ドッグマンノーライフ 公演情報 オフィスマウンテン「ドッグマンノーライフ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    STスポットも地元の範疇。

    ネタバレBOX

    考察に値するかしないか、迷うパフォーマンス。そこからかい・・と言われそうだが、実際そうだ。まんず初期チェルフィッチュ(映像での『三月の5日間』しか見てないが)が、間違いなく母体である所のパフォーマンスが開演と同時に始まっている。ただしかの舞台のように饒舌ではない。作家が第一に言葉に託す(書く)行為を完結させる必要は、パフォーマーである山縣氏にはないと理解。言葉を重視しないのでなく、むしろ少ない発語に凝縮されるが、それが独特だ。正直「粋な省略」台詞と、「駄洒落」以上でない呟きと、玉石混交の印象である。
    そう見える原因を同時進行で探るに、一言で言えばパフォーマー個々の力量と、方向性?のばらつき、ではないかと思える瞬間が。。
    山縣氏の描く「劇」は自立したテキストを要せず、俳優のパフォーマンスと補完し合って仕上がる「表れ」、従ってパフォーマンスがどこを目指して為されているのか、が見えてこなければならないが、理解が及ばず。役者一人一人はどのようにしてそこに「立っている」のか・・?という事な訳だが、一旦保留しても考えは進められそうなのでそうしてみる。
    『三月の5日間』は多様な魅力を持っていて、台詞(発語)と身体動作の関係の異化、語りの対象の曖昧さ、それらにもかかわらず何かを伝えるパフォーマンスが成立しているという衝撃があれにはあった。その場に山縣氏や、「ドッグマン」初演に出演した松村翔子女史も居合せた訳だが、特に発語と身体動作の関係に山縣氏は「目指すに値する」境地を見出した、と推測でき、今回見てその印象は確かになった。それだけに、予想をもう一段上回る何かを期待したというのもある。
    「喋り」の口跡がいまいち、という場面(人)が一度(一人)ならずあったのが結構大きい。声は心情を表わすが、それに代わる意思が前面に来る場合もある。口跡の問題は、発語がそのどちらにも属さず空に漂ってしまったような印象を与えた。
    山縣氏が有する声だからこそ「是」とされるパフォーマンスが、未熟な身体では表現として自立する域に到達するのは至難ではないか。
    登場している間、絶えず意識とは乖離した生物体のように動き・居続ける俳優の「身体部門」での頑張りも良いが、未熟を露呈してしまう滑舌をもっと鍛えるべきでないか・・そんな事を思ってしまうのだった。
    松村女史の「三月・・」でのパフォーマンスはある種天性の勘の良さで成立・自立したもののように見える。他の俳優らも粒ぞろいに見えたが、それは役者の力量でなく方法論、アプローチの為せるものである、という風に(とりあえずは)考えていた。だがそのお陰では、必ずしも無かった、という予感がよぎる。これは山縣氏の試みの全否定になるだろうか・・?
    高度な遊びを「遊び切った」と見えないのは、テキスト・構成の問題か、役者の力量の問題かのどちらかだ。
    何度も恐縮、「三月の5日間」に登場していた若者たちそれぞれの身体性、個性は強く、ニュアンスを湛えていたが、それは「喋る」行為を主とし、身体が従であったからこそ身体が異化として機能したと考えられる。今回はその逆、即ち身体動作が主で、(極めて少ない)「喋り」が従とならざるを得ないとき、身体がより雄弁である事を求められ、「喋り」は凝縮された何かを露呈する瞬間でありたい。果たしてどうだったか。喋り続ける脳の価値を肉体がせり上げる、でなく、動き続ける肉体の価値を喋り=脳が価値付ける、という関係が、今回の作品のフォーマットで、中々難しい課題だったのだろう。また、一つの有機体でもあるこの出し物を相互に高めあえる出演者の「棲み分け」が成功していたかどうか・・初演が気になる。

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    2018/01/21 00:31

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