとケレン味や猥雑さはない。また、スペクタクル感も特にない。テント公演で行う意味があるとすれば、舞台の上で繰り広げられる新宿とまさに皮一枚で地続きであることと、救急車やパトカーのサイレンが鳴り響くのがひっきりなしに聞こえることぐらいか。
    舞台の作り込みを見ても普通の劇場でもよかったような気もする。

    国鉄新宿駅のホームに新宿西口広場から流れてきたフォークゲリラたち。しかし、本気で音楽で世界を変えようと思っていたのは、歌声喫茶のマスターただ1人だった。

    ラストに全員が「普通」の人々になって(戻って)いつものように満員電車に乗るのだが、マスターだけは「友よ!」と叫ぶ。

    この叫びは、自分だけは純粋だったということなのだろう。友とともに一緒に活動できなかったこと、あるいは友さえもこちら側に連れてくることができなかった嘆き、自分だけは違うという思いが、この叫びに込められているように感じた。
    ただ、その「自分だけは違っていた」「自分だけは本気で考えていた」というのは、結局、その当時、誰しもが思っていたことであろう。「自分だけはそう考えていたのに」と。
    フォークゲリラに参加した人たちには、それぞれの「友よ!」の叫びがあるのだろうと思う。

    そんな中で、結婚目前で未来への不安を感じている女、先立ってしまった夫に何か言いたい女の2人は、なぜか、未来か過去かわからない、今ではないどこかに自ら行ってしまう。これがよくわからない。
    未来も今も不安なのは誰しも同じはずなのに、なぜ、その現実を受け入れることができないのかわからないのだ。現実を受け入れることができない人が、未来や過去に行ってしまう(逃避してしまう)ことを許してしまったストーリーにはイマイチ納得ができない。

    未来はこちらから行かなくてもやってくるのだし、過去を振り返ってもしょうがない。この、未来へ、過去へ、の想いは、歌でも運動でも何も変えることができなかった、という挫折感からくるものなのだろうか。しかし、未来に行って、未来の自分を見ても安心などできないだろうし、過去に戻っても何かあるとは思えない。何の解決にもならない。
    また、今に絶望し、死ぬことを考えていたホームレスも未来らしきところへ連れ去られてしまう。これも納得しにくい。

    結局、1969年から見た未来(つまり現代)は、陰々滅々な状況にあって、結局自分(たち)は無力であったことを知り、挫折感をさらに味わい、不安を抱える者は、現実逃避をしてしまう、というのがこの舞台の結論なのだろうか。
    サブタイトルの「その日、ギターは武器になったのか」は一体何だったのかと思ってしまった。

    今の状況に淡々と生き、今の境遇を受け入れること。それができない者だけは「叫び続ける」しかないのだろうか。それは、「歌い続ける」というのではなく。
    ただし、淡々と今の普通の生活を歩んでいる人々も、胸の奥では叫んでいるのだ、なんてカッコいいことは言わせたくない。また、そう思えないし。

    さらに、未来からやって来たらしいホームレスたちを、まるでゾンビか何かのように表現していたのには違和感を覚えた。

    劇中では、懐かしのフォークソングが、言葉をきっかけに次々と歌われていたが、花たち(歌手の人たち)が歌う個所が何カ所かある。これだけが、役者が声を張り上げて歌うのとは違っており、ちょっとしたアクセントになっているのだが、何度かあって、どうもかったるい。
    フォークソングを歌手ではなく、普通の人々が歌うというフォークゲリラの芝居なのだからこそ、フォークゲリラのフォークソングだけでよかったのではないだろうか。
    また、国鉄殉職者の妻が駅の売店をやっているという設定なのだが、彼女たちに「恋の山手線」を歌わせて踊らせるのは悪趣味にしか見えなかった。ちょっとポップで面白くしたつもりなのだろうけど、ストーリーからも浮いていてちっとも楽しくはなかった。

    歌ということで言えば、歌唱指導をしながら観客も一緒に、いにしえのフォークソングを歌わせたほうが楽しめたと思う。たぶんある程度の年齢の観客たちはそれを望んでいたのではないだろうか。

    同じ中島淳彦さんが作・演出で、やはりフォークを軸にして物語が進む、東京ヴォードヴィルショーの『見下ろしてごらん、夜の町を。』と比べてしまうと(もちろん劇団のカラーは違うにせよ)、軸足が69年にあっただけ、こちらのほうがもやもやしてしまったということなのだろうか。『見下ろしてごらん・・・』はとても面白かったというのに。

    「細かい話は抜きにしてお祭りの余興を頼まれたつもりで」って中島淳彦さんがフライヤーに書いてるけど、まさにそのとおりだったのかなあ、この舞台は。

    ま、こまごま言うより、テント公演は、「お祭り」のような雰囲気を楽しむものかもしれないのだけれど。
  • 時には椿組でも
    今回はあれれでしたあ。うーーーーーん。夏まつりですから。あまり細かいことよりも団扇を仰ぎましょう。暑いので。今年の見どころは、昇太師匠、福島まりこさん、山田まりやさん????いいえ違います。絶対違う。今年のスターは歌奴さんです。この2人のデュオが唄うシーンです。ここが、見どころ?聴きどころです。ここが燦然と輝いて見える。メイン出演者は、他では見られない感じです。ずーっと出てはいるので、ずーーーーっとリアクションし続けるんです。ちょっとうがった見方をすれば圧巻。ちょっとした罰ゲーム感覚?。出演者のみなさん、本当に本当にお疲れさまです。

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