日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!> 公演情報 日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!>」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.2
1-8件 / 8件中
  • 14:46・二日目。
    後ほど。

  • 企画は良かったはずなのに
    例の正座してのプレゼンテーションで何もかもが崩れてしまった。彼以外の誰もが「そんなことないよ、演劇の力で日本を変えることは可能だよ」と思ってるはず(と思いたい)なのに、彼に言葉を撤回させて土下座させるだけの「力を持った演劇」をどの劇団も提供できていなかった。彼自身にも、「そこまで言って何故役者として演じたのか」との思いを届けるだけの役者としての力が無かった。企画は良かったはずなのに。その企画で被災地にチケット代が寄付されるからチケットを予約したのに。お金はともかく、人一人、時間を割いて足を運ぶということの意味も考えなければ、創る側にとって演劇をする意味は本当に無いと思います。

    ネタバレBOX

    公演を打つ上での葛藤や苦悩なら誰にでも出来ます。
    その上で生み出されたものへの「期待」にしかお金と時間を前払いできないのです。
    ですから、演劇の力をもっと信じてほしい。
    信じることがすべてのスタートだと思うのです。
  • 3月6日(火)S
    誰が何と言おうとこの企画を立ち上げ、実行した関係者に敬意を表します。

  • 満足度★★★★★

    現在
    明日というのは 不確かな 言葉だと、感じました。

    今は よくわかりませんけれども。

    なんか 引っかかるものを感じましたし。
    今、やる という事で、 観に行くきっかけになったのも あります。

    傷ついた心は どうしても もとに 戻らないけれども、
    美しいもの とか を見て 美しいと 思う心とか、
    笑顔とか は、誰にも 奪えない と 思うので。
    きっと、演劇にも そんな 何だかの力が あると 思いました。

    ネタバレBOX

    おもしろかった と、思います。
    いろいろと 心に突き刺さってきました。
  • 満足度★★★★

    様々な視座から浮かび上がるもの
    4団体の5作品、
    団体・作品ごとに
    大震災に対する視座がそれぞれにあって、
    終わってみれば、
    点ではなく面・空間で浮かんでくるものを感じました。

    どの劇団にも、既存の感覚や考え方に捉われない
    意思と切っ先をもった表現が編み込まれていて
    舞台に引き寄せられました。

    ネタバレBOX

    冒頭にちょっとした口上があって
    場の雰囲気が少々歪む。

    そのなかで、作品が繋がれていきます。

    ・劇団けったマシーン
    「まだ、わかんないの。」/「指」

    広田淳一・瀬戸山美咲さんの2人芝居を丁寧に舞台にのせて。

    「まだ、わかんないの」では
    戯曲に編みこまれた震災後の空気を
    役者たちがゆっくりと引き出して。

    ダイアログやモノローグの言葉が、
    心情に落とされ膨らみ
    言葉を想いが凌駕し、
    キャラクターの心情の揺れが概念から実存感に変わっていく。
    男優が献身的に作り上げた枠組みにたいして
    女優の心情の踏み出しに
    ひとつの感情でなくいくつものアスペクトを持った想いの質感が
    立体的な重なりへと組みあがっていく。
    淡々とした日常に内包された揺らぎのようなものが
    役者の、クリアでしなやかさをもった表現とともに、
    ゆっくりと像を結び観る側に踏み入ってくる・・・

    「指」は昨年の日本の問題でも観ている作品ですが、
    色の強さは若干押さえられて、
    その分非日常の日常感が漂い心が凍る。
    やや、淡々と作られている分、
    モラルハザードの切迫感の霧散の仕方がナチュラルで、
    だからこその痛みを感じる。

    そして、二つの作品の重なりからは
    震災の外側と内側の想いの色の違いが
    大上段に構えることなくグラデーションを持って
    かもし出されていました。

    ・思出横丁
    「3.111446・・・」

    噺家のように床に座り、
    読み語りの態で観る側を惹きつける。
    「走れメロス」を芯にして
    震災直後の現実を読み上げ、語りあげ、
    積み上げていくので
    聴く側は勝手知ったる物語の枠とともにやってくるものに
    耳を塞ぐことも心を閉ざすこともできない。
    しかも、物語と現実の面の出し方の切り替えがとてもしたたかで
    観る側が言葉を追ってふっと浮きあがった瞬間に
    あるがごとく受け入れざるを得ない刹那が
    幾重にも流れこんでくる。

    メロスの怒りとその行き場のなさが
    震災直後の現実の肌触りと重なって・・・。

    読み捨てられていく物の中にこめられた
    痛みにまですら緩むことすらない
    凍えたようなタイトな感覚は
    残らず観る側に引き渡されて
    終演後も散ることなく
    記憶として残されておりました。

    ・四次元ボックス
    「アカシック・レコード」

    アイデアが驚くほど斬新というわけではないのですが、
    観る側に世界を紐とかせるための
    吸引力が作られていて、
    見入ってしまう。
    震災との関連という意味では
    作品中一番はなれた概念の世界ではあるのですが、
    この上演のならびにおかれると
    物語が持つニュアンスが
    震災の波紋と共振する部分があって・・・。

    キャラクターたちの足元がしっかりしていて
    そこには観る側がいろいろに重ね合わせることのできる
    普遍というか
    シチュエーションをとりこむキャパのようなものがあって。
    物語そのものに観る側を縛りつけず
    上手く機能していたようにおもいます。


    ・荒川チョモランマ
    「止まり木の城」

    椅子に書かれた年号で
    すっと視座を未来に置いて
    子供の視線を作り震災のその後を描いていきます。

    子供役の二人の役者のデフォルメがとてもしたたかで、
    彼らに置かれた地震の風化の質感が
    あざとさを持たず実感として観る側に伝わってくる。
    体験や記憶に染まらない視線で描かれれる世界と
    小3での体験を持つ先生の精度を持った演技で繋がられた顛末から、
    舞台上に
    なされていくであろうことと
    うみだされるであろうことの因果が
    しなやかに浮かび上がって。

    どこか、戯画化されたというか
    子供語りの世界がおかれているからこそ、
    今のあり場所というか座標が、
    作品の視座の重なりの狭間に浮かび
    観る側に置かれる。

    あの日を、そして今を
    主観としてではなく客観として眺める舞台、
    先生に渡された2012年という時間に今が重なり
    視点は再び踵を返して・・・。
    その先への一歩のベクトルに想いが巡ったことでした。

    *** *** ***

    終わってみれば
    4つの作品のそれぞれに、
    意図を持った視座があって、
    それらの震災に対する距離のバリエーションが
    1年たっても収まりきれない3.11に対する
    俯瞰を創り出していて・・・。

    冒頭に問われた観客に対する問いに答えるとすれば
    (もちろん個人的な意見ですが)
    アフタートークで語られたがごとく、
    多分演劇に直接的にできることはないと思います。
    でも、その一方で演劇が鏡となって
    映し出すものは間違いなくあって。
    今回の公演に限らず
    震災以降に上演された舞台たちの多くに、
    観る側に、
    自らや世界の立ち位置や姿を映し出してくれる力を感じたのも事実。
    もちろん、作品ごとに鏡として置かれる角度や磨かれ方も異なり
    時には恣意的な歪みや虚像が仕込まれていたりもするのですが、
    だからこそ見えてくるものも多々あって。

    ひとにはきっと自分の座標やありようを知るからこそ
    歩み出せることがあるように思う。
    別にそのことを知りたくて
    劇場に足を運んでいるわけではないのですが、
    でも、舞台を見て考えたことは
    いろいろにあったように思うのです。

    そういう意味では
    冒頭からアフタートークも含めて
    舞台には、良きにつけ悪しきにつけ、
    3.11や今に
    何次元にも重なる座標軸の
    値を指し示す与える力があることを
    実感した公演でもありました。
  • 満足度★★

    じゃぁやるなよ
    開幕冒頭で、荒川チョモランマ(たぶん)の役者さんが、被災地に行って感じたこととして、「演劇は意味がない」「(被災地の支援のためという)演劇は、被災地から見るとギャグでしかない」ということを語っていた。

    なるほど、そういうモノを被災地で感じとってしまったのか、と思った。

    ネタバレBOX

    思ったのだが、じゃぁ、これから120分間見せられるのは「意味がなく」「ギャグでしかないようなものなのか」ということ。

    彼の気持ちはなんとなくわかるが、公演を行う上で、そういう発言の影響力を考えたのだろうか。「演劇は意味がない」と彼個人の意見として繰り返し述べていたが、本気でそう感じたのだろう。
    だったら、この公演は止めるへきだったのだはないだろうか。冒頭こういう形で観客に対して述べているということは、彼個人の発言としているが、公演全体の総意ではないだろうか。そうでないとすれば、誰かがこの発言を止めるか、「いや自分はこう思う」と述べるべきだろう。

    この公演を行っている皆がそう思っている「意味のない」ことを金を払って見せられるほうはたまらないじゃないか。全額寄付だっていうエクスキューズは通用しない。
    そう思ったのならば、「ごめなさい、できません」と謝るべきだし、個人的にそう思っているのならば、個人的にでも辞退することはできたのではないだろうか。

    「意味のない」は「無力である」ということなのだろう。「ギャグでしかない」も同様だ。

    あまりにも無責任な公演であると言わざるを得ない。
    「意味がなく」(無力であり)「ギャグでしかない」と感じてしまったところをスタートとして、作品を作り上げ、せめて「そう感じたのですが、自分なりに考え、意味を見つけようとしました」、あるいは「ギャグにしか見えないのではと感じましたが、そう見えないモノを見せたいと思います」という意気込みにまで仕上げて観客の前に出すべきではなかったのか。

    それを早々に白旗を上げて「意味がないと思います」といい、「どう感じたのか教えてくだい」とまで言った。自らが「意味がない」と言っているモノにそれ以上の感想などあるわけもなく、ただちょっとムカついただけだった。

    観客への問い掛けにしては、自らの意気込みが感じられず、挑発にしては、内容が伴わないだけに寒々しい。

    現実を前に「壁にぶち当たった」のかもしれないのだが、世界では紛争だの飢餓だのと、今もいろいろなことが起こっているし、個人だって、病気だったり災難だったりといろんなことは起きている。

    今までそういう「世界」や「社会」と無関係にやってきて、初めてそれを意識したら身動きできなくなってしまったのかもしれない。
    だったら、それを演劇で見せるのが、本当ではないのだろうか。
    それができないのならば、少なくとも今回の公演は辞めるべきだった。

    つまり、一番哀しいのは、演劇をやっているのに、それを信じていないことだ。

    「意味がない」「ギャグでしかない」と感じたことを、演劇で見せたり、挑発するのではなく、薄っぺらい言葉で、しゃべっただけ。

    この言葉の後の120分もの時間は、一体何のためにあったのか、演劇って何のためにあるのか、ということを、自ら放棄してしまったことだ。
    その手段も場も用意してあるというのに。

    そして、その言葉のとおり各内容は、そういうものだった。

    1.まだわかんないの。
    長台詞が入ってこない。気持ちが余所に行ってしまう。だから最後のふっ、と浮かび上がるような台詞が決まらない。

    2.指
    先にオリジナルを観ているので、それと比べると生活感、2人の密度が薄く感じられてしまう。女を演じた小澤さんはいいところもあった。

    3.3.111446・・・
    散々新聞やテレビや週刊誌で見聞きしたことに、メロスを入れてみてもそれ以上のものは感じない。観客も当然そういう情報は大量に見聞きしているのだから、それに「何か」がないとそれこそ「意味がない」。

    4.アカシック・レコード
    考え抜いた上での、この内容だと思うのだが、正直なぜこれだったのかわからなかった。内容的にも特に面白いとは思わなかった。

    5.止まり木の城
    過去から現在、未来に続く宿題。だけど、宿題は「大人」に答えてもらうのではなく、自分で解くのだろうと思う。そこが他人事のように感じられてしまった、のは私の意地が悪いからかもしれないのだが。


    今回思ったのは、冒頭の言葉を脇に置いたとしても、彼らは、なぜ、自分の立ち位置から、生きている場所、生活している場所から311をとらえられなかったのか、ということだ。それがないから言葉だけが上滑りしている。
    被災地に行ったという人たちがいたが、そこで「自分が感じたこと」を「自分のところから」見せてほしかったと思う。
    「311を思い出してほしい」ということのようだが、誰も忘れてはいない。忘れているわけないだろう、と思う。この公演では、思い出し方のひとつとしての、「自分」を見せてほしいのだ。

    期待感が大きかっただけに、その落胆はさらに大きい。

    本当になんで演劇やってるの? と思う。
    学生だからという言い訳は許さない。意味ないと思うのならば、辞めなよ。ホントに。


    PPTで、どこかの団体の偉いさんらしき人が出てきて、今回の企画に賛同したので寄付を、と言い白封筒を代表者に渡してパチパチバチだって。なんだこれ? そんなこと観客の前でやる必要あるのかな。関係者だけで「ありがとうございます」でいいんじゃないの。
  • 満足度★★★

    日本の問題か
    昨年も同じテーマでいろいろな団体が演じてきたものを、3.11にフォーカスして演じられた。
    思出横丁の作品は生々しく、四次元ボックスは婉曲的に、荒川チョモランマは情景的に、けったマシーンは哲学的に演じられていた。

    3.11は衝撃的な事実だ。それを芝居で果たして表現できるのかを問うた試み。答えは...どうなのであろうか

  • 満足度★★

    本当に日本の問題を考えたのか
    昨年の3.11の震災は一度の災害としては津波に加えて原発事故という甚大なダブルパンチで世界の歴史に類を見ない様な物であることはよくわかるが、これを『日本の問題』というテーマにしてしまう問題のすり替えがこの日本で起こっている。
    今まで募金をしたことのない人や、組織力も人脈もない人間や組織までこぞって東北に乗り込んで『支援』という自己満足に浸っているのではないかと思わされるとがある。
    今の日本の問題は、震災を隠れ蓑にして今まで日常的に存在している身の回りの問題を棚上げする格好のネタとなっている様に感じられる。
    日本の問題は意識すれば見える問題も見ないふりをする民族性にあるのではないか。本当に日本の問題とは自分の問題であるはずなのに。
    私たちは本当に日本の問題を考えているのだろうかと、今回の観劇でしみじみ思った。

    ネタバレBOX

    演目前に東大生を名乗る人が出てきて、『演劇には意味がない』と演説を行っていたが、こうしたことは最後のトークセッションでやって欲しい。どうしても言いたいことがあれば、ここは演劇を見にきているのだから演劇で表現して欲しい。演劇に携わっている人とは思えない観客に対する思いやりのない行為です。以後、絶対やめて欲しい。

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