くじらの墓標 2017 公演情報 燐光群「くじらの墓標 2017」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    新作も期待される坂手洋二だが、過去作品にもじっくり取り組んで欲しいと思っていた。『カムアウト』に続く再演物は、坂手氏の好きなアイテム(分野?)くじらを題材にした戯曲の一つ。場転は殆どなく、使われなくなった作業場(鯨の解体所?)の中に、多彩な光景が位相となって出現する。
    主人公の青年とその婚約者、彼の亡くなったはずの6人の兄たち(鯨捕りの一家であった)、母の死後引き取られた養母、婚約者の叔父、謎の女(婚約者と存在が重なり、兄弟の母でもあるかのよう)とその姉らが、幽霊かと思えば生きてる人、かと思えば間違いなく死者である者が出現、また幻視か錯覚か解釈不能の者、だがそれら全て夢と知って納得、と思いきや最もナイーブな部分は現実で・・といった具合に関係性の転換も実はめまぐるしく起こっていて最後まで観客を翻弄する。
    そして舞台上には常に、風というのか、音、空気の肌触りが通奏低音のように流れている。それまでたった一人不在であった者が、最後に異形の者として現われた時、能の構図をみて合点させられる。人間の「死に繋がる」心の風景が、結語として置かれざるを得なかった(戯曲執筆当時の)作者の時代観察を想像させられるが、今に連続する風景である。

    ネタバレBOX

    終盤に登場し、嵐とともにそこに居る者たちを海へ引きずり込もうとする異形の者は、20年前の漁・・禁忌とされた子連れの鯨と兄弟総出で一昼夜格闘することになったその漁で、狂気を暴走させた長男であった。船が破壊されそうな程に母鯨の攻撃が猛烈であるのに、兄弟らが子鯨を泣く泣く放った後、漁船を守るために間に入った護衛船を長男はなんと砲撃して沈め、母鯨をしとめようと目を血走らせる。この兄から弟たちは舵を奪い、引きずり下ろし、嵐の海に沈めた・・それが「事件」であり、これを一「遭難事件」として処理するため、死んだ者として身を潜めて生きてきた。・・この種明かしの後、凄絶な事実を前に、末子の青年は自身の内に負の妖気をむくむくと立ち上がらせてしまう。

    「過去」を知る事は、それが真実であれば人の幸福に資するものである、そうあるべきだし、そう思いたい。が、現実にはどうか。「過去」に翻弄されるのも人間であり、脆く弱いのも人間であれば、「過去」とどう向き合うのか、慎重に語られねばならないのではないか・・。

    初演は折りしも、戦後補償要求の波が喧しくなり始めた頃。日本が「過去」とどう向き合う事ができるのかが、問われ始めた時期だという事だ。

    「過去」という事で言えば・・獲物を持ち帰りたい手柄への欲、あるいは一度仕留めた獲物への固執。そのために長男は周囲の状況を無視して暴走した・・これは丸々太平洋戦争時の陸海軍(特に陸軍)の「特攻」や「風船爆弾」まで動員した往生際の悪さそのもの。天皇が追認しこだわった「あと一勝をあげてから」の史実そのものを連想させる。
    ・・「なぜ自分があんなことをしたのか、判らない」そう呟いた長男の亡霊が、悔いと己への怨念の具現だとすれば、愚かな戦争を押し進めた日本の中枢の者は、「なぜ自分があんなことをしたのか」そう問う契機を持つ事があったのか。
    反語的疑問ゆえに、「ない」というのが答えであり、これ即ち無責任体制と呼び、天皇の免罪によって戦争責任は実質上問われなかった日本では、言い古された話だが、今も亡霊が都心あたりを徘徊している。。

    芝居に戻れば、婚約相手の「不貞」が、最終的に主人公の心に棘刺しており、「夢」の中で言われていたようにその相手は叔父なのか、判らないが、目が覚めた後の会話でも相手は「彼との事は事実、でもこれから私達結婚するのよ」(未来だけを見ればいい)とサバサバしている。青年はサバサバしない。「過去」に対する感覚の男女差にも触れ、悲惨な結末を予感させて、劇は終わる。

    全ての人物のキャラが有機的に関与し合い、どこか愛着のある「場」を作っていた。場面の構図の美しさを感じつつ観劇した。

    観劇後、吉祥寺シアターの階段からの廊下を役者が見送り。皆良い顔をしていた。私の前を歩く男性がやたらと挨拶されており、横顔を覗けば(恐らく)著名な劇作家であった。燐光群との接点は思い浮かばないが、ただ純粋にこの芝居への関心から観に来ていたのだとしても、納得な舞台であった。

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    2017/04/03 00:49

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