大脚色 公演情報 Dangerous Box「大脚色」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2018/08/11 (土) 13:00

     2018.8.11㈯PM13:00 浅草 ゆめまち劇場でDangerous Box『大脚色』を観た。

     今回、この『大脚色』とこの後に上野ハウスで上演される『雪華、一片に舞う』とがどうやら関係するらしい。

     この『大脚色』の主人公、木暮一片(こぐれ ひとひら)、次の『雪華、一片に舞う』も木暮一片の話。

     膚にベッタリと蒸し暑さが纏つく、土曜日のお昼に、私は、Dangerous Boxの『大脚色』を観る為に、浅草にあるゆめまち劇場に居た。

     劇場に入ると、真ん中にランウェイの様に設えられた舞台の両側に、1人がけのテーブル席があり、その後ろに役者が駆け回れる通路分の間を置いて4人がけの席、階段を上がると丁度その4人がけの席の上が二階席になっている。

     私は、左側の出入口に近い、1人がけの席に着いた。舞台の上には、私から見て左手奥の正面に二人がけのソファーと白い本棚が両側に並べられ、ソファーの受けには、白いホープで吊るされたブラコンのようなものがあり、右手端にもそのソファーと相対する様に二人がけのソファーが置かれている。舞台装置はそれだけ。

     飛んでもない世界の幕が開く。

     人気作家の突然の死と残された一冊の小説。それは、担当編集者に残された最新の原稿。残された原稿に取り残された編集者が巻き込まれていく「嘘」というの名の真実と嘘を真実と思い込むために、嘘が真実に塗り替えられて行くパラドックス。

     現実が小説にリンクするのか、小説に真実がリンクして行くのか、はたまたそれさえも、誰かが書いたシナリオなのか。答えを求めた時、結論は嘘に包まれ、何が真実かなのさえ靄に包まれる。

     ざっくりあらすじを説明するとこういうはにしなのだが、一度観ただけでは目で追えきれず、その目で追えきれなかった部分にまた、別の真実が隠されているような気がしてしまう。一度観ただけで、この舞台を語ることは難しい。

     飛んでもない熱量と膨大でリンクし合い、交錯し、ぶつかり合い、重なり合う台詞、幾つもの世界の端っこが互に重なり合った部分が、現実に、小説と小説の世界に関わり、干渉し合っているような、目まぐるしく展開される話と時間、クラクラと目眩に襲われながらも、気づけば『大脚色』という大きな話の世界に巻き込まれ、呑み込まれ、引き込まれて行き、気づけば2時間が経っており、現実に引き戻されても尚、不思議な時間軸の中にいるような気分になる舞台。

     幾つもの円が重なり合ったという所から、観ながら、小学生の算数で習った、円の重なり合った部分の面積を求めましょうという図形がずっと頭の隅に浮かんでいた。

     『大脚色』は、その重なり合った部分の物語で、面積の代わりに真実を求めると言うような話なのではないかと思った。

     『カーテンコール~ポアロ最後の事件~』は、とある殺人事件の真犯人が実はポアロ自身であり、自ら掲げていた信条に則り、自らを裁き死ぬという結末を迎える。ポアロの殺人の動機は、この話とは違う所にありはするのだが。

     幕開け早々、二人の小説家が現れ、死ぬ。

     1人は人気小説家緒方乱、1人は小田修一。この2人があるに突然、死んでいるのが発見される。他殺か事故かはたまた…。事件を解決する為に、一通の手紙を受け取り、小田家の屋敷を訪れた、妹に頭の上がらない中二病の探偵木暮一片が現れ、やがて、結末は思いもかけない終焉を迎える。

     石橋知泰さんの端正で美しく知的で気品溢れる小説家小田修一に目を奪われ、REONさんの木暮一片と石橋さんの修一をずっと目で追っていた。

     血の繋がらない兄弟姉妹、清楚で控えめな美しい使用人楓を想う修一、その修一を想う故に楓にきつく接する妹雨音、楓に恋情を抱く故に兄を疎む弟俊之、その弟俊之に密かな思いを抱く故に楓に酷く当たる姉の真梨。

     こんな複雑な横溝正史か江戸川乱歩の小説には出て来そうな環境に生まれ育ちながら、どこまでも繊細で優しい修一。けれど、それ故に胸の中に孤独や懊悩が巣食ってはいなかったろうか。漠然とした不安、絶望の影が忍び込みはしなかったろうか。その中で、楓への思いだけが一時修一に安らぎを与えはしたが、その楓への思さえも抑制しなければならなくなった時、修一の中の何かが限界を超えて、あの結末へと向かったのではなかったか。

     そんな修一を繊細に端正に描いて見せられたのは、石橋知泰さんだから成し得たように思う。

     REONさんの木暮一片は、駄目な兄に見せながら、どこか危うい魅力があった。自分の夢の為、殺人事件だと思っていたものが、実は犯人が存在しない自殺だと知った時、自らが次々と殺人を犯し、推理するというサイコパスな役なのに、禍々しさや怖さよりも切なさを感じてしまうのは、REONさんの木暮一片だからなのだと思う。

     それまでの、中二病で妹に弱い、どこか飄々として憎めない木暮一片、ただ探偵として事件を颯爽と解決したかっただけ、すわチャンスかと駆けつけた事件が自殺だった時、自分の夢の為に、次々と小田家の人々や果ては妹まで殺すのは確かに身勝手ではあるのだが、そうと一言のもとに弾劾出来ない何かが、REONさんの木暮一片にはあった。それが、木暮一片が持つ翳りとそこから来る切なさなのだと思う。

     個人的にREONさんが歌い、踊りながら台詞を言う場面が、色っぽくてカッコよくて好きだった。

     林里容さんの入山三郎は、緒方乱の小説の中に登場し、木暮一片と同じ状況。ここでふと思う。緒方乱の小説と小田修一の小説は、鏡合わせの、鏡の向こうとこちらのかんけいなのではないかと。とすれば、入山三郎と木暮一片も鏡の中とこちら側の関係だとすれば、入山は木暮、木暮は入山、だから、入山もまた大好きで大嫌いな妹を殺してしまったのではないかと。

     優しくて頼りない兄から、狂気が迸る瞬間、その中にも、妹に対する愛しすぎたが故にまた、憎しみもし、手にかけてしまった痛いまでの切なさを感じた。

     『大脚色』の中で展開される小説と幻日がリンクした世界は、実は、篠原志奈さんの小説家森田が書いた小説世界かと思わせて、森田もまた殺される。いや、もしかしたら、森田を殺したのは森田自身なのかも知れない。

     森田の台詞を聞いて、作家になると決めた小学生の時に、よく思っていた事を思い出した。この世は、この世界は、神様の描いた大いなる小説で、その中で生きる私たちの人生も神さまが書いた小説なのかも知れないと。

     だとしても、であったなら尚更に、今の私は思う。神様の書いたシナリオ通りになんか生きたくなくかないと。今までの人生だって、自分でのたうち回りながら選び取って生きてきた人生なのだと言い切りたい。

     例えそれさえもが、神様の書いた小説だとしても。やっぱり、私は私として私を生きてやると言いたい。

     そんな事をふと思った。

     愛は面倒くさい。愛し過ぎても、愛が足りなくても、人を殺す時がある。それは、命を奪うという直接的な事ばかりでなく、心を殺す、愛を殺すという事をも含めてであり、また、生きることも果てしなく、面倒くさい事が山ほどある。

     けれど、生きているだけで、命があり、明日という時間があると言うだけで、本当はとても幸せな事なのかも知れない。

     たがらこそ、神様が書いたシナリオに抗ってでも、自分を生きたいと思った舞台であった。

                    文:麻美 雪

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    2018/08/14 20:12

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